Diary

■2006年9月

06.09.24

■無理にホラーにしなくても・・・

『LOFT ロフト』

 97年の『CURE』に打ちのめされて以来、黒沢清の映画が公開されれば一応見ることにしている。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』や『スウィートホーム』や『地獄の警備員』など初期のいくつかも見てはいるのだが、ちゃんと評価するようになったのは『CURE』以降だ。
 黒沢清の作品を語るのは難しい。「なんだかわからないけどすごくいい」とか「なんだかわからないけどすごくこわい」とか、そんな感想になってしまう。ある意味デイヴィッド・リンチ作品の感想に似てしまったりする。
 新作『LOFT ロフト』は千年前の女のミイラをめぐる怪談だが、現実と非現実が混在していて単純にホラー映画と言えない作りになっているのは黒沢清ならでは。主演の中谷美紀も良い。彼女は『嫌われ松子〜』なんかじゃなくやっぱりこういう役が似合う。西島秀俊はまたもや素晴らしく、この世代の俳優ではダントツだと思う。
 ただ、「戦前に撮影されたフィルムの存在をもっと上手く使えなかったか」とか「安達祐実が幽霊として出て来るあたりの描写はもう飽きた」とか「ミイラはシートにくるまれたままの方がよかった」とか「トヨエツは今イチ黒沢作品に馴染んでない」などと不満が多い分、このところの黒沢作品の中ではハズレということになるかも知れない。期待も大きかったし。「死人に魅入られる」という意味では塚本晋也の『ヴィタール』の方がはるかに素晴らしかった。
 それでも次回作には期待しちゃうな。今度はホラーじゃないものが見たいね。


06.09.24

■時代劇2本

『ひとごろし』(1976年)

 藩主の側近(実は悪者)を斬った凄腕のお抱え武芸者(丹波哲郎)の上意討ちを、剣術の全くダメな臆病者の藩士(松田優作)が引き受けちゃったからさあ大変。一体どうやって彼の首を取るのか?旅の道中、丹波りんの行く先々で「そいつはひとごろしだぞ〜」と大声を上げる優作。丹波りんから宿も食事も奪い、精神的に追い込んでいく作戦だ。ラストは降参して切腹しようとする丹波りんを制止し、「首は腐って持ち帰れないからチョンマゲをくれ」と言って彼を救う優作。弱い者が頭を使って強い者を負かす、とまあ「とんち話」のようなものか。原作は山本周五郎。
 昔テレビで見たことのある作品だ。もしかして、もともとテレビ用に製作されたものかも知れないな。画面サイズがスタンダードだし、上映時間も80分ほどだし、かなりの低予算であることもバレバレだ。
 でも、この作品のすごいところは、主人公の臆病者を松田優作が演じちゃってることである。ガタガタと震え、おどおどした演技をコミカルに見せるが、目が据わっている。おまけにあの長身だ。チョンマゲも侍の格好も全然似合わない。はっきり言って丹波哲郎と互角に戦えそうなルックスなのである。完全にミスキャスト。どうせなら小倉一郎あたりが適役だ。
 しかしそんなミスキャストもご愛嬌。小生のお目当ては他にある。
 松田優作の身の上話を聞いて彼と旅をともにすることになる宿屋の若女将をなんと高橋洋子が演じているのだ!
 『旅の重さ』から4年、あどけなさを残しつつも大人の色香を漂わせるようになった高橋洋子。この時代が彼女の魅力の最盛期だと言える。とにかく可愛い。彼女の登場場面では目がハートになりっぱなしだったよ、もう。ああ至福の時。


『三匹の侍』(1964年)

 今から25年くらい前、フジテレビの「オレたちひょうきん族」の正月スペシャル(だったかな?)でYMOの3人がこの映画(というかもともとはテレビシリーズ)のパロディを演じたのを憶えている。丹波哲郎=高橋幸宏、平幹二郎=坂本龍一、長門勇=細野晴臣というキャスティングだった。ミュージシャン仲間の鮎川誠、立花ハジメ、鈴木慶一なども酒場のシーンに顔を見せていた。当時、元ネタの『三匹の侍』を見ていなかったので、パロディとして楽しむことは出来なかったが、なにしろYMO好きだったもんで彼らが時代劇をやっているというだけで面白かった。汚い身なりで長門勇の役を演じる細野晴臣は、汚さを強調するあまり作り物のハエをモビールのように付けられて「おえりゃーせんのう」と呟いていたっけ。ラジオでの坂本龍一の談話によれば、この時「細野さんハエ似合うな〜」と周りがあまりにも囃し立てたので細野は怒ってしまったらしい。あと、女好きキャラの坂本龍一の「いい仕事はイイ女につながるからね」というセリフがとても演技とは思えずに爆笑。
 今回この映画を初めて見た。うん、面白かった。なんと五社英雄のデビュー作だったのだな。平幹二郎のやったニヒルなキャラがカッコよかった。つうか、平幹二郎が女好きをやってるところが既に可笑しかったな。若い頃の彼は唐沢寿明にチョイ似。でもって女好きである彼の相手役はなんと三原葉子だ!う・れ・し・い〜。やっぱりエロエロだね〜。


