POSTER-MAN's Diary Special


三池崇史監督作品

『十三人の刺客』



■三池崇史、名作を壊す

 三池崇史は壊れた映画を作る人だ。ヤクザ映画に限らず、ホラー、アイドル、子供向け、SFといったどんなジャンルで撮ろうとも、三池作品においては観る側の理解力やモラリティを無視するような「過剰」と「逸脱」がいたずらに展開を寸断し、物語表現を歪めるほどの「異物」が平然と混入している。三池がいったんメガホンを取れば、ヤクザ映画は型通りの美意識をかなぐり捨て、アイドル映画は本来の製作目的を見失い、ホラー映画は恐怖の極北まで到達せずには済まされない。三池崇史の映画術は常にエクストリームであり、ゆえに彼の作品はいつだって映画として壊れていた。50本を超すフィルモグラフィは、題材のチョイスから始まって、全て冗談であるとも言え、そしてまた全て本気である。

 今回三池崇史が、かつてその見事なコラボレーションをもって『オーディション』というホラー映画史に刻まれるほどの傑作を物したパートナー、天願大介の脚本を得て壊しにかかった作品が、1963年の東映時代劇作品『十三人の刺客』である。

 オリジナルをコンピュータで彩色しただけに見えるオープニングの遠景に始まり、要所要所で聴けるセリフのディテールなど、工藤栄一監督のオリジナル作をトレースするほどの敬意を一応は示している。しかしこのリメイクにおいて三池&天願が大胆に描き加え、改変した数々のシークェンスやキャラクターは、『十三人の刺客』という物語が本来語らねばならなかったドラマを鮮やかに、そしてエモーショナルにサルベージして見せる。


■三池崇史は本気だ

 開巻早々の間宮図書なる家老の切腹シーン。オリジナルは背後からのロングショット(先述したとおり今回これをそっくりに再現している)のみで間宮のキャラクターも何も無かったが、三池版では内野聖陽をキャスティング。鬼気迫る顔演技に加え、首筋に浮き出た太い血管でディテールアップされたバストショットと、内臓を切り進める時の異様なサウンドエフェクトで、切腹の苦痛を観る側の想像力にゆだねる。

 ここでまず不思議に思う。
 いつもの三池演出であれば、苦悶に顔を歪めながら内臓をブチまけて見せるストレートなシーンになったはずだ。かつて『DEAD OR ALIVE 犯罪者』で、中華料理をもりもり食った大食漢を背後からショットガンで撃ち、破裂した腹からさきほどのラーメンがこちらに向かって飛び散る、というエグい描写を開巻早々披露したことのある三池である。

 ゆえに、いつもの過剰なサービスを排したこのオープニングは、物語の着火点としての重要さ以上に、『十三人の刺客』という題材に三池が取り組む、その本気度を高らかに宣言するセレモニーの場になっていると言える。


■釣りをする男

 一転、役所広司演じる主人公=島田新左衛門の登場シーンへの落差が心地よい。遠浅の浦に点在する脚立のような小さな櫓(やぐら)でのんびりと釣りを楽しむ新左衛門。霞みのかかった空と穏やかな水面は江戸の世の泰平ムードを表しつつも、しかし同時に未来への漠然とした不安をも感じさせる。そんな静けさの中で釣り糸を垂れる新左衛門の姿は、休日の侍というよりも、行き場を失い水辺へ辿り着いてしまった亡霊と映らなくもない。

 キム・ギドク作品『魚と寝る女』に、湖に点々と浮かぶ小さな釣り小屋が登場するが、あの超現実的かつどことなく不穏な映像の記憶を呼び覚ますかのような風景の中、新左衛門のもとへ老中からの使いが参上する。老中が自分に何の用かときょとんとする新左衛門。そこへ絶妙なタイミングと効果音と文字の大きさでタイトルがズシリとのしかかる。この瞬間にまず鳥肌が立つ。

 ちなみにこの釣りのシークェンスはオリジナルには無い。


■「ぼっけえきょうてえ」

 続く場面、老中=土井(平幹二郎。オリジナルでは丹波哲郎)の屋敷での密談シーンは非常に暗く、和蝋燭の炎がゆらめきながら密談メンバーの顔を闇に浮かび上がらせていてムード満点であり、なおかつ江戸の夜の空気感を濃密に再現していて思わず引き込まれる。
 さらに、セリフまわしを聞き取り易いよう崩すことなく現代人=観客に投げてみせる、ハードコアな時代劇を構築しようという作り手の姿勢に襟を正さざるを得ない。
 そのような緊張感の中で語られる間宮図書の切腹の目的、そして将軍徳川家慶の弟=松平斉韶(なりつぐ)の言語を絶する非人道ぶり。

 まずは参勤交代の途中で逗留した尾張藩の宿でのヴァイオレンス。
 尾張藩主の息子の嫁を凌辱し、その夫を斬殺する斉韶。息子の嫁を演じる谷村美月が白粉を塗りたくり、眉毛を消してお歯黒をべったりと塗った顔でいきなり振り向く場面は、先刻の密談シーンの暗いトーンを受けて、なんとも異様な相貌として充分ショッキングだ。三池&天願コンビ作『インプリント』の原作小説『ぼっけえきょうてえ』のカバーを作品が飾ったことでその名を広く知られるようになった異端の画家、甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)が描き続けたグロテスクな芸者たちに直結した異形ぶりと言える。

