Diary

■2006年8月

06.08.30
■黒木和雄作品4本

 今月、新文芸坐で開催された追悼特集「二人の社会派巨匠 今村昌平と黒木和雄」。どうにもこうにも仕事が多忙で今村昌平作品は全滅、見ることが出来たのは黒木和雄作品4本のみ。

『日本の悪霊』(1970年)

 対立する2つのヤクザ組織と地元警察が、三つ巴になって緊迫感を高める群馬県渋川市に2人の男がやって来る。1人は一方のヤクザの助っ人=村瀬。もう1人は抗争を収めるため県警本部から派遣された刑事=落合。この2人が瓜二つだったからさあ大変。警察資料で調べたいことがある村瀬の策略で2人は入れ替わり、落合刑事はヤクザになりすますことに。地元警察から疑いの目を向けられたり県警から同僚が訪ねて来たりして村瀬はヒヤヒヤ。一方落合刑事はラーメン屋の出前の少女に手を出しちゃったりしてヤクザ生活を謳歌。
 しかし、まるで『フェイス・オフ』や『インファナル・アフェア』のようにサスペンスフルなシチュエーションを生かすことなく、ATG映画ならではの観念的で難解な語り口と村瀬&落合を演じる佐藤慶の佇まいで異様な作品に仕上がっている。
 そもそも「日本の悪霊」というタイトルからして「?」だし、開巻早々、屋根の上でジャックスの「堕天使ロック」を歌う岡林信康の映像にもう「???」だよ。岡林は全篇に渡って狂言回しのごとく歌を歌いまくるが、これが果たしてストーリーに上手く絡んでいるかどうか不明。この辺りの演出は、何故か友川かずきが熱唱しまくりの三池崇史監督大失敗作『IZO』を思い出したな。
 ま、面白いかどうかじゃなく、好きか嫌いか、だね。小生はもちろん好き。


『原子力戦争 Lost Love』(1978年)

 帰省したっきり行方知らずになったトルコ嬢を探しに彼女のヒモ(原田芳雄)が福島の漁村へやって来る。そこは原発の村。なんと彼女は原発技師とともに心中死体となって浜へ打ち上げられた。どうにも解せないヒモ男は新聞社の出張所に左遷させられている記者と一緒に心中事件の真相を探る。そして浮かび上がる原発事故の隠ぺい工作とそれに深く関わる村ぐるみの陰謀。なんともリアルで薄気味悪い話だ。
 中学生の時に、東京12チャンネルの番組「日本映画名作劇場」で見た時、強烈な印象を残した作品。死んだ原発技師の妻をどういうわけか元祖スーパーモデル=山口小夜子が演じていてまずは不気味。押しかけた原田芳雄といきなりイイ仲になっちゃうし、漁村に似つかわしくない超クールな衣装で浜辺を歩いたり、まるで『地球に落ちて来た男』のデイヴィッド・ボウイのよう。彼女のストレンジな佇まいと原発がらみの陰謀劇という取り合わせが上手いのか何なのかわからないが、上記の『日本の悪霊』同様、判り易いサスペンスを回避してひたすら怪作へと突き進んでしまうのが、果たして時代の空気なのか黒木和雄のイズムなのか、それともATGのカラーなのか・・・。
 得体の知れない巨大な陰謀劇をあくまでもムードで見せるという点で、岡本喜八作品『ブルークリスマス』とかぶりまくりの本作。とにかく小生のツボである。原発ゲートへのアポ無し突撃撮影の場面が発する異様な緊迫感も『ゆきゆきて、神軍』を思わせてサイコー。ちなみに原作はあの田原総一郎。そして、彼が昔ドキュメンタリーを撮っていた頃、助監督をやっていたのは原一男だったという。
 それにしても「Lost Love」という副題は何だろうな。本編タイトルにはこんなもの付いていないのに。


『スリ』(2000年)

 老練なスリをめぐる群像劇。彼を育ての親と慕う若い娘。裏切り者である凶暴なその兄。スリに弟子入りする若い男。スリを追う刑事。スリが出入りする「断酒の会」のメンバーの面々。そして会を主催する美しい中年女。都会の片隅で生きる人々の悲喜こもごもや人生の理不尽を静かに熱く描く手腕は手堅く、黒木和雄の長いキャリアに恥じない堂々とした映画っぷりだ。若い監督を決して寄せ付けない迫力と気骨をまざまざと見せられた。
 主人公のスリである原田芳雄は、もはや原田芳雄以外の何物でもない。優れた俳優というものは歳をとると演技の必要が無くなる。演じたキャラクターの数だけ人生を生きて来た俳優の体には、その分の「血」が流れている。そして映画史の記憶をも背負わされている。
 主人公を長年追う刑事を演じる石橋蓮司が原田芳雄の隣に立った時、否が応でも四半世紀も前の『竜馬暗殺』が重なって来るし(そして「ここに松田優作もいたらな」と思わずにはおれない)、風吹ジュンとの2ショットでは、『原子力戦争』のまだ若々しかった2人の姿を思い出し、人生の怖ろしいほどの奥行きに慄然とする。さらに、思えば風吹ジュンは原田芳雄と松田優作双方とセックスシーンを演じた経験があるのだ。
 『竜馬暗殺』『祭りの準備』『原子力戦争』と70年代に素晴らしいコンビネーションを見せた黒木和雄と原田芳雄が、歳月を経てこれほどまでに素晴らしい作品を撮り上げた。ぜひともマーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロにもこんな映画を撮って欲しいと強く願う。


