Diary

■2006年5月

06.05.26
■今年は「オレにおける‘ブロークバック年’」なのか?

『グッドナイト&グッドラック』

 今年はヘヴィな映画が多い。民族・人種問題、テロリズム、戦争、暴力、ゲイなどの問題を扱い、どれも「今の世界、これでいいのか?」という疑問を掲げていながら、「映画は娯楽である」ことを忘れない素晴らしい作品ばかりだ。昨年の不作が嘘のようだな。

 ジョージ・クルーニィ監督が、50年代に吹き荒れた「赤狩り」に対して敢然と立ち向かった実在のCBSキャスター=エド・マローとその仲間たち、という題材をあえて今選んだ理由は、当然ながら9・11以降のアメリカを覆い続ける空気への疑問と抵抗だ。
 黒いものを黒いと言えないような恐怖政治。些細なことが偏見によって拡大する歪んだ世界。軍の脅迫、上層部やスポンサーからの圧力、新聞記事による攻撃、視聴者からの電話などにもみくちゃにされながらも、報道者としての信念を貫くマローとスタッフたち。やがてある者は死を選び、ある者は局を解雇される。
 だが、物語の運びはあくまで淡々と進む。番組内でのマッカーシー上院議員とマローとの対決をいくらでも緊迫感溢れるエンターテインメントに出来たものを、クルーニィはそうしなかった。マッカーシー本人のフィルムを使い、誇張やドラマ性を避け、あくまでもリアルでクールに撮り上げた。そこに彼の誠実さがある。

 それにしても、なんともムーディな作品であった。煙草のけむりがもうもうと立ちこめ、ジャズがしっとりと流れるバー。夜を徹してスコッチを飲みながら語り合い、お互いの仕事を讃え合う男たち。頭髪を撫でつけ、白いワイシャツの袖を捲くり、片時も煙草を話さないオヤジたちの佇まいが怖ろしくセクシーだ。
 そして、エド・マローを演じるデイヴィッド・ストラザーンの顔・・・・なんという美しい風貌だろう。憂いを湛えながらも、芯の強さを窺わせる眼光の鋭さ。煙草やグラスとの相性も抜群だ。今最もハードボイルドな男はストラザーンだ。モノクロ映像に良く映えるし、きっと拳銃も似合うだろう。滝本誠師の新刊『渋く、薄汚れ。』(フィルムアート社)を読んでいたせいもあって、ストラザーンがフレームインする度にノワールな空気を感じ取っていた。もうウットリしっ放しだったよ・・・・え?『L.A.コンフィデンシャル』に出てたって!?


■暫定的ベスト2はこれ(あ、本当にネタバレしてますんで)

