Diary

■2005年12月

05.12.31


■これっぽっちの背徳かよ (これ問題発言か?)

『ゲルマニウムの夜』
 殺人を犯してかつて自分が育った修道院に戻って来た青年が、「神」や「信仰」を試すべく背徳の限りを尽くす物語、なんだそうだ。
 教護院の生徒たちに「hand job」や「blow job」をさせながら聖書を朗読する院長の姿から始まり、インターンの修道女と関係を持ちさらに修道女をも強姦する主人公(修道女は懐妊)、理不尽なイジメへのヴァイオレントな復讐、そして自分を兄のように慕ってくる教護院の少年から「blow job」されて光明に至ったのか何かを悟ったかのようなラスト。途中、飼い犬に舐めさせたり飼い犬のモノを舐めたりもする院長や、豚の内臓を揉みしだきながら手淫に耽る教護院生の姿を垣間見せたりもするが・・・・。

 背徳・冒涜ってこんなもんなのか?あの程度で宗教を試す?キリスト教ってそんなにヤワじゃないだろう。首をかしげるばかりだったよ。花村萬月の小説は『セラフィムの夜』しか読んだ事ないが、あれもなんだか中途半端な二流小説だった。

 見ていて最もインパクトがあったのは交尾中の雄豚のペニスをでかい植木バサミでチョン切るシーン。あれは怖ろしい・・・・。思わず顔が歪んだよ。あと、早良めぐみという新人女優が物凄くビューチフル。他は特に感想なし。
 でも主演の新井浩文は良い俳優だなあ。『血と骨』でもビートたけしを食ってたっけ。ああいう人は貴重だ。


■ホワイト・ラビット

『秘密のかけら』
 クローネンバーグの作品は見るくせに、もう1人の有名なカナダ人監督アトム・エゴヤンの作品を実は1本も見てなかったりする。50年代ハリウッドのコメディ・デュオの犯罪モノ、しかも滝本誠師がパンフに寄稿してるということなので見に行ってみた。
 アリソン・ローマン(『ビッグ・フィッシュ』で母親の若い頃やってた子)を含む女優陣の脱ぎっぷりの良さがこの作品を支えている。エロティックなムードと殺人。ヒッチコックもデ・パルマもエロに手を抜かなかった。

 ケヴィン・ベーコンもコリン・ファースも素晴らしく巧いが、この作品の白眉は劇後半に登場する「不思議の国のアリス」のミュージカルシーン。なんとも淫蕩な顔立ちのアリスが歌っているのはジェファーソン・エアプレーンの「ホワイト・ラビット」。すかさず『ブルー・ベルベット』で「おかまのベン」がロイ・オービソンの「イン・ドリームズ」を”聞かせる”場面を思い出した。その後場所を移して行なわれるこのアリスとアリソン・ローマンのからみのアシッドな演出も含め(そりゃそうだよ、”ホワイト・ラビット”だもの)、デイヴィッド・リンチの影がチラチラ。アリスを演じた女優が『ツイン・ピークス』のローラ・パーマー似だったせいもあるな。小生はあの手の美人に弱い。

 それにしても驚いたのは原作者の名前を見た時に「そういやルパート・ホームズってソング・ライターがいたっけ。同姓同名か?」と思ってたら、なんと本人であった。多才ですなあ。
 しかしまあこの映画、どういうわけか観客の年齢層が高かった。あんなにエロで大丈夫か?

■今年最高の脚本

『セルラー』
 インテリジェントで、アーティスティックで、志の高い、映画史に名前を刻めるような映画は、アメリカでは毎年ほんの一握りであろう。映画館を出た途端に忘れられるお手軽な娯楽作品や、日本に輸入すらされないB級映画が圧倒的多数でショウビズを支えているのが現状だ(というか映画産業は昔からこう)。
 そんな風についついバカにしてしまう大量消費型映画からモーレツなしっぺ返しを食らうことがある。初めて『セルラー』をテレビの映画紹介番組で見た時、「主人公が見たこともないアホ面」「カギとなる小道具が携帯電話」というだけで一笑に付した。見る価値もないくだらぬ映画だ、と。

