1973. German. 23X33incn. Folded.

この構図を見れば、アトス(息子)はドライファの掌中にある、ということになる。
アリダ・ヴァリの顔がやはり怖い。
ポスターは他にイタリア版、イギリス版、フランス版などが確認されているが、
前ページのベルギー版とこのドイツ版が最もそそるデザインである。

■Mina 「Il Conformista」

 女同士のタンゴ・ダンス・シーンが『暗殺の森』のイメージを決定付けたが、それと同レベルの強度を『暗殺のオペラ』にもたらしたのが、中盤に登場する「昼寝」のシーンである。

 父=アトスとの最後の逢い引きを語って聞かせた後、息子=アトスを自邸へと導く日傘のドライファ。中庭のテーブルで待たされているアトスに使用人の少年(のちに少女だったことが判明する)が、緑色の液体が入ったグラスを運んで来て「奥様が全部飲むようにと」と伝える。半信半疑でグラスを口にするアトス。とうもろこし畑への放水が作る虹。ドライファ邸の鬱蒼とした木々。するとアトスは中庭の椅子で眠りに落ちている。彼を起こさぬよう、そうっと椅子ごと邸内に引きずり込むドライファには笑みが浮かんでいる。そして彼の服をゆるめて介抱し、中国製の蚊取り線香に火を点ける。
 これら一連のイメージ群を鮮やかにつなぎ、夏の午睡の快楽を演出するのは、イタリアの国民的カンツォーネ歌手Minaが気だるそうに歌う「Il Conformista」なる楽曲である。戦時中の流行歌を思わせるこのノスタルジックな曲は、なんとベルトルッチの次回作『暗殺の森』の原題を曲名に冠しているのだ。

 この「Il Conformista」は、ミーナが作詞をし、Augusto Martelliが曲を書いて、そもそもが『暗殺の森』に提供されたものであったと言われている。だが、それがいかなる経緯で『暗殺のオペラ』のテーマ曲然となったのかは不明だ。2つの映画をつなぐ重要な楽曲だというのに。そして残念なことに、ミーナのどのアルバムにも収録されていないのである。
 現段階では動画投稿サイトをはじめネットのみでしか聴くことが出来ないこの曲の歌詞とその日本語訳をここに掲載する。歌詞を読めば、これが『暗殺の森』の主人公マルチェッロが亡き教授夫人アンナに向けた哀歌であったことがわかる。これを『暗殺のオペラ』に当てはめるなら、死して英雄(偽りだが)となったアトスからドライファへのラヴ・ソングであり、そして同時に、30年の時を経て蘇り、自分のもとへ舞い戻ったアトスに、ドライファがかけようとした愛の呪文でもある。

 Mina - Il conformista

 Come un fior sfioriro,
 senza te,
 il calor
 del mio cuor
 gelera,
 mia vision,
 mio tesor,
 piu io non ti avro
 vicino a me,
 come un fior sfioriro
 senza te.

 Oh crudel
 il destin
 che colpi
 la belta
 con l'onor mi sfuggi

 Sol per te
 io pregai
 ogni mio sospir
 io ti donai

 Come un fior sfioriro
 senza te

 「順応主義者」 ミーナ

 枯れゆく花のように
 あなたがいなければ私の心は凍てつく

 私の未来、私の宝物
 もう私のそばにいることはないあなた

 枯れゆく花のように
 あなた無しでは

 ああ残酷なことよ
 美しい人を打ちのめした運命
 私から遠ざかる名誉とともに

 あなただけのために祈る
 全てのため息をあなたへ捧げる

 枯れゆく花のように
 あなた無しでは

 (訳:三好曜子)


 ストラーロと組むことで最高の絵筆を得たベルトルッチだが、製作の順序によって『暗殺のオペラ』を<『暗殺の森』の習作>などと位置付けるのは安易過ぎる。
 父性の探究と回帰の旅、旅先で主人公を惑わす父の恋人、1930年代末という時代、錯綜する時間軸、父親の抹殺、そしてアイデンティティが足元から揺らぐ結末。『暗殺のオペラ』と『暗殺の森』は似ている。いや、季節と舞台を異にしただけのパラレル的作品と言ってもいい。モラヴィアが夏の物語として描いた小説を『暗殺の森』で冬に置き換えたベルトルッチの映画人的企み・詩人的趣向を、この2作品をセットで見ることで理解出来る気がする。単に撮影スケジュールの問題だったと言われればそれまでだが。
 凍てつく異国で父親(=ゴダール)を殺さねばならなかった『暗殺の森』の主人公とは対照的に、『暗殺のオペラ』の主人公は、毒々しいまでの自然に抱かれた真夏の故郷で父親の幻影を断ち切ろうとする。このシンメトリーの中心で躁と鬱を繰り返しながら、結局は答えも救済も得られない主人公とは、ひとりしか存在していない。マルチェッロもアトスも同じだ。二人ともベルトルッチ自身なのだ。

 ベルトルッチは、『1900年』でも『ラストエンペラー』でも、最後の最後で突如として魔術か催眠術のごとき演出法を繰り出し、超現実的(ブニュエル的と言ってもいい)に幕を引いてしまうが、『暗殺のオペラ』のラストは、いささか怪談風である。
 タラの町を出ようと駅で待つアトスの前を、父を殺した3人の同志たちを彷彿とさせる見知らぬ3人組がトロッコで通り過ぎる。列車はなかなかやって来ない。線路を目で追い、いぶかしむアトス。鉄路は徐々に雑草をまとい始め、やがて緑の中に消えてしまう。まるでとうの昔に廃路になっていたかのように。
 ここはどこだ。自分はこの町で何をしていたのか。ドライファは、あの老人たちは実在したのか。そして父親と同じ名、同じ姿かたちを持つこの自分は一体何者なのか。父が仲間たちに「自分暗殺計画」をもちかけたという教会の鐘楼が彼方に浮かぶ。今は、いつなんだろうか。

 原題の意味「蜘蛛の戦略」のことを考えてしまう。蜘蛛とはドライファのことなのか。それとも父親アトスが蜘蛛だったのか。1991年公開版パンフレットに掲載されているベルトルッチの写真にはまったくイライラさせられる。『パートナー(ベルトルッチの分身)』撮影時のスナップと思しきそれは、人工的に張られた蜘蛛の巣の上で、まるで呪術師を気取るようなポーズのベルトルッチを写しているからだ。

 真夏の物憂い昼下がりに、草いきれと蚊取り線香の匂いに包まれながらどっぷりと眠り込んだ青年が、その夢の中で、サファリ服に身を包み、猛獣や悪霊の潜む、昼間なのに夜のごときジャングルを巡る物語。『暗殺のオペラ』は政治映画でも歴史ドラマでもない。クルージング映画だ。コッポラ作品『地獄の黙示録』にも似た。

 映画という装置で過去と現在を行きつ戻りつする「夢遊病者」の旅は、ここから始まったのだ。