Diary

■2005年7〜8月

05.08.30

■今年はアニバーサリーよ

 『ジョーズ』の「30thアニバーサリー スペシャルDVD-BOX」を買った。VHS、レーザーディスク、通常のDVD、コレクターズエディションDVDと来て今回買った『ジョーズ』のソフト、5本目である。なんたって30周年。めでたいめでたい。特典ディスクの内容が前回のものとほぼ同じだろうがなんだろうが買わずにいられなかった。『ジョーズ』が30周年なら小生の映画生活も30年である。この30年の間に一体何本の映画を見たのか数えようとしたことすらないが、その第1号というだけでも小生にとって『ジョーズ』は特別な作品なのだ。現時点でこの作品の海外版ポスターを所有してないので、コレクションページに文章を書いてはいないがいずれは書かねばと思う。書きたいこともある。なんたって映画の世界に小生を引きずり込んだ張本作なのだから。

 そして小生にとってもう1つアニバーサリーがある。夏にオーディオセットを買ってもらい、ロックの世界にズブズブと埋まり出したのが1980年のこと。今年はロックに目覚めて25周年なのである。ロックとは言っても当時の小生は中学3年生のテクノ少年。79年秋頃に火がついた「YMOブーム」に煽られ放題煽られ、それまでは買ったレコードをカセットテープに録音してもらいラジカセで聴いていたのだが、どうにもこうにもちゃんとしたステレオセットで聴きたくなり親に懇願。1980年7月のある土曜日、学校から帰宅するとヤマハのステレオコンポが小生の部屋に設置されていた。どっしりとしていてピカピカと眩しかったのを憶えている。そして街中にあるレコード店に買いに走ったのがクラフトワークの『人間解体(The Man Machine)』であった。針を落とすと1曲目の「ロボット」が始まる。スピーカーから鳴り響くシンセサイザーの重く生々しいベース音に頭がヘンになりそうなほど興奮し、失禁しそうなほどうれしくなったと記憶している。あの瞬間小生の中で1つ大きなスイッチが入ったのは間違いない。そして迎えた中3の夏休み・・・・当然受験勉強なんかするわけない。ロックと水泳(腎臓の病気で2年間運動を全面的に禁じられていたのがやっと解禁になった)に明け暮れていた1980年の夏休み。
 ちなみに、クラフトワークは当時流行していた「テクノポップ」のパイオニアではあるが、実は彼らは「ロックバンド」である。間違いなくロックの文脈で語られるべきバンドなのだ。だって『人間解体』の帯にある東芝EMIのカテゴリーには、「ロック」と書かれてあったのだから(なんちゃって)。いや、でもこれホント。名曲「ショウルームダミー」のイントロで呟かれる「アイン、ツヴァイ、ドライ、フィア」というカウントはラモーンズへのリスペクトだったらしい。
 と言うわけでクラフトワークのプロモヴィデオ集のDVD(もちろん海賊盤)を購入。ああ、なんという感激だ。動いてるぞ、あの4人が。笑ってるぞ、あの4人が。ロボットの真似してるぞ、あの4人が。TEEに乗ってるぞ、あの4人が。自転車こいでるぞ、あの4人が。ああ〜クラクラした、クラフトワークだけに。御後がよろしいようで・・・・。

 そう言えばムーグ(モーグ)・シンセサイザーの開発者ロバート・モーグ博士が先日天に召されたのだった。博士、ありがとう。


05.08.28 ■また凄い邦画を見てしまった

 3週間に渡る新文芸坐の特集「戦後60年企画第5弾 その時代を検証する」もいよいよ大詰め。仕事が多忙で今回もなかなか思うように足を運べなかったが、無理して行って良かった・・・・またまた凄まじい作品に出会ってしまった。森谷司郎監督作品『首』は今回の特集最大の収穫であった。

『証人の椅子』(1965年)
 夫殺しで服役中の叔母の裁判やり直しを求めて奔走する男を描く、いわゆる「冤罪モノ」。監督は社会派として名高い山本薩夫。手堅い演出はいつも通りとして、主人公にスター俳優ではなく「福田豊土(ふくだとよと)」というおっそろしく地味な俳優を持って来たところにこの作品の面白味がある。小生の世代にとってこの人は「デンターライオン(歯磨き粉)のCMのおじさん」として印象に残っている。顔は知ってるが名前が判らない人、まあそういう人である。小生は今回初めてこの俳優の名前を憶えたのだ。マイ・フェイヴァリット邦画10本のうちに入れるであろう『恋は緑の風の中』(1974年)では、主人公佐藤祐介の父親役を演じていて、母親役の水野久美と軽くベッドシーンなどもサービスしていたものだ。目立たないが味のある俳優だった。NHKで放映していた『シャーロック・ホームズ』では、なんと「ワトソン博士」の吹き替えを担当していたらしい(ホームズの吹き替えはご存知、露口茂ね)。1998年にまだ60代の若さでお亡くなりになっていたよ。何故か父親の友人が亡くなったような錯覚を覚えるな・・・・。

