Diary

■2006年12月

06.12.30

■30年の重み

『PASSION MANIACS マニアの受難 MOONRIDERS THE MOVIE』

 今年4月に見に行った日比谷野音でのムーンライダーズ30周年記念ライヴは凄かった。
 みうらじゅんによる「鬼火」の弾き語りから始まって、多彩なゲストたちの参加で綴られるムーンライダーズの名曲や彼らが関わった楽曲の数々。遠藤賢司(天然記念物)、サエキけんぞう(歳とってない)、高橋幸宏(慶一のマブだち)、野宮真貴(ブスセレブ)、原田知世(時をかける少女)、PANTA(コワモテおやじ)、ポカスカジャン(女性器名称を堂々と言い放った彼らはある意味この日のライヴをさらった)・・・・中でも圧巻は鈴木慶一を18歳から知っているという御大あがた森魚。ムーンライダーズをバックに「赤色エレジー」を熱唱した彼の姿には、30年以上音楽をやり続けることの奇跡を心底思い知らされた。
 そんな当日の様子に、ムーンライダーズの面々、レコード会社の人たち、細野晴臣ら友人たちの証言を加え、さらに彼らが育った羽田周辺の映像や工場でノイズを採集する鈴木博文、松武秀樹のスタジオでヴィンテージシンセを鳴らす岡田徹など、ラストでかかる新曲を作る様子も加えて構成されたのがこの映画だ。
 インタビューで高橋幸宏が言う「30年続くなんて奇跡ですね」という言葉。あの日の日比谷野音で小生はそれを感じ入って打ちのめされた。50歳をとうに過ぎたオヤジたちが楽器をかき鳴らし、声を張り上げて昔作ったラヴソングを歌う姿に本気でヘコんだ。若かりし頃、1度でも音楽の世界に足を踏み込んだ者なら必ず思うはずだ。「彼らが30年音楽を続けている間、一体自分は何をやって来たのか」と。
 映画の中で、この30年を大した感慨も見せず淡々と振り返り、「自分たちがまだまだこれからもやる」という姿勢をニヤニヤと示すメンバーの顔。白髪で、太り、シワを刻んだ彼らの顔に、小生は今一度ガツンとヘコまされた。


06.12.30

■昔のアニメは良いね

『王と鳥』

 戦後すぐに製作が開始され、50年代に一旦は不本意のまま『やぶにらみの暴君』として公開されたものを、30年以上経ってから作者が本来の形に完成させたというフランスのカルトアニメである。
 この作品をデジタル・リマスターの形でリヴァイヴァル公開したのは、天下のスタジオジブリである。宮崎駿にとってこの作品は教科書の1つだったはずだ。エレベーター付きの高い城、王と無理矢理結婚させられる少女と彼女を救いに来る若い男、床に突然開く落とし穴・・・・ここには往年の傑作『ルパン三世 カリオストロの城』の元ネタが満載なのだ。おまけに武骨な巨大ロボットも登場する。『未来少年コナン』以来何度と無く宮崎が登場させて来たメカの原点がここにある。
 現在のアニメにはない豊穣な作画や動きにうっとりする。東映の名作『白蛇伝』を見た時に感じた「豊かさ」が、この作品にもある。


06.12.28

■ジョニー、ネオ、そしてボブ

『スキャナー・ダークリー』

 フィリップ・K・ディックの小説は映画化しにくそうなくせに結構な数が映画化されている。『ブレードランナー』(これが最初)『トータル・リコール』『スクリーマーズ』『クローン』『マイノリティ・リポート』『ペイチェック』。どれもが「これディック原作なの?」と首を傾げるほど、派手なヴィジュアルや監督の趣味趣向や主演俳優のカラーで染め上げられてはいるが、まあどれも一応「アイデンティティ」というテーマはちゃんと中心にあるからいいのか。
 この『スキャナー・ダークリー』(原作は未読)、いかにもというSF的なガジェットは、麻薬捜査官が己の面が割れないように着る「スクランブル・スーツ」なる特殊な着ぐるみのみ。派手なアクションも見せ場も無い。ドラッグに溺れて生きる連中のくだらない会話が延々と続いたりする。実写映像だったらどうってことのない作品だが、これをデジタル・アニメでやってるおかげで、ドラッグをやってる時のような浮遊感や非現実感が常にある(いや知らないよ。「物質D」なんて飲んだことないから)。様々な人間のパターンがチラチラと落ち着き無く投影されるスクランブル・スーツなんぞはどうでもよく、全篇に渡って現実と非現実のボーダーを彷徨わせる、このデジタルでアシッドな演出が無ければこの物語は成立しないのだ。
 潜入捜査にも関わらずジャンキーになり、アイデンティティの迷宮へと落ち込んでいく主人公を、(ボンクラ)キアヌ・リーヴスがナチュラルに演じていて凄い。ロバート・ダウニーJr.もぴたりハマってる(ま、そうだよな)。ウィノナ・ライダーも久し振りに見た。あのヌードはちゃんと本人のものだったのだろうか。ま、アニメですけど。
 ラストで明かされる衝撃の事実と戦慄は、『ソイレント・グリーン』など往年のデストピア物を思わせなくも無い。フィリップ・K・ディックの映画化作品中最も救いの無い『スキャナー・ダークリー』は、ディックの作品哲学をダイレクトに映像化して見せた初めての映画かも知れない。


