Diary

■2006年6月

06.06.30
■特集「脇役列伝 脇役で輝いた名優たち」〜前半戦〜


@トークはつまらなかった

 フランス文学者&エッセイスト鹿島茂氏の著書「甦る昭和脇役名画館」は素晴らしい本だった。氏が主に学生時代に見まくったプログラム・ピクチャー(1日に10本以上見ることもあったらしい)において、忘れ難い名演や存在感を見せた脇役たちを12人36作品に絞って取り上げ、彼らが輝いた作品の詳細な解説を試みた熱い1冊である。ビデオソフトすら出たことがない作品の物語紹介や脇役たちの知られざるエピソードなど、資料的価値も高く、氏の優れた記憶力と綿密な調査と比類なき情熱の賜物である。

 刊行から半年、池袋の新文芸坐が本の内容にほぼ沿った形での特集を組んでくれた。初日には鹿島氏のトークショーも行なわれた。だがしかし・・・・これが予想に反して実につまらなかった。抑揚の無い平板なしゃべりかたがまるで学校の講義を聴いているようで、活字から伝わって来た熱いものを感じることなど出来なかったのだ。
 新文芸坐のトークショーは決して話し上手のゲストばかりではない。映画の裏方さんやご高齢の方々など、むしろトークの間が悪いと言える。ゆえに持ち時間を5分10分と過ぎても話が終わらなくなることがほとんどだ。しかし、鹿島氏のトークは30分ちょうどできっちり終わった。計算された破綻の無いしゃべり。「プログラム・ピクチャーの枠からハミ出さんばかりに輝いていた名脇役」を理路整然と語ることのなんとも言えぬ居心地の悪さ。「ここ、試験に出ますよー」というフレーズがいつ飛び出すかとヒヤヒヤ。「あ、この人とは酒飲んでも面白くないかも」と思わせる人だったな。顔は板尾創路に似てるんだけどね。
 1度トーク聴いたくらいでそんなに全否定することもないか。


A「荒木一郎」之巻

『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』(1973年)
『白い指の戯れ』(1972年)

 ド近眼でメガネをかけていた頃の小生はガリガリに痩せていて、メガネをはずした顔が荒木一郎にちょいと似ていた。ショボショボした目と頬骨の出た顔の凹凸具合が他人とは思えなかった。大島渚の『日本春歌考』を見て確信したものだった。
 『日本春歌考』では欲求不満の受験生を、『にっぽんSEX旅行』では冴えない童貞男を演じた荒木一郎だが、その後彼は俳優業だけではなくシンガーソングライターや実業家という地位まで手にし、「不良中年」という名誉あるレッテルさえ貼られることになるのはご存知のとおり。
 そんな荒木一郎には童貞臭よりもやはりニヒルでやさぐれたキャラクターの方が断然似合う。『白い指の戯れ』のどこか虚無的なスリや、同じ村川透監督で松田優作主演の『最も危険な遊戯』でのハードボイルドな佇まい、それに中島貞夫作品『893愚連隊』の飄々としたチンピラぶりも印象深い。
 ちなみに『白い指の戯れ』は伊佐山ひろ子(タモリのいとこ)のデビュー作であった。20歳当時の彼女はなんと綾瀬はるかに似ていることが発覚!いや、これホント。


B「成田三樹夫」之巻

『兵隊やくざ』(1965年)
『柳生一族の陰謀』(1978年)