 旧作では少々艶っぽい演出で凌辱シーンが描写されたおかげで、斉韶のキャラクターの好色な面ばかりが強調され、結果、暗殺のモチベーションそのものを弱めてしまったが、三池は今回、斉韶が谷村の髪を引っ掴んで自室に押し込めるショットに留めてレイプそのものを描かない。事が済んだ後の「木曾の女は猿か」というセリフと、嫁の至近距離で夫を斬殺し噴き出す血を彼女に浴びせることでサディズムを際立たせるのだ。さらに、2度3度と力の限り刀を振り下ろし、「何か」が転がる方を目で追いながら「山猿の骨は固いのう」とおどけて見せる斉韶。冒頭の切腹シーン同様、血みどろの斬首映像はフレームの外であり、転がる首は観客の脳内で合成されることとなる(それはラストでのお楽しみだ)。

 しかしこの一件は息子と嫁を殺された尾張藩主=牧野の涙ながらの語り(演じる松本幸四郎が途中早口になってセリフを噛みそうになるところがいい)によるものであり、その惨状を新左衛門が実際に目にしたわけではない。

 新左衛門が斉韶の鬼畜ぶりを実際に目の当たりにするのは、その後である。


■みなごろし

 新左衛門の前に連れて来られた若い娘。顔をくしゃくしゃに歪め、涙だけではなく、唸り声を上げるその口からよだれが糸を引いているところから、娘が舌を抜かれていると判別できる。そして羽織っていた着物の下から現れたのは、両肘から先、両膝から下を切断され、化け物のように成り果てた身体である。
 恥ずかしさと憎悪に身をよじる娘。演じる無名の女優の、CGで加工されているとは言えヌードも辞さない熱演で見せる、旧作にはもちろんあるはずの無いこのシークェンスは、それまでの切腹、斬首の直接描写を避けて来た狙いどおり、観客への絶大なショック効果を発揮するはずだ。三池と天願がオリジナル版を本気で壊しにかかっているという意気込みは、この瞬間マックスに達したと言える。つまり、旧作には無かった「復讐」という大きな推進力を、この暗殺のドラマに与えることに成功したのだ。 

 四肢を切断され、舌も抜かれ、慰みものにされ、そしてゴミのように捨てられたこの百姓一揆の首謀者の娘の痛々しい姿に、新左衛門は言葉もない。「家族の者はどうした」と投げかけた質問に、娘は答える代りに口で筆を咥え書きなぐる。
 「みなごろし」。
 続く新左衛門のリアクションは、これ以上ないくらいに予想外のものだ。目を潤ませながら、なんと笑いを噴き出し、そして「面白い」というセリフまで吐くのである。あまりのことに一見精神のバランスを崩したかに思えるこのリアクションが、新左衛門の受けた衝撃度を的確に表現する。そして震える手。老中には「武者震い」と言い訳するが、その震えは新左衛門が初めて経験する類のものだろう。
 役所広司はそのフィルモグラフィを通じて「狂気」を時折り覗かせて来た俳優だが、のほほんと生きて来た新左衛門というキャラクターを死のミッションへと駆り立てるのが、役所に内在するその狂気であるところが興味深く、そしてまた得体の知れぬ説得力を持つ。

 そんな風にしてこの物語は滑り出すのである。


■オリジナルは名作だったのか

 オリジナル版『十三人の刺客』は「集団抗争時代劇」などと呼ばれて名作扱いされて来たらしいが、結局は伝統的な東映オールスター時代劇の系譜・亜種に過ぎず、主演の片岡千恵蔵、嵐寛寿郎のいかにも古めかしい佇まいに東映プログラムピクチャー存続の危機感が透けて見えてしまうという、武家社会の終焉を描くどころか時代劇という映画ジャンルの消滅を憂うる、どこか物悲しい作品であるように感じられた。

 終生のライバル、島田新左衛門と鬼頭半兵衛を演じるの、がいかにもお行儀の良い片岡千恵蔵と野性味あふれる内田良平(!)というミスマッチぶりは、まるでハンフリー・ボガードとジャック・ニコルスンが同じスクリーンに同居するかのような違和感で、戦中戦後の作品とアメリカン・ニューシネマほどの開きとして受け入れ難く、物語の軸となるべき2人の武士が放たなくてはならない磁力には、滑稽なほど必然性が希薄である。

 当時も売りだった、クライマックスの大活劇も、70年代の東映ヤクザ映画を思わせる手持ちカメラ撮影に一瞬うれしい驚きを覚えるが、大部分はお約束のチャンバラをフツーに、せいぜい長尺で見せているに過ぎない。
 そこへ持って来て、お家騒動の枠内で立ち回っている「お役人」のようにしか見えない千恵蔵が、取って付けたようにいつもの調子で「天下万民のため」と口上を述べるクライマックスは、失笑モノである。まるで政治家の言い草だ。

 同時期に大映が打ち出していた「座頭市」シリーズが今なお古びることなく輝き続けていることと照らし合わせずとも、この作品が時代を超えた名作であるかは甚だ疑問だ。古臭く、時に退屈とさえ映るこの作品をリメイクしようとした、その企画力をまずは評価せねばならない。


