Diary

■2006年10月

06.10.17

■オバQ




『レディ・イン・ザ・ウォーター』

 M・ナイト・シャマランは一貫して「電波な人たち」を描いて来たと思う。『アンブレイカブル』は未見だがこれもまあそうだろう。「幽霊が見えると言い張る少年」も「宇宙人をバットで殴り倒すかつての野球小僧」も「19世紀のコミューンに子供を閉じ込める親たち」も、一歩退いて見ればどいつもこいつもクレイジーな人たちばかりである。そんな人たちがクレイジーで終わらずに、最後の種明かしで「まとも」だと判明した時の逆転が生むカタルシスが、世の中的には「シャマラン・マジック」というものなのだろうと思う。
 ところが今回のこの映画、クレイジーなままで終わる。最初から最後までとにかく狂ってる。集合住宅という閉じられた世界の中でおとぎ話を本気で信じて右往左往する住人たち。カメラは1度も外の世界を映さない。我々は狂った人たちの狂った物語をただ唖然と眺めているしかない。もうコメディですらない。
 そもそもポール・ジアマッティ扮する管理人が住人に呼ばれて虫を退治するファーストシーンからヘンだ。
 このシーンで肝心の虫が映し出されることはない。背後で怯える住人も虫退治の様子を覗き込むことはなく、ただジアマッティが「こいつはスゴイ虫だ。今やっつけますからね。そうらもう安心です」と説明するのを震えながら聞いているだけなのだ。いったい本当に虫などいたのだろうか?

 新しい住人である「映画評論家」(ここがミソ)が入居するところから物語は始まるが、唯一と言ってもいいこのマトモな人物によって、それまで雲をつかむようだったおとぎ話が実体化し始め、住人たちの電波ぶりが暴走し出す。彼を演じるのはボブ・バラバン。『アルタード・ステーツ』ではヒッピーくずれの科学者を、『2010年』では「HAL9000」の開発者を演じるなどインテリの役が多い(『カポーティ』では編集者を演じてた)が、何と言っても印象深いのが『未知との遭遇』でのラコーム博士の通訳役だろう。「元地図作製技術者」というこの通訳が、発信された謎の数字を地図上の座標だと特定しUFOとのコンタクトの具体化を大きく前進させる場面を、この『レディ〜』での役柄に重ねないわけにはいかない。思えば『未知との遭遇』もかなり電波な映画だったと言えるな。ジアマッティのキャラクターはどう見てもリチャード・ドレイファスとかぶるし。それに物語は『E.T.』に似ている。スピルバーグみたいな作品を撮りたかったのだろうな、シャマラン。

 ラスト、すーっとカメラが引いていくとやがて高い塀が現れ、ゲートには「○○精神病院」と描かれている・・・・などということもなく映画は終わってしまう。ついにシャマラン・マジックは無かった。開いた口がふさがらない。
 ここまで完全に観客を置いてきぼりにした『レディ〜』は間違いなくシャマランのフィルモグラフィ中最低の作品である。
 しかしマジックすら無かったものの、実はこれほどまでにシャマランらしい作品は無いのではあるまいか?


06.10.17

■ドロンパ




『カポーティ』

 実は恥ずかしいことにトルーマン・カポーティの小説を1つも読んだことがない。「夜の樹」とかいう短編集を20歳の頃に買った記憶はあるがそれを読んだ記憶が無い。本来なら小説「冷血」を読んでからこの『カポーティ』を鑑賞するべきだろうが、時間が無いのでお手軽に済ませようと1967年に映画化された『冷血』を見ることにした。

 リチャード・ブルックスが脚本・監督(この人『ミスター・グッドバーを探して』を撮った人なんだな)を務め、犯人2人組をロバート・ブレイクとスコット・ウィルソンが演じた『冷血』。落ち着いたモノクロ画面、手持ちカメラによる撮影、時制の入れ替え、劇的な演出を排除したリアリズムなど、ヌーヴェル・ヴァーグを意識したとも言える高い芸術性を湛えたこの作品は、ニューシネマ時代の到来を予見した傑作であるばかりか、今見るとロバート・ブレイクの「その後」をも射程に入れた感が否めない。
 ロバート・ブレイクは、遅れて来たニューシネマの傑作『グライド・イン・ブルー』(1973年)に主演するもその後は「刑事バレッタ」などのTVシリーズへと活躍の場を移行。忘れた頃になってデイヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』に「ミステリーマン」という気味の悪い役で出演したが、その後なんと妻殺害事件の容疑者として逮捕されることになるのだ(結局無罪にはなったが・・・)。悲しいかな『冷血』が名実ともに代表作になってしまったと言えるだろう。
 ちなみに相棒を演じたスコット・ウィルソンの方は、つい先ごろポン・ジュノ監督作品『グエムル 漢江の怪物』の冒頭で、ホルムアルデヒドを排水口に流すよう命じる博士として顔を見せていた。『ライトスタッフ』なんかにも出てた人だ。

