Diary

■2006年2月

06.02.23
■『日出処の天子』映画化!!(うそ)

 山岸涼子の代表作『日出処の天子』が大好きである。
 最初に読んだのは1985年の3月頃だったと思う。いわゆる「少女漫画」にはいっさい関心の無かった小生が当時付き合っていた女性から薦められ、最初は小馬鹿にしながら読み始めたものの、ストーリーの恐ろしい牽引力にあれよあれよと作品世界に没入、あっちゅう間に全巻を読破した記憶がある。

 歴史に名高い聖人、聖徳太子が実は「超能力者」で「病的なマザコン」で「男色家」だったという大胆過ぎる設定で展開する一大絵巻。物語は6世紀、即位前の聖徳太子=厩戸王子(ホモ)と大臣蘇我氏の長男=蘇我毛人(ストレート)の「片想いラブロマンス」を軸に、大王を巻き込んだ朝廷内の権力抗争、封建社会の中で翻弄される女たちの悲話、朝鮮半島や中国大陸進出への野望など、多くの歴史上の人物が入り乱れスケール感あふれる要素を盛り込みながらもそこは少女漫画。やっぱり面白いのは「男と女」「男と男」「女と女」の愛憎劇なわけだ。

 最も凄まじいのは蘇我毛人の妹=刀自古郎女。実の兄に恋焦がれるあまり、兄をダマしてまで(兄が慕う女性に成りすます)契りを成し遂げ妊娠。厩戸王子は刀自古のお腹の子は毛人の種だと承知しながらも妻に迎えるという屈折ぶり。しかも「契約婚」であったにも関わらず、生まれた子供を可愛がる王子(そりゃそうだよ、大好きな毛人の子供だもん)を見るうちに愛が芽生えるものの王子はホモ。心の空白を埋めようと「こうなったら男を喰いまくってバンバン孕んでやる」などとヤケクソになる始末。

 とにかく「愛」と「嫉妬」と「欲望」が全篇に渡って渦巻き、「日本の古代史はこんな風に作られたのか・・・・」と間違った感慨に耽ってしまうこの漫画(いや、実際の歴史はもっとドロドロしていたかも知れないな)。何年かに1度読み返したくなる、しかもこの時期に。恐らく初めて読み夢中になったのが晩冬というか早春のこの頃だからだろう。昨年の今頃も読みたいと思いつつ仕事が多忙でままならず。今年の2月はやっとヒマが出来たので昨晩9時から読み始めたらページをめくる手が止まらず、読みに読んだり全8巻(あすかコミックス・スペシャル版)。更には『日出処の天子』の後日談として書かれた中篇『馬屋古女王』を読み終わったらもう朝の5時。あふれる涙と心地よい疲労感・・・・次にまた読みたくなるのは何年後だろうか。

 んなわけでここに“おれ『日出処の天子』”のキャストを発表!!

 厩戸王子・・・・・・・・・・・及川光博 (顔が似てるしあの着物やポーズもぴったり)
 蘇我毛人・・・・・・・・・・・西島秀俊 (優柔不断だけど賢そうだから)
 刀自古郎女・・・・・・・・・小雪 (まあ妥当でしょう)
 布都姫・・・・・・・・・・・・・木村佳乃 (『蝉しぐれ』後だけにね)
 穴穂部間人媛・・・・・・・鈴木京香 (いいねえ)
 来目王子・・・・・・・・・・・東京電力のCMで鈴木京香に萌えてる小僧(当然そうなるね)
 額田部女王・・・・・・・・・NHKの加賀美幸子アナ (いや、顔似てるんだって)
 蘇我馬子・・・・・・・・・・・江守徹 (この人出ると史劇っぽくなるからね)
 泊瀬部大王・・・・・・・・・遠藤憲一 (もうこの人しか考えられない)
 淡水・・・・・・・・・・・・・・・浅野忠信 (ぴったり!)
 調子麻呂・・・・・・・・・・・オダギリジョー (淡水が浅野ならこっちはこの人だろーね)

 以上、年齢尺も何も無視して顔と雰囲気だけで決めてみました。
 この漫画知らない人には「なんのことやら」だよねえ。


■『ミュンヘン』再び!