■劇団四季のジュリー

 しかし三池版の新左衛門と半兵衛は全く違う。

 役所広司演じる新左衛門に対して、半兵衛を演じるのはかつて「劇団四季のジュリー」との異名を取った市村正親である。長年ミュージカルスターとして活躍して来た、少々日本人離れしたルックスを持つ市村が、果たして「髷物(まげもの)」の中にその居場所を確保出来るのか。
 旧作における内田良平のような異質感をやはり感じさせながらも、市村が演じることによって醸し出される半兵衛の「居心地悪さ」は、主人=松平斉韶への忠誠にも、ライバル=新左衛門との関係にも縮めようのない距離を置き、叩き上げの武士にしかわからないであろう孤独感・劣等感を伺わせる。
 そして、何よりも市村は役所の相手として据わりがいい。おおらかな笑顔を見せながら刺客たちを引っ張って行く余裕を見せる役所に対して、市村が笑顔を見せることは劇中ほぼ一度も無い。主君の暗殺計画を嗅ぎつけた半兵衛が新左衛門の邸宅に乗り込み、シネマスコープ画面の左端と右端にそれぞれ立って睨み合うシーンの緊張感。家柄も良く剣の腕もわずかに上である新左衛門に対する積年の嫉妬と憧憬。そんな半兵衛に単なる同門の志以上のシンパシーを寄せて来た新左衛門。今は異なる役職に付き、謀略をめぐってはっきりと敵味方になってしまった者同志が、互いの運命を確認するこの重要なシークェンスは、役所広司と市村正親の2ショットだからこそ美しく決まった。


■稲垣吾郎登場

 この映画のもう一人の主人公、時の権力者にして稀代のサディスト、松平斉韶を演ずるべく召喚されたのは、三池組の怪優でも若手の演技派役者でもない。SMAPの稲垣吾郎である。

 斉韶の登場シーンは、前述した尾張藩主=牧野の回想シークェンスにおいてである。参勤交代の山中、行列を止めて仁王立ちする斉韶=稲垣。彼の前にひざまずき、袴の前部から竹筒を差し入れている家来。そしてチョロチョロという音。立ち小便だ。三池崇史は稲垣吾郎に悪役を演じさせるだけでなく、あろうことかそのファースト・シーンを排尿ショットで飾ったのである。
 神(=稲垣が所属するプロダクション)をも恐れぬ所業と言えるが、三池&稲垣の共犯関係はその後全編を通じて松平斉韶の衝撃シーンを確信犯的に繰り出すことになる。

 尾張藩主の息子夫婦の殺害に続き、冒頭で自害した間宮図書の家族の処刑シーンが披露される。
 残った家族は容赦するようにという遺言を無視し、その家族を連行、幼い子供まで含めた全員を弓矢で血祭りにあげる。参謀である鬼頭半兵衛の忠告も耳に届かない。斉韶の晩酌の余興、暇つぶし程度の処刑。描かれなかった百姓一揆の首謀者家族の処刑風景が重ねられる。
 泰平の世に侍として生きることの無意味さを半兵衛に問う斉韶。武家社会に生まれながら持てる力を行使出来ずにいるフラストレーションを、稲垣はその黒目がちで無表情な眼の中に秘めている。戯れに蹴飛ばす毬。このアクションはクライマックスにおいて「あるもの」で再現されることになる。

 夕餉(ゆうげ)の場面も秀逸だ。農民が一揆を起こすほど藩の台所事情が困窮しているさなか、おもむろに箸をカチャリと落とし、飯茶碗も汁椀も中身をメインディッシュの鯛の上にぶちまけ、グジャグジャと両手で混ぜ合わせた後、なんとそれを犬食いするのである。稲垣吾郎が、である。そして言い放つ。
 「今宵は二人といこう」
 彼の所属プロダクションは過去数々のアイドルを映画の世界に送り出して来たが、「3P」(3人のセックスプレイ)に興じるようなキャラクターはこれが初めてだろう。実際に3Pシーンを拝むことこそ出来なかったとは言え、どのような「大人の事情」がここまでの表現を許したのだろうか、芸能ネタに疎い者にとっては謎である。
 しかし、かの事務所の中でも群を抜いて上品なお坊ちゃま風の佇まいを持つ稲垣吾郎に、あれほど残虐かつエキセントリックな言動を演じさせたおかげで、『十三人の刺客』はオリジナル作を超えただけではなく、日本の芸能史における「事件」となったようにも思える。


■チームアップ

 この手の「ミッション物」「チームアップ物」は、その最高峰『七人の侍』、最近では『インセプション』がそうであったように、ミッションを開始するまでのプロセス、つまり仲間を集め、計画を練り、実行に移す過程を、どれだけ丁寧に描き込めるかが肝心である。
 同じ武士とは言え、様々な来歴を持つ者が一人また一人と仲間に加わり、段々とチーム内の人間関係が作り上げられ、それが全体の士気につながって行く様相をきちんと見せなければ、クライマックスでいくら派手な見せ場を用意しようともそこにドラマは生まれない。
 その点でも、今回の三池版は旧作を完全に凌いでいる。トップスターの4〜5人でよい、十三人全員を描く必要などない、とばかりに刺客チームの3分の2近くを「その他大勢」扱いにしてしまった旧作に比べ、三池演出は格段に細やかである。
 それは、映画をひたすら壊して来たかに見えて、実は数々のヤクザ映画や『クローズゼロ』といった群像劇を、独特の嗅覚と美学でもって大胆かつ繊細に仕切って来た三池崇史だからこそ可能であった、と言えよう。


■異物投入

 全キャストの中で唯一人1963年版オリジナルの撮影現場を見たことがあり、しかも今回東宝でリメイクされることになったこの作品において唯一「身も心も東映の俳優」として尋常ではない時代劇濃度を注入することになった松方弘樹。
 旧作で嵐寛寿郎が演じた倉永という新左衛門の右腕は、寛寿郎の年齢のせいか武士と言うよりも役人臭のようなものが漂っていたが、松方の方は持ち前のギラギラ感が健在である。
 殺陣も含め、「画に描いたような時代劇侍」を演じ切ったのは松方ただ一人であり、そのスパイスとしての匙加減は三池崇史お得意の「異物」投入と言えるレベルかも知れない。