06.09.24

■コン・リー as ボンドガール

『マイアミ・バイス』

 マイケル・マンの作るアクション映画が好きだ。それは多分あの独特の「温度」が好きなんだと思う。空間設計から撮影にいたるまで、彼の作り出す映像には冷え冷えとした硬質なムードが張り詰める。『刑事グラハム/凍りついた欲望』がアンソニー・ホプキンスを呼んでまで作り直した『レッド・ドラゴン』を決して寄せ付けない傑作だったのは、この最初の映画化作品に充満する「非人間的」とも言える空気と刑事モノにあるまじき静謐さが、あまりにも非凡だったからである。

 マイケル・マンの世界では、その独特の冷めた空気の中で、徹底的なプロフェッショナルとして常に淡々と時に機械的に仕事を片付けていく男たちが描かれる。隙の無い、ストイックなまでに研ぎ澄まされた身のこなしで、彼らは手にしている銃器と一体化して見える。普段はヒンヤリと冷たいが、銃弾を発射した瞬間熱くなる・・・・男たちは銃であり、銃が男たちである。特にクローズアップ撮影など用いずとも、マイケル・マンの作品が拳銃やマシンガンへのフェティシズムを感じさせるのは、それらを扱う人間たちのリアルな動きがそうさせるためなのだ。

 『タクシードライバー』や、70〜80年代にかけて村川透&松田優作のコンビが作り出した一連のハードボイルド作品がそうであったように、主人公が拳銃を持つことで生き生きするという「拳銃から逆算して確立されるアイデンティティ」が、ストーリーの中で最高度に機能したのが、前作『コラテラル』であった。名作『ヒート』で描かれた、銃器とともに生きる道を選んだ男たちの非情な世界を、さらにリアルにそしてハードにしたこの作品は、HDカメラによる撮影が生み出す躍動感が「トム・クルーズと銃の一体化」を克明に記録し、さらに彼を包むロサンゼルスの夜景をも美しく捉えることで、マイケル・マンお得意のクールなムードを画面の隅々にまで行き渡らせた傑作であった。

 80年代を代表するテレビシリーズ「マイアミ・バイス」が甦ったわけだが、ドン・ジョンソンと相棒の黒人がチャラチャラと遊んでるようにしか見えなかったあの刑事ドラマ、実はマイケル・マンがクリエイトしたものだったと今回初めて知った。あの能天気なシリーズと映画作家としてマイケル・マンが創造して来たヒンヤリとした世界が全く結びつかなかったのである。だから自身によるリメイクにも関わらず「なんであんなドラマをマイケル・マンが???」と最初は不思議だった。
 この『マイアミ・バイス』、テレビシリーズにあった軽さや明るさと全く無縁の、恐ろしく冷徹でヘビーでダークな世界が展開する。コリン・ファレルとジェイミー・フォックスという普段はチャラついてそうな2人を起用しておきながら、彼らが飛び込むのは『コラテラル』で描かれた暗黒のロサンゼルスといかにも地続きのマイアミ。前回同様、HDカメラが克明に捉える「夜の世界」は時にドキュメンタリーのように映り、なんともリアルで恐ろしい。
 密輸ルートに運び屋として潜入する捜査官のドキドキ感はマイケル・マンの専売特許ではないものの、銃撃戦となるともう他の追随を許さない素晴らしさを見せつける。かつて聴いたこともないような発射音の雨あられ。『ミュンヘン』もそうだったが、銃撃シーンの醍醐味はサウンドにある。
 さらにHDカメラは発色の良さを生かして、自然の美しさをも切り取って見せる。夜間捜査の最中カッと閃く稲妻と轟く雷鳴。海上を飛ぶように進む高速ボート。青い空を切り裂き白い雲の合間を縫いジャングルの上空をすべるように飛ぶ小型輸送機・・・・などなど、そのクリアな映像は息を呑む美しさだ。リゾートとメカ(乗り物だけではなくパソコンや通信機器も)と銃火器・・・・・これで水着の美女さえいれば「007」である。実際、マイケル・マンだったらハードヴァイオレンスに彩られた彼流ジェームズ・ボンド映画を撮ることが出来るはずだ。スピルバーグがテレビドラマ「コンバット」を『プライベート・ライアン』へと昇華させたように。