 成田三樹夫のフィルモグラフィを見るとそのほとんどが「血の気の多い」映画である。当然ながらやくざや悪役ばかり。だが役柄を取っ払ってよーく見ると、実は成田三樹夫はかなりの二枚目である。インテリでもあり(東京大学を中退)家族思いの素敵なジェントルマンだったらしい。「徹子の部屋」に出演した際に愛娘の話題になると、顔をくちゃくちゃにして嬉しそうだったのを見た憶えがある。映画の役柄と実像とのギャップは当然どの俳優にも付き物だろうが、成田三樹夫ほどそのギャップを愛すべき男はいなかったのではあるまいか。
 つくづく惚れ惚れする俳優である。やくざ映画以外にも『座頭市地獄旅』などでも、ニヒルな敵役をやらせれば絶品であった。そして「普段怖い人がマヌケなことをやると面白い」ことをちゃんと判ってる人でもあった。TVシリーズ「探偵物語」は松田優作1人で作ったわけではない。毎回成田三樹夫(と中西道広)との絶妙なやりとりがあってこそのシリーズだった。
 今回、出番があまりにもわずかしかない『兵隊やくざ』をプログラムに持って来たのは疑問だが、もう1本の『柳生一族の陰謀』には納得。公家にして剣の遣い手を白塗りの麿化粧で演じているのだが、「もう腹いっぱいだよ!」と言いたくなるほどの豪華キャストによる群像劇の中にあって、彼の存在感は群を抜いていた。彼が半裏声で発する「待ちゃれ待ちゃれぇ〜」という公家言葉を聞きながら、実写版「科学忍者隊ガッチャマン」の「ベルク・カッツェ」は成田三樹夫しかいないな、と実現せぬ想いに一瞬浸った。


C「三原葉子」之巻

『女岩窟王』(1960年)
『海女の化物屋敷』(1959年)

 以前、石井輝男監督特集に通った時、最も印象に残った女優が三原葉子であった。下膨れの顔に肉感的な体つき。シリアスな役からコメディエンヌまでこなせるものの、やはり彼女の売り、いや武器はあのお色気ミサイルにつきる。体つきもご立派だが、彼女をエロっぽくしてるのはむしろ顔のほうである。
 だが三原葉子の顔がそんなにエロっぽいかと言えばそうとも言い切れない。ある時は男を惑わす毒婦を演じるが別の作品では少女のように可憐な表情を見せる。翳りのある美貌を持ちながらも明朗快活な笑顔もよく似合う。「不健康なエロ」と「あっけらかんとした健康美」を併せ持つ不思議な顔。
 そんな三原葉子の2面性が楽しめる取り合わせだ。両方とも新東宝の怪奇&エロ風味のサスペンスものだが、『女岩窟王』はモロにエロな踊り子を、『海女の化物屋敷』のほうは刑事の恋人を持つ普通の女性を演じている。「三原葉子が海女さんをやるのか!うひひ」と思ったがそうではなく、だがしかし水着のシーンでサービス。やっぱりエロだあ・・・・・。
 それにしても「海女=エロ」という図式が成り立っていた時代があったのだな。みうらじゅんはこれを100%信じたまま大人になっちゃったんだろうな。羨ましい。
 しかし、小生の最も好きな三原葉子はやっぱり『セクシー地帯』の中にいる。肌の露出もほとんど無いこの映画の三原は、エロではなくひたすらキュートである。いや、ホントに可愛いんだから。


D「岸田森」之巻

『血を吸う薔薇』(1974年)
『呪いの館 血を吸う眼』(1971年)

 岸田森と言えば、多くのファンがそうであろうが小生もやっぱりフェイヴァリットに挙げてしまうのが、60年代に円谷プロが製作したTVシリーズ「怪奇大作戦」である。岸田の役柄は、沈着冷静で頭脳明晰な科学者「牧」だが、彼の魅力が完全開花したのが名作の誉れ高いエピソード「京都買います」だろう。仏像消失事件の容疑者である女性に心惹かれていく牧を終始青ざめた顔で演じる岸田を、後にATG作品『曼陀羅』などで組むことになる実相寺昭雄が異様なカメラワークで追いかけた「京都買います」は、エキセントリックなラストも手伝ってシリーズ中屈指の芸術性を湛えた作品である。
 その後も「帰って来たウルトラマン」にも出演するなど、特撮TV番組への理解があったせいなのか、東宝製作の怪奇映画に出演、これがハマリ役となる。「ドラキュラ」を彷彿とさせる吸血鬼を持ち前の顔色の悪さで演じる岸田。「怪奇俳優=岸田森」の誕生だ。襲い掛かる時に「ウガー」と叫ぶのがなんとも頭悪そうで正直失敗だとは思うが、黒マントを羽織った青白い岸田は繊細さと気品に裏打ちされた佇まいで、本家のドラキュラに迫る存在感だ。
 その後は「怪奇俳優」と呼べる人材が出て来ないが(まあそういうニーズも無かったのだろうが)、時代劇から現代劇、シリアスな役からエキセントリックな役までこなす、岸田森のフォロワーと呼べるような俳優が何人かいる。かつて岸田森を師として仰いだ松田優作は死んだが、岸田の役者魂は21世紀の今でも健在である。嶋田久作も、大杉漣も、遠藤憲一も、みんな直接的・間接的に岸田森の子供なのである。
 今回上映の両作品ともDVD化されていない貴重な作品だ。その昔ひばり書房などが出版していた少女向け怪奇コミックを思わせる他愛無い内容だが、こんなホラーが成立した平和な時代もあったのだ。


