Diary

■2006年3月

06.03.27
■クローネンバーグ VS アメリカ

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の感想は「David Cronenberg(3)」で。

■これ面白いか?

『シリアナ』

 押井守作品は判りにくい。
 『機動警察パトレイバー The Movie』の2作に『攻殻機動隊』に『イノセンス』。どれもオープニングから軍事用語やコンピューター用語が乱れ飛び、一体何が起きてるのか判らないままどんどんストーリーは進んで行く。1度見ただけでは本当にチンプンカンプンな場面も多い。だから目を皿のようにしてスクリーンを凝視し、必死に耳を澄ませてセリフを聞き取り、脳をフル回転させて作品に向き合う。と言うか、これはもう格闘だ。そうやって知的好奇心を煽るだけ煽られ格闘しているうちに、何とも言えぬ快感が生まれる。それはストーリーを理解出来るようになった喜びとは違う快感だ。純粋に語り口の饒舌さに酔ったのだろう。全部を理解出来なくても、語り口と美しい画で充分引っ張ってくれる作品。特に『イノセンス』の情報量はハンパじゃなかったが、実は目の前からいなくなった女への一方的な思いをだらしなく引きずる男の寂しい物語に過ぎなかった。その辺りのギャップが押井作品の良いところ、と言うか小生が押井作品を愛する所以である。

 『トラフィック』の脚本家がストーリーを書いて自身で監督もした『シリアナ』。場面転換と判りにくい会話のやりとりが原因で複雑に見える物語だが、実は大して難しい話ではないことが徐々に見えて来る。それなのに押井アニメとのこの違いは何だろう。「何が起こってるのかよく判らないけど、なんだかスゴく面白そう」という知的好奇心の原動力がウンともスンとも言わない。精彩を欠いた登場人物(つうか役者)のせいか、磁力を発しない画作りのせいなのか。見ていてちっともワクワクしないし面白くない。この脚本をせめてスティーヴン・ソダーバーグが撮っていたら・・・・と思わざるを得ない出来だ。それにこの程度の陰謀って全然刺激的じゃないっすけど。



■またまた「ヤング・アメリカン」

『マンダレイ』

 痛快作『ドッグヴィル』に続く、飛行機恐怖症男ラース・フォン・トリアーによる「アメリカに行かずにアメリカを描いてみよう三部作」の第二弾!
 主役のグレースは、前作でノイローゼになりそうだったニコール・キッドマンからロン・ハワードの貧相なルックスの娘、なんとかハワードにバトンタッチ!顔も体も思いっきり貧相で、なんだか見ていてツライぞう!
 グレースの父親も、ギャングと言えばこの人ジェームズ・カーンからハリウッド随一の怪優ウィレム・デフォーにバトンタッチ!
 どうした?どうした?みんなあの木村祐一とスティーブン・セガールを足したような顔の気狂い監督のことが嫌いなのかい?
 でも前作に続いてローレン・バコールとジェレミー・デイヴィスとクロエ・セヴィニーが続投ってことは嫌いになってない俳優たちもいたんだね!
 そしてすっかりトリアー作品でしか顔を拝めなくなったジャン・マルク・バールに、最早トリアーと一心同体、ヨーロッパ随一の怪優ウド・キアーも華を添えてるよ!
 さてさてグレースの世直し旅、今度のターゲットは奴隷制度がいまだひっそりと息づいてる農園「マンダレイ」だ!この農園で黒人たちを縛り付けている掟から彼らを解放し、新しい自由な秩序を与えようとするグレースだが果たしてうまくいくかな?
 う〜ん・・・・や、やっぱりムリだったね!
 アメリカの黒人問題、そんなに簡単には解決しないよね!だからグレース、今度は焼き払わずに逃げ出しちゃったぞう!
 さあて次はどこに行って何をやってくれるんだろう?お次のタイトルは『ワシントン』だってさ!今度のグレースは誰が演じるのかな?楽しみだね!
 でも、エンディングはまたまたデイヴィッド・ボウイの「ヤング・アメリカン」でお願いするよ!
 約束だよ!じゃ、またね!


■マット・ディロンにオスカーやれよっ!

『クラッシュ』

 「群像モノ」「人間交差点モノ」の傑作に『ショート・カッツ』や『マグノリア』があったが、双方とも掟破りとも言えるアンビリーバボーなラストで重層的なストーリーを収束させていて、唖然というかお見事と言わざるを得ない作品だった。各エピソードもコメディだったりデフォルメされカリカチュアライズされた西海岸の街の日常だったから、驚愕のラストとのバランスも良かった。あんな寓話のような映画が辛うじてリアルだったのだ、2001年の9月11日までは(あの事件てアメリカ映画史を語るのに便利な記号になっちゃったのね、結局)。

 『トラフィック』や『NARC』に通ずるようなヒンヤリとした空気感が、冬のロサンジェルスを舞台にしたこの作品を隅々まで制御している。そこかしこで、いがみ合い、罵り合い、侮辱し合う白人・黒人・イスラム・チャイナ・メキシカンなどなど。あまりにも殺伐とした世界。人種間の火薬庫のような街に降る火種は、車社会なだけに「自動車事故」である。
 各エピソード、演じる俳優達のアンサンブルがとにかく素晴らしい。ブレンダン・フレイザーやサンドラ・ブロックなどのスターが果敢にも「嫌な奴」「病的な奴」に挑戦している。中でも白眉は、人種差別に凝り固まった最悪の警官を完璧に演じるマット・ディロンだ。彼が職質ついでにセクハラしたサンディ・ニュートンを、後日偶然居合わせた交通事故現場から必死で救出する場面は感涙モノだ。『シリアナ』のジョージ・クルーニーなんぞが助演男優賞のオスカーを獲得したのが全くもって信じられない。どう考えてもマット・ディロンだろう!おい!
 マーク・アイシャムによる音楽がどの場面でも素晴らしい効果を上げている。『モダーンズ』『ハート・ブルー』でも彼のスコアは作品のトーンを完全にコントロールしていた。スティーヴン・ソダーバーグ作品の常連作曲家クリフ・マルティネスと同じく、シンセサイザーの使い方がまさに小生のツボ。

