ALIEN
『エイリアン』(1979年)


1979. International 1 sheet. 27X41inch. Rolled.

■SFバブル最後の大作

 78年、日本では春に『未知との遭遇』、夏に『スター・ウォーズ』が公開され空前のSFブームが到来した。
 77年に爆発した『宇宙戦艦ヤマト』ブームからその下地は充分で、雑誌「スターログ」が創刊、東宝の『惑星大戦争』(ちなみにこのタイトルは『スター・ウォーズ』の邦題になる予定だったらしい)、東映の『宇宙からのメッセージ』などの便乗モノから、果ては倉本聰までが『ブルー・クリスマス』を書くというSFバブル状態。おまけに品川では「大宇宙博」が超ロングラン。それならばと大御所の登場。初公開以来10年間沈黙し伝説の名画と化していた『2001年宇宙の旅』がリヴァイヴァルに担ぎ出されこれまた大ヒット。翌79年夏にはマーロン・ブランド主演で話題になった『スーパーマン』も公開になるが、まあこの辺でSFバブルはひとまず落ち着くかに見えた。
 そんな時、不意を突いて投下された超ド級新型爆弾、それが『エイリアン』であった。

■映画館に来たことを後悔するほどの恐怖

 公開前に伝わって来たのは「宇宙船が舞台の侵略生物モノ」という程度の大まか過ぎる情報と、大砲のように屹立するちんこみたいな装置に寝そべるミイラのような物(後に「スペース・ジョッキー」と判明)、および奇抜なデザインの宇宙服を着た連中の姿など数枚の写真のみ。監督の名前も俳優たちの顔も一切見たことなし。
 公開直前(『スーパーマン』と時期が重なっていた為かパッとしなかった)になるとテレビではダイジェスト映像が流され「とにかく怖い映画」とコメントされてるものの、肝心の宇宙生物の映像が無いから何をどう怖がっていいのやら。ほとんど予備知識を持たぬままに今は無きテアトル東京の座席に埋まることとなった小生、当時中学2年生。そして上映が開始されるや、シネラマ用巨大スクリーンに展開する未だかつて見たことのない悪夢の映像に、のこのこ見に来たことを後悔するほど震え上がることとなったのである。

■メカニカル・ゴシック

 現在では知らない人などいないであろう宇宙怪物モノの代名詞になった『エイリアン』。ヴィジュアリスト=リドリー・スコットの名とスイスのシュルレアリスム画家=H・R・ギーガーの存在を世に知らしめ、SF映画の流れを急角度に変え、数々の亜流ホラーを生み、後にシリーズ化されシガーニィ・ウィーバーをスターダムに押し上げることとなった記念すべき第1作。そのパーフェクトな完成度はリドリー・スコットの最高傑作であり、この作品が無ければ『ブレードランナー』も生まれることはなかった。
 舞台となる宇宙船ノストロモが曳航する巨大精製プラントは灯の消えた『未知との遭遇』のマザーシップ(つまり幽霊船)のようであり、緻密に作りこまれてはいるがその圧倒的な情報量ゆえにジャンクな様相を見せる船内の意匠と相まって、「メカニカル・ゴシック」とでも言うべき空間を現出させる。そこに蒸気・水滴・汗が加わることで醸し出される「湿った未来」感覚はもちろん後の『ブレードランナー』へと受け継がれることに。

■名コピー

 表面にブツブツのある卵とその下の粘土で作ったような謎のグリッド。2つとも映画本編には登場しない要素ながらこのポスターは作品のイメージを決定付けてしまった。上部にかなりの間隔を開けて並ぶ小さなタイトル文字がスタイリッシュ。
 ちなみにこちらも超クールな映画本編のメイン・タイトル・シークェンスは「R/Greenberg Associates」(『セブン』のタイトルでブレイクしたカイル・クーパーは『エイリアン』のオープニングに感銘を受けてここに就職した)によるものとクレジットされているが、その実これを手がけたのはタイトル・デザインのパイオニアであるソール・バスだという説もある。

 来るべき80年代の「映画文法」を示唆したばかりか、「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない。」と訳された名コピーとともに、『エイリアン』は「SFホラー」という分野における金字塔であり続ける。



1979. Spanish 1sheet. 27X40inch. Folded.

■スコットとキューブリック

 あれほどの作品をモノにしながら、驚くべきことにリドリー・スコットはSFというジャンルに関心が無い。
 そんな彼が『エイリアン』を手掛けることになった起爆剤として、77年のハリウッド滞在中に見た『スターウォーズ』がある。その時リドリーは打ちのめされ挫折感さえ味わったらしい。
 しかし『エイリアン』に『スターウォーズ』の影は無い。それどころか『スターウォーズ』に希薄だったものを過剰に湛えている。それはメカへのフェティシズムである。単なる宇宙船の造形のことではない。船内にある様々な装置にボタンやスイッチを付けまくり、それを一々押したり入れたりする動作を克明に描写することで、7人の乗組員を取り囲む「生活環境としての宇宙船」にリアリティを与えることに成功しているのだ。
 中でも白眉はラスト近く、サスペンスが最高潮であるにも関わらず、ノストロモ号の自爆装置を起動させる手順を丁寧に見せるシーン。『デュエリスト/決闘者』が『バリー・リンドン』へのオマージュであったように、この場面に溢れるフェティシズムは『2001年宇宙の旅』においてボウマン船長がポッドのハッチを吹き飛ばす一連の手続きを彷彿とさせるものだ。「マザー」と呼ばれるコンピューターが宇宙船の運航を管理している(しかも重大な秘密を握って乗員を恐怖に陥れる)のも『2001年』を思わせる。
 もちろん、そこには脚本を手掛けたこの作品の最重要クリエイター=ダン・オバノンの趣味・意向があるが、映像化したスコットにはスタンリー・キューブリックの存在が霊のようにとり憑いていたはずだ。次回作『ブレードランナー』のラストを苦し紛れに飾るのが『シャイニング』空撮映像の余ったフィルムだったのは、偶然やワーナーの根回しだけとは思えない。