『ナイロビの蜂』

 「レイチェル・ワイズがアカデミー助演女優賞を獲得したものの、彼女の役柄は始まってすぐに死ぬ人妻」という一点しかその内容を知らずに見た。スパイ小説で有名なジョン・ル・カレの原作であるし、まさかアフリカにおける製薬会社と英国政府の陰謀に関するサスペンスとは!
 時制の入れ替えやフラッシュバックを多用してストーリーを語る映画がここ何年かで増えた印象があるが、そのトリッキーな手法に溺れがちで内容的にはお粗末なものが多い。この『ナイロビの蜂』は見事だ。
 開巻早々妻の死を告げられた夫が、その死の謎を探るうちに生前の妻がナイロビの地でやっていたことを知って行くのだが、そのプロセスの中で、ロンドンでの出会いからナイロビでの生活、活動家としての姿、妊娠そして死産の悲劇などを巧みに織り交ぜる。
 外務省の職員としてナイロビに赴任するも庭作りに没頭し、妻の活動には距離を置いていたが、その突然の死に驚き、遺体の身許確認の時には涙も見せなかった夫が妻の実像と彼女が巻き込まれた陰謀を知るにつれて段々と変わって行く姿を、レイフ・ファインズの素晴らしい演技と時制の入れ替えでエモーショナルに見せる。
 特に冒頭、ロンドンでの逆プロポーズ場面から、ナイロビの鉄道から見た風景へのジャンプが怖ろしく見事。しかもスラムの様子をリアルに捉えた映像は、さすが『シティ・オブ・ゴッド』の監督だけある。貧しくもたくましく生きる子供たちの姿が素晴らしい。
 陰謀を嗅ぎ回ったおかげで本国へと送還されパスポートも取り上げられたレイフ・ファインズ。妻の従兄弟(情に厚いラテン系)とその息子(コンピューターおたく)に会うのだが、彼らの目覚しい活躍が展開に弾みをつけ、サスペンスが一気に加速する。パソコンで妻のファイルを探るうち、偶然開けてしまったウィンドウに妻が撮った夫のムービーが映し出されると、気を利かせてそっといなくなる親子、などという泣ける場面も上手い。ロンドンでの彼女のアパートを訪れ泣き崩れるファインズの姿も胸を打つ。家主不在のせいで死んでしまった「庭」で静かに復讐を誓うのだ。
 そして偽造パスポートを手にベルリンへ。そこには製薬会社の動きを監視する市民団体があるのだが、妻と情報交換していたその連中にも魔の手が。サッカー遊びをする男たちが実は刺客であったというシャレが狂気を帯びていてポイント高し。ロンドン〜ベルリンでのサスペンスフルなシーンの連続は、『ミュンヘン』に匹敵する。
 渦中の新薬を開発した医者が生きていると判り、死を覚悟してナイロビへ舞い戻るファインズ。医者を演じるのはピート・‘コバヤシ’・ポスルスウェイト。宗教家を気取った言動の彼が子供たちを伴って現れる場面は、嫌でも『地獄の黙示録』のカーツ大佐を思い出させる。
 武装ゲリラに襲撃され、難民キャンプを脱出するシーンで、夫はやっとのことで妻の心を知る。子供を連れて行きたいと叫ぶ姿は、まるで妻がのりうつったかのようだ。そして妻が殺された湖で自分も刺客を待つ。この世の果てのように美しい風景。彼の死は、ラストシーン直前に挿入されるロンドンでの彼の葬儀場面で知らされてしまい、この陰謀劇の決着の1つもここで披露されてしまう。そして、時制の入れ替えが最大級に効果を発揮することになるのだ。
 ラストシーンで、この作品が「愛の物語」であったことを確認させるために。


06.05.13
■今度は指輪を貰っちゃいました

『僕の大事なコレクション』

 『エターナル・サンシャイン』『シン・シティ』の2本で「POSTER-MAN Movie Awards 2005」でベスト・アクターに輝いた(?)イライジャ・ウッドが何故か出演しちゃった低予算インデペンデント映画。原題の直訳は「全ては照らし出される」。思い出の品なら何でもジッパー付きビニール袋に入れてとっておく癖のあるイライジャが、亡き祖父の思い出の品のルーツを探るためウクライナに飛び、現地ガイドの若者とその祖父と共にルーツと思しき土地を探す旅を続けるうちに、戦時中ナチスによって迫害されたユダヤ人たちの過去が浮かび上がり・・・・というお話。
 若者と年寄りのロード・ムービーという手垢にまみれた図式に、適度にヘビーなテーマを絡めつつ、威勢の良いロックや叙情的なメロディをこれでもかと鳴らす・・・・まるで「日本映画」のようだったな、これ。こんなこと言ったら怒られるかも知れないが(誰に?)、なんかね、あの『キャシャーン』を思い出しそうになったよ。戦争を知らない者が漠然と考える「戦争の悲惨さ」ってやつね。
 どうだろね、イライジャ。こんなのに出てる場合かね。6月公開の『フーリガン』てのも予告編見たら苦笑モノだったしな・・・・。


■松次郎&竹次郎兄弟が作ったから「松竹」というのだそうだ

『暖流』(1939年)

 以前新文芸坐で見た増村保造監督の『暖流』(1957年)はリメイクであった。で、今回はオリジナル。腐敗した病院を立て直すために乗り込む若者に佐分利信、病院長のお嬢様に高峰三枝子という往年の(ま、今からすればだけど)名優と大女優を持って来て格調高く描いていたのだな、オリジナル版は。増村版のようにギラギラしていない。病院内をスパイする看護婦が後半、スパイの雇い主である若者にどんどんお熱になりストーカーと化して行く姿を、増村版では左幸子が物凄い瞬発力で演じていたのに対し、このオリジナル版(なんという女優だったかのぅ・・・)ではひたすらお上品である。今更のように増村保造のエネルギッシュでモダンな演出に恐れ入る思いだ。
 なんとこの『暖流』、1966年には若者=平幹二朗、お嬢様=岩下志麻、看護婦=倍賞千恵子というキャスティングで再々映画化されている。看護婦が左幸子から倍賞千恵子になったことでストーカー色がぐっと後退したと思しいが、お嬢様に岩下志麻とは素晴らしい。こりゃあ見たいや。
 でも3度も映画化されるほど魅力的なストーリーだろうか、これ。