E「ピラニア軍団」之巻

『狂った野獣』(1976年)
『ピラニア軍団 ダボシャツの天』(1977年)

 「ピラニア軍団」とは川谷拓三・片桐竜次・室田日出男・志賀勝など東映の大部屋俳優(悪役や殺られ役)の総称だ。と言うか、そういう名前で売り出そうとして失敗したらしい。プログラム・ピクチャーというシステム自体が風前の灯火だった時代、東映としては最後のあがきだったのだろう。その中には、現在は「良い人」の役ばかりの小林念侍も名前を連ねていた。結局、『ピラニア軍団 ダボシャツの天』が不入りに終わり(まあそうだよなあ、こんな映画)、この名義での作品はこれ1本ということになった。
 まあ、「ピラニア軍団」は置いといて、前述した大部屋俳優たちの姿は、70年代に中島貞夫や深作欣二が東映で量産したやくざ映画を見ればイヤと言うほど拝める。そんな俳優たちの中、小生が最も気になった俳優は「野口貴史」である。『狂った野獣』ではバスの乗客(生徒の母親と不倫中の教師)を、『ダボシャツの天』では悪徳刑事を演じている。スティーヴ・ブシェーミと生瀬勝久を足して2で割ったような顔なので、すぐに目を付けた。


E「芹明香」之巻

『黒薔薇昇天』(1975年)
『四畳半襖の裏張り』(1973年)

 芹明香って『愛のコリーダ』に出てたのかよっ!『祭りの準備』にも!?『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』にもかよっ!『宵待草』・・・・はまあ神代辰巳の作品だからな。
 と言うわけで、鹿島茂先生の目には輝いて見えたらしいこの女優、小生には全くもって「?」であった。
 同時代の女優で言えば、秋吉久美子から良いところを全部取り上げて残った負のエネルギーを増幅させた感じか。いや、高橋洋子から知性と情熱を抜いて頭を棍棒で殴った感じかな。原田美枝子のオッパイを脂肪吸引しちゃって顔面にパンチくれた感じ、かも・・・・おいおい、もう女優としての価値がねーじゃんか、それじゃあ。
 『黒薔薇昇天』では谷ナオミのダイナマイトボディに、『四畳半襖の裏張り』では宮下順子のエロスに目が釘付けだったけどね・・・・いやフツーに・・・・鹿島茂先生、あんた物好きなんだねえ・・・・。

 


