Diary

■2008年8月

08.8.28

■7〜8月で見た中で、こりゃ一言書いとかなきゃ、と思った映画の3行以内レヴュー
 
 他に見たものとしては

 『グラインドハウス USAヴァージョン』と『ゾンビ完全版』の2本立て、というかグラインドハウス映画3本立て。
 『俺たちフィギュアスケーター』、『パンズ・ラビリンス』、『潜水服は蝶の夢を見る』それぞれ2回目の鑑賞。
 『ぼんち』、『雪之丞変化』、『おとうと』、『黒い十人の女』、『股旅』、『帰って来た木枯らし紋次郎』など市川崑追悼特集。
 『ノー・カントリー』(3回目。やはりこれがベスト1だな)と『ミスト』(2回目。衝撃はもう無し)の2本立て。

『歩いても歩いても』 家族団らんの嘘と真実、温かさと冷酷、触れ合いと闇を描いた「帰省映画」の傑作。樹木希林演じる母親が怖ろしい。この是枝裕和版「東京物語」で紀子(原節子)役を担ったのは、なんと樹木だったのだ!
『告発のとき』 『ノー・カントリー』に続いてトミー・リー・ジョーンズがまたまた素晴らしい。軍から脱走した息子の行方を追うミステリーだが、浮かび上がる事実が、お約束の「軍による陰謀」などではないところが限りなく重く、やるせない。
『ミラクル7号』 駄作『カンフー・ハッスル』の後だけに期待薄だったが、90年代に戻ったかのようなシンチーお得意のギャグが炸裂。しかし何と言っても主人公の男子を演じた女子の天才的演技と可愛さがポイント。彼女が泣かせる。
『ぜんぶ、フィデルのせい』 これベスト10入り決定!共産主義活動や女性解放運動にいそしむ両親のせいで迷惑千万な9歳の娘の目から見たパリの70年代。演じる女子がジャン・ピエール・レオーに似ていることからも何へのオマージュかは明確。
『ホット・ファズ』 過去の作品へのリスペクトが散見するが、僕のツボに入ったのは、教会のお祭りを監視する主人公の様子が『ジョーズ』のパロディだったことと、何と言ってもクライマックスで『ハートブルー』をあれほど上手く使ったこと。
『夜になるまえに』 ハビエル・バルデムが実在したゲイの美青年作家を演じるだけでもナイスだが、懐かしのマイケル・ウィンコット(J・シュナーベル作品の常連)を拝めて良かった。彼ほどの俳優を使えないハリウッドって本当にダメだな。
『スターシップ・トゥルーパーズ3』 シリーズものって通常は「2」が良かったから「3」が作られるはずなんだけど、これ1作目以外はクソなのが不思議だ。ジョニー・リコをカムバックさせてはみたものの結局、ヴァーホーヴェンがいかに天才だったか、ということ。
『純喫茶磯辺』 「ムチ・エロ・ブス・可愛な仲里依紗を見たい」が70%、「俳優=宮迫博之って良い」が20%、「おおぅ、麻生久美子も出てるじゃん」が10%というモチベーションで見に行ったが、りーさたんにメロメロの2時間だったね、案の定。
『吾輩は猫である』 豪華すぎる俳優陣と美しい撮影、ムード満点のセット・美術、独特の会話やリズム、それらが渾然一体となって匂い立つ「市川崑宇宙」は、翌年の『犬神家の一族』と双璧である。波乃九里子が泣かせるラストが素晴らしい。
『敵こそ、我が友
戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』
ナチス戦犯を描いた映画には傑作が多いが、これはフィクションではなくドキュメンタリー。共産主義陣営の資料を持っていたバルビーを、戦後CIAが欲しがったという事実が最も興味深かった。アメリカってやつぁ昔から・・・。
『ハプニング』 自然界には人知を超えた法則や脅威がある?そりゃそうだろう。え?それだけかよっ!「見えないものが見える恐怖」を語ることは出来たのだろうが、「眼に見えぬ恐怖」を描くことは出来なかったんだね、シャマラン。


08.8.23

■ジェットコースターで食う寿司は美味いか?
 