 で、この「マイケル・マン流007」でボンドガールとなるのはなんとコン・リー。マイケル・マンは彼女の大ファンらしい。彼女が扮するのは麻薬や兵器などの密売王の秘書である。当然ながら『上海ルージュ』や『SAYURI』で見せた、ケバい化粧を塗った「毒婦」(お、久しぶりだなこのフレーズ)をまたもや演じるのかと思いきや、なんとナチュラルメイク寄りの顔で堂々と「出来るエリート女」を演じている。しかも名前は「イザベラ」。はっきり言って浮いているが、こんなところにコン・リーを持って来るあたりにマイケル・マンのイズムがあるのも確か。ラスト、自分の正体をばらし愛するコン・リーを逃がすコリン・ファレルが、未練がましくボートを延々と見送るショットの不自然な長さもまた然り。
 FBI捜査官(多分裏切り者)を演じるのは、『ミュンヘン』の暗殺者メンバー「カール」ことキアラン・ハインズ。この人、マジでカッコイイ。これから要チェック。


06.09.10

■我輩は童貞である

『40歳の童貞男』

 小生は妻帯者ではあるが童貞である。というか童貞であるとしか思えない。
 映画を見てはあれやこれやと妄想に頭を悩まし、映画ポスターの収集にうつつを抜かし、さすがに現在はやめてしまったが映画関連のフィギュアやプラモデルを集めては決して飾ることなく後生大事に保管し、女優やタレントのみならず漫画やアニメの美少女キャラにも目が無い。本人はオタクであるという自覚など無いが、他人から「オタクだね」と言われて言い返す自信も無い。「アンタ、中坊かよっ」と年下の知人に言われたこともある。
 19歳で童貞を捨て、結婚して家庭を持ち、仕事が認められ、ある程度の社会的信用を得ることも出来た。だが、それと逆行するように小生の「童貞力」はどんどん高まっている。なんでだろう。このまま行くと幼児になってしまうのではあるまいか。恐らく小生は「ナチュラル・ボーン・童貞」なのだろう。「いや、生まれたての赤ん坊は童貞だろう」などとベタのツッコミはやめていただきたい。そんなツッコミこそ童貞の敵である。
 だからこの映画で、恋人を見つけた主人公の童貞男が結婚や将来の夢(自分の家電品店を持ちたい)を実現すべく、30年来のフィギュア・コレクションの数々をebayで売り払っていく姿に正直納得いかなかった。童貞を失い、結婚をし、社会的地位を獲得するためには「童貞力」まで捨てなければならないのか。自分の存在が市民権を得るということはこんな通過儀礼が必要なのだろうか。そんな風にしか「オトナ」になれないのだったら、小生は遠慮したい。
 かつて『スクール・オブ・ロック』という映画が、「ロックってそんなに分かり易いもんじゃねーだろ!」と思わずツッコみたくなるほど「最大公約数としてのロック」しか描けなかったように、『40歳の童貞男』という映画も「誰もが思い描ける程度の童貞」の姿に終始している。そもそも40歳の童貞男がフィギュアを集めビデオゲームに興じている姿というのがあまりにも安易だ。
 しかし、童貞男のサクセスストーリーがオタク人生の終焉であることを認めたくはないものの、それでもこの映画が十分面白いのは確かだ。それは主人公を「男」にしようとあれやこれや画策するもののことごとく失敗し、反対に自分たちの「ガキっぷり=童貞力」を露呈していく友人3人が、あまりにも素敵だからだ。特に黒人。あいつがいればこその作品であると断言。この手の作品は主人公よりも周りのキャラを面白くしなくてはならないからね。なぜかマーク・ウォルバーグの『ビッグヒット』のことを思い出したね。

