■これっぽっちの背徳かよ (これ問題発言か?)
『ゲルマニウムの夜』
殺人を犯してかつて自分が育った修道院に戻って来た青年が、「神」や「信仰」を試すべく背徳の限りを尽くす物語、なんだそうだ。
教護院の生徒たちに「hand job」や「blow job」をさせながら聖書を朗読する院長の姿から始まり、インターンの修道女と関係を持ちさらに修道女をも強姦する主人公(修道女は懐妊)、理不尽なイジメへのヴァイオレントな復讐、そして自分を兄のように慕ってくる教護院の少年から「blow job」されて光明に至ったのか何かを悟ったかのようなラスト。途中、飼い犬に舐めさせたり飼い犬のモノを舐めたりもする院長や、豚の内臓を揉みしだきながら手淫に耽る教護院生の姿を垣間見せたりもするが・・・・。
背徳・冒涜ってこんなもんなのか?あの程度で宗教を試す?キリスト教ってそんなにヤワじゃないだろう。首をかしげるばかりだったよ。花村萬月の小説は『セラフィムの夜』しか読んだ事ないが、あれもなんだか中途半端な二流小説だった。
見ていて最もインパクトがあったのは交尾中の雄豚のペニスをでかい植木バサミでチョン切るシーン。あれは怖ろしい・・・・。思わず顔が歪んだよ。あと、早良めぐみという新人女優が物凄くビューチフル。他は特に感想なし。
でも主演の新井浩文は良い俳優だなあ。『血と骨』でもビートたけしを食ってたっけ。ああいう人は貴重だ。
■ホワイト・ラビット
『秘密のかけら』
クローネンバーグの作品は見るくせに、もう1人の有名なカナダ人監督アトム・エゴヤンの作品を実は1本も見てなかったりする。50年代ハリウッドのコメディ・デュオの犯罪モノ、しかも滝本誠師がパンフに寄稿してるということなので見に行ってみた。
アリソン・ローマン(『ビッグ・フィッシュ』で母親の若い頃やってた子)を含む女優陣の脱ぎっぷりの良さがこの作品を支えている。エロティックなムードと殺人。ヒッチコックもデ・パルマもエロに手を抜かなかった。
ケヴィン・ベーコンもコリン・ファースも素晴らしく巧いが、この作品の白眉は劇後半に登場する「不思議の国のアリス」のミュージカルシーン。なんとも淫蕩な顔立ちのアリスが歌っているのはジェファーソン・エアプレーンの「ホワイト・ラビット」。すかさず『ブルー・ベルベット』で「おかまのベン」がロイ・オービソンの「イン・ドリームズ」を”聞かせる”場面を思い出した。その後場所を移して行なわれるこのアリスとアリソン・ローマンのからみのアシッドな演出も含め(そりゃそうだよ、”ホワイト・ラビット”だもの)、デイヴィッド・リンチの影がチラチラ。アリスを演じた女優が『ツイン・ピークス』のローラ・パーマー似だったせいもあるな。小生はあの手の美人に弱い。
それにしても驚いたのは原作者の名前を見た時に「そういやルパート・ホームズってソング・ライターがいたっけ。同姓同名か?」と思ってたら、なんと本人であった。多才ですなあ。
しかしまあこの映画、どういうわけか観客の年齢層が高かった。あんなにエロで大丈夫か?
■今年最高の脚本
『セルラー』
インテリジェントで、アーティスティックで、志の高い、映画史に名前を刻めるような映画は、アメリカでは毎年ほんの一握りであろう。映画館を出た途端に忘れられるお手軽な娯楽作品や、日本に輸入すらされないB級映画が圧倒的多数でショウビズを支えているのが現状だ(というか映画産業は昔からこう)。
そんな風についついバカにしてしまう大量消費型映画からモーレツなしっぺ返しを食らうことがある。初めて『セルラー』をテレビの映画紹介番組で見た時、「主人公が見たこともないアホ面」「カギとなる小道具が携帯電話」というだけで一笑に付した。見る価値もないくだらぬ映画だ、と。
壊れた電話と携帯電話で偶然つながった頼りない若者(アホ面さえも「小道具」である)と誘拐された人妻(キム・ベイシンガーは流石だ)という特殊なシチュエーションに起こり得るサスペンスを考え付く限り全てぶち込み、二転三転しながらヒートアップする展開の中、緊張感の合間に挟まれる笑いやさりげなく張られた伏線を絶妙のタイミングで生かすワザなど、見ていて「どうにかなりそう」なほど巧すぎる脚本にただただ唖然だった。
そして、脇役のウィリアム・H・メイシーが演じるしがない警官の、何とも言えぬ小市民ぶりといざとなると頼りになるヒーローっぷりのアンビバレンスがとてつもなくクール。メイシーちゃんは本当に変幻自在なのね。『ファーゴ』や『ブギー・ナイツ』などのような「ほんの一握りの作品」からブロックバスター作品まで器用に溶け込み、それでも存在感を残すことが出来る素晴らしい俳優。
ヘタなアート志向や作家主義など邪魔なだけとばかりに、凝った画や洒落た会話など映画に対するフェティシズムをバッサリ切り捨て、その分観客をストレートに楽しませようという努力と技術に徹したスタッフの姿勢が、見ていてひしひしと伝わって来る。繰り返しの鑑賞に堪えるような味わい深い作品ではないことを承知で、1時間半(この長さもナイス)1回こっきりの娯楽に賭けた「潔さ」と「頭脳」に拍手を送りたい。
■シメはやっぱりドリューで
『50回目のファースト・キス』
実は小生、ドリュー・バリモアが大好物だ。キュートでグラマーでエロ。彼女の出る映画を見る前はいつだってウキウキ・ソワソワしてしまう。「うな重」を食べる前とどこか似ている。ドリューは「ご馳走」なのだ。
毎日記憶がリセットされ自分のことを忘れてしまう恋人に、毎日アプローチして毎日告白して毎日「ファースト・キス」をするという地獄のような設定(まあこれいわゆる「難病モノ」だからね)をうまくコメディにしているところに良くも悪くも「アメリカのふところ」を感じる。湿っぽいところはほとんどなし。舞台がハワイのせいもあるか。こういう映画ってたまに見ると楽しいんだよねえ。こういうのばっかりだとダメだと思うが。
1シーンだけ登場する、アダム・サンドラーと一夜のアヴァンチュールを楽しみたい女性。どうにも見憶えあると思ったら『ギャラクシー・クエスト』『ドッジボール』、最近では『チャーリーとチョコレート工場』に出てる女優(ミッシー・パイルという名前だった)。物凄く特徴のある顔してんだよね。ありゃ憶えるわ。
というわけで今年最後の映画は泣いても笑ってもこの映画。いや、これで良かったと思う。
さようなら2005年。
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