『浪人街』(1990年)

 勝新太郎が出演した最後の時代劇である。彼演じる「赤牛」という浪人は、往年の名シリーズ「悪名」「兵隊やくざ」「座頭市」の勝新を愛する者にとって、虫酸の走るキャラクターだ。用心棒でありながら夜鷹連続殺人事件を止められないばかりか、犯人である旗本に尻尾を振ってついて行く始末。見ていて「こんな勝新見たかねーよ!」と頭をかきむしりたくなるばかり。
 勝新だけではない。原田芳雄もそうだ。何かってえと着物をはだけてたくましい体(なんとこの時51歳だそうだ!)を見せびらかすものの、旗本たちと対決する様子は一向に無い。惚れた女が処刑されそうになろうが、寝た女が斬られようが「俺は俺」で全く動かず酒を呑んでばかり。「アンチ・ヒーロー」は結構だがここまで何もしない浪人ていかがなもんだろうか。
 そしてクライマックス、最後の最後でようやく浪人たちは立ち上がる。酔っ払いながらも刀を振り回して侍たちをバッサバッサと斬りまくり、恋人を助ける原田芳雄。一旦は旗本たちの仲間になりながらも、最後はリーダーの中尾彬をかばうと見せかけて自分の腹越しに刀を突き立ててもろとも絶命する勝新太郎。
 うーん・・・・・あのさあ、カッコイイけどさ・・・・いくらなんでも遅すぎだろ?お腹が空きすぎてどんなに沢山食ってもお腹いっぱいにならないって感じだよ、これ。ダメな奴らが最後に復権を果たすストーリーってのは昔から王道ではあるが、あまりにダメすぎてもうムリ。半年間印籠を見せずにただただ好々爺を演じる水戸黄門が最終回の最後の3分でやっと印籠を出しても、そこへ至るまでに付き合わされた半年とラスト3分が全く天秤にかからないようなものか。
 だからね、樋口可南子の美貌と石橋蓮司の頼もしさ(このキャラは最初からカッコいい)にしがみつくしかなかったね。史上最悪の時代劇、と言ったら悪口がすぎるか。


■2度目、3度目の映画たち

 7月から今月にかけて、今年前半で素晴らしかった映画が新文芸坐に2本立てで上映され、ついついまた見に行ってしまった。『クラッシュ』『ホテル・ルワンダ』『グッドナイト&グッドラック』『ナイロビの蜂』が2度目、『ミュンヘン』『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は3度目である。いずれも再見してもなお素晴らしさを味わえる作品ばかりだった。
 ちなみにソクーロフ作品『太陽』も先日再見し、「ソクーロフはゲイである」と知ってから見た2度目には案の定「別の感慨」があった。
 昨年の不作(『三丁目の夕日』なんぞをベスト5に入れてしまったことが今でも悔やまれる)が嘘のように今年は素晴らしい映画が多い。30年間映画を見て来て最高の年かも知れない。
 まだこの先、『グエムル』も『ブラック・ダリア』も『カポーティ』もあるし、『ブロークバック・マウンテン』や『ローズ・イン・タイドランド』や『花よりもなほ』を再見するかも知れない。
 今年はベスト5ではなくベスト10にしようかな。


06.08.10
■最新版ダウンロード

『日本沈没』

 巷では随分と評判悪いねー、これ。みんな見方を間違えてるのではないだろうか。
 『ローレライ』で見せたアニメ的画作りにシビれたオタク層には肩透かしを、旧作品のファンには敗北感を、「草薙剛と柴咲コウが出てるしぃ」という一般客にはクエスチョンマークを食らわしたようだ。全ての観客層にウケるよう色気を出し過ぎて、作品が空中分解してしまったような印象は確かにある。悪い意味で「ハリウッド的」とも言えるだろう。リメイクはどうあがいてもリメイクに過ぎない。だが、33年前のオリジナル『日本沈没』がそれほど優れた作品だったのだろうか?