 1度目よりかなり短く感じた。あっという間の2時間44分。やっぱり面白かった・・・・。

 「料理」に「食事」と家族的なムード作りがやはり肝だな。アヴナーたち5人の暗殺者にしても、彼らに情報を提供するルイの組織にしても、過剰に家族的な雰囲気を与えられている。「家族」「家庭」・・・・それらを守るためには報復も辞さない。「家は金がかかる」・・・・ルイのセリフが印象的だ。アヴナーにとっては妻と娘、ルイとパパにとってはあの大家族、エフライムにとっては国家。手を血で染め口を嘘で汚しながらも「愛するもののため」という動機の下に自分の行動を正当化せざるを得ない者たち。

 かつて『ゴッドファーザー』シリーズは、家族を守るために裏切り者や邪魔者を殺し続け、ついには家族さえも信用出来なくなった王の孤独な姿に、アメリカという国を重ね合わせて見せた。『ミュンヘン』はスピルバーグによる『ゴッドファーザー』なのだ。

 『ミュンヘン』が持つメッセージ性とエンターテインメント性のバランスの問題から、不愉快に感じる人たちも多いと聞く。『ゴッドファーザー』だって犯罪組織を美化して描くことで制作当時は反撥があったのだ。
 『シンドラーのリスト』はOKで『ミュンヘン』がNGという人を小生は信用しない。手塚治虫を「ヒューマニスト」という言葉の向こうに押し込めてしまう人と同じように。


06.02.20
■高倉健という人

『日本侠客伝』(1964年)
『日本侠客伝 浪花篇』(1965年)

 実はいわゆる「プログラム・ピクチャー」があまり好きではない。時代劇、アクション、任侠物・・・・・1950〜60年代に量産され多くのスターを生み日本映画の黄金時代を築いたのは知っている。そんな中に石井輝男や岡本喜八や中島貞夫たちだっていたし、当然「座頭市シリーズ」だってプログラム・ピクチャーだったのも判っている。それ以外の・・・・たとえば、東映の古い時代劇を面白いと思ったことはほとんど無いし、日活アクションを飾った「なんとかガイ」と呼ばれた俳優たちは全員嫌いだ。子供の頃は「ゴジラ」シリーズさえ好きではなかった。あ、「寅さん」は好きだな。

 高倉健という俳優が嫌いではない。どちらかと言えば好きなほうだろう。だがそれはプログラム・ピクチャー崩壊以後の健さんだ。『新幹線大爆破』『ゴルゴ13』『君よ、憤怒の河を渉れ』『八甲田山』『野性の証明』・・・・70年代大作映画群の中で主役を張るこの寡黙な俳優は子供の眼から見てもかっこよかった。ブルース・リーと同じオーラを放っていた。

 だからそれ以前の高倉健をほとんど知らない。とんでもない出演本数の任侠物や「網走番外地シリーズ」などまるで見ていない。だから恐らく今回、新文芸坐のマキノ雅弘監督特集でほぼ初めて見たと言えるだろう。驚いたことにこの2本、ほぼまったく同じ話だった。

 やっぱり70年代の高倉健が好きだ。


■岩波ホール・ヴァージン

『死者の書』

 NHK人形劇『三国志』などで知られる人形作家、川本喜八郎。人形アニメや実験アニメの監督として1960〜70年代に数々のハイ・クオリティな短篇フィルムを制作。1990年の『いばら姫またはねむり姫』(川本作品の最高峰)以来15年ぶりに完成させたのがこの人形アニメ『死者の書』である。原作は折口信夫の有名な本。

 やはり時代は変わったのだなあ、と思った。多分16mmフィルムを使わずにデジタルカメラで撮影している。コストダウンになるし、他にもいろいろとメリットがあるのだろう。それに今回CGも使用している。別に悪くはないし、作品のクオリティを下げているわけでもない。ただ「ああ、やっぱりね」と思った。

 非常に高尚な作品だったな。あまり面白く見れるような内容じゃなかったのがキツかったか。声優陣は良かった。特に黒柳徹子が素晴らしかった。ナレーションの岸田今日子はもちろん。

 現在80歳を超えた川本喜八郎。ヤン・シュヴァンクマイエルだってクエイ兄弟だってリスペクトしているはずだ。世界トップレベルの人形アニメではあった。

 長年東京で映画を見ているが、岩波ホールに入ったのは実は初めてである。自分でも驚いた。


■ジェイク・ギレンホールはアル・パチーノだ!(あ、ネタバレしてますよ)