『ダークナイト』

 『メメント』、『インソムニア』、『プレステージ』と、クリストファー・ノーランはなかなか刺激的な題材を扱って来た監督である。だが、せっかくの素材にも関わらず、ノーランはご自慢のテクニックを過剰に駆使してこれをブチ壊してしまう。ステーキ用の松坂牛をさんざん切り刻んだ後で再びくっつけ合わせ、「僕が料理した最高級のステーキです」と出されたとしても、そんなものはもう美味しくないはずだ。

 だが、そんなノーランも「バットマン」という素材との相性は良いかも知れないと、『バットマン・ビギンズ』を見た時に思った。「深層心理に潜む恐怖」へのアプローチはともかく、ダークでゴシックなヒーローとノーラン独特のスタイルが見せた見事な化学変化は、ティム・バートン作品から始まった旧シリーズとは一線を画す、新しいヒーロー映画の誕生だった。

 『ダークナイト』は「選択」についての物語だ。「バットマンをやめるのか、やめないのか」、「幼馴染みブルース・ウェインをとるか目下の恋人ハービー・デントをとるか」、「ハービーを助けるのか、レイチェルを助けるのか」、「フェリーに仕掛けられた爆弾のスイッチを押すか、押さないか」、そしてハービー・デント=トゥーフェイスによって繰り返されるコイン投げと、登場人物に次から次へと選択が突きつけられる。
 「選択」が強いる残酷さを描いた作品は多い。『ソフィーの選択』などという名作や、『セブン』のクライマックス、最近では『ミスト』という傑作もあった。選ぶまでの緊迫、そして選んでしまったことの後悔が生むドラマは、もうそれだけで十分ダイナミックでディープだ。
 しかしノーランは、「選択」を描くシークェンスをアクション・シーンと同じリズムでやっつけてしまう。この映画には驚くほど「緩急」というものが無い。選択を強いられた人物の葛藤をスクリーンに展開する間もなく、同時進行しているイベントのカットへと唐突に切り替えられ、上手く噛み合うわけでもない2つのカットはただ単にサスペンスを寸断するだけだ。緊迫感が持続しないだけではなく、一体何が起きているのか判然としないシーンも多い。俳優たちがいくらエモーショナルな演技アプローチを見せようとも、そのエモーションに圧倒されることは無い。
 選択することの重要性、選択しなければならないことの恐ろしさ、更には「人間の善と悪」への考察までをも射程に入れた脚本だったのかも知れないが、あの目まぐるしいカット割りでそのように哲学的な命題なんぞを盛り込めるとでも思ったのだろうか。ジェットコースター・ムービーか・・・・そんなものに乗りながら食べる寿司が美味いはずがない。

 「ジョーカー」を捨て身で演じたヒース・レジャーもあれでは浮かばれないだろう。狂気に満ち満ちていたはずの彼一世一代の大芝居を、なぜ真正面からじっくりと見せてくれなかったのだろう。「鉛筆を消す手品」だけではなく、もっともっと残酷なマジックをエスカレートさせながらゲタゲタ笑うジョーカーを見たかったし、彼の表情の変化や動作の1つ1つを丹念に見せることこそがケレンに繋がるのに。マギー・ギレンホールとのせっかくの2ショット(『ブロークバック・マウンテン』を想起すべき場面だ)もグルグル回りながら撮る意味が理解出来ないし、バットマンがレイチェルの居場所を吐かせるのにジョーカーを痛めつけるシーンなど見ていて胸糞悪くなった。

 クリストファー・ノーランは優等生だと思う。今回の大ヒットでその地位は揺るぎなきものになっただろう。彼の監督術は卒が無い。あまりにも卒が無さ過ぎて、「映画の神」が微笑みかける余裕も、「映画の魔」が潜む隙間も無い。一見ハリウッド・メジャーに似つかわしくないダークなテーマを内包しているようでも、思わず引きずり込まれるような深みを覗かせたことは1度も無いのだ。
 『ダークナイト』は、多くを望みさえしなければ、それはそれで面白い作品には違いない。特にヴィジュアルは完璧で、恐らくあの映画のVFXは現在世界最高のものであろう。娯楽映画としては申し分無い。

 良く出来た商品としての想定の範囲内でのディープさ。それが『ダークナイト』である。


08.8.23

■何をやりたいんだ、あんた
 
『スカイ・クロラ』

 と言うわけで『スカイ・クロラ』である。

 これ、作り方間違ってんだろ。
 原作の設定や物語がどうあれ、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』みたいにやるべきなんだよ。閉じられた世界の中で少年たちが日常的に戦争を繰り返している。「キルドレ」と呼ばれるその少年たちは何者なのか?過去は?家族は?何の疑問も持たずに空中戦というバカ騒ぎを消化する日常の中で、主人公は自分のいる世界や歴史を探り始め、そして驚愕の事実に行き当たる。僕らはクローンだったのだ、と。

