2007. German Promo for DVD, HD DVD and Blu-ray. 23X33inch. Foldled.

■それでもこの映画には不満がある

 散々絶賛しておきながら何だが、「ファイナル・カット」には不満もある。

 あれほどサウンド面のリミックス、リニューアルに手間をかけておきながら、通行人で溢れかえったストリートでデッカードがゾラを追跡するシークェンスにおいて少なくとも7回は聞こえる、「誰か変なものを〜残しちゃったぜ」(ブレラニアン=に〜ぜき氏のブログ「ALL THAT BLADE RUNER」より)という日本語音声を含む、不自然なループをなぜ直さなかったのか。

 そして、最も大きな不満は映画の幕切れにある。
 デッカードとレイチェルがエレベーターに乗り込むところで暗転するのは別にいい。頂けないのは音楽の編集だ。暗転と同時に流れ出す「End Titles」の直前に「Love Theme」のイントロが、なんとも不恰好に挿入されている、と言うよりも放置されているのだ。『ディレクターズ・カット 最終版』と同様に。
 そもそもあのタイミングで「Love Theme」が流れ出すのは「初公開版」だった。ドライブ・シークェンスの間中流れている「Love Theme」が、空撮ショットに変わったところで、フェイドインして来る「End Titles」にバトンタッチする。ハッピーエンドの是非はともかく、あそこで聴けるサウンドの流れは、物語の終わりにたっぷりと余韻をもたらしていてなかなかに心地良い。
 だから「最終版」を見た時、あの慌てて幕を下ろすせっかち振りにとにかく納得行かなかった。ユニコーンの折り紙を握り潰して頷くデッカードが意味するものを推し量れば、あのタイミングで「Love Theme」のキラキラッとした明るいイントロが一瞬でも流れるのは、あまりにも不自然ではないのか。「衝撃のラスト」とも言えるあの幕切れに少しでも余韻を持たせることをリドリーは考えなかったのだろうか。
 リドリーにそれが理解出来なかったわけではあるまい。なぜなら、5枚組DVDに収録された「ワークプリント」では、その時点では完成していなかった「End Titles」の代わりに、デッカードとガフを乗せたスピナーが飛び立つシーンで使われた曲を流用しているのだ。編集こそぎこちないものの、この選曲は決して悪くない。取って付けたような印象よりも、むしろ今まで見て来たどのヴァージョンにも無い余韻が実に味わい深いのだ。

 もちろんこれは小生一個人の感想であって、「ファイナル・カット」がSF映画の金字塔であることに変わりは無いのだが。

■ブレードランナーはレプリカントに唾を吐きかけるか?

 この5枚組DVDセットは、長年のファンにとって「大体は」夢のような内容だった。DVDの画質はデジタル上映での感動を追体験するには全然物足りないレベルではあるが、スタッフ・キャストによって語られるエピソードや、公開当時の資料映像、そして何よりも、未収録フッテージの数々(なんとショーン・ヤングのヌードまであった!)には目を奪われた。
 その膨大な映像やコメントの中から、特に興味深かったのは以下のようなものだ。

 デッカード役にロバート・ミッチャムやダスティン・ホフマンが候補に挙がっていたのは知っていたが、他の候補者には、ジーン・ハックマン、ジャック・ニコルスン、ポール・ニューマン、クリント・イーストウッド、ショーン・コネリー、バート・レイノルズなどという、意味不明としか思えない名前があった。

 ハリソン・フォードを推したのは、「子蜘蛛が母蜘蛛を食べるのを見た」という実体験を脚本家に提供したバーバラ・ハーシーだった。

 冒頭の空撮ショットで吹き上がる巨大な爆炎は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督作『砂丘』で未使用だったものを合成した。

 冒頭で挿入される眼のクローズアップは、リドリー・スコット曰く、「全体主義国家の監視者の眼」を表現したらしい。編集上だけで見るとホールデンの眼のように思えるが、これはロイ・バティの眼だと小生は解釈している。

 ユニコーンのシークェンスには、ジャン・コクトー監督作『美女と野獣』のイメージを盛り込んだつもりらしい。そう言えば、射殺されたゾラが割れたガラスにうつ伏せになっているショットは、『オルフェ』のジャン・マレーを思わせる。

 未公開シーン集で、タフィ・ルイスの店で飲んでるデッカードに「楽屋へ行くんだ」と教える太ったバーテンは、『チャイナタウン』でヘヴィスモーカーの監察医を演じた俳優チャールズ・ナップである。ジェームズ・ホン以外に『チャイナタウン』からキャスティングされた俳優がもう1人いたことになる。

 バティがタイレルを殺す時に言う「Nothing the god of biomechanics wouldn't let you in heaven for.」は、字幕では「生物工学の神が呼んでいるぞ」だが、「生物工学の神はあんたを手ぶらでは天国に入れてくれないぜ」が正しいのでは?