 今までに主要な『日本沈没』は3つあった(他には劇画やラジオドラマなどもあり)。
 まず小松左京による原作は、科学的知識に裏打ちされた人間存在への探求を内在した名作であり、原作者=神の視点で描かれた「沈没の青写真」であった。続く73年版映画は、橋本忍の脚本と丹波哲郎の名演という‘『砂の器』コンビ’で、原作には無い熱気を吹き込むことに成功。国民を守ろうと奔走するリーダーたちの姿を活写した。そして全26話という長尺を生かしたTVシリーズは、全国津々浦々を巡り市井の人々が直面する小さな悲劇を積み上げて行くことで沈没のプロセスを丹念に見せ、映画には無かった時間軸とパースペクティヴを獲得する。
 この3つの『日本沈没』はいずれも傑作ではあるが、原作は除くとして、他の2つは自立していない不完全な作品である。「日本沈没」というテーマをめぐってお互いを補完し合っている作品たちなのだ。ゆえに3つ全てを鑑賞することで、「日本が沈むとはどういうことか?」「日本人は国を失っても日本人たり得るのか?」という大きな命題に近づくことが初めて可能になる。

 だから今回、樋口真嗣がやろうとしたのは「更なる補完」に過ぎない。33年前に作られた3つの『日本沈没』に、CGを使ったリアルな特撮や、近隣諸国を含む世界情勢や、阪神大震災以後の意識などの現代性を加えることで、巨大な命題への更なる接近を可能にするため開発された「アップデートプログラム」なのだ。

 そして、このプログラムには驚くべきラストも組み込まれている。往年の東宝特撮映画が誇る怪作『妖星ゴラス』へのオマージュとしか言いようの無い「もうひとつの『日本沈没』」のヴィジョン。
 ラストでカッと目を開いて、オリジナルに歯向かって見せた北野武版『座頭市』の心意気を買った小生としては、この『日本沈没』、全然有りなのである。

 だが、このプログラムもやがては古くなる。その時は最新版をダウンロードすればいいことだ。そうやってこの作品は生き続ける。そしてそれには当然のことながらあの名セリフも含まれるだろう。何故なら、あのセリフこそが『日本沈没』という作品を解くカギになっているからだ。

 「(日本人は)このまま何もしないほうがいい」


■究極のアイドル映画

『太陽』

 喋ろうにも口をパクパク動かすだけで声にならず、言葉が出て来るのに時間を要する明らかに病的な喋り方。声はか細く、感情の発露による劇的な表情の変化などは一切ない。シャイで物静かで何を考えているのか判らない男。ラジオを消した後もどういうわけか小さい音量で「ピー、ギュワ、ガガガ」と発信音が鳴り続けている。地下壕の薄暗がりの中、電波をまとったエンペラー。これは「見る玉音放送」だ。

 彼の姿で思い出した映画がある。デイヴィッド・クローネンバーグの『スパイダー』。シャツを何枚も重ね着し、ブツブツと小声で何かをささやき続ける精神病の男スパイダー。イッセー尾形もレイフ・ファインズも、その演技アプローチは身体機能へのフェティシズムを感じさせ、見ていてマネしたくなるほどだ。

 地下壕での御前会議もマッカーサーとの面会も、拍子抜けするほどにスペクタクルから程遠い。日本が敗戦を受け入れ、神と崇められていた男が人間になる決心をするという、歴史上類を見ない巨大な転換点をごくごく穏やかに淡々とつづった静謐な映像は、逆にラディカルで狂おしい。

 写真の中の皇太子にキスするシーンは、父親としての天皇の温かさを感じさせると言うよりは、『ブルー・ベルベット』のカイル・マクラクランのようにクローゼットから覗き見している興奮と後ろめたさが先に立つ。昭和に生きた経験のある観客にとって最大級のピーピングがそこにある。

 地下壕から地上に出ると、そこには1羽の丹頂鶴がいる。天皇と進駐軍と鶴。まるで夢を見ているような超現実空間。人間達の「茶番」をよそに、この世界の支配者であるかのように超然と歩き回る鶴。伊藤若冲の描く鶴を思い出す。若冲の代表作「動植綵絵」は皇室の持ち物だ。

 天皇を写真撮影する兵士たちは口々に「チャップリンだ」「ヘイ、チャーリー」とからかう。ここで想起せざるを得ないのは『地獄の黙示録』でのキルゴアのセリフ「Charlie don't surf!(チャーリーはサーフィンをしない!)」だ。ここで言う「チャーリー」とは「ベトコン」のことであるが、アジア人への蔑称という意味で「天皇=チャーリー」発言へと通ずる。

 侍従たちとのやりとりを楽しんでる様子さえある天皇。マッカーサーとの会見・食事で子供のようにはしゃぐ天皇。久し振りに再開した皇后の肩に額を押し付けて喜ぶ天皇。イッセー尾形がとにかく可愛い。可愛ければ可愛いほど危険な香りが立ち込める。これは「アイドル映画」だ。昭和を知る者にとって究極のアイドル映画。

 終戦を知る日本人は2度驚くことだろう。1945年の「人間宣言」と2006年の「人間宣言」に。
 繰り返し言う。この映画そのものが「玉音放送」なのである。
 そして、それでもなお昭和天皇は謎であり続ける。


Back To Diary Menu