06.06.27
■ブロークバック・マウンテン

『ココシリ』

 乱獲によって激減したチベットカモシカを守る民間の山岳パトロール隊員と密猟者の戦いを、中国最後の秘境にしてチベットカモシカの聖地「ココシリ」にオールロケを敢行して描く骨太なドラマである。
 「密猟者を取り締まる」などという生易しいものではない。お互いに銃を持つ身だ。冒頭ではいきなり密猟者によるパトロール隊員の処刑を見せられ、まずは目を疑う。密猟者を追う旅に出る隊員たちを涙で見送る家族。その涙のわけがやがて明らかになる。極寒に凍え、高山病で鼻血を流し、流砂に呑まれて死ぬ・・・・ココシリは人間がいて許される地ではないのだ。出発したが最後、無事に帰還する保障は無い。
 密猟者の手下を逮捕するものの、途中で食料と燃料が底を付きそうになったため、「解放」と称して置き去りにする隊長。もう1台の車がエンコし乗っている3人の隊員を見捨てる隊長。密猟者のリーダーを追い詰め逮捕する執念から鬼になる隊長だが、隊員たちからの信頼は厚い。演じる俳優のツラ構えと顔に刻まれたシワも美しい。家族も捨て、報酬も無く、ただただ密猟の根絶を目指すだけのある意味クレイジーな男たち。彼らの姿がひたすら眩しい。
 観客の希望に反して、この物語は悲劇的なラストを迎える。しかし隊に加わり無事生還した取材記者によって、この事実が中国全土に明らかになる。「チベットカモシカを守るためなら人間を殺してもいいのか?」「負傷した隊員の治療費のために、没収した毛皮を売るのはポリシーと矛盾しないのか?」という山岳パトロールのアイデンティティに深く関わる問題も提議しながらも、密猟の現実と隊員たちの命を懸けた任務には驚愕し、恐れ入るしかない。こんな物語が実話だとは。


■ジャポニカ殺人帳

『デスノート』(前編)

 「ドラえもん」の道具に「独裁スイッチ」というのがあった。のび太が、自分をいじめるジャイアンやスネ夫を始め気に入らない人間を次々に消去して行き、最後はたった1人になってしまう。泣きわめくのび太にドラえもんが教える「独裁スイッチとは実は独裁者に説教する道具であった」というオチ。

 主人公が似たような道具を手にしながら、そんな生易しいオチとは程遠い「命をかけた頭脳ゲーム」を展開するこの物語。犯罪者を殺していくという「正義」を実行することでユートピアを築き神になろうとする者が、悪魔的な天才であり死神の手を借りているという矛盾がすこぶる魅力的だ。やはりこの手のストーリーはマンガに限る、と原作コミックを読み始めると案の定。やっぱりこうでなくちゃ。
 「デスノート」を手にした主人公に藤原竜也、彼と対決する探偵に松山ケンイチというキャスティングだが、この2人の天才がどうにもこうにも頭良さそうに見えないのが致命的か。映画前編を見る限り10巻を超えるコミックを上手くまとめた感はあるが、2人の主人公から端役に至るまで俳優たちの演技がまるで安っぽ過ぎて、ドラマに緊迫感をもたらさないのはコミックと比較せずとも。主要登場人物以外の一般人の演技など学芸会並で、見ていて恥ずかしくなるが、まさか狙った演出ではあるまいな。
 そんな中、最も上手だったのは後にもう1冊のデスノートを手にすることになる少女を演じる戸田恵梨香だった。こんな子がデスノートを手にしちゃったらどうしようという恐怖感をきちんと煽ってくれたから。主人公の恋人役の香椎由宇もビュレフォーだったな。さすが金子修介。女子を撮る腕は良い。
 でもって、字のヘタクソな藤原竜也は後編の撮影までにジャポニカで練習せよっ!もう遅いか。


06.06.15
■古田新太を見よ!

『花よりもなほ』

 時代劇をやるには現代風のアプローチが必要である、とは思う。
 頭髪を金色に染めたり、チョンマゲをやめたり、着物を現代的なデザインにしたり、かと思えばボロボロの着物でリアリティを追求したり、人を斬らない侍が主人公だったり、CGで城や町並みを再現してスペクタキュラーな映像を作り上げたりなどなど・・・・いわゆる「時代劇」に新風を吹き込み、その時の世相を反映させた「‘アンチ時代劇’時代劇」とでもいうべき作品。プログラム・ピクチャー崩壊後の70年代にATGが製作した『股旅』や『竜馬暗殺』などもこれだった。

 この10年間でそういった、‘リアル’だったり‘ネオ’だったり‘アート’だったりする時代劇が何本も作られて来たが、どの作品も「過剰」であった。「狙い過ぎ」だったり、「華やか過ぎ」だったり、「貧し過ぎ」だったり。どれも作り手の「力み」が画面から溢れていた。それが面白かったり冗談にしか見えなかったりと、まあ色々だが、世間での評価が高かった『たそがれ清兵衛』などでさえ、その「力み」ゆえに見ていて息苦しく居心地が悪かった憶えがある。