『ジャーヘッド』

 21世紀版『マッシュ』か湾岸戦争版『フルメタル・ジャケット』にでもなるのでは!?と大いに期待した作品だったが、なにやらフクザツだった。コメディでも狂気でもなく、あくまでも等身大の戦争映画だったからだ。

 ジェイク・ギレンホールと『フライトプラン』で悪者やってたヘンな目つきの俳優(まだ名前憶えない)が狙撃チームを組まされるのだが、結局こいつらギリギリで撃たせてもらえない。戦場で1人も殺さずに帰って来る兵士。こいつらどころか、派手な戦闘シーンそのものがほとんどナシ。この映画最大のスペクタクルは、地平線で何本もの火柱を上げる油田だ。黒煙で暗くなった空の下を行軍する兵士達。降り注ぐ原油を浴びて『ジャイアンツ』のジェームス・ディーンを真似る兵士。

 映画ネタは他にもある。『地獄の黙示録』を兵舎で上映し、「ワルキューレの騎行」を合唱するシーンでは爆笑。BC兵器に備えて防毒マスクをかぶった途端にダース・ベーダーの真似をするバカさ加減。そもそもオープニングシーン自体が『フルメタル・ジャケット』のパロディだ。そう考えるとピーター・サースガード(お、これで名前憶えたぞ)のあの目つきが『フルメタル〜』でブチキレて鬼教官を殺したヴィンセント・ドノフリオを彷彿とさせる。

 帰国した彼らに待っていたのは、多かれ少なかれ『タクシードライバー』や『ディア・ハンター』と同じ「人生の変化」だ。肉体は帰還しても魂は戦場に置いて来てしまう。この映画にカタルシスが無いのは恐らく、主人公が1人も殺さないくせにその人生は一変してしまうというやるせなさだと思う。
 砂漠でバンバン敵兵を殺しまくって帰還し、「おれの人生は変わっちまった」などというセリフを吐けば、映画としては格好がつく。でも監督のサム・メンデスがやろうとしたのは新しい戦争映画だ。それは正しいことだ。意義ある映画だと思う。

 だが、それが映画として面白いかどうかは別だ。メンデスは『アメリカン・ビューティー』でも『ロード・トゥ・パーディション』でも素晴らしい仕事をした。非の打ち所の無い仕事だった。頭脳明晰で行儀の良い優等生の作った、破綻もほころびも無い映画。湾岸戦争を等身大で描いた『ジャーヘッド』は、そんな彼が撮った戦争映画なのだ。

 いずれにせよジェイク・ギレンホールは最高だ。クリス・クーパーも出演しているから『遠い空の向こうに』の父子再会だ。今年は『ブロークバック・マウンテン』もあることだし「日本におけるギレンホール年」になることだろう。

 気になるのは、彼の演技。表情の作り方、特に目の動かし方がアル・パチーノに似ていると思うのは小生だけだろうか。今こそ『ゴッドファーザー』をリメイクするべし!マイケル・コルレオーネをジェイク・ギレンホールがやるのだ。でもって、乱暴物の長男ソニーにマーク・ウォルバーグ、気弱な次男フレドにジョバンニ・リビジー、妹コニーは当然マギー・ギレンホール(ホントは姉だがこの際いいや)、相談役トム・ヘイゲンにはエドワード・ノートンがぴったり!
 じゃあドン・コルレオーネは?
 もちろんロバート・デ・ニーロである。


06.02.14
■偉大なる素人

『単騎、千里を走る。』

 張芸謀(チャン・イーモウ)が高倉健を主演に映画を撮った。1976年の大映作品『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で上映され大ヒット(中国でのタイトルは『追捕』)、健さんは中国でもスターになったという話は知っていた。張芸謀も当然これを見ているはずだし健さんをリスペクトしているはずだから「なんで?」という疑問は別に無かった。日本の映画陣とのコラボレーションだって初めてではない。『菊豆』には日本の資本(徳間書店)が入っていたし、『英雄』『LOVERS』の衣装をワダエミが担当して話題になったりもした。それでも『単騎』を見て驚いた。これほどまでに高倉健という「素材」を理解しているとは!