 壊れた電話と携帯電話で偶然つながった頼りない若者(アホ面さえも「小道具」である)と誘拐された人妻(キム・ベイシンガーは流石だ)という特殊なシチュエーションに起こり得るサスペンスを考え付く限り全てぶち込み、二転三転しながらヒートアップする展開の中、緊張感の合間に挟まれる笑いやさりげなく張られた伏線を絶妙のタイミングで生かすワザなど、見ていて「どうにかなりそう」なほど巧すぎる脚本にただただ唖然だった。
 そして、脇役のウィリアム・H・メイシーが演じるしがない警官の、何とも言えぬ小市民ぶりといざとなると頼りになるヒーローっぷりのアンビバレンスがとてつもなくクール。メイシーちゃんは本当に変幻自在なのね。『ファーゴ』や『ブギー・ナイツ』などのような「ほんの一握りの作品」からブロックバスター作品まで器用に溶け込み、それでも存在感を残すことが出来る素晴らしい俳優。

 ヘタなアート志向や作家主義など邪魔なだけとばかりに、凝った画や洒落た会話など映画に対するフェティシズムをバッサリ切り捨て、その分観客をストレートに楽しませようという努力と技術に徹したスタッフの姿勢が、見ていてひしひしと伝わって来る。繰り返しの鑑賞に堪えるような味わい深い作品ではないことを承知で、1時間半(この長さもナイス)1回こっきりの娯楽に賭けた「潔さ」と「頭脳」に拍手を送りたい。

■シメはやっぱりドリューで

『50回目のファースト・キス』
 実は小生、ドリュー・バリモアが大好物だ。キュートでグラマーでエロ。彼女の出る映画を見る前はいつだってウキウキ・ソワソワしてしまう。「うな重」を食べる前とどこか似ている。ドリューは「ご馳走」なのだ。

 毎日記憶がリセットされ自分のことを忘れてしまう恋人に、毎日アプローチして毎日告白して毎日「ファースト・キス」をするという地獄のような設定(まあこれいわゆる「難病モノ」だからね)をうまくコメディにしているところに良くも悪くも「アメリカのふところ」を感じる。湿っぽいところはほとんどなし。舞台がハワイのせいもあるか。こういう映画ってたまに見ると楽しいんだよねえ。こういうのばっかりだとダメだと思うが。

 1シーンだけ登場する、アダム・サンドラーと一夜のアヴァンチュールを楽しみたい女性。どうにも見憶えあると思ったら『ギャラクシー・クエスト』『ドッジボール』、最近では『チャーリーとチョコレート工場』に出てる女優(ミッシー・パイルという名前だった)。物凄く特徴のある顔してんだよね。ありゃ憶えるわ。

 というわけで今年最後の映画は泣いても笑ってもこの映画。いや、これで良かったと思う。
 さようなら2005年。
 
 


05.12.27


■ゴリラだもの

『キング・コング』
 誰もが思うに違いないが、ピーター・ジャクソンはこれから先『ロード・オブ・ザ・リング』以上の作品を撮れない。長年ファンタジー界の「聖書」のように君臨して来た長大な小説を、今までに見たことのないスケール感と映像美で描き切った「映画史における偉業」。ピーター・ジャクソンの映画監督人生にとって最も輝かしい勲章であると同時に最も重い足枷になるであろうことは明らかだった。

 内容的にも興行的にもあれほどの成功を収めた後である。何を撮ってもどんなわがままを言っても許されたはずだ。だからピーター・ジャクソンは幼い時に見て感銘を受けた『キング・コング』を選んだ。これが『ロード〜』の前だったら絶対に通らなかった企画だろう。ローランド・エメリッヒが『ゴジラ』をリメイクして大失敗した後でもあったし。だから『キング・コング』はP・ジャクソンにとって「ご褒美」なのである。

 とは言え周囲だって期待したはずだ。『ロード・オブ・ザ・リング』を撮った監督が往年の怪獣映画の名作をリメイク!なのだから。1977年版リメイクのトホホな出来に苦笑するしかなかった当時を知る関係者やファンも、ジャクソンなら必ずや今まで見たことも無い完璧な『キング・コング』を作ってくれるはず、と胸躍らせたことだろう。