 『花よりもなほ』には作り手のそういった「力み」が感じられない。手を抜いているわけではない。むしろ、怖ろしく丁寧に作られた作品だ。黒澤和子による衣装も、黒澤組で美術を手がけて来た馬場正男も素晴らしい仕事を見せてくれる。だが、そこには「過剰さ」が無い。腹八分目なのである。
 舞台となる長屋の住人たちのキャスティングにしても、あれだけ個性的な人間ばかりを配しながら「どうです?個性的でしょう?」というイヤらしさが全く無い。肩の力を抜いて撮っている感じがなんともすがすがしいのだ。やはり『誰も知らない』を撮った是枝裕和だけある。夜の帳が降りる頃、屋根に上がった木村祐一(ちょっと頭が足りないキャラ)が「夜だよー」と呟くカットに思わずハッとした。ムダとも思えるあのシーンを入れられる監督と入れられない監督の差は大きい。
 過去の時代劇への目配せとも言える要素も楽しませてくれる。「赤穂浪士」はズバリ登場するし、首に布を巻いた与太者は『用心棒』を、竹光で腹を切ろうとする浪人は『切腹』を想起させる。新しい時代劇を撮るとは言え、過去の名作を研究することは必要だ。

 貧乏長屋を舞台にした群像劇であり、江戸庶民の悲喜こもごもを丁寧に描き、是枝流「リアル」を軽やかに提示した『花よりもなほ』。だが、この作品の主軸は重く、それこそが「リアル」と言えるだろう。
 仇討ち・・・・復讐は復讐しか生まない。
 この作品は是枝裕和の『ミュンヘン』だ。


■ボクの彼女を紹介します

『デイジー』

 『僕の彼女を紹介します』が予想外につまらなかったのと、ペ・ドゥナに心を奪われたのが重なり、チョン・ジヒョンは小生の中で終わった気がしていた。

「ごめん・・・他に好きな人ができたんだ・・・・キミのことが嫌いになったわけじゃないんだ・・・・悪いのは全部ボクなんだ・・・・すまない・・・・許してくれとは言わないよ・・・・・いっそのことボクを殴ってくれた方がいい・・・・いや・・・頼む!殴ってくれ!さあ、殴って!早く殴って!もっと強く!それから蹴って!蹴ってよ!もっとキツく蹴ってよ!」

 ・・・・って、バ〜カ。
 というわけでちょっと気になっていたイイ男、チョン・ウソンとチョン・ジヒョンが『インファナル・アフェア』の監督作品で共演となれば、ええ、ええ、見に行きますとも。
 「絵描きの女の子」と「インターポールの刑事」と「殺し屋」の三角関係を、何故か「オランダ」を舞台に描く(と言ってもどこかの市の広場と郊外の田舎を行ったり来たりするだけ)という今時少女漫画でもやらないようなストーリー。チョン・ジヒョンの祖父が街でアンティークショップを経営してたり、登場人物全員の住居の洒落てる加減がわざとらしかったりと、東洋人が抱くヨーロッパへの憧れって結局この程度なんだな〜、と苦笑いが止まらない。ツッコミどころだらけの映画であることは、見る前から承知してたからまあいいや。

 「やあ、ジヒョン、久し振りだね・・・・オランダに住んでたのか・・・・絵を描いてるんだね・・・・やっぱりキミのことが忘れられなくて・・・・キミのその腫れぼったい目・・・・厚ぼったい唇・・・・もう二重アゴになりかけてるね・・・・可愛いのかブサイクなのか判らないそのむくんだ顔がやっぱりボクは好きなんだ!キミを捨てたボクがバカだったよ・・・・すまなかった・・・・許してくれとは言わない・・・・ぶってくれ・・・・思い切り殴ってくれ・・・・そして蹴ってくれ・・・・さあ!早く蹴ってくれ!そのスラリとした美脚で思いっきりボクのケツを蹴り飛ばしてくれっ!さあ!」