 1999年のイーモウ作品『あの子を探して』は、農村の小学校の代用教員を引き受けた13歳の少女が、1人でもクラスから欠けたら特別報酬は出さないと言われたため、都会へ出稼ぎに出されたクラスの男子生徒を探しに行くというストーリーで、俳優ではなく素人を使って撮った作品だ。右も左もわからない都会でなんとか生徒を探そうと試行錯誤するまだ幼い「先生」を演じる少女の、なんとも「可愛くない」「頭悪そうな」「貧乏くさい」がしかし「芯だけは強そうな」顔がとてつもない牽引力と説得力を発揮する。

 はじめの3つはともかく「芯だけは強そうな」高倉健演じる父親が、長年絶縁状態にあり今は末期癌で病床に着く息子のために中国まである映像を撮りに行く。『あの子を探して』の主人公はわずかなボーナスのため生徒を探しに、健さんは息子との間にある溝を埋めようと中国へ行くのだ。
 行く先々で「ムリ」「出来っこない」「あきらめろ」と言われながらも、1度方向を定め動き出したら自分自身でさえ止めることが出来ないミサイル(「テロリスト」もしくは「鉄砲玉」と言い換えても可)のような主人公たち。彼らは同じだ。呆けたような顔をして立ち尽くす少女の顔、そして深いシワを刻むだけで表情を読めない健さんの顔。そこには最早「動機」は無く、「目的」を達成しようとする純粋な「行動」しか存在しない。そんなキャラクターを演じられるのは「素人」だけである。
 そしてそんな主人公が「浮かない」ためにはやはり素人の脇役が必要なのだが、『単騎』の場合そこがダメだった。息子役の中井貴一(声のみ)と嫁役の寺島しのぶの芝居が大仰で(と言うか日本映画だったら普通なんだが)健さんとのバランスが悪過ぎ。しかしまあ、日本パートを降旗康男と木村大作に任せたことを考えれば、むしろあの違和感は狙ったものだと言えるかも知れないが。

 『あの子を探して』『単騎』の原点はもちろん『秋菊の物語』(1992年)であるが、この作品は前者2作品とは大きく異なる。それは主人公が「プロの俳優」であるということだ。


■ウェルカム・トゥ・ホテル・チードル

『ホテル・ルワンダ』

 実はドン・チードルの顔が好きだ。涼しそうな切れ長の目。目と同じ大きさの巨大な小鼻。まるで顔の真ん中に逆さの十字架を貼り付けちゃったように見える。はっきり言って面白い顔だが、黒人なのに「しょうゆ顔」と言えなくも無い。ハンサムなのかどうなのか判別不能。

 『カラーズ 天使の消えた街』『ブギーナイツ』『アウト・オブ・サイト』・・・・出ていたらしいが記憶に無い。『ミッション・トゥ・マーズ』では火星に取り残されてホームレスのような風貌になった姿しか頭に無い。やはり『トラフィック』だな、強烈だったのは。ベネチオ・デル・トロやキャサリン・ゼタ・ジョーンズの濃い顔に交じってアメリカ側の捜査官を演じ、殺された相棒ルイス・ガスマン(こいつもスゴイ顔だった)の仇討ちを果たした後こぼれる笑顔がなんとも味わい深かったチードル。いっぺんで好きになってしまった。

 その後『ソードフィッシュ』『オーシャンズ11』を見るも当然ながら欲求不満状態に。そこへ素晴らしいニュースが。『ホテル・ルワンダ』でなんとドン・チードルがアカデミー主演男優賞にノミネートされたというのだ。アフリカ版『シンドラーのリスト』と言われた作品で虐殺から人々を守るホテル支配人を演じるドンチー。見たい・・・・だがこの映画を輸入しようという配給会社が無いという・・・・信じられん。ラジオで映画評論家=町山智浩氏の話を聴きショックを受けるが、ほどなくして署名運動が始まり(もちろん小生も署名した)こうして公開にこぎつけたわけだ。ああ、よかった。

 素晴らしい作品だった。ドンチー無くしては成立しない泣けるシーンがてんこ盛りだ。パンフに町山氏が寄せたテキストによればメジャースタジオは主演をデンゼル・ワシントンやウィル・スミスにしろと言ったらしい。確かにデンゼル向きの企画ではあるが、どんな芝居をするか簡単に想像出来、緊張感も何もあったもんじゃないだろう。ツチ族の人々を虐殺から守るため、酒や札束を使った卑屈とも言える外交術を使う支配人。どことなく負け犬の顔をした細身のドンチーだからこそ、4つ星ホテルの支配人という単なる一民間人を無力感の中にも気高く演じ、リアリティを獲得することが出来たのだ。