 それにさ、これ何かに似てんなーって見ながら気になってたんだ。1人の少年が基地に赴任して来て、でもってそいつは基地のリーダーが以前殺した奴に似ていて、そこから愛憎劇が再び始まって・・・・これって金子修介の『1999年の夏休み』(原作は萩尾望都のコミック「トーマの心臓」)にそっくりなんだよ。あの映画は4人の美少年たちが過ごす永遠に続くかのような夏休みを、甘美かつ残酷に描いた麻薬のような作品だった。再び殺された少年がまたやって来るラストも同じだ。そう言えばあの映画のパンフには、押井と金子の先輩・後輩対談が収録されていたっけな。

 『ビューティフル・ドリーマー』が来る日も来る日も繰り返される文化祭前夜の狂騒を魅惑的に描き、『機動警察パトレイバー』の「警視庁特車二課」が学校の部活動の延長のように楽しそうな組織であったように、キルドレたちの「戦争という日常」を「ああ、これが永遠に続けばいいのに」という視点で描くべきだったのだ。

 押井は今回プロペラ機での空中戦にこだわりがあったらしい。宮崎駿をあからさまにライバル視するのは結構だが、宮崎は多分鼻で笑っていることだろう。CGIで作られた新しくもなんともない空中戦は、なんの興奮も快感も生まず、フェティシズムも希薄だ。こういう映画って大体さ、見終わった後思わずプラモデルが作りたくなったりフィギュアが欲しくなったりしなきゃ成功したと言えないだろ。

 声優陣に菊地凛子、加瀬亮、栗山千明を起用してるってことは、アメリカに売る気マンマンなんだろうが、こんな辛気臭い映画ムリだろーよ。売れっ子女性脚本家に脚色させたり、露骨な情愛描写やろうとしたり、エンディング曲に女性歌手使ったり、いろいろとスケベ心出して挑戦したはいいけど、どれも空回りだって。なんだか締まりの無ぇ映画だったな。アメリカ向けにハサミ入れて80分くらいにすればまだ見れるシロモノになるんじゃなかろーか。

 あと、ホント堪忍袋の緒が切れたんだけどさ、もう犬なんか出さなくていいよ!あの「バセットハウンド」とかいう別に可愛くもなんともねえ犬!ペット自慢を自分の映画でするのな、気持ち悪いーんだよ!


08.8.23

■ヴァージョン「−2.0」
 
『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊2.0』

 95年版の『攻殻機動隊』で、単なるツカミ以上に大きな見せ場となっていたのは、冒頭のダイヴ・シーンだった。ビルの屋上から後ろ向きに飛び降りるサイボーグ=草薙素子。エキセントリックとも言える不敵な笑みを浮かべている。中にいる政府要人を窓外から射殺し、「光学迷彩」を使って鮮やかに逃げおおせる素子。眼下の夜景に溶け込み、消え入る前に、やはり不敵な笑みを浮かべて。そして絶妙なタイミングで現れるタイトル。
 映画館で、レーザーディスクで、DVDで繰り返し見ている作品だが、このオープニング・シークェンスには何度見ても震えが来る。日本のアニメ史の流れを変えた作品の、まさに「ここで変わったのだ」と実感させた瞬間であった。

 予告編を見て嫌な予感がしていたのだが、今回『2.0』で押井守は、オープニング・シークェンスでの草薙素子を全て3DCGに作り替えてしまった。背景となるシティ・スケープを変えたい、続編である『イノセンス』のルックに近づけたい、というだけだったらわからないでもない。しかし素子までCGにする必要があるのか。「彼女が義体であることを強調したかった」などと言っているが、この『2.0』を見に来る人間のほとんどは、素子が義体であることなど知っている。それに、普段は押井作品など見ない一般客に『攻殻機動隊』を見てもらいたいと思うのであれば、草薙素子のボディを3DCGなどではなくむしろ通常のセル・アニメのルックにして、人間と機械のボーダーの消失感がもたらす衝撃を味わわせるべきだろう。13年前、初めて僕が味わった時のように。

 このオープニング・シークェンス以後は、何もなかったように素子はオリジナルであるセル・アニメの絵柄に戻る。そのマテリアル・容貌のあまりの違いに、先ほどまで見せられていたCGキャラクターとは別人ではないか、という錯覚を初心者にはもたらすかも知れない。それほど2人の素子には連続性・整合性が無い。ムービー画面とプレイ画面に開きのあるゲームソフトなら問題ないのだろうが、これは「映画」だ。主人公のルックが場面場面で著しく変わってしまったら、それは大問題である。