 島田新左衛門の甥=新六郎を演じる山田孝之は、『クローズZERO』2作において、その持ち前の「異物感」を三池監督の思惑以上に発揮してしまった経歴を持っている。
 低い背にずんぐりした体格。そこに乗ってるのがギョッとするほど端正な美顔。何を着せても似合わず、どんな役を演じさせても調和を乱す圧倒的なルックス。彼はいつだって「どこかヘン」だ。
 しかし山田孝之のシーンはどれも全て素晴らしい。鉄火場で博打に興じ、遊郭で遊び呆けるファーストシーンからしていい。虚ろな眼差しと長い睫毛のバランスが退廃的で、ヴィスコンティ作品のアラン・ドロンやヘルムート・バーガーを思わせる、と言ったら誉め過ぎになるか。
 叔父御を演じる役所広司との2ショットバランスの良さは、その後の「二人の賭け話」に見事に表われている。やんわりとはしているが、明らかに暗殺チームへのリクルートの場面である。
 さらに、恋人=吹石一恵との掛け合いも艶やかだ。別れ際、「来年のお盆には帰るから迎え火焚いて待っててくれ」という台詞にゾクリとする。既に死相が浮かんでいるようにも見える。彼の醸し出す不思議な色気は、どこか異界に通じているような気さえするのだ。


■ザ・剣豪、そして刺客たち

 刺客チーム随一の剣豪=平山九十郎は、旧作では西村晃(なんと市村正親は西村の付き人をやった経歴を持つ)が、リメイク版では伊原剛志が扮している。ちなみに九十郎の初登場シーンである島田新左衛門の道場での一人稽古を、三池は旧作そっくりに撮っているのだが、しかしだからこそ新旧2人の役者の違いが際立つ。
 西村に比較して伊原は何しろ大きい。時代考証と照らし合わせれば、西村のような体躯にこそリアリティがあるのだろう。だが、伊原はその上背と長い手足、涼しげなマスクに凛とした立ち姿で、刀を差して生きる者の精神性=ストイシズムを、そしてチームにおける武力的リーダーの力強さを「映画的リアル」に見せてくれる。長い腕で太刀を抜いた姿はとにかく美しく、全身から発する殺気は周囲の者を圧倒する。

 他に古田新太、高岡蒼甫、波岡一喜、近藤公園という三池組経験者たちが、それまでの三池作品とは違った味わいを見せ、 沢村一樹や六角精児といったTVの手垢が付いたような役者でさえ、映画のスケールに見合った存在感を示せている。

 そもそも十三人全てにサブエピソードを付けて掘り下げることなど時間的に不可能であるし、ドラマツルギーにとって必ずしもそうすることが正しいとは言えない。それでも三池は旧作よりもはるかに大きな敬意を刺客たち全員に払っている。新左衛門に紹介されチームに参加する場面、そして何よりも彼らが絶命していく場面およびそれぞれの死体ショット(思わずカウントしたくなってしまう)をきっちりと見せることで、ちゃんと三池流に落とし前を付けているのだ。


■はじめての人斬り

 新左衛門は、江戸〜明石という参勤交代のルートから暗殺の舞台を落合宿に定め、宿場そのものを買い上げて要塞化しようと計画、先発隊を送る。新左衛門の道場で若い侍たちに戦いのスキルを教示する平山九十郎。鬼気迫る練習試合や旅の支度、暗殺のための準備を、時間をかけずとも丁寧に活写して見せる。

 いよいよ落合宿へ出発した新左衛門たちだが、早々に最初の宿場で半兵衛の雇った浪人たちの襲撃に遭う。
 旧作には無いこのシークェンスは刺客たちの腕を披露する最初の場として上手く機能している。最も大きな見せ場を担わされたのは、チーム中最年少の小倉庄次郎(窪田正孝)である。必死で振り下ろした刀が敵の左肩から入り、肺や心臓にまで達していると思しき位置まで深く喰い込む「時代劇の現実」を誤魔化さずまざまざと見せる描写が、なんとも痛々しくおぞましい。初めて人間を斬った衝撃に思わず凍り付く庄次郎だが、TVの時代劇を見慣れた観客にとってもそれは同じことだ。
 そもそもこのチームには実戦経験を持つ侍など一人もいない。世は泰平である。人を斬るスキルを知りながらも、それを行使する機会に恵まれて来なかった者たちが直面する「リアル」。ここを描かずしてリメイクする意味は無く、天願&三池コンビのアプローチは的確である。


■切腹アゲイン

 明石藩=斉韶一行を落合宿へと向かわせるべく、尾張藩主=牧野は体を張って領内への立ち入りを拒否する。旧作では口伝えで済まされてしまったエピソードだが、亡き息子夫婦の仇をとろうとする牧野の見せ場をきちんと用意することで、斉韶暗殺が単にテロリズムではなく、あくまでも理不尽な虐殺に対する復讐であることを三池は強調する。
 鉄砲隊まで使って斉韶を追い返すことに成功した牧野は当然ながら自害する。介錯(かいしゃく)も無く最後まで自分の刀でもって果てた間宮図書とは異なり、この映画で描かれる2度目の切腹シーンはそのストレートなスタイルゆえの戦慄が味わえる。一瞬ではあるが、演じる松本幸四郎の首を太刀が通り抜けるショットがCGで描かれるのである。ただし首が転がるカットは無く、それはまたしてもクライマックスまで待たねばならない。
 切腹場面が2度もあるのはくどく感じられるかも知れない。しかしそれは、武家社会に生まれた者がどのように責任を取るのかを、作り手側が詳細に提示しようとしているからに他ならない。将軍家に楯突いた者の宿命だ。