 そのかわりと言ってはなんだが、国連軍の大佐をニック・ノルティが(珍しく善人役)、報道のTVクルーにホアキン・フェニックスが(この人マドンナに顔が似てきた)、ホテルの親会社の社長にジャン・レノ(驚いたねー)まで登場して華を添える。赤十字の女性スタッフを演じたのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でデイヴィッド・モースの浪費家の妻を演じた人。

 ちなみにドンチーのオフィシャル・サイト「doncheadle.com」は最高にイカしてます。「DC」というロゴがスーパークール。つうか笑っちゃうよ、もう。


06.02.09
■その機長、高所恐怖症につき(あ、ネタバレしてますよ)

『フライトプラン』

 N.Y.の世界貿易センタービル事件以降すっかり定着した「テロへの恐怖」「他人への不信感」「航空機での不安」「アラブ人への偏見」などのマイナス心理につけ込み、観客の視点をミスリードすることで「な?人の心なんていい加減なもんだろ?」などとうそぶいて見せる傲慢さ。機内で行方不明になった娘を偏執狂的に探し回るジョディ・フォスターを、「いい加減にしろ」とか「うっぜー」とか「気持ち悪〜い」と思うようになってしまったら観客の負け。疑いの目や偏見を持つ者に戒めを与えるのは結構だが、では反対に「頑なに信じる者は最後に必ず勝つ」と言い切れるのか?真っ先に容疑者扱いされたアラブ人があっさりジョディを許す姿にも作り手の更なる傲慢さを見ずにおれなかった。あいつらが事件とは無関係に乗り合わせたテロリストで、「おかげであっさり入国出来たぜ。ありがとうよ」なんてセリフを吐いてニヤリとしてくれた方がまだ良かったかも(っておいおい)。なんてまあマジで噛み付くほど価値のある映画じゃないんだけどね。

 ちなみに機長を演じたのはショーン・ビーン。凛々しい制服姿に終始うっとりだったが、『ロード・オブ・ザ・リング』のDVDで音声解説を聴かれた方はご存知だと思う。実は彼、「高所恐怖症」である。『ロード〜』で山間部の撮影現場を移動する際、ヴィゴ・モーテンセンたちキャストやスタッフの乗るヘリコプターに怖くて同乗出来ず、彼だけはあの衣装のまま徒歩で移動したのだ。そんな彼がパイロットとはなんともシャレが効いてる。

 それにしてもジョディ・フォスターはこのまま「安売り女優」の道を進むのだろうか。すっかり「フツー」の俳優に成り下がったロバート・デ・ニーロのように。この2人が安売りを続け、マーティン・スコセッシが駄作を連発して崖っぷちに立たされた時、我々は夢のような作品を手にすることになるだろう。
 そう、『タクシードライバー2』である。


■70年代国際謀略映画復活(あ、こっちもネタバレしてますので)

『ミュンヘン』

 70年代、まだ活況を呈していた(?)東西冷戦を背景に「国際謀略モノ」とでも言うべきジャンルに数々の名作があった。ドゴール仏大統領の暗殺計画を請け負った殺し屋“ジャッカル”の暗躍を描いた『ジャッカルの日』(1973年)、CIAの内部抗争に巻き込まれた男が主人公の『コンドル』(1975年)、ナチ残党とアメリカ政府の闇取り引きを描いた『マラソンマン』(1976年)、そして“黒い九月”とイスラエル秘密諜報部の死闘がスーパーボウル・スタジアムでクライマックスを迎える『ブラック・サンデー』(1977年)などなど。
 かつて『プライベート・ライアン』で、ドキュメンタリー映画のような撮影技法と妥協の無いデジタルSFXを用いて、数々の戦争映画の名作やTVシリーズ『コンバット』をハイパーリアルに復活させて我々の度肝を抜いたスピルバーグ。今回彼が『ミュンヘン』でやりたかったのは、これら70年代に華やかであった国際謀略スリラーを最先端の技術で甦らせることではなかったか、と思う。