『首』(1968年)
 戦時中のある炭鉱町、1人の鉱夫が警察によって拷問されそれが原因となって死亡する。警察は「脳溢血だ」で押し通し、炭鉱の女将と遺族たちは東京のやり手弁護士に調査を依頼。検察側の権力機構や地元警察に邪魔されながらも真相を追究する弁護士の姿を追う言わば「社会派ドラマ」だが、後半になって急に様相が変わり出す。拷問死を証明するためにどうしても司法解剖のやり直しが必要となるが大っぴらにやるわけにはいかない。知り合いの東大医学部教授に相談したところ、「首があれば事足りる」という返事。この時から主人公である正木弁護士の顔つきや言動が常軌を逸してくる。「首!・・・・・首さえあれば!・・・・・早くしないと腐ってしまう!・・・・・首だ!」と首にとりつかれてしまうのだ。
 教授に紹介された「首斬りのプロ」を伴って汽車で茨城の田舎町に向かう正木弁護士。もうここからはスリルとサスペンスが止まらない。町に到着したところを巡査に目撃されるわ、寺の住職に見つかりそうになるわ、首斬り屋はのんびりしてるわで、正木弁護士はドキドキ・イライラしっぱなし。作業が無事に終わり炭鉱の女将の家で先程までの「行為」などどこ吹く風で水炊き鍋に舌鼓を打つ首斬り屋がなんともブラックな笑いを誘う。一刻も早く東京に戻りたい思いで雪の舞う田舎道を駅までタクシーで飛ばす正木弁護士、のんびりした首斬り屋、心配そうな炭鉱の女将、そしてバケツに入れられた首・・・・するとパンク!マジかよっ!急いでタイヤ交換だ!正木弁護士も手伝うぞ!間に合うか?次の駅ならなんとか!間一髪で東京行きの汽車に乗ったが本当のサスペンスはこれからだ。闇食料の運搬を取り締まるべく警官たちが車内をまわって来る。周囲の乗客たちも異臭を放ち始めた「バケツ」に騒ぎ始める。警官に尋問される正木弁護士。絶体絶命とはこのことだ!「おい、これは何だ!」とバケツを小突く警官。ここで今まで奇怪なほどのんびりしていた首斬り屋が堂々と言い放つ・・・・「この中には首が入ってるんですよ」・・・・おいおいっ、あに言ってっだよっ!正木弁護士慌てて「腐った魚です。肥料にしようと貰って来たんです・・・」と言い繕い間一髪セーフ!汽車はやがて日暮里に着き、「ここで降りた方がうちに近いので」と言う首斬り屋と別れる。そしてついに上野に到着、しかし改札を出た正木弁護士を迎えたのは彼をマークしていた刑事たちだった!ああっ、もはやここまでか!「荷物はこれだけですか?」と言う刑事。正木弁護士は黒カバンを1つを手に持っているだけだ・・・・そう、首の入ったバケツは先に降りた首斬り屋が持って行ったのだった。と言うわけで後半は、息をもつかせぬ緊迫感に正木弁護士の焦りと首斬り屋のブラックなキャラが加わって、ヒッチコックばりに怒涛のサスペンスが繰り広げられるという面白過ぎる展開。解剖された首からはもちろん拷問死という診断結果が得られ、警察の横暴な取調べが明るみに出て事件は一件落着なのだが物語はまだ終わらない。検死後ホルマリン漬けにされた首は東大から慶応大学の標本室に移送・保管されたのち東京大空襲で焼けてしまうという、「首」が辿った運命をも見せ、さらにその後の正木弁護士の活躍にまで言及する。あの「首事件」によって正木弁護士の中で何らかのスイッチが入ってしまったのであろう・・・・ある事件の法廷で「あの傷は斧なんかでつけたもんじゃないっ!包丁でこうして何度も何度もつけたものなんだっ!」と首のレプリカを持ち出し、傍聴席の悲鳴をよそに包丁で斬りまくる正木の鬼気迫る姿があった。
 監督=森谷司郎、脚本=橋本忍、主演=小林圭樹3人の才能が見事に結晶した社会派スリラーの超傑作。しかも怖ろしいことになんとこれ、実話なんだそうだ、ひえ〜っ。このトリオは後に『日本沈没』という名作まで生み出すことになる。最高だ。やっぱやめられまへんわ、日本映画。
 


05.08.23 ■クリス・カニンガムはやっぱり天才

 エイフェックス・ツイン、ビョーク、マドンナなどのプロモ・ヴィデオで有名な映像作家クリス・カニンガムの最新DVD付き作品集『RUBBER JOHNNY(ラバー・ジョニー)』。帰省の折に会った友人が持っていて小生も慌てて購入した。う〜ん、こりゃあ素晴らしいぞぅ。人の神経を逆撫でしたり生理的嫌悪感を煽ったり、という意味ではデイヴィッド・リンチ作品に通ずる視覚性を持った作品と言えるかも知れないが、カニンガムにはリンチの持っていない「饒舌さ」が多分に備わっている。だから、実は最も近いのはデイヴィッド・フィンチャーあたりなんだと思う。それに「コミック感覚」。オウテカやビョークのヴィデオに溢れるSFスピリッツはリドリー・スコットから受け継いだものではなく、大友克洋からのものではないか。SFにせよホラーにせよ、とにかくプロモ・ヴィデオではなく2時間の劇映画というフォーマットでカニンガムの世界を見てみたい。はるか昔、ウィリアム・ギブスンの名作SF『ニューロマンサー』をカニンガムが撮る、などという噂もあったがもうよい。むしろ見る側の五感に挑みかけて来るような危険な作品・・・・フィンチャーの『ファイトクラブ』以上に凄い映画をカニンガムの監督で見たいのだ。一刻も早く。
 とは言っても今回の作品、メインはあくまでDVDではなく本の方だろうな。動画よりも写真の方が断然インパクト強し。最初に見た時、あれらが一体何なのかすぐには判らなかった。カニンガムの仰天SFXは静止画においても最大限に機能する。

■田宮二郎の代表作

『白い巨塔』(1966年)
 
小生にとってリアルタイムで知っている田宮二郎と言えば、「クイズタイムショック」の司会者、TV版『白い巨塔』、そして猟銃自殺事件である。木曜夜7時から10チャンネルのクイズショウでクールかつスマートな司会ぶり(「パネルクイズアタック25」の児玉清は田宮のフォロワーだろう)を見せていた二枚目俳優が自殺、しかも足の指で猟銃の引き鉄を引いて死んだという事件は当時かなりショッキングだった記憶がある。その後、『悪名』などをヴィデオで見ては「うん、やはりクールだ」と素晴らしい俳優であったことを再確認したりもしたが、映画版『白い巨塔』を見る機会はなかなか無かった。
 そして田宮二郎の代表作の1つと言われるこの有名な映画を今回初めて見た。まずはいきなりの手術シーンにクラクラした。本物だろ、あれ。これでもう完全にツカミはOK。天才外科医=財前五郎が有名医大の教授の椅子を手に入れるために裏工作の限りを尽くす姿を描くことで、医学界の腐敗した権力構造をあぶり出すというストーリーはご存知のとおり。橋本忍による脚本の賜物なのか、とにかく見せに見せる。財前五郎のピカレスクな魅力がもちろん最大の牽引力だが、彼を取り巻く豪華なキャストによる絶妙なアンサンブルが物語に厚みと深みをもたらしている(そう言えばTV版の方も佐分利信・中村伸郎・太地喜和子などまるで映画のような豪華さだった)。ただ単に豪華なキャストを配しただけの凡庸な戦争大作を続けて見た後だけに、この『白い巨塔』の「本物ぶり」に嬉しくなったのであった。田宮二郎・・・・生きていたらその後どんな俳優人生を送っていただろうか。

■そういや今村昌平ってあんまり好きじゃなかったっけ

『豚と軍艦』(1961年)
 戦後、基地の街横須賀でたくましく生きるヤクザたちの悲喜劇。冒頭、ネオンの輝く歓楽街(ドブ板通りだったか)を移動するカメラが全く古さを感じさせず、主人公のチンピラ=長門裕之とその恋人=吉村実子(芳村真理の実妹だって。そういや似てる)の若々しい存在感もどこかヌーヴェルヴァーグを思わせる。作る側の勢いが画面に溢れ出ていて圧倒された。ラスト、歓楽街のド真ん中で資金源の豚を奪い合うヤクザたち。撃ち合いの挙句、豚の大群が歓楽街を暴走する様がシュール且つ大迫力。そういや昔、家にあった昭和30年代に発刊された美術全集の付録小冊子に、ロマン・ポランスキーの『タンスと2人の男』などとともに何故かこの『豚と軍艦』が、「映画におけるシュルレアリスム」のようなタイトルで紹介されていたのを憶えている。