 バ〜カ。


■嫌われ中谷の映画

『嫌われ松子の一生』

 今最も話題の邦画と言えばこれです。目にする評価が軒並み高いので驚いてます。
 これまた話題になった前作『下妻物語』を見た時、「これが映画であるかどうか」はともかく、スピード感ある語り口とポップな映像に感心したのは確かである。かつてあんな映画は無かったと言える。
 だから今回も「映画という文法で見るのはよそう」と思いながら見た。面白ければそれでいいのだ。往年のMGMあたりのハリウッド映画のパロディを見せるオープニングにはまず驚き、感心した。だが見続けるうちに、何だろう・・・・この居心地の悪さは。松子を全く理解できないしシンパシーも湧かないしカワイイとも可愛そうとも思えないのだ。

 そう・・・・小生は中谷美紀が嫌いだったのだ。ついでに言えば冒頭で登場する柴崎コウも嫌いである。

 とにかく中谷の顔も声も演技も全部嫌だった。彼女が歌う場面にはただただ唖然だった。意味が判らなかった。だから松子にカラむ男たちのことも理解出来なかった。特に序盤の谷原章介には虫酸が走った。あの笑顔も、ああいった演出も生理的に受け付けなかった。松子の甥っ子を演じる俳優も見ていて飽き飽きだった。伊勢谷なんてなんで俳優やってんだろ、と思った。ゴリも香川照之も荒川良々もムダ遣いに見えた。ボニー・ピンク(大好き)が唯一の救いか。あと、黒沢あすかは「この女優、見たことあるけど誰だっけ?」と全く思い出せなかったな。『六月の蛇』は最高だったのにっ!

 この映画を見て感銘を受けたみなさん、きっとあなたたちの評価が正しいのだと思う。中谷美紀嫌いの人間が見ていい映画ではありませんでした。
 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がビョーク主演で良かった・・・・・と心底思っている。


■「『ルパン三世』TVスペシャル最新作ぅ〜。『ダぁ・ヴィ〜ンチ・コ〜ドを追え〜ぇ!』。
チャ〜ンネルはそ〜のままでな〜ぁ」 (栗田貫一の声で)

『ダ・ヴィンチ・コード』

 TVの2時間モノのように安っぽい映画だった。衝撃も無い。退屈せずに見ていられる、程度の出来。ショーン・ビーンが出ている分『ナショナル・トレジャー』の方がまだ良かった。
 序盤、発信器を乗っけた清掃車を追ってルーヴルがもぬけの殻になっちゃうところで口があんぐり。ジャン・レノ、お前は銭形警部か?続くダ・ヴィンチ作品をめぐる謎解きも「ルパン三世」レベル。ルーヴルでロケやったのはいいけど、残りのシーンの建物はほとんどCGじゃねーか。ならルーヴルもフルCGでやれよ。ま、観光映画だから仕方ないか。
 キリスト教史を揺るがすスキャンダルか・・・・あの程度じゃビクともしないんじゃないか、キリスト教。
 スコセッシの『最後の誘惑』の方がはるかに魅力的だし、諸星大二郎のマンガ『生命の樹』のほうがミステリアスだし、モンティ・パイソンの『ホーリー・グレイル』の方がずっと衝撃的(?)。
 原作が面白いかどうかも疑わしい。読む気サラサラ無いけど。

 W杯日本戦放送日の晩、ガラガラの映画館でこれを見た。
 帰宅後は女房とひとしきりこの映画の悪口を言い合った後、口直しに遠い目をしながら『ナイロビの蜂』の話を。あれはル・カレの原作も良いらしい。


06.06.06
■嗚呼!ニューシネマ

『明日に向って撃て!』(1969年)
『ラスト・ショー』(1971年)