■我らはもう侍ではない

 半兵衛からの更なる逆刺客を避けようと深い山へ分け入った十二人の刺客たち。いつの間にか無数の山蛭(やまびる)に吸いつかれていることに気付き、大騒ぎする高岡蒼甫。それをからかう石垣佑磨。心和むシーンだが(この二人のホモ・ソーシャル感はクライマックスの死闘で活きて来る)、その後に続くカットは駕籠に揺られる斉韶の顔である。つまり、「人の生き血を吸う」という意味を介したモンタージュだ。

 夜、水浴びをする彼らの耳に狼や野犬の遠吠えが届く。「我らはもう侍ではないのだな」と呟く高岡蒼甫。新左衛門はこのミッションを引き受けた時からわかっていた。老中土井から己の役職を解かれた時から。
 権力者の暗殺はいつの時代もどこの国でも、「何者でもない者たち」によって遂行される。『地獄の黙示録』のウィラード大尉(雑貨屋の使い)も、『ミュンヘン』のアブナー(一般人)も、何者でもない者だった。
 しかし彼らが抱えていたような自らのミッションへの迷い・懐疑は新左衛門には無い。
 刺客たちの中で彼だけが見ている。百姓一揆の首謀者の娘に斉韶が働いた、言語を絶する酷い仕打ちを。


■小弥太

 落合宿への街道になかなか出ることが出来ない一行は山の民=小弥太(こやた)と出会う。
 山の長の情婦に手を出したおかげで追放の憂き目にあった小弥太。彼の回想ショットに現れるその情婦=ウパシを演じるのは、面白いことに新六郎の恋人を演じた吹石一恵だ。着物をたくしあげて下半身を清流に浸し、その直後のカットでは口をモグモグさせている。非常に短いカットながらここで描かれているのは、明らかに「間引き」であり、産み落とした後で滋養剤として胎盤を食べる、という行為だ。『インプリント』で、川に胎児を流す間引きシーンを平然と挿入して見せた三池であるからして、このカットは当初もっと長く克明で、さぞかしグロテスクだったろうと想像出来る。

 小弥太を演じる伊勢谷友介がとにかくイイ。旧作では山城新伍が演じた人物だが、暗殺の舞台となる落合宿の若者という設定から、ワイルドな山の民へと改変。道なき深い山を進む十二人と出会い、案内することとなる。
 先頭に立ってひょこひょこと身軽に動き回り、虫を捕まえて生きたまま食う(そして他の連中からは気味悪がられる)姿には『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのゴラムが、単細胞で野性味溢れる愛嬌のある人物像には『七人の侍』の菊千代がどうしてもオーバーラップする。
 この「ボロボロの汚い格好をした」「カッコつけてない」「バカ」というキャラクターと伊勢谷が気持ちいいくらいのマッチングを見せる。それまでの出演作では全く好きになれなかったが、今回の彼はどうしたというのだろう。非常に魅力的に映ったのは確かである。


■釣りと博打

 着々と改造が進む落合宿に、途中小弥太を加えた一行が到着、これで晴れて「十三人の刺客」が決戦の場に勢揃いする。
 村の入り口にある朽ちそうな大鳥居は三池作品『スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ』と同じものだが、こちらは正統派時代劇、大鳥居の先にある村の造形はどこもリアルな作り込みがなされている。
 旧作には無かった爆薬の使用をうかがわせながらも、要塞化の全貌も含めて、どのような手を使って斉韶を討とうとするのかは一切見えて来ない。

 戦いの準備が終わり、屋根の上に上がった刺客たちが思い思いのポーズでたたずむショットが、彼らの結束力と緊張感を見事に捉えた一枚絵として、なんとも美しい。ああいう場面をさり気なく挿入出来る監督と出来ない監督の差は大きい。
 だがしかし、なかなか斉韶一行は訪れない。
 イライラする刺客たちは宿を捨て他の手段に変更するよう新左衛門に提案するが、冒頭で披露した釣りのシークェンスがここで活かされることになる。つまり、釣り糸を垂れて獲物が食い付いて来るのを待つ。明石藩一行は必ずかかる。前半部で披露された甥=新六郎との博打談義をもモチベーションにして、この大きな決断の瞬間はなんともドラマティックだ。


■依り代(よりしろ)

 果たして新左衛門の読みどおり、斉韶一行は現れる。しかし彼の予想には無かった形で。途中他藩からの加勢を得て300人の軍勢に膨れ上がっていたのだ。ザック・スナイダー監督が多勢VS無勢の肉弾戦を激しくも華麗に描いた『300』を、『クローズZERO』2作で高校生たちのバトルに応用した三池は、今度もそれをやろうとしているのか。しかも時代劇で。
 しかし、三池崇史が目指したものは『300』などではなかった。

 百姓(の娘の無言)の訴えによって侍たちが立ち上がること。
 最後のチーム参加者のキャラクター造形に「菊千代」が大きな影を落としていること。
 村を見回って綿密な作戦を練るリーダーの姿に「勘兵衛」の姿が重なること。
 オリジナルでは砂埃が上がるような乾いた地面だったものが、今回は湿ってぬかるんでいること。
 そしてこの作品を配給したのが東宝であること。
 もう明白だ。
 三池がやろうとしたのは、『十三人の刺客』を依り代にして『七人の侍』を降ろす(再現する)、という「降霊術」だったのである。