 というわけで、実際にカンザスで起きた一家惨殺事件の概要を知識に入れてから『カポーティ』を見たのだが、それが役に立ったのか立たなかったのか・・・・と言うのはフィリップ・シーモア・ホフマンの一世一代の大芝居に目を細めっ放しだったのだな。
 野心家で、自信たっぷりで、キザで、ずるくて、軽薄で、ふてぶてしくて、嘘つきで、偉そうで・・・・とにかく一見鼻持ちならないこの人物がフィリップ・シーモア・ホフマンによって演じられることで、なんとも憎めない魅力的なキャラクターと化す。と言うか、実際のカポーティもきっとそうだったのだろうな。
 本来音圧のある低い美声の持ち主であるホフマンが、高くか細い「爬虫類声」で演じるカポーティは、髪型・メガネ・衣装のおかげもあって実際の彼に外見上はそっくりである。要するにこれは「物真似芸」なのだ。『太陽』で昭和天皇を演じたイッセー尾形のアプローチと似ている。そしてその演技アプローチが完璧であればあるほど生じて来る矛盾も同じものだ。
 そっくりであればあるほど内面は見えて来ない。
 もちろん、脚本や演出のせいでもある。殺人犯ペリー・スミスへの一見誠実な対応と同情の前後に描かれるカポーティのエゴイストぶり。決して直接目にすることが出来ないペリーへの同性愛と作家としての野心からの裏切り。「本当のところ一体どうだったのか?」を明確にしないまま、カポーティのその後の人生を数行の字幕で告げ、映画は幕を下ろしてしまう。結局は「カポーティは『冷血』で作家生命を縮めた」という歴史上の事実でもって、あの小説誕生の「精神的内幕」を推測するしかないのである。ソクーロフが昭和天皇のインナースペースをイッセー尾形の完璧な形態模写という「ヨロイ」で封じ込めたように。
 だから、『カポーティ』という映画は何も解き明かさない。いや、解き明かさなくていい。名優フィリップ・シーモア・ホフマンが俳優生命を賭けて物真似したカポーティという作家が、ただそこにいればいい。
 そして繰り返すが、そのキャラクターは非情に魅力的であるのだな。うっとりしたよ。これはアイドル映画だ。

 ちなみにペリー・ルイスを演じた俳優、かなりイイ顔してた。『ストリート・オブ・ファイヤー』で初めてウィレム・デフォーを目にした時の感動を思い出したよ・・・・なんぞと思ってたらこの人、『トラフィック』のコイツじゃん!
 


06.10.17

■P子




『ブラック・ダリア』

 ケネス・アンガー著「ハリウッド・バビロンU」に掲載されているエリザベス・ショートの死体写真は強烈だ。上半身と下半身が分断され口が耳まで裂けた全裸の女性が草むらに置かれたその写真は怖ろしくもあり、何かの冗談のようでもある。
 このグロテスクな惨殺死体を生んだ迷宮事件は、40年代の魔都ハリウッド最大級のイコンとして語り継がれ、40年後に作家ジェイムズ・エルロイの手でノワール文学として甦り、それから19年後に映像化されることとなった。

 当初デイヴィッド・フィンチャーが監督するはずだったこの作品。原作を読んでみると、これがもうすでにブライアン・デ・パルマの映画を見ているかのような内容であった。黒髪の女にとりつかれ破滅していく2人の男の「オブセッションぶり」はかつてヒッチコックが、そしてその後をデ・パルマが引き継いだジャンルにあまりにもピッタリはまる。ヴァイオレンス描写、猟奇的な見せ場、フィルムに映りこんだ手がかり、クライマックスの謎解きなど、いかにもデ・パルマ的な要素に加えて、「HOLLYWOODLAND」の巨大看板を含むノスタルジックな小道具の数々が彩りを添え、これはもうデ・パルマが映画化すれば最強のノワール映画が誕生するばかりか、デ・パルマの最高傑作になるに違いないと踏んだのだった。

う〜ん・・・・期待し過ぎたか・・・・。

問題点@
 まず、あまりにも原作に忠実な出だしに驚く。あの暴動の場面とボクシングは主人公2人の関係を理解する上で必要な章なのだが、あそこまで忠実に描き時間を割くことが良かったのだろうか?映画全体のバランスを壊してしまったのではないか?