■『エイリアン』はレイプ・フィルムだ

 ホラー映画ならではのショッキングな描写というものは何度も見るうちに馴れてしまう。『エイリアン』を繰り返しの鑑賞に堪え得る作品にしているのは、徹底的に作り込んだメカとそれを操作する人間たちに血が通っているからである。
 公開当時、「登場人物に魅力がない」とか「性格付けが乏しい」など、人間ドラマの部分で酷評されることもあったが、今ではそんなことを言う輩はいないだろう。シガーニィ・ウィーバーはじめトム・スケリット、ジョン・ハート、イアン・ホルム、ハリー・ディーン・スタントンなどその後の活躍を見れば『エイリアン』が大変な名優揃いの贅沢な作品だったことが判る。
 そして、主役である「異星生物=エイリアン」も、H・R・ギーガー本人がシリーズ中唯一デザイン・造形に参加したこの1作目の物が最もエロティックで美しい。「彼がタッチした造形物には動物や人の骨が塗りこめられた」という噂をスコットが肯定しているのも今となっては微笑ましい。
 男性型とも女性型ともとれるエイリアンのボディだが、その「黒光りした」「長い物」が「先端から粘液を垂らす」という頭部は、完全に男性器のシェイプである。クライマックスにおいてシガーニィ・ウィーバーが下着姿を披露するに至り、この映画にみなぎるサスペンスを裏打ちしていたのは、「レイプ」に対する恐怖だったことがはっきりする。
 ギーガーの作品に度々描かれる「口への異物挿入」は、『エイリアン』にも堂々と登場する。ケインは卵から飛び出したフェイス・ハガーに「口を犯され」、しかも恐ろしいことに「妊娠」してしまう。男性にとって永遠の未知である妊娠と出産が、最悪の形で男の身に降りかかる、という男ならではの恐怖。
 さらには、実はロボットであるアッシュが、押さえ付けたリプリーの口に丸めた雑誌(マニアの間では有名だがこれは「平凡パンチ」である)を突っ込む、という強制疑似フェラチオは女性にとっての恐怖だろう。しかもこの時のアッシュの額を伝う体液は、ご丁寧にも白いのである。

 宇宙船をロン・コッブとクリス・フォスが、宇宙服をメビウスが、そして怪物をギーガーがデザインした『エイリアン』は、リドリー・スコットの審美眼と映像力学が遺憾なく発揮された、SF映画史屈指の「アート・フィルム」であるだけでなく、世にもおぞましい「レイプ・フィルム」の未来形でもあったのだ。

 4枚のスティルとイラストによるノストロモを配した珍しいデザインのスペイン版ポスター。若々しいリプリーの笑顔が眩しい。ちなみに80年のテレビ初放映の際、リプリーの吹き替えはなんと野際陽子であった。しかも恐ろしいほどピッタリだった。


1979. MPC Plastic Model Kit.

Kenner社からリリースされたフィギュアが人気だが、小生のお気に入りはMPC社製のプラモデルである。
作ると高さ23cm。頭と腕が可動する他、内顎もスライドする。ボックス・アートがとにかく素晴らしい。




ALIEN  THE DIRECTOR'S CUT
『エイリアン ディレクターズ・カット』(2003年)

2003. US Limited Foil. 27X40inch. Rolled.

■恐怖とサスペンスの半減した失敗作

 『エイリアン』にはいくつもの削除されたシーンが存在した。リプリーとランバートの喧嘩、ブレットを捜しに行ったパーカーとリプリーの頭上から降る血の雨、そして最も有名なものは、真っ先に餌食になったブレットとダラスがノストロモ船内の片隅に塗りこめられ徐々に繭(エイリアンの卵)になりつつあるところを、脱出直前のリプリーが発見し火炎放射器で焼き尽くすという場面である。
 輸入LD、その後のDVDの特典映像で見ることの出来たそれらの内いくつかを取り入れた新編集ヴァージョンが25周年を記念してアメリカで限定公開された(日本ではほぼ公開されなかったに等しいやる気の無さ加減だった)。新たなシーンを盛り込んだものの他のシーンを切り詰めたおかげでオリジナルよりも1分短くなっている。
 いくつかの見せ場を付け足しはするが上映時間はほぼ同じ・・・・・恐ろしく急展開でタイトな、ある意味「現代的な」作品に生まれ変わったこの『エイリアン ディレクターズ・カット』は、はっきり言って失敗作である。オリジナル版にあったゆったりした時間の流れや、キューブリック的なものが失われ、それら要素の欠如は致命的なことに恐怖とサスペンスの半減を招いてしまったのだ。
 素晴らしい美術、SFX、撮影、俳優たちは勿論だが、この新ヴァージョンを見ることで「いかにオリジナルの編集が優れていたか」を思い知らされることになったのである。

 限定5000枚と言われる輝くフォイル版ポスター。映画は「商品」であり、ブラッシュ・アップやマイナー・チェンジを繰り返して何度も新商品として売り出したい気持ち(というか企業努力)は理解出来る。それに、今回初めて『エイリアン』をスクリーンで見ることが出来たティーンエイジャーには新鮮な体験かも知れない。
 しかし、映画に限らず音楽など全ての視覚・聴覚的インパクトが持つ「インプリント」を否定することなど出来ないことを、我々は度々思い知らされる。改訂版が初版を超えることはないのだ。
 こんな考え方はセンチメンタル?だって映画ってそういう装置だからね。