 ワケもわからず期待する我々の前に現れた『キング・コング』は3時間を超す超大作だった。『ロード〜』のVFXスタッフが作り出す怒涛の映像に酔い、恐竜や怪物の跋扈する南海の孤島にワクワクし、エンパイア・ステート・ビルでの有名なクライマックスには驚嘆し熱くなった。
 俳優たちも素晴らしい。何と言ってもナオミ・ワッツでなければ成立し得なかった作品だ。貧乏女優を巧みに演じてファンタジーの中にリアルを与えたし(ニコール・キッドマンなんかじゃああは行かなかったはず)、生贄のシーンでのフェロモンにもやられた。彼女の健康的だがどこか薄幸そうな顔がかもし出す独特のエロティシズムが「怪獣映画」の中でうまく機能している。エンド・クレジットで彼女の名前が真っ先に現れた時、この超大作がナオミ・ワッツ主演であることに深い感慨を覚えずにおれなかった。

 派手な見せ場が多過ぎて逆に間延びした印象は否めなかったが、それでも素晴らしい完成度だった。なんたってあのピーター・ジャクソンが撮った作品だからっ!

 だがしかし、冷静になってよ〜くわかった。
 小生は「ゴリラ」が嫌いだ・・・・。どんなに良く出来ていようが面白かろうが、これは「ゴリラの映画」なのだ・・・・。力強くて、純粋で、一途で、命がけで女性を守ってくれるたくましい「男」・・・・でも彼はウッホウッホ言ってるのだ・・・・。
 ごめん、やっぱりムリだよ、コング。だってゴリラじゃん、お前。

■だらしない映画

『秋津温泉』(1962年)
 戦時中に惚れあった結核持ちのペシミスティックな男(長門裕之)と温泉旅館の娘(岡田茉莉子)が戦後だらしなく繰り広げる恋愛模様。成瀬巳喜男の名作『浮雲』を嫌でも思い出させる。
 長門が演じるインテリ男のかっこ悪さと対照的に、岡田の凄みすら感じさせる美貌が冴え、はつらつとしたキャラクターでもって物語を牽引する。もう本当にウットリした。それもそのはず、『秋津温泉』は岡田茉莉子が企画し、衣装まで担当し、夫の吉田喜重に監督させた「あたし映画」なのだ。
 東野英治郎・吉川満子・山村聡・高橋とよ・桜むつ子など、小津作品ゆかりの俳優たちが顔を見せるのは、やはり吉田喜重の小津へのリスペクトなのか。石井輝男組の吉田輝男まで登場するのはうれしいオマケ。
 そして、岡田茉莉子の美貌、味わい深い風景にいろどりを添えるのは林光による音楽である。彼の創り出すメロディが情感たっぷりに繰り返し流れ、作品のトーンを見事に統一していた。
 フルートを好んで使用する林光のスコアはフランスの映画音楽作曲家ジョルジュ・ドルリュー(『暗殺の森』『恋のエチュード』が最高)に通ずるものがある。非常にヨーロピアンな感性だ。彼が音楽を担当しているというだけで傑作に思えて来るね。

■骨と皮のエクスタシー

『マシニスト』
 クリスチャン・ベールが激痩せして主人公を演じて話題になった・・・・いや、激痩せ一点突破の作品。その痩せっぷりがとにかく尋常ではない。「お前は歩く骨格標本か」と言いたくなる彼の裸体は、もうそれだけでスペクタクル。骨と皮のエクスタシー。ムチムチでパッツパツのジェニファー・ジェイソン・リーとのベッドシーンがなんとも痛々しい。
 不眠症の男が悩まされる幻覚とフラッシュバックが織り成す「パズルムービー」だが、そちらの仕掛けのほうはまあまあ。ちょっと判りにくいし。『セブン』や『ザ・セル』を思い起こさせる「銀残し」っぽい沈んだ色調は良いムード出してたけど。
 マイケル・アイアンサイドが工場機械に巻き込まれて腕を失い、『スターシップ・トゥルーパーズ』での「ラズチャック先生(隊長)」と同じ姿になるのはやはりファンへの目配せか。