『にっぽん昆虫記』(1963年)
 大正から昭和、東北あたりの農村出身(セリフの訛りがリアルで何を喋ってるのかよくわからない)の女性がたどる数奇な運命と欲望ギラギラの人間模様を、ブルドーザーのような迫力で描き倒す女一代記。主人公を熱く演じる左幸子の代表作であろうな。瀕死の父親(北村和夫。頭の弱い役でかなりイイ味)に片乳を差し出して「さあ吸え」という場面には度肝を抜かれたよ。労働組合の闘士、米兵のメイド、新興宗教の信者、売春婦、売春組織の元締めと怖ろしいほどに流転する人生。なんだか『浮雲』の高峰秀子が霞むようだ。しかもエロエロなのよ。田舎から出て来た娘にパトロンを取られちゃったりしてさ。怖いわぁ、女って。
 『飢餓海峡』『暖流』『軍旗はためく下に』などの役柄同様、左幸子という人は芯の強いエネルギッシュな女性だったようだ。なんと映画監督の羽仁進と結婚したことがあるんだそうだ(エッセイスト羽仁未央は実娘)。う〜ん、マジで凄い・・・・。

 と言うわけで、なんとなく避けていた今村昌平をちょいと好きになった。
 

■山本薩夫は好きなんだけどね

『不毛地帯』(1976年)
 
昭和史に名高い「ロッキード事件」をモデルにした政財界の内幕モノ。山本薩夫は『華麗なる一族』も『金環蝕』もホント面白かったんだよね。だからこの『不毛地帯』にも期待してたんだけどね、有名な作品だしね。3時間以上ある上映時間の前半がどうにもつらかった。自衛隊へのアメリカ製戦闘機の納入商戦に身を投じる主人公=仲代達矢はまあいいんだけど、この男のシベリア抑留時代のエピソードがイマイチ乗れなくて、だから共感も出来ないし牽引力も弱い。今は航空自衛隊のお偉いさんになってるかつての戦友=丹波哲郎を陰謀の渦中に巻き込み、主人公が苦悩する後半になってようやく話は面白くなって来る。暗躍する政界の大物=大滝秀治や防衛庁の悪役=小沢栄太郎、主人公の妻=八千草薫、主人公を取り調べる刑事=高橋悦史など名優たちによるエモーショナルな場面も推進力になってる。ん?すると悪いのは仲代達矢なのか?もしかしてそうなのかも知れないな。

■一番面白かったのは風刺ネタじゃなかった

『チーム★アメリカ/ワールドポリス』
 冒頭からいきなりフランス人をコケにしまくりだし、北の将軍様やハリウッドセレブなど笑いの標的はいろいろあるんだけど、一番笑えたのは「自虐的な」ネタ。人形だからってボカシも無く激しいセックスをしまくる。戦没者の墓石にもたれる場面では墓石よりも小さいし、バイクで走る場面では撮影しているカメラにぶつかって転ぶ始末。北の将軍様が飼っている凶暴な黒ヒョウは単なる本物の黒ネコ。「だってさー、こいつら人形じゃん、結局。ちいせーんだからあれでいーんだよ」と言わんばかりの、「スーパー・マリオネーション」というフォーマットそのものをバカにしたネタがとにかく爆笑だった。しかしマット・デイモンの扱い、向こうではあんななのか?
 


05.08.13

■かっこいい男たち

『亡国のイージス』
 小生は(恐らく)運の良いことにこの作品の原作を読んでいない。予告編を見て薄々どんな内容の作品であるかが想像ついていた程度だ。そしてそれはほぼ予想通りであった。1993年の押井守監督作品『機動警察パトレイバー2 the movie』という超ド級傑作をあまりにも彷彿とさせる内容。東京(湾)を舞台に演出された「戦争」、「戦争と偽りの平和」に関する考察、自分の教え子を失った上官の決起といった要素から、「いつになったら貴様らはこれが戦争だということを理解するんだ!」 というセリフの類似、果ては航空自衛隊の戦闘機映像の酷似まで、この作品には『パト2』の影が色濃く落ちている。細かい類似点については「その筋」の方々が詳しい分析をネットで展開しているはずなので小生はいちいち言及しないが、概ね『亡国のイージス』を誉めるよりも『パト2』の傑作ぶりを再確認するという着地だろう。
 しかし、サスペンスの盛り上げとスペクタクル場面のスケール感(なにせあちらはアニメだから)では敵わないものの、『亡国のイージス』には(実写)映画ならではの見せ場がふんだんにある。そのほとんどは俳優たちの「顔」だ。久し振りに正統派アクションに戻って来た真田広之、阪本順治作品『KT』で素晴らしい演技を見せた佐藤浩市、いつも胡散臭い役を能面のような顔で演じる岸辺一徳、内省的なオッサン役をやらせたら今はこの人寺尾聰、怪作『マークスの山』での合田刑事役が忘れ難い中井貴一、『ブラザーフッド』でのウォンビンをちょいと思い出させる安藤政信、不良中年と言われたこの人もついに総理大臣を演じるようになったか・・・・という原田芳雄、ああいう嫌なオヤジが超リアルな平泉成、金子國義の描く絵にそっくりの勝地涼などなど、どいつもこいつもが「イイ顔」を見せるのだ。イージス艦にミサイルをぶち込む為に三沢基地を発進する戦闘機のパイロットとして、終始苦みばしった顔を見せるチョイ役真木蔵人までが凄まじくかっこいい(もうホントにうっとりしたよ、あのワイルドなマスクに)。だから、あのあまりにも「イイ顔」を見せる男たちの裏側にはそれぞれきっと悲喜こもごものドラマがあるのだろうと思わせる。セリフの端々にもそれが見て取れる。計画を阻止しようとDAISが送り込んだ勝地涼と北朝鮮の工作員として育てられた少女の、格闘の最中唐突に現れるキスシーンも、普通なら「はあ?」だが、それぞれのバックボーンとささやかな伏線を考えれば察しがつく。つまり、この映画は近頃珍しいほど観客に想像力や映画を見る力を要求する作品なのだ(思えば『パト2』もそうだった)。
 だがそれにしても、艦内でのアクション場面や国の中枢との息詰まる交渉などを通してもっと男たちのドラマを熱く出来たのではないか。何もジョン・ウー作品や韓国映画のように熱くなれとは言わない。1970年の三島由紀夫自決事件で決起し損ねた憂国の士が、自身の中での「戦争」を成し遂げるために金大中誘拐事件へと加担する『KT』で、国境も地位も職業も異なる男たちが謀略の渦の中で暗躍し、もがく姿をクールに、時に熱く描き切った阪本演出をこの『亡国のイージス』にも期待したのだ。結果、原作ファンにも阪本ファンにもカタルシスが与えられない、という出来に残念ながらなってしまったが。
 それでもこの作品は素晴らしい。庵野秀明が絵コンテで参加した特殊効果シーンはかなりの出来栄えであるし、ハッとするほど美しい絵を見せてもくれる。やはり「この手」の作品をこれほどのクオリティで見ることが出来るようになった日本映画界に明るさが見えて来たと言えよう。阪本順治という人選も間違っているとは思えない。彼だからこそ、俳優たちの「イイ顔」をあれだけ見せてくれたわけだし、何よりも阪本がこのようなビッグ・バジェットの超大作を手がけるまでに成長したことに感慨を覚えずにはおれない。長大な原作と阪本順治の作家性と一般的なエンターテインメントとの最大公約数を計算し間違えたのか、アクションとドラマのバランスがどうにも悪くなってしまった感は否めない。しかし、いかにも不器用なこの作品の放つ何とも言えぬ味わいは忘れ難い。原作者福井晴敏がリスペクトしているであろう『日本沈没』『新幹線大爆破』『東京湾炎上』『皇帝のいない八月』といった70年代のいわゆる「底抜け超大作」(by 洋泉社)は、そもそもこのような味わいを持つ作品ではなかったか。
 『亡国のイージス』は決してジェリー・ブラッカイマーが作るような判り易い映画ではない。『シュリ』や『JSA』などと肩を並べようとするものでもない。今の日本だけが作り得る、良くも悪くもそういう作品なのだ。