■みなごろし、再び

 斉韶を冠した明石藩が村内へと踏み入る。村はもぬけの殻。行列脇に立ちひとり素っ裸で小便を垂れる小僧に馬上から微笑む半兵衛=市村正親。彼が笑みを見せるのは劇中このカットだけだ。この映画のモデルとなった事件、明石藩主=松平斉宣(なりこと)の行列を横切った幼児が切り捨てられた、という史実を考えれば、ちょっとしたこのシーンに作り手が込めた半兵衛というキャラクターへの優しさがわかる。
 だが直後、反対側に目をやった半兵衛が見たのは、こそこそと山へ逃げる村人だ。即座に半兵衛は自分たちが罠にはまったことを悟る。『俺たちに明日はない』のラストや『ゴッドファーザー』のソニー銃殺シーンを彷彿とさせる演出と言えるが、市村の笑みを凍り付かせる演技が見事だ。

 慌てて引き返すも、渡って来た橋は眼前で爆破される。さらに、建物の陰から轟音をたててスライドして現れた、丸太と枝木で組み上げられた防壁によって、行く手も遮断される。そして逃げ込もうとした長屋が、先に入った明石侍たちを巻き込んで爆発、崩壊する。
 「おもしろい・・・」。斉韶=稲垣吾郎の眼に精気が宿り出すのが見てとれる。今まで経験したことのない危機的状況に、言い知れぬ興奮を抑えきれないのがありありと判る。
 斉韶の前に立ちはだかる高い防壁。その上に立つ新左衛門。仁王立ちではなく、脚を閉じ両手を握りこぶしにした立ち姿がいかにも実直な新左衛門らしい。自分の名前を名乗り、「お命頂戴する」という口上を述べるまでは見慣れた時代劇でもお約束のことだ。
 しかしその後で新左衛門が懐から取り出し、広げ、斉韶に向けて掲げたものに、我々観客はあの時の彼と同じように震え、怖いほどのカタルシスを味わうことだろう。
 新左衛門が無言で掲げ、そして風に飛ばしたのは、「みなごろし」と書かれたあの紙である。
 それまで伏線を巧みに回収して来た天願脚本の最大の見せ場がここだ。このシーンの素晴らしさのせいで、その後開始されるバトルに一瞬肩透かしを食らったような印象を覚えるほどである。
 だが、ここからがケレン味とスピード感のあるアクションに冴えを見せる三池演出の真骨頂であり、当然ながらその真骨頂は彼特有の「暴走」をも含むことになる。


■三池崇史の暴走

 屋根上からの弓矢攻撃の後は、地上に降り武器を刀に変えての斬り合いにシフトする。そんな中、要所要所で突如スライドして来ては立ちはだかる防壁は、それだけで相当なスペクタクルだ。
 防壁によって隊を分断され弱体化せざるを得ない明石軍。知恵と工夫で多勢をものともしない刺客たち。新左衛門のかけ声どおり、斬って斬って斬りまくる十二人と、投石を武器に応戦する小弥太。
 油を撒いた路地で敵を火あぶりにする場面もある。火だるまになった明石侍を平山九十郎が脳天から真っ二つにするショットでは、左右に炎が分かれると刀を振り下ろした九十郎の姿が現れる、という劇画的な演出に痺れる。

 50分に渡るクライマックスの中で思わず炸裂する三池お得意の「暴走」とは、背中に火を乗せた牛である。牛を何頭か狭い路地に放ち敵を混乱させる作戦なのだが、残念なことにこの牛たちがなんとも安っぽいフルCGなのだ。この作品がキープしていた時代劇としての格式を寸断し兼ねないほどの破壊力を、三池は自らの指示で投入する。
 いや、そもそもこの映画で最初に登場した「破壊ポイント」はここではない。
 落合宿に到着した晩、村娘を相手に小弥太の絶倫ぶりが止まらず、思わず村長である岸部一徳のカマを掘る、という物語の本筋とは全く関係の無いシーンまで三池はわざわざ挿入している。
 生来の壊し屋なのか、照れ屋なのか、その両方でもいいが、三池崇史は『十三人の刺客』のフォーマットを使って『七人の侍』を撮る、という偉業に「三池」という烙印をしっかりと焼き付けたことになる。

 それでも、不条理な三池演出が有無を言わさずクールにキマる瞬間もある。
 建物の裏手、中庭様のスペースで明石侍と揉み合いになった近藤公園がダイナマイトに点火して自爆するのだが、カメラはその建物の表側で敵を斬りまくっている新六郎=山田孝之に変わる。動きを止め一息ついた新六郎の背後で爆発音とともに建物が大きく揺れ、2階部分の屋根のあたりから大量の液体が勢いよく溢れる。
 この溢れたものが赤茶色をしており、どう見ても血に見えるのである。
 人間2人分にしては多すぎる量であり、しかもあんな所からあんな風に溢れ出るとはあまりにも非現実的だ。しかし、だからこそこのショットはこの世ならぬ美しさを放っている。画面手前でアップになった山田のキメ顔の背後で、ホラー映画のごとく大量の血液が溢れ、飛び散るという豪快かつ異様な画。ハリウッドのアクション映画で見慣れた「こちらに向かって歩いて来るキャラの背後で爆炎が吹き上がる」という例のアレのパロディと言うことも出来るが、本格時代劇という仕事を与えられて突如このような演出をする猛者がハリウッドにいるだろうか。

 三池崇史ならではの映画魔術は、『十三人の刺客』という「立派な」題材をどこまでも屈折させる。


■封建社会が産んだ怪物

 自分の家臣たちが血祭りに上げられて行くのを斉韶はうっとりと眺め、側近の半兵衛に尋ねる。
 「戦の世とはこのようなものであったのかのう。なかなかよいものじゃのう」
 そして老中になって絶対的な権力を得た暁には戦国時代を復活させようと、黒目をキラキラさせながら誓ってみせる。どんな言葉を返してよいのか混乱する半兵衛。殿はこの危機的状況を楽しんでいる。罠であると知りつつ、ニヤリと不敵な笑みを家臣に見せて路地へと消える場面もある。
 将軍家に生まれ、純粋培養されたがゆえに、武家社会が内包する歪みを他のどの侍よりも濃密に醸成することになった斉韶。極悪非道ではあるが、純粋無垢。斉韶のセリフは極端な物言いではあるものの、反論しがたい真理の一端と抗いがたい誘惑を放っている。封建社会が産み落とした怪物を嬉々として演じている稲垣吾郎は、どのシーンでも蠱惑的だ。