05.12.08


■超美少女

『非行少女』(1963年)
『「テント劇場」より 盗まれた欲情』(1958年)
 和泉雅子15歳の時の作品、『非行少女』・・・・スゴイな、これは。和泉の美少女っぷりがハンパじゃないぞ。同時期の日活と言えば当然のことだが吉永小百合であるわけだが、朗らかで愛らしい和風の美少女であった吉永に比べ、洋モノ風の顔立ちをした和泉にはなんとも甘く危険な香りが漂う。男を堕落させる魔性を秘めた少女・・・・つまり「ロリータ」なのだ。
 つい先日40歳を迎えた小生。若作りしてごまかしているが、もう立派な中年男である。「童貞力」を発揮した言動で周囲を喜ばせたり戸惑わせたり、自己嫌悪に陥ったりしているが、ふと「おれも若くないんだな・・・・」と思わざるを得ないことがある。それは、この和泉雅子のような美少女にうっとりする時である。
 そして上映終了後、舞台に登場した現在58歳の和泉雅子(キラキラしたカチューシャが眩しすぎ)・・・・おれって若いなあ〜。あははは。

 もう1本のまるでポルノ映画のようなタイトルの作品、単にドサ周り劇団の人情喜劇であった。しかも監督は今村昌平。


■パンフレットというもの

 以前は、見る映画ほとんど全てパンフレットを買うという習慣があった。面白かろうがつまらなかろうが買う。つまり見る前に買う。座席に着いたらすぐ買う。時には映画を見る前に読んじゃったりもする。帰宅後は一応隅々まで読み、しばらくして飽きたら棚に仕舞う。引っ張り出して読み返すことはあまり無い。
 そんな風にして溜まりに溜まっていたパンフレットをかなりの数フリーマーケットで売り払い、売れ残ったものは捨てたことがある。手狭な住宅事情を考えたらそうせざるを得なかった。どうしても、という作品のパンフは残しておいたから特に未練は無かった。作品自体を見直す気すら無い映画のパンフを残しておいても意味が無いことに気付いたし。
 だから現在では、よっぽど作品に感銘を受けたり、見ていて判らなかったことがあったり、滝本誠師がテキストを寄せていたりしない限り、パンフを買うことは無くなってしまった。今年見た映画(現在176本)のうちパンフを買ったのは

 『スチームボーイ』
 『復讐者に憐れみを』
 『ロング・エンゲージメント』
 『エターナル・サンシャイン』
 『ウィンブルドン』
 『ライフ・アクアティック』
 『パッチギ!』
 『亡国のイージス』
 『シン・シティ』
 『親切なクムジャさん』
 『エリザベスタウン』
 『ALWAYS 三丁目の夕日』

 であるが、このうち半分は今となってはもう2度と読み返すことが無いので要らない。
 この中で最も「こりゃ良いパンフだ」と思わせたのは『三丁目の夕日』、最もダメだったのは『ライフ・アクアティック』(2分冊から成る凝ったものだが逆にそれが×)。昔ながらの大きさ・綴じ方のパンフは『エリザベスタウン』のみ。値段も高くなったもんだ。600円以下で買えるパンフってすっかり無くなってしまった。

 ちなみに、所有していた「チラシ」も大部分は廃棄。現在は映画が始まる前の待ち時間に読み、帰宅後には捨ててます。


05.12.08


■君は「センサラウンド」を憶えているか?