 ちなみに小生の思う童貞力の強い映画監督は
 ピーター・ジャクソン(『ロード・オブ・ザ・リング』)
 ウォシャウスキー兄弟(『マトリックス』)
 M・ナイト・シャマラン(『シックス・センス』)
 ウェス・アンダーソン(『ロイヤル・テネンバウムス』)
 ポン・ジュノ(『殺人の追憶』)
 など。

 反対にピカイチの「処女力」を誇る映画監督はソフィア・コッポラである。


06.09.10

■原作 大友克洋 (うそ)

『グエムル 漢江の怪物』

 名作『殺人の追憶』から2年、待ちに待ったポン・ジュノの新作が公開された。
 『シュリ』『JSA』『ブラザーフッド』など日本でもおなじみの大作群を追い抜いて、本国では韓国映画史上最大のヒットを記録したらしい。ちょっと信じられない現象だ。完成度は前作『殺人の追憶』と比べて明らかに劣るし、なんともオフビートな展開はデビュー作『ほえる犬は噛まない』を彷彿とさせるものだ。つまり、とても万人ウケするような作品ではない。
 だが、ポン・ジュノを知る者にとっては納得の1本なのである。

 『ほえる犬は噛まない』ではアニメ『フランダースの犬』のテーマ曲をカバーし、アニメ『るろうに剣心』の音楽を担当した岩代太郎を『殺人の追憶』に起用し、パク・チャヌクに漫画『オールドボーイ』を読ませ、浦沢直樹へのリスペクトを公言するポン・ジュノの「日本の漫画&アニメ通」ぶりはファンの間では有名だ。
 『グエムル』を見終わってまず思ったのは「漫画みたいな映画だ」ということだ。しかしその漫画はどうも浦沢直樹という感じではない。うだつの上がらない不細工な主人公たち・・・・デモ隊・・・・火炎瓶・・・・・そしてクライマックスで投入される「エージェント・イエロー」なるBC兵器の煙・・・・・これらの要素はどれも「大友克洋の漫画」を彷彿とさせるものだ。
 ヒョン・ヒボン(父親)の小市民っぷりも、ソン・ガンホ(長男)のダメ中年っぷりも、パク・ヘイル(次男)の酒臭い元活動家っぷりも、ペ・ドゥナ(長女)のカッコ悪いジャージ姿も、コ・アソン(孫娘)のブス可愛い顔も、全て大友克洋の画に置き換えられると断言する。ストレートに活劇へと至らないオフビートなノリは大友の初期作品に通じるものだし、警察や軍隊に抵抗する学生や浮浪者の姿はいかにも大友的である。
 『AKIRA』を想起させる要素も多い。合同葬儀会場でのドタバタは、アニメ版で金田たちが取り調べを受ける体育館のシーンに符合し、怪物の存在に目を付けた米軍やWHOが介入する展開はコミック版の後半を思わせ、検査用の白い患者服のまま脱走するソン・ガンホの姿はラボから逃げた鉄雄とダイレクトに重なる。そもそも、ウィルスを保持しているとして隔離され研究対象となるガンホは最初から鉄雄とかぶる。極めつけは「エージェント・イエロー」を散布するためクレーンから吊り下げられたカプセルのデザイン。金田のバイクの前輪部分を嫌でも思い出させるのだ。そういや『殺人の追憶』でソン・ガンホが重要証拠品としてデッチ上げたスニーカーは、「28号」(「アキラ」に付けられたナンバー。元ネタはもちろん『鉄人28号』)と呼ばれていたっけ。
 だから、「この映画の原作は大友克洋が1980年に発表した短篇『怪物』である」なんぞと言われたら、もう信じるしかないのである。『WXIII 機動警察パトレイバー』との類似なんかこの際どーでもよい。ポン・ジュノには将来ぜひとも『童夢』を映画化していただきたい。彼なら完璧に映像化出来るはずだ。もちろんポン・ジュノ組の俳優を使って。

