IN THE REALM OF THE SENSES   
『愛のコリーダ』(1976年)

1991. Re-release. British Quad. 30X40inch. Rolled.

 「そのもの」の場面を大胆に使用したイギリス版ポスター。
英語タイトルのロゴがポップでいい。
裏は白ではなく何故か紫色の和紙風である。

■官能の王国にて

 1988年、ロンドンに1ヶ月ほど滞在した間に小生はこの作品を初めて見た(今村昌平の『楢山節考』との二本立てであった)。もちろん修正や編集一切なしのヴァージョンである。主演の藤竜也と松田英子が「本当にやってる」姿が大スクリーンに映し出された時、最初は「どうしようか・・・」と恥ずかしくて居たたまれない気分になったものだが、話が進むにつれ、やがて気付いた。これは究極的に優しい男=吉と、彼に全身全霊で惚れてしまった女=定が2人で築いた「砦」の物語なのだ。英語タイトルの「官能の王国にて」とは、誠に言い得て妙である(フランス語タイトルは「L'empire des sens」―官能の帝国)。

 元々海外市場を射程にすえた作品である『愛のコリーダ』は、アナトール・ドーマンの製作によるフランス映画である。そのせいか、極端な日本趣味のアピールが(美術は大島組の戸田重昌)、まるで外国映画における国辱的な日本描写を思わせるものの、むしろ2人の性愛をファンタジックに見せる装置として、美しく機能している。さらにそこへストイシズムを感じさせる尺八の音色が加わり、絡み合う吉と定の肉体から浮かび上がるスピリチュアルな絆を可視化する。松田英子の稚拙とも言えるセリフ回しと自然な笑顔は、本番のセックス行為と相まって、ドキュメンタリックに阿部定像をフィルムへと定着させた。

 軍国主義の風が吹きすさぶ中、時代や国家に背を向けるように死と隣り合わせの快楽に溺れていく吉と定。後年大島は「みんなあのシーンが好きだが、あんなものはくだらない」と吐き捨てた、藤竜也が出陣兵の行進とすれ違うショットは、この映画の大きな見せ場であり、『日本春歌考』のデモ行進シークェンスとも呼応する、大島渚フィルモグラフィにおける重要なスペクタクルである。

 政治的メッセージや実験的な語り口もなんのその、大島渚作品のルックはいつだって美しい。『愛のコリーダ』では、匂い立つような生々しい性交描写とは裏腹に、「川端康成的」と言っても許されるであろう、一種独特の透明感が冴え渡る。映画内の男女に実際に性交をさせてまで至上の愛を語る、というメタ的な作劇姿勢は、逃亡の末に逮捕された時の阿部定の様子を伝えるナレーションを監督自身が読み上げることによって見事に完遂される。
 芸術か猥褻かなど笑止千万である。アナトール・ドーマンの要請どおり、大島渚はポルノ映画を作って見せたのだ。自分が信じ、実践して来た映画流儀で。

 『愛のコリーダ』という映画は、美しく、力強く、時代も言語も超えて輝き続ける、難攻不落の王国である。