『奇談』
 70年代に「センサラウンド」という上映方式(というか音響効果)があったのを憶えているだろうか?スペクタクルシーンになると座席が揺れるという、体感型ド迫力上映システムだ。『大地震』『ミッドウェイ』『ジェットローラーコースター』『宇宙空母ギャラクティカ』などが「センサラウンド方式上映!」と銘打ってセンサラウンド音響システムを完備した一部の劇場で公開された。小生は前述の4本のうち後の2本を、群馬県高崎市の小さな映画館で見たことがある。どんなに素晴らしいかと胸躍らせて見に行ったのだが、これがスクリーン脇のチョイ大きな2本のスピーカーから重低音が流れて座席をビリビリ震わせるだけ、というなんとも「おいおい」なシロモノであった。
 先日、池袋の映画館のレイトショーで『奇談』という映画を見ている間、2度ほど座席が揺れた。ちょうどサスペンスが盛り上がりつつある場面だった。おかげで変に怖かった。クライマックスで揺れてくれればもっと良かったのに、と残念に思う。センサラウンドなんかじゃない、本物の迫力が味わえたはずなのだ。

 ん?お、感想か。
 諸星大二郎の超傑作『生命の樹』(「妖怪ハンター」シリーズ)を映画化したものだが、案の定ストーリーだけ頂いてもダメなことが露呈。諸星マンガの醍醐味はあの「ヘタクソな画」にあるからだ。
 ただキャスティングにはこだわりがあったようで、清水紘治&堀内正美の「実相寺組」に加えて、土屋嘉男(顔が随分変わってた)、白木みのる(おぉ〜)、ラストで名セリフ「みんなパライソさ行くだぁ〜」を叫ぶ善次の声を声優の三ツ矢雄二が吹き替えるという、なんともマニアックなもの。


■「昭和市場」

『ALWAYS 三丁目の夕日』
 「プロジェクトX」「タイムスリップグリコ」「大阪万博のDVD」・・・・ここ何年かで「昭和」を売りにした市場がすっかり定着した感がある。高度成長期、日本人が元気で希望があった時代を懐かしむ世代を当てにしたビジネス。これからもまだしばらくはあの手この手で増え続けるはずだ。
 この『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画もやはり「昭和市場」に向けてド直球である。昭和33年(小生が生まれる7年前)の東京、建設中の東京タワーを背景に、「集団就職」「オート三輪」「都電」「駄菓子屋」「テレビ」「力道山」「冷蔵庫(氷を入れて冷やすやつ)」「土管(空き地とセット)」「フラフープ」「ふろく付き少年雑誌」などなど、昭和史を彩ったアイテムの数々をたくみに絡めた群像劇が展開する。
 コンピュータを駆使して作り上げた昭和33年の東京画のレベルの高さに思わずため息が出た。もう完璧だ。おまけに絵心もあるから見せ方が巧い。劇中、徐々に完成に近づいて行く東京タワー。小生の世代にとっては特撮モノで「怪獣に破壊されるために建っていた」東京タワー。これがなんと上へ上へと伸びて行くというスペクタキュラーな映像に、シュールな感覚を覚えずにおれなかった。
 世代によって見方が変わる作品だ。60歳以上には懐かしく、20歳以下には「外国」や「ファンタジー」として映ることだろう。「全ての世代に贈る」というあざとさが見えたり、ストーリー展開が陳腐であったりはするものの、とにかくあの時代を再現するのにハンパじゃない労力と技術を注ぎ込み、フェティシズムさえ漂う完璧な「昭和」を勝ち取った映像にびっくり仰天だった。
 見ていて楽しい。風景も美しい。出て来る人たちもみんなステキだ。いっそのことこの街に住んでしまいたくなる・・・・って、おーっとあっぶねえ〜!!これじゃ『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』じゃねーかよ!
 それにしてもこれ・・・・「シリーズ化」の匂いがするな〜。松竹が結果的に『男はつらいよ』の後釜を『釣りバカ』でなんとか埋めたものの、東宝はそれを凌ぐ「金脈」を掘り当てたのではないか?吉岡秀隆つながり、ってことでさ。

 昭和か・・・・日本人よ、どこへ行く・・・・ま、どこでもいいけど。


05.12.01


■今年は「日本におけるダンスト年」です。

『エリザベスタウン』
 誰がなんと言おうと今年は「日本における」、いや「オレにおけるダンスト年」である。
 『スパイダーマン』で世界的に定着していた(おいおい)「ダンスト=ブス説」にもちろん異論は無かった。だが昨年の『スパイダーマン2』あたりからどうにもこうにも彼女のことが気になり出した。