 そして、実は今回のヴァージョンで最もお粗末だったのは、3DCGに差し替えられた場面(中盤の水中ダイヴのシーンもひどい出来だったが)よりもオリジナル版映像の方である。薄い膜がかかったような、ぼやけた映像へと「ヴァージョン・ダウン」していたことに愕然とした。しかも新宿ミラノ座の映写機のせいであろう、やたらと暗い。黒っぽい部分や陰影がつぶれてしまい、主に銃器のディテールは判別不能、ものの見事に全滅だ。あれだけ銃器の扱いにこだわった作品なのに(押井はオリジナル版の制作に入る前、スタッフを連れて実弾射撃をしに海外へ行っている)。
 前のヴァージョンよりも情報量を増やすように指示した押井だが、緻密な背景画も、人物の動きや表情も、細部まで凝りに凝った銃火器類もなにもかも、劣化して寝ぼけた、コントラストのきつい画質の向こうへ全て塗りこめてしまったのは本末転倒と言うものではないのか。

 つまり、この『攻殻機動隊2.0』は、オリジナルをダビングして数段劣化させたフィルムに、まるでルックの合わないCG素材を無理矢理とって付けただけの、まったく存在価値の無いシロモノなのである。
 話題となっていた「人形使い」の声優交代も、素子と「婚姻」するのが女性だったら、という押井のすけべ心はわからないではないが、若い女性の義体からよりにもよって家弓家正の声が飛び出すというサプライズを超えるものでは決してなかった。しかも今回の榊原良子のヴォイス・アクトはあまりにも力み過ぎていて興醒めだ。他の声優陣にしても、13年の時を経て新たに演じなおす必要があったのか疑問である。

 13年前の『攻殻機動隊』は、アニメがアナログからデジタルへとシフトする過渡期の作品だと言われているが、その記念碑が建てられた場所はデジタル・アニメのフィールドではない。あくまでもセル・アニメ側である。伝統的なセル・アニメが持つ揺らぎ・豊饒さ・雄弁さ・生命感が作り出したものだからこそ、「人間とはなにか」という巨大な命題へと大胆に踏み込むことが可能だったのだ。その意味では『攻殻機動隊』と『イノセンス』は全く別物と言わざるを得ない。

 昨年『ブレードランナー ファイナル・カット』が公開された際、押井守はあの映画について珍しく多くを語った。『ファイナル・カット』は、最小限の手直しと映像のブラッシュアップ、音響のヴァージョン・アップのみによって、25年前の作品が全く古びていないことを証明して見せた。このことが今回、押井の背中を押したであろうことは確実だが、しかし彼はリドリー・スコットから何も学んでなかったことになる。押井がやったことは、新作公開前に旧作をいたずらにいじって「当時劇場で見られなかった若いファンに見て欲しい」などと大義名分をでっち上げ、金儲けに走ったジョージ・ルーカスと同じことである、と言わざるを得ない。そんなつもりはなかったのだろうが、結果的にそういうことだ。

 ついでに言えば、押井守は映画を映画館で見ることは無い、と以前インタビューで語っていた。ビデオなりDVDなりの映像ソフトを家庭で見てその作品を評価する、ということだ。そんな人間が「映画館で見て欲しい」などとどうして言えるのだろうか。映画を見る、という行為を根本的に見誤っているとしか思えない。

 昔ながらのアニメ手法とデジタル技術をどう使い分け、どう融合させるべきかを模索しているのは押井守だけではない。第一線のクリエイターはみんな向き合っているテーマだ。しかし、『攻殻機動隊』以降の押井作品はどれも「デジタルに使われちゃってる」感が否めない。それは、彼が絵を描かない人間だからではないだろうか。脚本家であり、演出家であるが、アニメーターではない。自分がやりたいことを効果的に表現出来さえすれば、その方法は実写だろうが、アニメだろうが、CGだろうが問題ではない。押井は常にそういう作家だった。
 恐らく押井はそう考えていないのだろうが、手描きアニメとCGの間には大変な開きがある。俳優を使わないフルCG映画は増え続けるかも知れないが、俳優を使った実写作品もまた絶滅することは無い。同様に、手描きのアニメが持つ独特の温かみがCGに取って代わられることはこれからも無いだろう。いや、もしそのような大きなシフトがあったとして、それを成し遂げるのは、アニメーターではないところの押井守ではない、と言っておこう。

 新作『スカイ・クロラ』には期待している。
 だが今回の、せっかく建てた記念碑に自らキズをつけた愚行、日本アニメ史の改竄(カイザン)とも言える蛮行は、押井のこれからにどう影響して行くのだろうか。
 演出家としての押井守のファンである優しい僕はこう言い残してこの話を締めたい。

 『攻殻機動隊2.0』は見なかったことにしよう。