■「良いリーダー」と「悪いリーダー」

 新文芸坐の特集上映、朝から大変な入りだ。しかも年寄りばかり。平均年齢60歳以上だな、間違いなく。戦争映画だから仕方ないか。しかし、どんな気分で見るんだろうな。

『激動の昭和史 軍閥』(1970年)
 日本を滅亡一歩手前まで導いた東条英機の独裁ぶりと陸軍・海軍の確執、言論統制による新聞社の苦悩などを描く一大絵巻。東宝が誇る演技陣の総力を結集して見せるが、岡本喜八作品『日本のいちばん長い日』と較べるとどうにも凡庸な出来だ。群像劇と言えばまあそうだが、キャラに魅力が乏しいから物語の推進力も弱い。小林圭樹は人のいい小市民的な役柄が多かったが、ここで演じる東条へのマッドなアプローチが後のハマリ役=『日本沈没』の田所博士へと繋がると言えなくもない。同じ「激動の昭和史」シリーズの『沖縄決戦』にあった「あ、これ予算無かったんだな」という印象がこの作品にも漂う。見ていてちょっと情けない。『怪奇大作戦』の2人、原保美と岸田森の姿が拝めたのが拾い物か。

『連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年)
 『軍閥』と言いこれと言い、海軍=和平交渉を進言したカッコイイ正義の味方、陸軍=戦争好きで野暮ったくて血の気の多い悪者、という図式はいかがなものか。冒頭、帰郷した際の花見舟の船頭との無邪気な交流に始まり、陸軍の連中を待たせておいて面会に来た若造のほうと歓談したり、艦内で将棋やトランプをしたり、若い兵隊たちに親しげに声をかけたり、負傷兵を見舞ったり、そして最期は最前線で苦闘している兵士たちを自ら励ますために乗った機が途中で撃墜される、というまさに「理想の上司」としての山本五十六を「演技が2種類しか無い男」三船敏郎がいつもどおりに演じる。対して陸軍の面々はことあるごとに海軍にたて突いたり暴力的だったり頭悪かったり散々な描かれ様だ。これ・・・・本当かぁ?まあ、「事実にフィクションを加えて」みたいな断り書きは冒頭に出るけどさ。
 こちらも東宝の演技陣大挙出演の凄い顔ぶれだ。黒澤作品に喜八作品に若大将・・・・しかし『軍閥』と併せて見たからキャストの重複が半端じゃなく、激しく混乱したばかりかもうお腹がいっぱいだったよ。円谷英二による真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦のミニチュア特撮場面は、CG全盛の今見るとほのぼのして見えるだけではなく、あっと驚く絵を見せてくれて楽しませてはくれたものの、先に見た『軍閥』とかぶりまくり。つまり『軍閥』の特撮場面はほぼ全てが『山本五十六』からの流用であったのだ。おまけに冒頭に出て来る地球(の模型)は『日本のいちばん長い日』で使用したものだろっ。なんだか複雑な気分だ・・・・。
 大好きな佐藤勝の音楽が聴けることもあって、当然『山本五十六』の方がまだ面白く見れたのだが、やはりあまり楽しんだ気はしない。良いリーダー?悪いリーダー?そんな簡単なもんじゃねーだろ、戦争なんだからよ。



 日航機墜落事故から20年も経ったのか・・・・あの日は「つくば博」に遊びに行って、帰りのカーラジオでニュースを聞いたのだったっけ。夕立でバケツをひっくり返したような雨の中だった。


05.08.10

■真夏のカニバル

 新文芸坐の特集「その時代を検証する」、今日の2本立ては、ずばり「カニバリズム」。

『野火』(1959年)
 このタイトル、なんで知ってるのかなあと思ってたら大岡昇平の有名な小説であった。敗戦目前のフィリピン戦線、肺病と疲労と飢えに苛まれながら彷徨う兵隊(激痩せ船越英二。最初誰だか判らなかった)の地獄の日々。ミッキー・カーチスが岡本喜八作品の時のように飄々とした良い味を出しているが、彼は「猿の肉」と称した人肉を喰わせる悪魔だ。人肉を喰って彼岸に渡ることなく、現地の農民がトウモロコシの葉を焼く野火に人間としての尊厳を見出し、銃殺されると判っていながらも歩み寄って行く主人公。なんとも暗く救われないストーリーだが、ま・・・・仕方ない・・・・ね。市川崑がこんなに重い作品を撮ってたとは。

『軍旗はためく下に』(1972年)
 昨年8月の同劇場における「戦争映画特集」で初めて見て衝撃を味わったこの作品。今回もまた圧倒されてしまった。ニューギニア戦線に赴いた夫が戦地で死刑に処されたことに現在も納得いかない妻。夫が軍曹を務めた部隊のことを知る生存者たちを訪ね歩き、ことの真相を追究するが・・・・。浜辺で浴衣姿のまま泣きわめき波にさらわれんばかりの熱演まで見せる左幸子が、お得意の常軌を逸したひたむきさで生存者たちに食い下がり証言を引き出していく姿に、もうあの名作『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三を重ねないわけにはいかない。敵前逃亡罪で処刑されたと聞かされていた夫に関する証言は生存者によって食い違う・・・・「英雄」「イモ泥棒」「人肉食事件の首謀者」「上官殺し」・・・・一体どれが本当の夫の姿なのか。記録写真を上手く使いながらテンポの良い語り口でもって謎を究明する妻の姿を追い、戦後社会の歪みまでをも浮き彫りにする「社会派」調の演出プラス、カラーとモノクロを巧みに使い分け、深作欣二お得意の手持ちカメラによるアグレッシブかつスプラッターな映像が炸裂する戦地の再現ドラマ部分という「合わせワザ」が抜群だ。証言によって演じ分けることで観客をミスリードする夫=軍曹を演じる丹波哲郎も素晴らしい。後の『砂の器』『日本沈没』などに見られる神がかり的な「丹波節」ではなく、野性味溢れるクールな2枚目としての丹波を堪能出来る。
 再現ドラマのラスト、地獄の戦線においてあくまでも人間性を失わず、浜辺で理不尽に銃殺される瞬間の「天皇陛下っ!」という丹波哲郎の慟哭。直後、西新宿の歩道橋で佇む左幸子の映像にかぶさるのは、ディストーションを効かせ崩しに崩したノイズのような「君が代」のメロディだ。「父ちゃん、やっぱり天皇陛下に菊の花をあげてもらうわけにはいかねぇ」という左幸子のモノローグと併せて、これ以上無いと言うほどの反戦メッセージが叩きつけられる。これは正真正銘の傑作だ。そして、現代音楽作曲家=林光による不協和音を混ぜ込んだ叙情的なスコアがいつにも増して印象深かったことも付け加えておく。