『安城家の舞踏会』(1947年)

 戦後没落し屋敷を手放す瀬戸際に立たされた華族の抵抗と悲哀と無常感を描く「超大作(ポスターのコピー)」。家長に滝沢修(『皇帝のいない八月』の総理大臣がナイスだった)、長男に森雅之(なんといっても『浮雲』ね)、長女に入江たか子(『時をかける少女』の深町君のおばあさん)。そして、没落に打ちひしがれて自暴自棄になった一家を1人明るくけなげに引っ張るのが女神(ミューズ)=原節子である。
 小津作品『晩春』(1949年)『麦秋』(1951年)『東京物語』(1953年)で「行き遅れ」や「未亡人」を演じることになる原節子の、まだ若々しい健康的な美貌がフルスロットルだ。そして最も見るべき場面は、自殺しようとした父親を突き飛ばして転がったピストルを握るカットだ。もちろん撃つためではなくそれを隠すため、たまたま握ってしまっているのだが、あの日本人ばなれした絶世の美貌と黒い拳銃が偶然にも一瞬だけ作り出す画は、まるで、いやあれこそ「フィルム・ノワール」であるまいか。
 田中絹代にピストルを握らせたものの、その和風な風貌と拳銃の取り合わせに苦笑を禁じ得なかった小津流フィルム・ノワール『非常線の女』(1933年)だったが、後に『安城家の舞踏会』で拳銃を持つクールな原節子を見た小津は、「これほどまでに拳銃の似合う女優がいたのか」と驚きはしなかったのだろうか?そして自作での原節子の扱いに疑問を持たなかったと言い切れるだろうか?
 ・・・・っておいおい。滝本師の新刊を読んでいる最中なのでどうにもこうにも「ノワール」なのね。


『気違い部落』(1957年)

 んまあ〜すごいタイトルなので、昔から本などで見かけるたびに「一体どんな映画だ?」と想像したもんだが、まあ脳に異常をきたした者ばかりが暮らす村落を描いている映画なんぞではなく、昔はフツーによくあったであろう山間部の村を舞台にした人間模様だった。ま、当然だが。
 戦後10年以上経つのに、医者もおらず、自給自足や物々交換で生活し、「夜這い」や「土葬」の風習はもちろん「村八分」まで現存する閉じられた社会をコメディとして語り、徐々にシリアスに、最後はシニカルに締めくくるという内容。「こいつらヘンでしょう?どうかしてるでしょう?でもこれ、あなた方が住む町と大差無いんですよ」という説教。まあ、わかるけどね。ただ全篇を森繁久弥のナレーションで説明するってのがどうにもいただけない。個人的に森繁が大嫌いなのでね。「お前、むしろこの村の住人やれっ!」だよっ!



■なんと、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』以来

『ブロークン・フラワーズ』

 実はジム・ジャームッシュの映画は、『パーマネント・バケーション』と『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と『ミステリー・トレイン』しか見ていない。このうち映画館で見たのは『ストレンジャー〜』だけだ。別にジャームッシュが嫌いで避けているわけではない。最後にビデオで見た『ミステリー〜』の永瀬正敏の演技がイタくて見てられなかったのは確かだが、ただなんとなく見ずにこの20年来てしまった。
 かつての恋人と思しき女性から来た手紙で実は息子がいたことを知り、その差し出し主を特定すべく思い当たる女性たちを訪ね歩く中年男。演じるのがビル・マーレイと来れば見るしかないでしょ。ウェス・アンダーソン監督作『天才マックスの世界』『ロイヤル・テネンバウムズ』『ライフ・アクアティック』、そしてソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』で「オヤジの星」に輝いたビル・マーレイなのだから。だから、見たい映画がたまたまジャームッシュ作品だった、ということだね。