06.12.28

■今年のワースト決定

『犬神家の一族』

 76年版オリジナルの『犬神家の一族』が大好きである。何度も何度も見てセリフを憶えてしまったくらいだ。旧作と同じく市川崑が監督を、石坂浩二が金田一耕助を演じるとは言っても、まあ期待は禁物。と言うか本気で見るつもりなどさらさら無かった。
 セリフ、撮影、編集、音楽。どの場面も旧作そっくりに作られている。この一見意欲的な手法が完全に裏目に出た。
 あれだけの大物俳優を揃えながら全員が「田舎芝居」を展開。鶏がらのような富司純子のただ大仰なだけの演技には、高峰三枝子が演じた松子の気品と艶と母性のかけらも無く、松坂慶子の演技は一貫性を欠いていて(彼女の演技が一番ヒドかった)、あれでは竹子がどのようなパーソナリティかが全く不明。松嶋菜々子の珠世には儚げな美しさが皆無であるばかりか(デカいからね)、猿蔵との2ショットも「美女と野獣」という画になってない(デカいから)。旧作と同じ人物を再び演じた加藤武も大滝秀治も顔色が悪く(そりゃそうだ)セリフにも力が無い。その他、若手俳優全員が「ああ、『犬神家〜』をわかってねーな」というトンチンカンな芝居っぷり。場面場面が同じセリフ同じ構図で撮られているばかりに、旧作出演陣の素晴らしさばかりがオーヴァーラップするという、終始自虐的な作りになってるのだ。あれじゃ草笛光子と三条美紀も担ぎ出された張り合いが無いだろうな。
 旧作を礼賛して来た世代であるプロデューサーの幼稚な野心が生んだマスターベーション映画。そんなこと8mm自主映画で20年前に済ませておけ、と言いたい。


06.12.28

■真性メガネっ子

『リトル・ミス・サンシャイン』

 娘オリーヴ役のアビゲイル・ブレスリンちゃんが怖ろしく可愛い。ちょっと太っちょで、分厚いメガネをかけたこの子が見せる表情や言動がいちいちキュートだ。とてもじゃないが美少女コンテストに出るようなルックスではないオリーヴだが、その「場違い」っぷりがラストで生きて来る。
 ラストの美少女コンテストは、「ジョンベネ・ラムジー事件」の記憶と直結する。けばけばしい化粧にセクシーなドレス。大人のミスコンですら滑稽なことを子供にやらせることの馬鹿馬鹿しさ。「小さなマリリン・モンロー」というフリーキッシュな趣向。オトナコドモたちがずらりと並ぶ奇怪なステージの上で、ただ1人「子供」として立ち尽くすオリーヴは天使にさえ見える。
 最後には、社会的に「ダメ」で「負け」な家族たちがオリーヴを応援しようとコンテストをメチャメチャにしてしまう。フツーの子ならこんなことをする家族を泣いて止めるはずだが、オリーヴは嬉々として踊り続ける。おじいちゃんから教わった「セクシーダンス」を。旅の途中で死んだ(なんとコカインで)おじいちゃんに届けとばかりにおバカなダンスに興じる家族たちが、さきほどまでの醜悪なコンテストを浄化してくれるかのようだ。
 「リトル・ミス・サンシャイン」はオリーヴが出場する美少女コンテストの大会名でもある。この小さなサンシャインは色々なものを照らし出した。世の中には「ダメ」や「負け」よりも怖ろしいものがある。それは「正常なフリをした狂気」だ。「健康なフリをした不健康」だ。
 「ダメ人間映画」とでも言うべきジャンルの新しい傑作。

 ちなみに家族の乗ったバスを停める白バイ警官を演じたのはディーン・ノリス。『スターシップ・トゥルーパーズ』では少佐、『ガタカ』では刑事、『ザ・セル』ではFBIを演じていた脇役専門俳優。この人前歯が可愛いのでサングラスをしたままでもすぐ判るんだよね。