 クライマックスで鉄骨にぶら下がったデッカードが手を離す瞬間、唾を飛ばすのだが、あれはリドリー曰く、「命乞いなどするものか、とバティに向かって唾を吐きかける。だからバティはデッカードを助けた」んだそうだ。死期を悟ったバティはハナからデッカードを殺す気など無かったんじゃないか?ハリソン・フォードの演技のせいか、バティに唾を吐きかけたようになど見えないし、あれだけ逃げ回ってたデッカードが死に際でそんな風に強がるのは不自然だと思うが、どうか。
 撮影終盤ではハリソン・フォードが現場を仕切ることが多かった、という記述を読んだことがある。デッカードが人間かレプリカントかという解釈が、リドリーとハリソンの間で確実に異なっていたことからも、このシーンの演出について語るリドリーには疑問が残る。

 と言うか、リドリー・スコットはもう『ブレードランナー』のことを語れるほど鮮明な記憶も論理的な思考も持っていないのではあるまいか、という気もする(あんなに若い奥さんなんかもらいやがって)。あくまでもデッカードをレプリカントにしたがる姿勢(なんと「ネクサス7」という後付けまで妄想する始末だ)に、「ああ、この人って原作はどうでもいいんだな」と情けなくなる。
 DVD5枚にいくつかのオマケを付けてVKマシンのケースに入れた豪華セットの仕様にしても、ファンの期待との間にズレがある。プラスティックで作られたあの安っぽいケースのどこに『ブレードランナー』らしさを感じればいいというのか。ディスクに静止画像アーカイヴが収録されていないだけでも大問題だというのに。


2007. Spanish Promo for DVD, HD DVD and Blu-ray. 48X68cm. Rolled.



なぜかデッカードとレイチェルの2種類しか制作されなかった。

■デッカードはレプリカントか?

 デッカードがレプリカントかも知れないことを匂わせることで、人間とは何かという一大テーマへの考察をより深めることが出来た、とリドリー・スコットは考えたようだが、僕はそうは思わない。

 デッカードがレイチェルにキスを迫るシーンに漂う、ソフトSMを思わせるヴァイオレントな雰囲気と、人間と人造人間のセックスという「異種交配」が内包する背徳感は、デッカードが人間であるからこそ醸し出すことが出来た、SF映画ならではの官能である。人形愛に通ずる変態性と、「ロミオとジュリエット」的悲恋の融合。デッカードが抱くレイチェルへの恋愛感情で人間とレプリカントのボーダーの曖昧さを描きつつも、人間以外のものを愛してしまうことの神秘や屈折したロマンティシズムを感じ取れるからこそ、この物語が奥深いとは言えないだろうか。デッカードとレイチェルが交わすキスと、バティとプリスが交わすキスでは、意味合いも趣きも全く異なるのだ。

 残された最後の時間を人間との命がけの「遊戯」に費やし、自分が味わわされて来た恐怖を人間にも知って欲しいと願うロイ・バティ。ビルの屋上から落下する瞬間のデッカードを超絶的な腕力で救い上げるバティの輝かしく崇高な姿は、奴隷として生れて来た人造人間がついに支配者を超え、さらには神へと近付いたことを見せつける。もしデッカードも同じレプリカントであったとしたら、この後でバティが語る台詞とともに、映画史に残るであろうこの名場面は成立しないと確信する。

 加えて、こうも思う。ニヒルな主人公が最新型のレプリカントと出会うことによって、忘れていた人間性を取り戻し始めるという、「孤独な都市生活者が獲得する小さな幸せ」を描く昔ながらの物語として、『ブレードランナー』という映画にささやかな温かみを感じることは許されないのだろうか、と。そしてその温かみは、フィリップ・K・ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読み終えた時に感じたものとよく似ているのだが。

 しかし、ユニコーンでデッカード=レプリカントを匂わすも何も、レイチェルに「タイレルが私たちをペアで作った」と言わせちゃってる、別ヴァージョンのハッピー・エンドを撮影してたとはね・・・・・・・・・・・・・・。

 ディックが存命だったら、リドリーのこの解釈をどう思っただろうか?