■『スターシップ・トゥルーパーズ』

 侍とはいえ素人に近い者が半数近くを占める刺客たちは、斬っても斬っても減らない明石侍軍団のせいで刻々と疲弊していく。
 かつてイメージフォーラムで行われた『殺し屋1』トークショーの中で、三池崇史が披露したエピソードを思い出す。

 日本一忙しい映画監督である三池は、朝起床すると同時に、寝室備え付けのホームシアターである映画のあるシーンを見ることにしてるのだそうだ。その映画とはポール・ヴァーホーヴェンの『スターシップ・トゥルーパーズ』。三池が頭出しして繰り返し見るシーンとは、マイケル・アイアンサイド率いるラズチャック隊が立て篭もった砦を、地平の彼方まで埋め尽くす巨大昆虫軍団が襲う、というものだ。
 三池は毎朝起きぬけにこれを見て、「こいつらに比べればおれなどまだマシ」と自分に言い聞かせて現場へと出かけるのだ、と話していた。なんとも愛すべき逸話だが、意識的にしろ無意識的にしろ、あの昆虫軍団との死闘を落合宿で再現することになった、と言える。


■やおい

 死に際のドラマが刺客たちの絆を再確認させる美学、というのもヤクザ映画に才能を発揮して来た三池イズムのひとつである。
 激闘の束の間、隣にいる同志に笑みを向けた瞬間、障子越しに背中から突き刺される高岡蒼甫。ゲボリと吐きだす大量の血液。西村晃演じる平山九十郎が絶命する旧作随一のスプラッター描写を、三池は高岡の死の場面で披露し、伊原剛志=九十郎にはもっと劇的な見せ場を、過酷な最期を用意する。

 鞘から抜いた裸の刀が地面の至る所、無数に突き立てられている。そこかしこでメラメラと燃える炎と立ち昇る陽炎。『七人の侍』へのオマージュをこれでもかというほど感じさせるフィールドで始まる剣豪九十郎の決戦シーンは、50分間のクライマックス中ヤマ場のひとつを成している。
 まだ幼さの残る門弟=庄次郎を後ろに従え、「おれの後ろに抜けた奴を残らず斬れ」と命じる九十郎。地面から引き抜いた刀を両手に構え、迎え来る斉韶の家臣たちを次々に斬っては刀を使い捨てにして行く。その鬼気迫る表情と相まって、伊原の殺陣はどの刺客よりもダイナミックに映える。ここで三池は『クローズZERO』の集団格闘シーンのメソッドを応用する。
 生涯に渡って武芸を磨くことに専念し、女さえ恐らくは断って生きて来た九十郎と、彼の唯一の弟子にして美少年である庄次郎の「師弟を超えた関係」は、腐女子ならずとも想像が可能である。『七人の侍』において木村功が宮口精二に打ち明けた、まるで愛の告白のようなリスペクトを超える、なんとも濃厚な空気。これもオリジナルには希薄だった。

 旧作の九十郎は刀が折れた途端に武士の魂も折れたか、西村晃は無様に逃げ惑い、背中を斬られ、血を吐いて死ぬ。「斬られても血が出ない」悪しき慣例に背いて見せたこのシーンは、ちょっとした衝撃であり、旧作中でも突出したショットだったと言える。
 対して伊原は、前半の稽古・訓練シーンで若い連中に檄を飛ばしていた「刀が無ければ石で、石が無ければ拳で戦え」を、最後に自分で実践する。深手を負い血まみれに成り果て、鬼のごとき形相で大きな石を敵に振り下ろし続ける九十郎。
 既に倒された庄次郎の視点・視線に合わせ、大胆にもカメラを横に倒しての撮影アングルは、シネマスコープ画面を縦に使って半狂乱の九十郎を映し出す。そして師匠の断末魔を、こちらも息も絶え絶えになった庄次郎が静かに見守る。
 ストイックに武士の道を極めた侍も、結局は1人の殺人者に過ぎない。


■今日という日がいちばん楽しかった

 明石侍の手にかかり次々と倒れていく刺客たち。それぞれに印象的な死に方を見せている中(古田新太などはあまりにもあっさりと斬られるせいでリアリティがある)、松方弘樹だけは「この人は斬り殺せない」という監督の意向もあって、業火の中崩れ落ちる建物を背景にして力尽きる、という図になっている(旧作では倉永は生存する)。
 「なんでおまえら侍はそんなに偉そうなんだよっ」という名ゼリフを吐きながら、刀を持たずに明石軍をなぎ倒していた小弥太は、殿の目に留まり褒美を頂戴する。斉韶自らが投げた小太刀を首に受ける、という光栄にあずかってしまうのだ。
 