 とまあ、大友作品との類似をこれだけ上げておいて(ポン・ジュノの口から大友克洋の名前が出ることは無いのだが)、この映画がオリジナリティの希薄な凡作であると言いたいのではない。『グエムル』はまぎれもない「ポン・ジュノ映画」だ。
 この映画の白眉は、孫娘探索に疲れた一家が自分の店で黙々とジャンクフードを食べる場面である。突然「私もお腹空いた」と言わんばかりにスッと家族の輪に入る孫娘に、それぞれが当たり前のように食べ物を分け与えるというなんとも不可解なものだが、このシーンを入れられるかどうかで監督の技量が問われると思う。大して出来の良くないSFXなんかよりも見るべきところは、あのようにシュールなシーンやサスペンスを寸断する笑いやパク・ヘイルが繰り出す跳び蹴り(ポン・ジュノ作品全てに登場人物が跳び蹴りをするシーンがある)なのである。
 さらに最大級の笑いをもたらすのは、ウィルス回収のために米軍が派遣した博士だ。すぐに変人と判る寄り眼のこの人物を演じるのは、なんとジョナサン・デミ作品の常連俳優Paul Lazarである。『羊たちの沈黙』では、クラリスに「ドクロメンガタスズメ」の説明をする博物館スタッフを異様な存在感とあの寄り眼で印象付けた俳優だ。こんな役者をキャスティングするところにもポン・ジュノの才能が光っている。
 「殺人の追憶」に浸るのが、かつての刑事と犯人両方であるというラストの皮肉をタイトルに込めた『殺人の追憶』。『グエムル』というタイトルも2つのものを指しているのではないだろうか。かつて怪物を倒し今も河畔で売店を営むソン・ガンホのことを人々は「漢江の怪物」と呼ぶ・・・・・なんてのはどうだろう。う〜ん、カッコいい〜。


06.09.10

■あなたも空を翔べる!

『スーパーマン リターンズ』

 というのが1979年版『スーパーマン』のキャッチコピーであった。
 合成した際の縁が見えにくい宇宙空間に宇宙船を飛ばすのではなく、明るい空や摩天楼の間を人間が飛んで見えるような映像を作り出すこと自体が大変なチャレンジであった当時、最先端のテクノロジーであった「モーション・コントロール・カメラ」(カメラの動きをコンピューターで制御出来た)とワイヤー技術を駆使したスーパーマンの飛行シーンは、往年のTVシリーズ「スーパーマン」の飛翔シーンのお粗末さ(飛んでるポーズのスーパーマンを真横から捉え背後で風景を回すだけ)を払拭して余りあるほどの魔法っぷりであった。まだまだ発展の余地のあったSFXはカメラワークと編集で見事にカバー。当時13歳だった小生は、人間(ま、宇宙人だけどね)が重力を無視して軽やかに舞う姿に惚れ惚れしたものだ。もちろんマネしたし。

 デジタルSFXが当たり前になって以来、我々の眼はすっかり鈍感になってしまった。人間が重力から開放される映像をデジタル技術で本格的に形にしたのは恐らく『マトリックス』が最初だったと思うが、『スパイダーマン』などその後に続くヒーロー物を見るにつけ、映像のダイナミズムは矮小化するばかりである。
 今回のスーパーマンも非常に美しく完璧に飛んで見せる。当たり前だ。生身のスーパーマンを合成している場面よりもフルCG(つまりアニメである)の飛行シーンの方が多いくらいではないか。どんなに颯爽と飛んで見せようが、もはやため息が出るほどの感動は無い。飛翔場面のカッコよさよりもドラマ部分の異様さで俄然見せてくれた『スパイダーマン』のような面白さも希薄だ。せっかくゲイの監督が撮ったのに惜しい。
 じゃあ面白くなかったのかと言うと、そんなこともない。
 だってこの映画、2時間34分もあったのに全く気がつかなかったからね。

 ちなみに、79年版への並々ならぬリスペクトぶりの、というか全く同じロゴに同じテーマ曲を使ったメインタイトルは、なんとカイル・クーパー制作によるもの。彼も当時あれを見て燃えた口なんだろうな。いきなりオヤジの涙腺を開きっぱなしにするなんともズルい攻撃であった。いや、ホントに泣いちゃったよ。


06.09.10

■2001年9月11日のこと

『ユナイテッド93』

 当時の住まいは池袋駅から徒歩10分ほどの10階建てマンションの最上階にあった。リビングの窓際に仕事スペースを設けていた小生。フリーの職人であるため、忙しいときは連日深夜にいたる作業が続く。あの日も夕食後にもう一仕事しなければならず、片付いたのは11時半をまわっていたと記憶している。