 パリ、ローマ、ロンドン、アムステルダム、さらにはベイルートにまで飛んで展開される暗殺と銃撃戦。どの殺害場面にも細部までリアリティを凝らし、「人間が銃で撃たれるとは」「人間が爆弾で吹き飛ばされるとは」どういう様子かを、さりげなく(これが大事)わずかの秒数で見る者の網膜に焼き付けるテクニック。出世作『ジョーズ』以来、残酷描写に絶対手を抜かないスピルバーグならではだ。
 中でも、チームのメンバー1人を殺したがために復讐される女殺し屋の最期が凄い。サイクリングを装って自転車で乗り付けたメンバーたちが手に持つのは空気入れに仕込んだ銃。空気圧で弾を発射したようなマヌケな音がした途端、女の裸の胸に小さな穴が2個ボツボツッと穿たれるのだが、すぐには出血しない。何事が起きたのか判らず朦朧と部屋を歩き回り、やがて椅子に座ると呼吸に合わせるように血がピューピュー噴き出す。あれほどまでに生理的嫌悪感をもよおす殺人描写はアメリカ映画には珍しい。

 そして、こうしたショッキングな描写の数々はスリルとサスペンスを恐ろしいほど加速させる。誰が敵で誰が味方なのか。世界各国の組織、謎の人物が複雑に出入りするヨーロッパの奇怪な闇。前述の名作群を彷彿とさせるどころか、苦悩し怯える暗殺チームの姿はひたすらリアルだ。5人それぞれの個性が際立っていて素晴らしい。これぞキャスティングの勝利。爆弾作りのプロにマシュー・カソヴィッツを持って来るセンスの良さには脱帽だ。
 さらに、情報屋「ルイ」を演じる俳優の風貌はロマン・ポランスキー(ポーランド系ユダヤ人、しかも少女淫行事件でアメリカをも追われた“流浪の民”)を思わせ、何よりも彼の「パパ」を演じたのが『ジャッカルの日』でジャッカルの捜査に奔走した「ルベル警部」こと、ミシェル・ロンズデールであることに驚愕。まったくなんてこった!スピルバーグめっ!
 アヴナーとルイが接触するのが『ラストタンゴ・イン・パリ』の冒頭でマーロン・ブランドが叫んだ高架橋の下だったり、ハンスの刺殺体が発見される場所が『フランティック』のクライマックスを思わせるセーヌ河畔だったり、という「パリの異邦人」を描いた名作への目配せをはじめ、パリ街頭の映画ポスターがいろいろと映りこんだりもするなど、シネアストであることを常に忘れないのもナイス。

 この映画の最終的なメッセージはもちろん「報復は報復を生むしかなく、それは決して終わることが無い」というものである。ラストシーン、遠くにそびえる世界貿易センタービルを見れば誰だって理解出来る。
 だがその回答へと至る道はエンターテインメントでなくてはならないだろう。70年代国際謀略映画へのオマージュ・・・・そこには「007シリーズ」を含めても許されるはずだ。暗殺チームの1人を演じるダニエル・クレイグが「次期ジェームズ・ボンド」に決まったのだから。


06.02.03


■『宵待草』という映画















 かつて「高橋洋子」という女優がいて彼女に恋焦がれていたことを思い出した、という内容の日記を書いたことがある。秋吉久美子や原田美枝子と同世代であり、70年代に数々の青春物や文芸物で知性的で芯の強いキャラクターを演じ、「美貌」と言うよりも「コケティッシュ」な魅力を漂わせた女優であった。

 『旅の重さ』や『サンダカン八番娼館 望郷』などが彼女の代表作なのだが、ここに『宵待草』(1975年)という作品を発見、中古VHSを購入した。監督は神代辰巳、脚本は長谷川和彦、撮影が姫田真佐久、そしてなんと音楽が細野晴臣(当時ティン・パン・アレー)!なんという豪華なスタッフだろう。共演は夏八木勲と高岡健二。退廃の大正時代を舞台に、アナーキストの秘密結社によって誘拐された右派政治家の孫娘と組織を裏切った2人の男の逃避行を描く作品と聞いて期待せずにはおれなかった。