 長い死闘の末、新左衛門と新六郎を残して刺客たち全員が倒れた時、明石藩の軍勢もまた完全に壊滅していた。

 そしてついにターゲット=松平斉韶と対峙する瞬間が訪れる。
 決戦の場は村はずれ、ぬかるんだ地面、しかもなんと便所のそばである。逃げようとする斉韶と半兵衛の前に立ちはだかる新左衛門。
 「天下万民のため。死んでいった十一人の仲間のため。そして名もなき娘のため」
 お命頂戴の口上は戦闘開始の時よりも雄弁である。まず斬らねばならないのは殿の前に立つ半兵衛だ(オリジナルではまずあっさりと殿を斬り、クライマックスを半兵衛との一騎打ちにしている)。
 長年のライバル同志が己の侍としての本分に命を張る。だがしかし「主君への揺るぎない忠誠こそが侍の本分である」という半兵衛のイデオロギーを新左衛門は理解している。一方で半兵衛は、新左衛門の「天下万民のため」という大義名分を呑みこみ、それでも理不尽な暴君に仕えねばならない矛盾に引き裂かれそうである。
 封建社会がその核から内破する過程を象徴的に見せるかのような二人の決闘。
 新左衛門にはもはや侍としての恥も卑怯も無く、斉韶暗殺に手段を選ぶ余裕は無い。ここは道場でもない。泥水を蹴り上げて半兵衛の顔に浴びせ、一気に勝負に出る新左衛門。転倒した半兵衛の首には既に刀が当てられている。CGではなく偶然本物が、なのだろうか(何と言っても便所のそばだ)、半兵衛の顔にたかった「蠅」が死の匂いを絶妙に漂わせる。
 「おれもすぐ行くから待ってろ」と告げ、新左衛門が刀を振り下ろすと、勢いよく半兵衛の首が転がる。転がった方向が殿の足元というのが悲しい。
 その半兵衛の首を新左衛門へ蹴リ返す斉韶。イングランドにおけるサッカー起源説を地で行くようなナイスプレイに思わず背筋が凍る。斉韶にとっては、所詮全てが遊びだ。

 友人の死を足蹴にした殿への怒りをたぎらせ、新左衛門は斉韶の神経を逆撫でするセリフを浴びせる。「あなたは飾りに過ぎない。おとなしく飾られていればよいものを」という罵倒に、それまで見せたことの無かった感情を斉韶は爆発させる。「怒り」。
 そして斉韶は刀を抜き、新左衛門の胸に突き立てる。これでやっと自分も殿を殺せる。暗殺を遂行した挙句に切腹し、甥の新六郎に介錯を任せるのは不本意だ。相打ちに持ち込まねばならぬことは最初から覚悟していた。ついに斉韶の腹に刀を突き通す新左衛門。武家社会の光と影がこうしてひとつになった。
 顔まで泥まみれにして「死にたくない」と這いずる稲垣吾郎渾身の演技には拍手喝采だ。そして新左衛門に向き直り笑顔を見せて絞り出すセリフがいい。
 「今まで生きて来て、今日という日がいちばん楽しかった」
 「御免」と言い捨て、殿の首をはねる新左衛門。勢いよく首が転がった先は「厠(かわや)」だ。SMAPの稲垣吾郎にどこまで汚れ役をやらせるのか。アイドルとしての旬を過ぎつつある現在だからこそ、ここまでの表現・演出が許されたのだとすれば、『十三人の刺客』は今でしか作り得ない作品だと言うほかない。

 甥=新六郎に侍の道の虚しさを言い残し、新左衛門は息絶える。「今日という日がいちばん楽しかった」のは、果たして斉韶だけだっただろうか。いや、楽しかったのは十三人の刺客たち全員にとっても同じだったはずだ。侍として生きることとは、侍として死ぬことを意味する。小弥太を除く彼ら全員が死に場所を求め、侍として人生で最も満ち足りた時間を共に生きたのだ。
 悲壮感ただようスコアが、どこかラヴェル作曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を思わせる。


■『七人の侍』

 1963年の工藤栄一版は、明石藩で一人生き残った侍が発狂したように高笑いする場面で幕を閉じる。すでに述べたように、オリジナル作品がオールスター時代劇の終焉を色濃く反映しているように思えてならないのは、この希望の無い不吉なラストシーンのせいでもあるだろう。 
 47年後に作られた三池崇史版ではラストのトーンが対照的だ。死んだと思われた小弥太がどっこい生きていたのは、「壊し屋」三池崇史の映画魂であり、彼一流のサービスであり、そして「再生」への希望だ。
 小弥太と別れ、疲れ切った新六郎は握った刀を振り落とそうとするが手が言うことを聴かない。仕方なくゆっくりとではあるが歩き出す新六郎の顔は、まっすぐ前を見ている。穏やかな笑みさえたたえて。小弥太はウパシのいる山へ帰ると言っていた。新六郎も恋人である芸妓=お艶の元へ帰る。吹石一恵に二役を演じさせたのはいたずらではなかったことがわかる。
 お艶の元へ辿り着いた時、新六郎はやっと刀を捨てることが出来るだろう。

 戦場だった落合宿はすぐに村人の手で元の姿を取り戻し、松平斉韶暗殺も参勤交代途中のアクシデントとして処理されるはずだ。
 斉韶と明石藩の軍勢300名を葬った英雄たちの記録は、跡形も残らない。
 そして、あと20数年も経てば侍の世も終わり、民衆の時代がやって来る。

 百姓一揆の首謀者の娘によってトリガーを引かれたミッションが完結し、映画が幕を下ろそうとする時、映画史に残るあの有名なセリフが去来する。
 「勝ったのはあの百姓たちだ。俺たちではない」

 極論・迷言は承知の上である。決して隅々に渡るまで完璧に作りこまれた映画でないのは確かだ。しかし少なくとも、文芸作品やアートフィルムとしてではなく、娯楽作品としての大型時代劇を完全復活させた功績を讃える意味で、こう述べることを許して欲しい。

 三池版『十三人の刺客』は、21世紀の『七人の侍』である、と。


 <了>