05.08.08

■珍獣目撃

 4日の晩、東池袋で食事をした後本屋リブロに立ち寄ろうとしたところ、伊集院光を発見!池袋にたびたび出没するとは知ってはいたが、目撃したのは初めて。サインをもらおうと声をかけたが素気無く断られてしまった。ま、そういうものか。滝本誠、塚本晋也、黒沢清、ビル・ネルソン、山口晃、会田誠、チャップマン・ブラザーズ(の兄の方)などなど、ミーハーな小生は様々な(一応)セレブからサインを頂戴して来たが、そう言えば彼らはみな「こちらサイド」の人であった気がする(勝手ながら)。この件で、伊集院光は「あちらサイド」なのだと気付かされた。彼がやってるラジオの深夜番組が好きでもう7年くらいは聴いてるだろうか。ちょっと寂しい思いをしたが、不思議と彼を恨む気にはならなかった。だって「げーのーじん」だもんなあ。それよりも「珍獣」を見たという印象の方が強く強く残ったね。


■朝まで生(ナマ)江本創

 と言うわけで、今度は「珍獣」ではなく「幻獣」。5日、江本創氏の新作展を見に阿佐ヶ谷のギャラリー「香染美術」へ。昨年秋の同ギャラリーでの展示『幻の獣たち』が彼の作品世界の「ダークサイド」の集大成であったのに対し、今回は「ライトサイド」の集大成と言えるだろう。ダジャレとも言えるタイトルセンスが楽しいが、作品のクオリティは相変わらず素晴らしい。出色は「ナギサマナコ」という大きな眼を持つエイのミイラ。干物なので当然眼は無いが、体に対して大きな眼窩が先端にあり不気味とも可愛いとも言える。本物のエイ類がそうであるようにこの魚の面白いのはむしろエラや口のある裏側であり、江本氏も当然2体作成しそれぞれ裏表にして1つのケースに入れている。もう1点、新たな試みと言える「食虫植物」もかなり面白い出来だった。歯の生えたホウズキみたいな植物。枯れた感じも上手い。阿佐ヶ谷は七夕祭りの最中とあって、家族連れが多く訪れていたのが珍しい光景だった。
 その後、新宿へ移動し江本氏と呑む。随分と久し振りなので積もる話が止め処なく溢れる。これからの作品展開(来年、銀座の青木画廊で予定している新作展は「幻獣」ではないと聞いた。ナイショ)の話から始まったものの、どんどん予想外の方へ。「実相寺昭雄」→「岸田森」→「岡本喜八の『ブルークリスマス』」→「平井和正の『死霊狩り』」→『デビルマン』→『銀河鉄道999 劇場版』→『ルパン三世 劇場版 ルパン対クローン』→「押井守」・・・・・いつになく熱い調子で語る江本氏。「ルパン三世と呼べるのはテレビの1stシリーズと『ルパン対クローン』だけっすよ」とか「平井和正の『死霊狩り』も良いけどボク最初に読んだの桑田次郎の『デスハンター』なんすよね」とか「松本零士は水島新二なんです」とか「『銀河鉄道999』はやっぱ劇場版がサイコーですね」などなど、現代美術の作家とは思えぬマニアックな発言が炸裂。小生よりも5歳年下ではあるが、恐ろしく馬が合う。70年代までの特撮モノやマイナーな日本映画、アニメ、漫画など、彼が愛して来たものは「昭和」の産物だ。だから彼の作品世界にはそんな匂いがプンプンする。60〜70年代の「円谷プロ」の怪獣作家が持っていたであろうスピリットが、彼の中には宿っている。結局話が収まらず、終電直前になって我が家へ移動。DVDを見ながら朝まであーでもないこーでもないと語り明かしたのであった。
 思えば彼との付き合いはもう5年以上になる。友人の鈴木康弘が母校のあるつくば市で個展を開くというので手伝いに行った際、「小さなカエルの化け物のミイラ」を持って現れたのが鈴木の後輩の江本氏だった。そのミイラを手に乗せた途端に一目惚れ。その翌年、最初の個展「幻獣採集」で、つがいとなってケースに入れられ「Mr. and Mrs. Frog」というタイトルで展示されていたものを迷わず購入。そこから我々の付き合いが始まったのだった。彼にはもっともっとBigになって欲しいものだ。だってあの作品で喰ってるんだから。


■戦時中の戦争映画だぜ

 7日は、新文芸坐で始まった「戦後60年企画 その時代を検証する」の2日目。『加藤隼戦闘隊』(1944年)と『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)を見る。戦争中に作った戦争映画って・・・・なんだかなあ。スタッフやキャストのクレジットが一切流れないのは「プロパガンダ映画」にそんなもの必要ないと目されたからなのか。前者は製作が東宝と「陸軍省」だよ、なんと。戦後作られた映画が戦争を地獄として描いたのに対し、この2作品ではなんとも楽しそうだ。訓練中の殴る・蹴るは一切無いし(出て来る上官はみんな明るく優しい人ばかり)、食事も豪華だ。少年兵たちの顔はどれも悩みやホームシックなどとは無縁でひたすら朴訥で快活で勇ましい。こんな連中のじゃれ合い(おっと失礼)を延々と見せられなんとも退屈で、途中何度も睡魔がやって来たが、爆撃シーンの特撮はなかなか素晴らしかった。あの重量感は相当大きいミニチュアおよびセットで撮影したのではないか。黒澤作品に影響を受けて1977年に『スターウォーズ』を作ったジョージ・ルーカスだが、『ハワイ・マレー沖海戦』の真珠湾攻撃シーンも参考にしたような記事が当時あったと記憶している。それにしてもこの時の原節子、一体何歳だったんだろう・・・・18歳くらいだろうか・・・・顔、全然変わんないんだけど・・・・やっぱ怪獣か。