06.12.28

■窓口で「鉄筋コンクリート1枚」と言う年寄りがきっといる

『鉄コン筋クリート』

 アニメ映画に声優ではなく俳優やタレントを使うことにどうも嫌悪感を覚える。
 全てというわけではない。『ルパン三世 ルパンVS複製人間』の西村晃、『AKIRA』の鈴木瑞穂、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の森本レオ、『機動警察パトレイバー2』の根津甚八と竹中直人、『パプリカ』の江守徹など、プロの声優たちに囲まれて異彩を放つ俳優の声というものは魅力的だ。
 小生が最も嫌っているのはジブリ作品である。優秀な声優たちに支えられて来た宮崎駿作品のはずだが、いつごろからだろう、俳優たちで占められるようになったのは。声優を馬鹿にしているのか、声優に恨みでもあるとしか思えないほど宮崎は俳優ばかりを使うようになってしまった。小林薫の声でなければならない理由がわからない。菅原文太の声でなければならない理由が全くわからない。本当にわからない。
 この『鉄コン筋クリート』、声優ではなく俳優で良かったのは蒼井優、宮藤官九郎、田中泯くらい。いや、でも何が何でも彼らじゃなきゃダメかと言えばそんなことはない。もっと上手に出来る声優がいたかも知れない。最悪なのは伊勢谷友介。ヘタクソ極まりない。森三中?彼女らを使うことに何の意味が?知名度の低い声優よりも、俳優やタレントを起用した方が話題にもなるし集客力も上がるだろう。でもさ、アニメってそういうもんじゃねーだろ。
 お話の方は、全3巻のコミックをまあ上手くまとめたと思う。背景画の描き込みも素晴らしい。でもシロとクロが可愛くないし強そうに見えないのが致命的。特にシロ。蒼井優はグッジョブだが、キャラデザインがまずい。目が離れ過ぎて単なる頭の足りない子に成り下がってる。原作のシロって、もっと気味悪くて凶暴な顔してるんだ。だからこそ可愛いのに。
 あ〜あ、結局は原作の素晴らしさを再確認しちゃったんだなも。


06.12.26

■カウンセラー役の中国系俳優は『ソウ』で刑事やってました

『イカとクジラ』

 プロデュースがウェス・アンダーソン、監督が『ライフ・アクアティック』の脚本を書いた人、両親の離婚によって崩壊した家族の話、と来ればクレイジーでほろ苦くペーソス漂うファミリーコメディを期待しちゃうものだが、これがさ・・・・驚くほど笑えない映画だった。
 まず両親。2人とも作家なのだが、夫と妻であり、2人の男の子の親である以前に、とにかくもう人間としてダメ。インテリでエリートで自信家の夫と、寂しさを紛らわすために男とヤリまくる妻。夫は過去の栄光にしがみつき、妻は華々しく作家デビュー。そりゃ離婚だよ。
 そんな両親に育てられたんだから子供も最悪。父親ベッタリの長男は自信タップリの言動だがその実カラッポ。ピンクフロイドの曲を自作として弾き語るわ、自分ではモテるつもりでいても冴えない文学少女しか相手に出来ないわ。母親寄りの次男は、顔こそ可愛いもののキレ易く、12歳にして酒びたりで、学校でオナニーしては本棚やロッカーにザーメンを擦り付けるという変態っぷり。
 1986年という設定なので、親子で『ブルーベルベット』を見に行くシーンがある。スクリーンには裸で「フランク!」と叫ぶイザベラ・ロッセリーニが映し出されている。フランクとはデニス・ホッパーの役名。その後に続くのは母親の家にいる裸の次男フランクのシーンだ。頭に来ると「Fuck」を連発するマザコン少年はつまりデニス・ホッパーなのだ。
 その他、部屋には『ママと娼婦』『サイコ』『遊星からの物体X』のポスターが貼ってあったり、倒れた父親が救急車で運ばれる時に『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドのマネをしたりと、監督のシネフィルぶりは微笑ましいが、あまりにも寒々しい物語なので笑いに繋がらない。少なくとも小生には笑えなかった。
 普通なら父親が病に倒れて家族が再生するものなのだが、この映画の潔いところは、そんな予定調和や欺瞞を切って捨てたことだ。ラスト、長男は母親との思い出を確認するため、自然史博物館に「ダイオウイカ」と「マッコウクジラ」が格闘する巨大な模型を見に行く。いがみ合う両親とその模型を重ねるのは簡単だが、それではあまりにもお粗末だ。こちとらそんなオチは望んじゃいない。
 むしろつまらない意味なんぞを排除すべきだろうな。つまり「イカとクジラ」なんかに意味は無い。イカとクジラ?だから何?なんじゃそりゃ。その方がこの映画らしい。あんなシーンに着地点を定める監督のヒネクレ具合をこそ評価する。
 せっかくデイヴィッド・リンチの最高傑作を引用して見せたのだから。