 逃避行の先が東北の寒村ということで、美術セットなどには大した予算をかけずに済んだようだ。あぜ道や浜辺を北風に煽られながらトボトボと進む3人の姿を引きのカメラで撮るショットがやたらと多いから、まあ金のかけようがない。とは言え、気球を飛ばしたりSLや当時の自動車を走らせたりして多少スペクタキュラーな場面もあるにはある。ただ娯楽色はいっさい無く、全篇を通して漂うのはペシミズムと刹那主義だ。
 この3人が歩きながら、なにかっつうと「宵待草」など当時の歌謡曲を歌う。ミュージカルかよ、とツッコミたくなるほどよく歌う。だらしなく、ほとんど鼻歌のように。途中、組織の追っ手との格闘や、憲兵を襲って服を奪った挙句の銀行強盗などの見せ場もあるが、活劇に発展することは無い。あくまで淡々と話(というか画)が進む。『突然炎のごとく』や『俺達に明日はない』などヌーヴェル・ヴァーグやアメリカン・ニュー・シネマのサイドからの大正ロマンのつもりだったのだろう。

 そして肝心の高橋洋子だが、彼女はここでも脱いでいる。とにかく脱ぎっぷりがいい。当然ながら同行する2人の男との濡れ場だ。ところが小生は悶え苦しんだのだった。なにしろこの映画、濡れ場はもちろん、ほぼ全篇にわたって登場人物への「寄りの画」が無いのだ!可愛い高橋洋子の表情もほとんど読み取れないし、肝心のヌードだってあんなに小さくちゃ色気もクソも無い。もう何度もTVモニターに額をこすりつけそうになったよ。まるで『ビデオドローム』のジェームズ・ウッズのように。「ナマ殺し」とはまさにあのことだ。拷問かよっ!

 あ、いやいや・・・でもなかなかムーディーな作品ではあったね。『青春の蹉跌』『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』を書いた長谷川和彦ならではの心地よい脱力感と細野晴臣による軽快なスコアがうまく化合して、大正時代ではなく70年代中期の若者たちの映画になっていた。市川崑がATGで撮った『股旅』のように。男2人は犬死にし、1人取り残された女は何も知らずにでんぐり返しという「?」なラスト。これ!これだよ!70年代の青春映画は!ビバ!


■お前、マーク・ウォルバーグの兄貴だったのかよっ!(あ、ネタバレしてますよ)

『ソウ2』
『シン・シティ』

 「お、なかなか良いアイデアじゃん」と割りと楽しんだ『ソウ』であったが、余韻を楽しんだり反芻してゾクゾクするほどの出来ではなく、だから続編が作られてアメリカで大ヒットと聞いても「はあそうですか」と他人事であった。今回、新文芸坐で『シン・シティ』(再見したかったのだ)と2本立て上映ということで、ついでに見てみた。

 一作目は、『ツイスター』で「悪い竜巻チェイサー」をやってた俳優(名前憶える気ねーのかよ)やダニー・グローバー、『スターシップ・トゥルーパーズ』のディナ・メイヤーが出ていたりして妙な安心感があったが、今回の『2』はD・メイヤーのみ。もちろん犯人の「ジグソー」も続投しているものの、この人実は『ミシシッピ・バーニング』や『グッドフェローズ』などのチョイ役の他はほとんどTV俳優。

 でもって今回、肝心の主人公はおっそろしく華の無い男。どのくらい華が無いかと言うと、マーク・ウォルバーグに温水洋一を足しちゃったくらい冴えない顔の中年男。こりゃキツイわ〜。見れば見るほど「お前、マーク何バーグだよっ」と心の中でツッコんでいたら(見ていてこのくらい余裕のあるサスペンス度だった)、最後クレジットを見て唖然。ドニー・ウォルバーグだってさ・・・・。実の兄貴かよっ!!

 お話の方はまあ『SW/帝国の逆襲』ね。「アイムユアファーザー」ってやつ。意外な展開に軽く驚いてみたりしたものの、コケ威し的にチャカチャカとめまぐるしく動く画面にうんざり。あれってやめたほうがいいね。サスペンスもスリルも感じないどころか、作り手の品位と偏差値を下げるだけですから。ホント頭悪そう。
 え?『ソウ3』?まだ続くの?お前ら父娘、もっと違う世直し考えろよなー。

 再見した『シン・シティ』は1回目よりもはるかに面白かったな。「あの画作り」がそんなに気にならなくなってた分、ストーリー展開の面白さに集中出来たからだと思う。それに俳優達の怪演、女優たちの快艶、サイコーだったね。でもまあ所詮劇画だけど。



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