 今回のオヤジもいつもと全く同じテンションとアプローチで演じてます。でもって物語に急展開や加速や盛り上がりがほとんど無い。相手役の女優にジュリー・デルピーやシャロン・ストーンやジェシカ・ラングやゴス・メイクのティルダ・スウィントンなどツワモノが揃い、作りこめばちゃんとしたコメディに仕上がるプロットを持ちながらも一向に面白くならない。ラストで「こいつおれの息子かも」とある若者に近づくものの、結局は気味悪がられ、逃げられてしまう。果たしてあの若者が息子だったどうか判らず、途方に暮れるビルの顔でおしまい。フツーの映画ファンは「???」だったろうな。
 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で若者の倦怠(のようなもの)をストーリーではなくムードで描き切ったジャームッシュは、今回、中年の倦怠(のようなもの)を描いたということになる。ビル・マーレイの顔は何が起ころうと一貫して無表情だ。だから倦怠なのかどうなのか実は判らない。ラストだって途方に暮れているのかどうかすら判らないのだ。面白くなりそうな展開を、あのつまらなそうなくたびれたような覇気の無い顔で全て閉ざしてしまうビル・マーレイ。死んでしまった元恋人の墓参りの時にうっすら浮かべる涙と、息子かも知れない若者が逃げるのを呼び止める叫びのみが彼の感情の発露であった。
 この映画はジャームッシュ版『鬼火』かも知れないな。


06.05.03
■引き続き松竹映画を見る

『拝啓天皇陛下様』(1963年)

 軍隊で一緒になった2人の男(渥美清と長門裕之)の戦中・戦後に渡る友情を描く悲喜劇。「男はつらいよ」シリーズ前の渥美清のコメディアンぶりが随所で堪能出来る一篇だが、あまりにも突然で残酷なラストに唖然。こともあろうに結婚式の前夜、酔っ払った渥美はトラックに轢かれて死ぬのである。
 戦時中、不敬罪にあたるとも知らず天皇に手紙を書こうとした渥美を慌てて止めた長門だが、ラスト、どこへぶつけたらいいのか判らない悲しみと怒りから今度は自分が天皇に宛てて手紙を書くことになる。「拝啓、天皇陛下様 今日あなたの赤子が死にました」と。これから自分が死ぬとも知らずに千鳥足で浮かれながら画面奥に消えて行く渥美清の姿を見送らねばならぬラストシーンのつらさ。
 キャラクター的に「寅さん」と大いにかぶる主人公ならではの悲劇と戦争批判。


『集金旅行』(1957年)

 ポックリ死んだおっさんの残された子供のために、同じアパートの住人である佐田啓二が未取立ての貸金を集金することに。そしてかつて弄ばれた男たちから慰謝料をせしめる目的で同アパートの岡田茉莉子も同行。集金をしながら、若い男と駆け落ちしたおっさんの女房のところまで子供を送り届ける、中国・四国への旅を描いたラブコメディである。
 カラー&シネマスコープの大画面に繰り広げられる、海と緑が織り成す瀬戸内の大パノラマ。観光地で売ってる絵葉書のように美しい(?)風光明媚な景色と昭和30年代のひなびた町並み。クライマックスは徳島の阿波踊りが延々と映し出され、この映画が国内旅行でさえまだまだ贅沢だった頃ならではの「観光映画」
として機能するために作られたのだと納得。
 失われた昭和の風景を楽しむだけなら他の映画でもいいだろう。この作品で見るべきは何と言っても岡田茉莉子の美貌である。小津安二郎の『秋日和』でも見せてくれた、「モダン」で「賢く」て「肝っ玉」の据わった「快活」なキャラクターに裏打ちされたあの美貌。こんなに素晴らしい性格の女性があんなに美人なのだ。とにかくあの絶世のクール・ビューティにウットリしっ放し。見ていてせつなくなったよ。世の中にはこんなに美しい女性がいるのに、銀幕の人、しかも50年も昔の人なのだ。胸が苦しかった。見終わってからものぼせてしばらくボーッとなっていた。これは恋だな。
 映画にはこういう楽しみ方もあるのだ。


『お嬢さん乾杯』(1949年)