05.08.04

■宇宙一のセレブ

 購入してあったDVD『銀河鉄道999 劇場版』(1979年)を見る。あー、もう本当に良いなあ。作画がとにかく丁寧だし透過光を多用した効果はブリリアントだ。あの長大な話を2時間の枠に無理矢理入れたせいで「旅情」には乏しいが、その分劇場版ならではの派手な見せ場がてんこ盛りだ。その前年に公開され大ヒットした『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が、今見ると「この程度のものを劇場で金払って見てたのか!?」と言いたくなるほどダメダメな出来であったのに対し、監督がりん・たろうであるせいもあってか、とにかく「志し」が違うこの『銀河鉄道999』は、26年を経た今でも色褪せない作品である。松本零士が作り出した永遠の美女「メーテル」の「宇宙一のセレブっぷり」(キャプテン・ハーロックやエメラルダスはなんと知り合い)に苦笑しつつもやはり萌え〜が止まらない。今となっては彼女の設定年齢をはるかに超えてしまった小生だが、もうね、永遠の「おねえさんキャラ」ね。ラスト、鉄郎とのキスシーンに完全にシンクロ。城達矢(「ジェットストリーム」ね)のナレーションに続いて流れるゴダイゴの大ヒットテーマ曲は何度聴いても素敵だ。偶然にも今日は8月4日。そう、1979年8月4日の公開初日に小生はこの映画を見たのであった。


05.08.02

■どうなんだ『姑獲鳥の夏』

 このところ、高校時代からの友人「ちゃおべん」と映画『姑獲鳥の夏』についてかなり有意義な意見交換をメールでやってきました。メールで終わらせてはちょっと惜しいのでここで公開いたします。なお、改行などはほぼ原文のままです。
 「ちゃおべん」は当HPの「Connection」にあるように中国語、中国文化に精通する言わば「中国オタク」で、尚且つ、水木しげるのマンガをこよなく愛する「妖怪好き」でもあります。京極夏彦著『姑獲鳥の夏』に関しては、小生が件のシリーズを夢中になって読み漁っていた1997年頃、ちゃおべんにも読むことを薦めた経緯があります。


<ちゃおべん>

『姑獲鳥の夏』を見たぞ。なかなか面白かった。『チゴイネルワイゼン』風(筆者注 鈴木清順作品『ツィゴイネルワイゼン』)のけだるさと1960年代を感じさせながら、あちこちに現代を感じさせられる時代感のなさ・異空間性(あるいは50年代を知らないだけなのかもしれないが)といい、楽しめた。原作を読んでいる人間としては、同時に映画の限界と可能性も感じられた。(すべてを言い尽くさない美を尊んだ日本の美を「映画」はある意味突き崩すね。僕はそれにやはり抵抗を感じる)。あの撮影は雑司ヶ谷霊園かね? 鬼子母堂はそうだったけど。あの坂と塀の感じね、実は中国を感じながら見てしまった。
で、これ原作を見ていない人はわかったのかな、とちょっと思って周りを見てみたけど、「わからない」といっている声があっちこっちから聞こえたな。原作読んでない自分がいても見ることができたのかな? ちょっと知りたいな。
この映画、もう一回見るかもしれない。


<とおる>
『姑獲鳥の夏』見たよ。感想はHPで見てね。(下記7.29の日記を参照)

<ちゃおべん>

酷評だね。別にかまわんが。期待しすぎなんじゃないかな? オレはまったく期待していなかったからかなり面白かったけど。あと、評を読むかぎり、原作に引っ張られているのはむしろ映画を作った側より観る側じゃないのかな。オレは原作に対する思い入れがほとんどないので、途中から原作は「理解ガイド」としてしか機能していなかった。純粋に映画としてみるだけなら「言葉が過剰」だと思うんで。でも映画を観るかぎり「言葉の過剰」がテーマの大きな一つなんだからしょうがないんじゃないの。オレは記号論の映画として観てた。
姑獲鳥の特撮はちっとうんざりしたけどね。
たぶんこの映画は原作が好きな人はかなりの抵抗があると思うんよ。(とくにこの作品は原作につかず離れずだし。)それが映画の限界で(まあ可能性でも)あるんじゃないの。(いまさらいうまでもないか)

<とおる>
愛ある酷評だよ。とにかく顔ぶれが良いだけに惜しかったからね。
あそこに書いたいくつかの「お約束」を守ってさえくれればどういう風に
映画化してもよかったんだよね。京極堂を最初の1時間出さなくてもいい。
登場人物の数を削ってもいいし。おれは大方原作サイドからしか物を言うことが
出来ないけど、冷静に考えても1本の映画として出来が悪いと思うよ。
実相寺昭雄が88年に撮った『帝都物語』は当時各方面から酷評されたけど
原作ヌキに1つの作品として面白い仕上がりだったんだ。あれを期待したんだよね、今回。
実は「実相寺のファン」というサイドからも見てるからね。
「言葉」ね。実は言葉をある程度斬って捨てる必要があったんじゃないかと思うよ。
それはあの小説の要なんだろうけど、映画には必要ないんだ。やっぱり
『エクソシスト』プラス『犬神家の一族』みたいに作れば良かったわけよ。
原作のヘヴィーなファンはそれこそ怒るかも知れないけどね。

<ちゃおべん>
よくわからんのだが、どうも作品を酷評するのはお門違いで、「違う作品を見
たかった」ってことのように感じるんだけど。これってあれか、以前にあった、
この映画はこの映画でもいいけど、わざわざ「レッドシャドー(赤影)」なん
て名前をつけるな、って感覚に似ているのかな?
やっぱり映画の見方は人によってずいぶん違うんだなぁ、とちょっと一興。

<とおる>
いや、あくまでも『姑獲鳥の夏』を見たかったんだよ。

つまりさ、20ヶ月も妊娠してる女がいて、同時に娘婿が失踪していて
さらに連続赤ん坊失踪事件が起きつつ、その女の家が産婦人科医院で陰惨な過去
があって・・・・という物語のアウトラインをちゃんと順序だてて追えば良かったのよ。
そのほうが判りやすいじゃん。警察の捜査のサイドラインとして「実は姑獲鳥という妖怪が
いてさ」という知識が関口くんの頭の中で肥大していって、学生時代の記憶も呼び覚ましつつ
事件がどんどん奇怪な様相を呈して来て、「もうあかん」と思った時に京極堂が助けるのよ。
あの長大な話は2時間じゃ収まらないと言う輩が多いけど、実はそうじゃないんだ。
うまくエッセンスを抽出して再構成して整然と並べれば、ちゃんと判りやすく2時間の
映画になるんだよ。脚本家も含め頭悪いんだよ、みんな。