 「何故ブスなのか?」
 「どの部分がブスなのか?」
 「ブスだがスタイルはいいな」
 「ブスなのに色気はある、ようだ」
 「ブス?ブスで何が悪いんじゃ」
 「ブス?誰がじゃ!」

 ま、こういう心境の変化は珍しいことではない。「オレは次にダンストの映画を見たらきっと彼女を好きになる」・・・・そんな予感がしていた。
 そこへやって来たのが『エターナル・サンシャイン』である。ナース姿にまずドキッ。そしてパンティから伸びた美脚にドキドキッ。見終わる頃にはもう目がハートであった。あ、映画も良かったです。
 そして『ウィンブルドン』でのテニスルック・・・・ああ、いいね、いいよ、もう最高。テニスボールになりてー。シャラポワ?誰じゃそりゃ。あ、映画も良かったです。
 さて、そんな「オレにおけるダンスト年」のファイナルを飾るのが『エリザベスタウン』である。『あの頃ペニー・レインと』(2001年にロンドンからの帰国便の機内で見たのが良い思い出)と『バニラ・スカイ』(今イチ評判良くないけど小生はとても好き)でガッチリ掴まれたキャメロン・クロウの新作ということで期待した。
 いい。やっぱりいいな、C・クロウ。今回も選曲にセンスを見せるし語り口も知的だし撮影も素晴らしいしムードもある。巧い人だと思う。きっと次回作も見るだろう。
 だがキルティン・ダンストのことを相変わらず「『スパイダーマン』に出てたブサイクなねえちゃん」としか思わない人間はこの作品をどう見たのだろうか。人生のどん底に突き落とされ自殺まで試みた男に生きる希望を与えるのが、あんなにブサイク(何だとっ!)でストレンジな女(でもスッチー)で果たして主人公に同情したり感情移入出来たりしたのだろうか?「ありえね〜」んじゃなかろうか?
 小生はもちろんお腹いっぱい幸せいっぱいである。主人公のオーランド・ブルームにシンクロするやら、嫉妬するやら。まさに「ダンスト年」のトリを務めるに相応しい作品であった。
 残念なのはチャームポイントである「ノーブラ胸のプッチン」(チャームポイントじゃねーだろ)が拝めなかったことだ・・・・と思ったらありましたよ、ありましたっ、パンフに。ありがとう、パンフぅ!
 でもって、パンフを見ていて気がついた。ダンストのニュッと出た上顎の2本の歯。あれは八重歯(or 糸切り歯)ではない。門歯のすぐ両脇の歯である。アグネス・チャンや石野真子(古過ぎだろ、それ)のように、アイドルにとって八重歯というものはチャームポイントとして機能することが多い。しかし前歯のすぐ横の歯はいかがなものか・・・・。
 キルスティン・ダンストをブス(だからヤメロって!)に見せてしまう原因の一旦は、あの2本の「ウソ八重歯」にあるかも知れない。