 原節子&佐野周二の『驟雨』コンビが贈るラブコメディ。没落華族のお嬢様と家柄も学歴も無い成り上がり青年が見合いをしたものの・・・・というお話。今見てもテンポがよく楽しい作品である。
 この映画、もともとスタンダードサイズで撮影されたものであるが、シネマスコープ最盛の折り再公開された時に、上下をバッサリと切って無理矢理シネスコにしちゃったもんだから、フレーミングがとても不自然だ。原節子の髪と首が映ってなかったり、背景の映りこみが不十分でイライラする。ブローアップされてるから画面もザラついてる。見ていて気持ち悪くなるくらいだ。
 でもって、なんと松竹はオリジナルのマスターを廃棄してしまったんだそうだ。だから『お嬢さん乾杯』の現存するフィルムは、そのように劣悪なシネスコ版のみだという・・・・。
 作品保存に関しては悪名高き松竹。小津作品などは長年ひどい扱いだったらしい。そういえば、北野武がベネチアでグランプリを獲得した後、自社で製作した北野作品のポスターやらチラシやらを慌てて某シネマショップに買いに来たという噂だ。つまり北野作品の資料を一切保存していなかったということになる。本当かよっ。


『カルメン故郷に帰る』(1951年)

 ご存知、国産初の総天然色映画。まあ面白いんだけど、俳優たちよりも雄大な浅間山(舞台が軽井沢なのね)の風景をフレームに収めようと必死な感じだったな。なんか、「総天然色」に振り回された映画かも。それにトークショーのゲスト山田太一氏も言っていたが、どうにも高峰秀子がミスキャストな印象が拭えない。東京に出て行って踊り子(まあストリッパーですな)になったバカ娘が故郷に錦を飾るつもりが恥をさらして・・・・というコメディなんだけど、でこちゃんがハジけてない、というかバカっぽく見えないんだよ、ちっとも。愚かであるからこそのおかし味や哀れが漂わない。父娘をめぐる心模様も何か釈然としない。カルメンが村を去るシーンで、普通ならそれまで娘を恥じていた父親が駆けつけて和解したりするんだが、その辺をバッサリ描かないのが特筆すべき演出なのかも知れないけど、あまりピンと来なかったしな。
 でもまあ高峰秀子の胸元と脚には見とれましたが。


■実写?アニメ?・・・・いや・・・まあ・・・・CG、だね

『立喰師列伝』

 『イノセンス』から2年、押井守の新作はキャラクターを写真撮影してそれをコンピューターで動かす・・・・なんと言うか、昔TVでやってた『猫目小僧』をCGIで作ったみたいな映像で描く、「立喰師」と呼ばれる食い逃げ屋たちが現れては消えて行った「食の昭和史」である。
 押井守が脚本を書いた『人狼』のオープニングばりに‘アーカイヴス’な「ウソ資料映像」が歴史背景をでっち上げ、山寺宏一の惚れ惚れする声で語られるナレーションはひたすらアカデミックで悪ふざけを加速させる。パロディも満載。学生時代の庵野秀明が作った8ミリ映画『帰って来たウルトラマン』も登場するマニアックぶり。矢継ぎ早の映像と決して平易ではない語り口に、ついつい置いて行かれそうになるのもいつもの押井作品ならではの醍醐味。
 かつて『マトリックス』の‘マシンガン撮影’を見て、「僕なら中華鍋でチャーハンを振る場面を撮る」と言い、『2001年宇宙の旅』の新世紀公開版パンフに寄せたテキストで「この映画にはやたらと食事のシーンが多い」と鋭く突いた押井守。「食」に対する自身の哲学を中心に据えた作品を初めて作ったことになる。
 だが、食い物に対する薀蓄をひけらかしたり、美味いものを追求する信念なんぞを声高に唱えるわけではない。あくまでもこれは、押井の、押井による、押井のための「昭和史」なのである。そんな妄想に我々は付き合わされるのだ。ま、映画ってそういうもんだからね。
 しかし、全篇を山寺宏一のナレーションで綴れば綴るほど、彼の話芸が心地良ければ良いほど、惜しい気がしてならない・・・・何故キャラクターがアニメではなくて写真のCGIなのだ!?これがちゃんと手描きのアニメだったらねえ・・・・。
 


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