 新文芸坐の今回の特集「魅惑のシネマクラシックス」中唯一足を運んだのがこの2本立てだ。『明日に向って撃て!』はTVやビデオで何度も見た作品だがスクリーンでは未見だったし、『ラスト・ショー』はタイトルを知っているだけで全くの未見だった。
 『明日に向って撃て!』を見ると、映画を見始めた10〜12歳の頃の気分を思い出す。映画の中で描かれる「大人の世界」に触れ、映画館という「大人の場所」に行き、映画雑誌という「大人の読み物」を覗く。映画によって背伸びをすることで、他のクラスメイトとの差異をはかることに快感を覚えていたのだ。要するにマセたガキだったんだよね。
 ちょうどそんな頃にTVで初めて見た『明日に向って撃て!』。同時期、他にも沢山映画を見ているのに何故かこの作品だけが小生をキュンとさせる(何がキュンだよ)。男2人と女1人の友情&三角関係(今見るとこれトリュフォーの『突然炎のごとく』なんだよね)、そして壮絶でせつないラストのせいであろう。何か「自我」のようなものを植え付けたのだな。「カッコよく生き、カッコよく死ぬとはどういうことか」を考えさせた最初の映画かも知れない。と言うか、男同士の友情がホモセクシャルな匂いを放っているものだということを教えてくれた、後の小生にとって大事な作品だと言える(おいおい)。ポール・ニューマンの洒落っ気とロバート・レッドフォードの何と言う美しさよ。

 初めて見た『ラスト・ショー』も素晴らしかった。テキサスの田舎町を舞台にした冴えない人生を送る若者たちの友情や色恋の話を軸に、ピーター・ボグダノヴィッチは派手さを抑えた演出で感傷に陥ることなくアメリカの無常感をモノクロ映像に焼き付けた。ひとつの時代の終焉を描く・・・・「アメリカン・ニュー・シネマ」に共通するモチーフだ。
 それにしてもティモシー・ボトムズもジェフ・ブリッジスもランディ・クェイドも若い若い。最初ティモシーを『地獄の黙示録』でサーファーの「ランス」を演じたサム・ボトムズ(ティモシーの弟)と見間違えたが、その横にいたまだ10歳そこそこのガキがサムであった!


■ぼっけえ、いてえ

『インプリント ぼっけえ、きょうてえ』

 三池崇史の新作は、ジョン・カーペンター、ダリオ・アルジェント、トビー・フーパー、ジョン・ランディス、ジョー・ダンテら13人のホラー映画監督を集めたTVシリーズ「マスター・オブ・ホラー」に招かれて製作した1時間の小さな作品だ。
 岩井志麻子の原作をどの程度アレンジしたのかは判らないが、これがもう完全に三池ワールドになっている。『オーディション』の悪夢に再び引きずり込まれたかのような拷問シーンに頭がどうかしそうだった。火のついた線香の束を脇の下に当てるのなんざあ序の口。その後金属の串を指と爪の間に、それも10本の指全部に刺す。そして次には唇をニッとめくり現れた歯茎に1本2本と突き立てていく。ケーブルとは言えTV作品なので、流石に刺す瞬間の映像は無いのだが、グキグキというイヤな音とやられている女の狂わんばかりの悲鳴に、こちらは顔を歪めっぱなしだ。上下の歯茎に突き立てられた金串によって唇をめくられ歯をムキ出しにして泣きわめく女の姿。突如現れてこんな恐ろしい拷問をニタニタ笑いながらうれしそうに遂行するのは、何を隠そう原作者岩井志麻子その人である!
 近親相姦、堕胎、畸形・・・・前述の残虐描写もさることながら、この『ぼっけえ、きょうてえ』にはおよそアメリカのTVシリーズには相応しくないタブーが詰まっている。川を流れていく胎児の死体が繰り返し映し出されるのを見て、アメリカやヨーロッパの観客はどう思うのだろう。 『殺し屋1』で拷問ショーの数々を並べ、最後には子供の斬首まで見せた三池の究極の「子供殺し図」があれなのだ。
 美術の佐々木尚、衣装の北村道子が作り上げた毒々しくも美しい世界を、アラン・ルドルフ作品のカメラマン栗田豊通が撮ることで、世界発信するに相応しい三池作品となった。いや、大分前から海外の映画マニアの間では三池作品はずっとカルトだったのだ。今回TVというメディアで流されるに当たって、三池が全く手加減することなく、つまり『オーデョション』『殺し屋1』と同じレベルの恐怖と痛みを海外のお茶の間にぶちまけることに喜びを感じる。
 ちなみにシアター・イメージフォーラムで小生の前に座った男性の読む本をそっと覗き込んだら、滝本誠師の『渋く、薄汚れ。』であった。


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