■あと、どうでもいいけど一言

 「ぴあ」の表紙、最近ひどいなー。
 似てないにも程があるぞ。
 誰描いてるのか全く判らない週がある。

 吉田カツの描く表紙が毎号イカしてた「シティロード」が懐かしい。


05.12.01


■「山口晃展」の衝撃

 日本橋三越新館のギャラリーで開催された山口晃の展覧会に行った。何故三越か?もちろん三越100周年の広告イラストを描いたから。デパートのギャラリーでやるわけだから作品の展示数など、「展覧会としての質」には大きな期待をせずに行くことにした。
 ところがどっこい・・・・これが「ベスト・オブ・山口晃」とも言うべきかなりの美味しいとこどりの大変なご馳走であったのだ。学生時代の修了制作から始まり、三越はもちろん六本木や大阪などの街並みを驚嘆すべき筆致で描き込んだ例の有名な鳥瞰図のシリーズ、5人のメカニカルな武者を等身大で描いた『五武人圖』、平凡社から刊行された澁澤龍彦の著書2冊『菊燈台』『獏園』の挿絵ほぼ全点などなど。確かなデッサン力に裏打ちされた画力と構成力に、もはや「魔法」とか「錬金術」とでも呼びたくなるほど精緻を極めた筆の運び。「マンガ&アニメ世代」ならではと言えるメカや銃器へのフェティシズム。
 圧倒される、などという言葉では済まされないほどの衝撃である。これほどの衝撃は2000年に京都国立博物館で見た「伊藤若冲展」以来だ。
 昨年末ミヅマアートギャラリーでの個展を見に行った際、制作中の山口晃に遭遇した。筆を両手に持ち、耳にも1本掛け、おまけにもう1本口にくわえて作品に向かう山口氏。本気なのか演出なのか、まるで絵に描いたような「絵描き」の姿だった。他に客がいないのをいいことに話をしたりサインを頂いたりの至福の時。ギラギラしたところの無い穏やかで腰の低い笠智衆のような人だった。
 同日、作品集の出版記念イベントが行なわれる表参道「NADIFF」に移動するが、そこへ至る通りでもう1人のアート界のアイドル「会田誠」(山口晃とのトークショウだった)に逢い、こちらでもサインを頂くことに。これも家宝なり。会田誠はなんというか・・・・キャバクラで遊んでそうな人。しかもモテモテ。


■『テッキー君とキップルちゃん』CD化

 立花ハジメが1984年に発表したアルバム『Mr.TECHIE & MISS KIPPLE(テッキー君とキップルちゃん)』がCD化された。ロックやポップスとしては非常に「いびつ」ではあるものの、極端なまでに装飾音をそぎ落とされたある意味「力強い」サウンドと彼独特のメロディ感覚は、21年前(!)当時とてつもなくカッコよかった。以下はこのアルバムのリリース時に立花ハジメ自身がラジオ番組で語った談話である(小生の記憶が正しければ、だが。まあ正しいと思う)。

 このアルバムは『ブレードランナー』(およびその原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の世界をモチーフにしている。タイトルの「テッキー」も「キップル」も原作者フィリップ・K・ディックの造語である。

 1曲目の「REPLICANT J.B.」はそんな未来世界において、「レプリカント」(『ブレードランナー』に登場する人造人間)のジェームズ・ブラウンが壁掛けテレビの中で歌っている、という状況を音にしたものである。

 立花ハジメがこのアルバムのレコーディングの間によく聴いた曲として、Jimi Hendrixの「Are You Experienced?」とThe Three Sunsという50年代アメリカのランチタイムミュージックのバンドを挙げている。 彼は『ブレードランナー』のサントラはヴァンゲリスなどではなくThe Three Sunsのような音の方が相応しいとまで言っている。
 
 ついでに書いておくと、ジャケット(デザインは立花と奥村靫正)で立花が手にしている「小型火炎放射器」はMatt Heckertというジャンク&ノイズ系のアーティストが、かの有名な(?)S.R.L.のパフォーマンス用に作ったものである。
 「Poster Collection」ページで書いたように『ブレードランナー』は公開当時大コケし、無視された映画である。小生の知る限りこの映画にインスパイアされて音作りをしたのは立花ハジメが最初ではないかと思う。
 余談であるが、82年『アヴァロン』リリース後に来日したブライアン・フェリーが「ベストヒットUSA」に出演した際、小林克也との談話の中で『ブレードランナー』をフェイヴァリットに挙げていた記憶がある。公の場で『ブレードランナー』を誉めたセレブ第一号に認定したいね。

 その後1985年には『太陽さん』というテクノの金字塔を打ち立て(当時立花のライヴを見た細野晴臣は「ハジメはYMOを完全に超えた」と言ったらしい)、「サウンド志向に走ったらダメ」とか「古典になるものを作る」などというセリフをシレッと言ってのけた立花ハジメ。今でもお元気なのだろうか。
 というわけで、この『テッキー君とキップルちゃん』、ボーナストラックとして収録曲のヴァージョン違い6曲を含むファンには感涙モノのCD化である。今聴いてもカッコいい?もちろん。だって音楽ってあれから進化してないからね。
 


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