 ドン・チードルが出演の他、プロデュサーにまで名前を連ねているのもポイント。偉くなったんだね、ドンチー。彼が演じるキャラクターもイイが、『ホテル・ルワンダ』の後ではあのくらいの仕事はお茶の子さいさいだろうな。彼の「母さん、今白人女とセックスしてるところだよ」というセリフは何かのパロディではなかったかな、確か。

 それにしてもこれが今年のアカデミー作品賞か。居心地悪いなあ。アカデミー向きの作品とは思えないよ、全然。しかもマット・ディロンに賞あげないとくれば、『ブロークバック・マウンテン』など他の4本にあげるくらいならこれしかないよね的な消去法で決まったとしか思えないんだよね。オスカーなんかむしろ獲らない方が良かった。ま、あんな賞、どーでもいいか。


06.03.07
■時をかけるオレ

『網走番外地』(1965年)
『時をかける少女』(1983年)

 新文芸坐で始まった「映画監督が愛した監督 日本映画監督協会70年の1本+1」に行く。

 大林宣彦と大森一樹(どうやら大森の結婚式で大林は仲人を務めたらしい)の対談を途中から聞く。なにやら年寄りの昔話に聞えるようだが、彼らが話していたことは実は正論。「ハンディカム回して映画監督気取りは結構だが、今の若い人にはもっとクラシックを勉強して欲しい」「ヌーヴェルヴァーグの連中だってアメリカの古典をよく見て研究してた」などなど。
 「昔の若手はもっと上手かった」のは本当だ。音楽もアートもそうだが、デジタル技術が発達してアマチュアとプロの垣根を取っ払ったことが良いのか悪いのか。低コストで出来るということが表現の敷居を下げ、結果、基本技術すら勉強してない輩がパッと見のハデな映像でメインストリームに躍り出ることも少なくない今日。年寄りたちが苦言を呈さずとも、ほとんどの奴が飽きられ消えていくことになるはず。当然だ。

 誰もが知っているプログラム・ピクチャーの名編『網走番外地』を実は初めて見た。石井輝男はさすがだ。面白い。導入部でどんな展開になるか判ってしまうが、それでいい。嵐寛寿郎が「伝説の殺人囚」を演じているが、石井輝男後年の怪作『直撃地獄拳 大逆転』のオチの元ネタはこれだったのか、と納得。

 何はともあれ『時をかける少女』である。原田知世主演第1回作品&角川映画、である。

 20年以上前にビデオで鑑賞、後の作品『転校生』『さびしんぼう』を絶賛する声が多い中、「『時をかける少女』こそが大林宣彦の最高傑作である!」と豪語し続けたものであった。思春期の少女が抱く「少々タガがはずれた世界観」と「初恋の記憶」が「アイドル映画」という特殊なカテゴリーの中で見事に結晶化した作品であり、それを成し遂げたのは原田知世の「学芸会並の演技力」と尾道という「異界」であった、という理由だったはずだ。特にクライマックスで原田の口から搾り出される「胸が苦しい!これは何?これが愛なの?」は名セリフであった。
 以後、大林作品に無関心であった年月が過ぎ、久し振りに・・・・ほんとうに久し振りに『時をかける少女』を見ることになった。あの時の絶賛ぶりを確かめたくて・・・・・。

 歳をとると実に涙もろくなる。
 僕は20年以上の時を経て完全にこの作品に打ちのめされた。原田知世と高柳良一の2ショットとそのバックに流れる叙情的な音楽に、たったそれだけのシーンに何度も涙腺を緩められた。初恋の甘い記憶・・・・そんなものは小生には無い。中学時代に好きな女生徒はいたが熱烈な恋心が届くことは無かったし、高校時代はロックやアートへの関心が異性に対する興味を凌駕していた。だから、『時かけ』で描かれるような10代の思い出なんぞは一切存在しない。なのに何故泣けてしまうのだろう。同じ感覚は『小さな恋のメロディ』を再見した時にも全開であった。

 人生においてもう2度とやって来ない瞬間を見せつけ、記憶をほじくり返し、憧憬と羨望を引き出し、後悔を強い、「子供から大人に変わる」という、人生において最も甘美なエポックをはるか遠くへ置いて来てしまった自分を確認する作業。
 「何故おれはこんな風に甘い思い出を持てなかったのか?」「何故おれはこんなに薄汚れた大人になってしまったのか?」・・・・・記憶を抹消するためラベンダーの香りのする薬品を嗅がされて意識を失う瞬間、原田知世の放つ「あなたのこと忘れないわ」というセリフに小生の涙腺は最大級に開いた。

 失われた時をもとめて・・・・この映画からもう23年が過ぎてしまった。「完璧に作られたアイドル映画」という評価に変わりは無いが(エンドロール映像も含めて主題歌が素晴らしすぎ)、さらに付け加えるならば、上原謙と入江たか子が演じる老夫婦の佇まいを通して「年月を経た愛のパースペクティヴ」を見せ、「めぐりあいの神秘」と「人間はどこから来てどこへ行くのか」という哲学的命題をもきちんと射程に据えた作品であったと再評価する。あの無常感は凄い。
 
 『HOUSE』を『イレイザーヘッド』に喩えるなら、『時をかける少女』は『ブルー・ベルベット』である。



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