 缶ビールを開けてクーッと一息ついた後、テレビを点ける。大体いつもTBSだ。ブラウン管に映し出されたのは「ニュース23」ではなく、真っ白い風景。いや風景かどうかも判らない。なんだこりゃ。別のカメラに切り替わる。あ、これニューヨークのマンハッタンだ。煙かあ。煙に包まれてるんだ。どうやら火事のようだな。ずいぶんな大火災だな。現地レポーターの声はかなり興奮している。そして、プレイバック映像でこれがただの火災ではないことが判明する。世界貿易センタービルに突っ込む飛行機。しかも小型の民間機なんかじゃない。大型旅客機だ。なんで?何が?なんだこりゃ?胸がザワザワする。「ハイジャック」という言葉が聞こえる。しかも他にも数機まだジャックされた旅客機が飛んでいるらしい。この事件は進行形なのだ。ライヴ映像とプレイバック映像が繰り返し流され、入ってくる情報は未確認のまま読み上げられる。現実感が遠のいて行く。妻はこの事件を知らずまだ風呂に入っている。ビールを飲み続けるがちっとも酔わない。どのチャンネルもこのニュース一色だ。ああ、これ、戦争なのかな・・・・そうか、世界はこんな風にして終わって行くのかも知れないな。漠然とした不安とかつて味わったことのない興奮。友人から電話がありしばらく話し込む。そういや、知り合いのご主人がちょうどニューヨークに到着している頃のはずだ。大丈夫なのか?小生は小生で、あるポスターを買う買わないでここ何日かニューヨークのポスターショップと交渉している最中でもある。スタッフも勿論だがストックしている膨大な量のヴィンテージポスターも心配だな。ベランダに出て夜景を眺めながらタバコを吸う。海の向こうの大騒ぎをよそに池袋の夜は静かだ。サンシャイン60もいつもどおり。あれの約2倍の高さのビルらしいな、世界貿易センタービルは。しかもそれが2棟。なんか、スゴイな・・・。
 一晩中テレビの前で過ごした夜だった。翌朝、点けっぱなしのテレビの前で目覚めた。いつの間にか眠ってしまった。あの夜からもう5年も経つのだな。

 この映画、『ボーン・スプレマシー』の監督だったのか。画作りに対するフェティシズムが無いことが功を奏した仕上がりだ。良く出来ている。恐ろしい作品だ。もう2度と見ることは無いだろう。


06.09.10

■嗚呼、倫敦

『マッチポイント』

 1988年の初訪問以来、ロンドンに5回ほど旅行している。
 世界一まずいと言われているイギリス料理も小生には全くもってノー・プロブレム。パブで飲むビールは最高に美味いし、買い物は楽しいし、街は歩き易いし・・・・でも何度も足を運ぶ最大の理由は「居心地の良さ」である。トラッドとモダンのほどよいバランスというか、街全体の空気感というか、うまく言えないがとにかく「落ち着く」のである。
 英国演劇界へのリスペクトも含めてのヨーロッパ・コンプレックスからなのか、アメリカ人セレブにとってロンドンは特別な街なんだと思う。マドンナとか。逆にイギリス人セレブのほうは高い税金から逃れる理由もあってアメリカ志向があったりする。
 「N.Y.生まれの映画作家・ゴーズ・トゥ・ロンドン」というフレーズにおいては何と言ってもスタンリー・キューブリックだろう。アメリカのモラル団体から逃れるため『ロリータ』をイギリスで撮影したあたりからキューブリックのイギリス住まいが始まる。続く『博士の異常な愛情』『2001年宇宙の旅』の撮影もロンドン郊外のスタジオで。そして『時計じかけのオレンジ』では近未来のロンドンを、『バリー・リンドン』では18世紀の英国上流社会を描くことに。キューブリックは1999年ロンドン郊外の自宅で亡くなり、今もそこに眠る。
 「ニューヨーク派」ウッディ・アレンが初めてロンドンで撮った作品なんだそうだ。アレンにどの程度イギリス志向があったのかを知らないどころか、実は彼の監督作を5本しか見ていない。しかも見ているのが『バナナ』『スリーパー』『アニー・ホール』『マンハッタン』『スターダスト・メモリー』という偏りっぷりである。別に避けてるというワケじゃないんだけどね。
 この『マッチポイント』がなんと劇場で見る初めてのウッディ・アレン作品であるため、映画作家としてのアレンがどうだとか、舞台をロンドンに移したことでどうのとか全くわからないし何も言えない。あまりにも手堅い作り方に、頼もしいという感想を持つべきか、卒が無いと言い捨てていいのか。
 でも70歳を超え老境に入ったこの映画監督がスカーレット・ヨハンソンという魔物にとりつかれ、うずうずしてしまった事はよ〜くわかったよ。そこだな、この作品がひとつハミ出してしまったと同時に最も評価すべきところは。ヘンタイ万歳!

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