ただね、原作を裏切りつつも面白い映画って結構あるんだよ。それは原作を読み間違って
作品のコンセプトがあらぬ方向に突っ走って、結果全然違う話になってはいるが
その転び方が尋常ではないため返って妙な迫力と面白味が生まれる、って感じなんだ。
そういう「怪作」にすらなれなかったんだよ、『姑獲鳥の夏』は。「なんじゃこりゃあ、
原作と全然違うじゃん、でもこれはこれで面白いな」という仕上がりになってれば
まだ救われたんだ。

<ちゃおべん>
うーんとね、言ってることはわかっているつもりなんだけど、

>物語のアウトラインをちゃんと順序だてて追えば良かった
>うまくエッセンスを抽出して再構成して整然と並べれば、

とかさ、結局はじめから映画のイメージを作ってると感じられるわけ。確かに「いい意味での裏切り」に会うことがなかったとしてもさ、なんかいつもの小野里評っぽくなく感じるんだけど。「ダメ」とか「いい」とか以前に自分のイメージが存在している評のように感じられる。

> ただね、原作を裏切りつつも面白い映画って結構あるんだよ。
これはわかるよ。むしろ原作が面白い場合は、こうしないと呪縛されてダメだ。
(『姑獲鳥の夏』は小生の中で原作評価があまり高くないから

<とおる>
>なんかいつもの小野里評っぽくなく感じるんだけど。「ダメ」とか「いい」とか以前に自分のイメージが存在している評のように感じられる。

いつものおれらしくないか・・・それは多分に「原作ファンであること」と
「実相寺昭雄監督で映画化が決まった時からの期待」のせいだろうな。
あそこ(HP)で書いたことが他の映画に対する評と違うのは
『姑獲鳥』を独立した映画として見てないからなんだね。
それは認める。ただ一般的にあまりにも「わかんない」という声が多いのはやはり
ミステリ映画として出来が悪いからであるはずなんだ。
判らなくても面白い映画ってのも存在するわけだけど、『姑獲鳥』に関しては
そうじゃないね。

> > ただね、原作を裏切りつつも面白い映画って結構あるんだよ。
> これはわかるよ。むしろ原作が面白い場合は、こうしないと呪縛されてダメだ。
> (『姑獲鳥の夏』は小生の中で原作評価があまり高くないから)

あー、なんかさ、ちゃおべんはたまたま幸せな観客になれたんだと思うよ。
圧倒的少数派だろうな。おれが酷評するということよりもちゃおべんがそれだけ
誉めて擁護することのほうが珍しいし面白いよ。

<ちゃおべん>
> ただ一般的にあまりにも「わかんない」という声が多いのはやはりミステリ映画として出来が悪いからであるはずなんだ。

うん、ここんところなんだな、「ミステリ映画」という範疇におくべきなのかどうなのかは別にして(小生は「言葉が見せる現実世界」をテーマにした映画:ジャンルはわからん、と見たんで)、「わかんない=だからつまらない」だろうな、やっぱり。そこはね、よくないんだろうね。だけど何年か後に、あの世界観が浸透すれば当たり前のように見れるかもよ。


 『姑獲鳥の夏』をご覧になった皆様、いかがでしょうか?当HP内の「Forum」にご意見・ご感想をお寄せ下さい。


05.07.31  新宿はお祭りやっててすんごい混雑だった。蒸し暑かったし。
 新宿ミラノ座で見た『アイランド』の前に流れた予告編。テリー・ギリアムの『ブラザーズ・グリム』の冒険ファンタジーっぷりに驚く。なんだよ、伝記映画じゃないのかよ。ま、面白ければそれでいいけど。あと、ニコール・キッドマン主演の『奥さまは魔女』、テーマ曲が松田聖子ってどーゆーこと?一気に見る気が失せたんだが。『ハリー・ポッター』の新作もなあ・・・もうあいつらを許してやれって。もうオッサン、オバハンじゃん(とは言いつつもこのシリーズ一切見たことないんだけどね)。

『アイランド』
 『THX 1138』『ソイレントグリーン』『赤ちゃんよ永遠に』『ウェストワールド』『2300年未来への旅』などなど、『スターウォーズ』登場以前の70年代に作られた暗い未来像を描いた作品群へのオマージュばかりか、クローンたちが横たわった部屋が『コーマ』を、秘密を隠蔽しようと逃亡者を追うヘリコプターが『カプリコン1』を彷彿とさせ、「2019年」という設定は嫌でも『ブレードランナー』を想起させるという、全篇に「リスペクト臭」が漂う本作。臓器を取られる前に逃亡したクローンの男女が会社の秘密を暴露しようと活躍する・・・・どうにも新鮮味の薄いストーリーではあるが、怒涛のアクションとスピード感ある展開で最後まで見せきってしまうのはあっぱれ。しかも見ているうちに「クローン産業」がリアルに感じられ戦慄を覚える。都市の未来絵図もこのところ作られたSF映画の中ではかなり良い出来。『ブレードランナー』と張り合おうとするマイケル・ベイの意気込みを感じさせる。クローンが創造主のところへ行ったり、人工物としてのアイデンティティの問題にまで踏み込もうとするなど、やはり同映画の亡霊がとりついていると思えるが、リドリー・スコットのようにディテールに凝らない『アイランド』はやはり前述の70年代アンチユートピアSFの世界へと着地するのであった。ラストは思いっ切り『THX 1138』だしね。
 見どころはスカーレット・ヨハンソンの面白い顔と汚い叫び声、久し振りのスティーヴ・ブシェーミ、今回は眼鏡っ子のショーン・ビーンくらいだろうとタカをくくっていたが、蓋を開ければなんと、ツッ込む余裕も無く夢中になって見てしまった。SF映画としてかなり良い出来だと思う。『マイノリティ・リポート』なんぞより断然面白かった。


05.07.29  あ〜暑い暑い。

『魁!!クロマティ高校 THE☆MOVIE』
 アニメ版のファンとしては大満足な出来。神山高志役の須賀なんとか君がもう瓜二つでサイコー。他のキャストはそれなりに工夫して「映画色」を出してはいるが、ちゃんとクロ高のキャラになってる。渡辺裕之の「フレディ」が出色。全篇爆笑の「映画風マンガ」。