問題点A
 主人公2人がブラック・ダリアにとりつかれ狂わされて行くプロセスがわかりにくい。特にリー・ブランチャードの描写は雑である。問題点@のことを考えれば、何故このプロセスを丹念に見せる方を選ばなかったのか甚だ疑問。

問題点B
 これが最大の問題なのだが、マデリンを演じたヒラリー・スワンクが完全にミスキャスト。美人でもゴージャスでもない彼女が「ファム・ファタル」に見えようがない。しかもブラック・ダリアを演じたミア・カーシュナーと似ても似つかないもんだから、劇中で「似てる」とか「そっくり」とかいうセリフが出て来ると冗談にしか聞こえない。

問題点C
 バッキーが酒場で拾った女を「ブラック・ダリア資料室」に連れ込み、黒髪のカツラを付けさせ、壁に貼ったダリアの写真に囲まれながらセックスする場面が原作にはある。物語中ある意味最もビザールな描写であり、最も魅力的なこの場面を何故映像化しなかったのか?

問題点D
 エリザベス・ショート殺害の舞台となった廃屋は原作だとかなり猟奇的なインテリアなのだが、映像化されずにかなり残念。楽しみだったんだが・・・・。

 とまあ、ざっと問題点を上げてみたが、ではこの映画がどうしようもなくダメかと言うとそんなこともない。
 デ・パルマならではのトリッキーな撮影は見事だし、ブランチャードが殺される場面の脚色も上手いと思う。魅力的な要素も多々ある。
 
ナイス@
 とにかくムーディである。ブルガリアにセットを組んで撮影した人工的なロサンジェルスがなんとも良い効果をもたらした。久しぶりに見るヴィルモス・ジグモンドの撮影はやはり素晴らしい。

ナイスA
 ジョシュ・ハートネットのたたずまいが美しかった。ちょいと健康的過ぎるかなとも思うが、まあいいでしょう。

ナイスB
 ケイの腰に付けられた「BD」の傷はいろいろとイイ。ただ、傷を付けたボビー・デウィットの頭文字の他に「ブラック・ダリアか」とか「‘Bondage & Domination’(SMのこと)か」などと想像するも、まあ発展せず。

ナイスC
 レズビアン・バーのステージで歌ってたのが「k.d.ラング」だったこと。あれはマジで凄かったな。クラクラした。

ナイスD
 デ・パルマ作品の常連グレッグ・ヘンリーとウィリアム・フィンレイが出てた。
 そういや、DVD化されて久しぶりに見た『ジェットローラーコースター』のクライマックスで、爆弾を仕掛けられたジェットコースターのまさにその仕掛けられた座席に座ってたのが『ボディ・ダブル』のクレイグ・ワッソンだったことが判明。

ナイスE
 デイヴィッド・リンチ組から2人出てた。
 エリス・ロウ=『マルホランド・ドライブ』の、ダイナーの駐車場で真っ黒なホームレスを見てショック死した男。
 グリーン署長=『ツインピークス』の校長先生。

ナイスF
 マーク・アイシャムの起用は成功。やっぱりトランペットだよね、ノワールには。

 と言うわけで、まあ総評としては「映像は良いけど脚本がダメ」ってとこか。
 小説があれほどまでにデ・パルマ的だったものを、本人が映画化したくせに風味が薄まってしまったというのがなんとも皮肉だ。行儀が良過ぎたのだろうか。そういや、『L.A.コンフィデンシャル』も行儀の良い作品だったな、悪い意味で。
 もしかしていっそのことポール・ヴァーホーヴェンあたりが撮れば、鬼畜度がアップしてあらぬ方向へ転んじゃった分とてつもない怪作が誕生してたかも知れないな。『氷の微笑』で見せた手腕を考えればOKだろう。『チャイナタウン』だってポーランド人が撮ったのだ。オランダ人の彼にだって出来たはず。

 それにしても、『チャイナタウン』のノア・クロスと言い、『ブレードランナー』のタイレル博士と言い、『ブラック・ダリア』のリンスコット親父と言い、ロサンジェルスの実力者はどうしてこうも変態ばかりかね。

Back To Diary Menu