『姑獲鳥の夏』
 実相寺昭雄持ち前のエキセントリックな演出に今ひとつ冴えが無いが、この作品を失敗に導いたのは間違いなく脚本だ。そのまんま映像化することなど到底ムリな小説なのだから、思い切った読み替えや再構築が必要なのは明白だったのに。冒頭延々と続く京極堂による関口への講義はこの話にとって重要な内容かも知れないが、映画には全く不要だった。ベラベラと喋りまくる京極堂はみるみるカリスマ性を失い、例の決めゼリフ「この世には不思議なことなど・・・」には全くありがたみが無い。思い切って『エクソシスト』のようにするべきだったろう。前半で考古学者だったメリン神父がクライマックスで悪魔祓い師に変身したように、「憑き物落とし」の時まで京極堂の存在を安売りせずに関口・榎木津・木場たちだけで怪事件の捜査を引っ張れたはずだ。それにフラッシュバックをムダに多用したせいもあって展開に一本筋が見えず、とにかく判りにくく着いていけない。着いていけないから謎が謎として機能せずストーリーに推進力が無い。もうこれはミステリとして致命傷。おまけに「昭和27年の東京」が一向に見えて来ない。捜査上で出会う人々と彼らが住む土地土地を描くことがミステリにとって重要ではないのか。久遠寺医院の美術に予算を割くのも結構だが、昭和27年の神保町や池袋界隈の風俗を、CGを使ってでも描くことは考えなかったのか。原作を知らない観客があれだけの描写のみで、古書店京極堂のある眩暈坂が中野であることを果たして実感出来たのか。さらに、興醒めなのは妖怪「姑獲鳥(うぶめ)」そのものを映像化しちゃったこと。ここは鳥山石燕の絵だけで観客の想像力をかき立てるのが当然だろう。そして、この映画最大の失敗・・・・クライマックスで雨を降らせなかったのは何故だ。陳腐な特殊造形の姑獲鳥などを再三登場させて混乱させただけでなく、赤ん坊を抱いてずぶ濡れになった涼子が石燕画の姑獲鳥と重なる最も悲しく美しい瞬間を描けなかったこの映画の罪は大き過ぎる。
 抜群のキャスティング(阿部寛、宮迫博之がサイコー)、池辺晋一郎によるムーディな音楽が素晴らしいだけになんとも残念に思う。果たして『魍魎の匣』映画化はあるのか?今度は「話が話だけに」ぜひとも塚本晋也でお願いしたい。ちなみに水木しげるを演じた京極夏彦、演技上手過ぎだろ、あんた。

『成瀬巳喜男 記憶の現場』
 生誕100年を記念して制作されたドキュメンタリー。スタッフ、キャスト(みなさん大変なご高齢だ)による証言も良いが、遺作『乱れ雲』を演出中の成瀬監督を捉えた8ミリ映像が何と言っても貴重。

『パッチギ!』
 直球だ。「ド」が付くほどの直球。凝った絵作りも無い。どんでん返しやヒネリも無い。役者の演技も並だ。あまりにも「かっこつけない」「飾らない」演出。しかしその分恐ろしく手堅く、力強い。クライマックス、「イムジン河」が流れる中3つのエピソードが破綻することなく見事に結実するのは、職人技と映画作りへの確固たる自信が作り出したものだ。流行の「泣ける映画」「癒し系映画」なんかではない。無骨で頑固で愛想が無い、四半世紀に渡るキャリアを持つ「あの」監督が作ったのだからそんなはずはないのだ。しかし「あの素晴らしい愛をもう一度」が流れるエンディング、ついに涙腺を押さえることが出来なくなってしまった。ああ、やられたよ。これほどまでにド直球の青春映画に共鳴する部分がまだ自分の中にあったとは。いや・・・・歳のせいか。あとジュリエット役の沢尻エリカに萌え〜だったのも大きい。思い出したよ、『小さな恋のメロディ』を。ああ・・・・キュンとしたな、キュンと。お、やっぱり歳のせいか。


 神保町でスマトラカレーとやらを食した後、カラオケでシンプル・マインズ、ムーンライダーズ、YMO、尾崎紀世彦、アリスなどを熱唱。今のカラオケって何でもあるね、すごいや。連れの某女史はJAPANの「Quiet Life」なんか歌ってんだもんな。JAPANて・・・・。
 


05.07.26  殺人的な仕事のスケジュールのせいで「名匠・成瀬巳喜男の世界」は結局12本のみ。

『娘・妻・母』 (1960)
 とにかく豪華なキャスティングで押し切る東宝オールスター映画。よりどころであった家を食いつぶす息子・娘たちとそれを静かに見守る年老いた母を通して家族の崩壊を描く大作。原節子(出戻りの長女)と高峰秀子(長男の嫁)の2トップが売りだが、ここでは原節子が完全に抜きん出た。未亡人である彼女が年下の男(仲代達矢)によろめく姿が大迫力。珍しくキスシーンもあり(当然映らないけどね)。キスした後で仲代の後頭部の影から現れる原節子の潤んだ瞳と半開きの唇・・・・ごちそうさまでした・・・・。

『女の歴史』 (1963)
 戦前〜戦中〜戦後を通じ1人の女性がたどる運命を描く作品。主人公の高峰秀子が嫁いだ先の義父が自殺、夫は戦死、立派に成長した息子(若き山崎努が小沢健二にチョイ似)も交通事故死。男を自堕落・無自覚なバカとして描くことで「女性映画の巨匠」という地位を獲得した成瀬だが、この作品ではなんと男を皆殺しである。ラスト、亡き息子が残した子種を得てやっと平穏を勝ち取った主人公=高峰、義母(賀原夏子。「ケンちゃん」シリーズのおばあちゃん役だったなあ)、義娘(星由里子。なんかビッチな感じ)。喧嘩しながらも寄り添って暮らすこの3人が「他人」であることに愕然としたのであった。夫以外の男によろめいたり、姑との確執があったり、戦中・戦後をたくましく健気に乗り切ったり・・・・成瀬作品における高峰秀子のキャラクターを全てミックスしたようなこの映画の主人公。見終わったとき小生は完全に恋していた。ああ、デコちゃん。

 新文芸坐のロビーに『浮雲』(なんだかんだ言って一番インパクトあったのこれだった)のフランス版ポスターがっ!ちょ・・・ちょっと欲しいぞぅ。新文芸坐は「小津安二郎特集」の時も「黒澤明特集」の時も海外版ポスターをロビーに飾ってたんだよね。映画会社から借りたのかスタッフの私物なのか。ちなみに『小早川家の秋』のフランス版ポスターはあそこに飾ってあったのを一目惚れして購入したもの。  


05.07.18  今年劇場で見た映画、本日ついに100本目を迎える。新文芸坐にて上映中の「生誕100年記念 名匠・成瀬巳喜男の世界」。記念すべき100本目の作品は『驟雨』(しゅうう 1956年 東宝)であった。夫=佐野周二、妻=原節子というキャスティングで成瀬が得意とする「倦怠期の夫婦の心模様」が綴られていくが、ラスト、壊れかけた夫婦の間を取り持つのはなんと隣家から飛び込んだ紙風船である。「おじちゃん、風船取ってー」という子供たちをよそに、この夫婦が紙風船を半ば横取りしてバレーに興じる唐突な展開にもう爆笑。それまでの憂さを晴らすかのごとく、ヘナチョコ夫をモーレツな勢いで叱咤する原節子にクラクラ。願わくば「パート2」が見たかったもんだ。もちろんスポ根映画で。同時上映の名作『山の音』では、鼻血を押さえて義父に流し目を送る原節子にヤラれたし、ステキな1日であった。それにしても激混みだったな、新文芸坐。


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