06.12.26

■デート・ウィズ・ドリュー

『2番目のキス』

 しかしなんちゅう邦題だろうな。原題は「FEVER PITCH」なんだぜ。意味がわからん。99年の『25年目のキス』と引っかけることで客を掴もうとした(どんな客を?)つもりかも知れないが、いたずらに混乱を招くだけだろ、こんなタイトル。配給会社のセンスを疑うね。そもそもよー、レッドソックスの熱狂的ファンがヤリ手の女ビジネスマンと付き合う話なんだから、野球がらみの邦題をつけなきゃダメだろっつうんだよ。『恋のワールドシリーズ』とか『愛されちゃってプレー・オフ』とかさ。
  『40歳の童貞男』もそうだったんだが、男が女と付き合ったり結婚したりするのに、自分の趣味を捨てる必要があるのだろうか。自分の命の次に大切なコレクションやレッドソックスを、愛する女性と天秤に掛けることで生まれる悲喜劇は面白いと言えば面白いんだが、見ていてなんか腹立つんだよな・・・・ん?これって製作側の術中にハマってるってことか?
 それにしてもドリュー・バリモアの可愛さよ。「ロリータ」と「熟女」と「デブ専」を併せ持った最強の美女(当社比)だ。ドリュー主演で『バーバレラ』をリメイクするという企画がポシャったのが返す返すも惜しい。


06.12.26

■ボンド映画、27年ぶり

『007 カジノ・ロワイヤル』

 なんと27年ぶりである。最後に映画館でボンド映画を見たのは1979年の『ムイーンレイカー』なのだ。ショーン・コネリーが復活しようが、ティモシー・ダルトンになろうが、ピアース・ブロスナンになろうが、「007」を劇場まで足を運ぶことは27年間無かった。
 じゃあなんで今回見に行く気になったのだろう。やはり製作中から非難轟々だったダニエル・クレイグのことが気がかりだったのか?エヴァ・グリーンの美貌を見たかった?はて?
 しかしまあ、蓋を開けてみればダニエル・クレイグのボンドはなかなか良かった。薄い頭髪、ガッシリし過ぎの体型、それでいてどこかモッサリした風体。これって実はショーン・コネリー=ボンドの正統な後継者ではあるまいか。
 定番アイテムであるアストンマーチンはもちろん、バハマのナッソーなど初期ボンド映画の舞台が登場するのは往年のシリーズのファンへの目配せか。『ドクターノオ』とダブるようなシーンもあって思わずニヤリでしょうな。
 カードゲームがクライマックス(いや、その後デカい見せ場はあるんだけど)ってのが、まあタイトル通りだけどナイス。ゲームに参加する実はCIAというプレイヤー、どこかで見た人だと思ったらジェフリー・ライトね(よし、これで名前憶えた!)。『シリアナ』『ブロークン・フラワーズ』『レディ・イン・ザ・ウォーター』に続いて、この人見るのなんと今年4本目。
 ボンドをバックアップする男を演じるのが『ハンニバル』でレクター博士に腹裂かれてたジャンカルロ・ジャンニーニ。なんてのはまあいいとして、何はともあれ、エヴァ・グリーンね。ホント綺麗だったなあ。ベルナルド・ベルトルッチの『ドリーマーズ』を見直したくなったよ。もちろんヌードを見るために。
 ダニエル・クレイグは、かつて『ロード・トゥ・パーデョション』でその不敵な面構えを記憶したのだが、小生としてはやはり『ミュンヘン』だな。思えば27年前最後に見たボンド映画『ムーンレイカー』で敵のボスを演じてたのが、『ミュンヘン』の「パパ」ことミシェル・ロンズデールだった。
 しかしね、プロデューサーは馬鹿じゃなかろーかと思ったんだが、来年2007年にどーして「007」を公開しないのかね。ボンド映画のためにあるような数字並びじゃないか。2007年から逆算して製作スケジュール組めっつうんだよ!これ逃したら次は3007年なんだぜ。バッカじゃなかろーか。


06.12.26

■日本人にこの2部作は撮れるか?

『硫黄島からの手紙』

 ご存知、クリント・イーストウッドによる「硫黄島2部作」の「日本ヴァージョン」。
 アメリカ人監督が描いた「日本」としては恐らく史上最も「ちゃんとしてる」映画だ。日本人から見て「ん?」という可笑しな言葉遣いや、「こりゃねーだろ」というトンチンカンな場面も無い。現場でのケン・ワタナベの発言力もあったのだろうが、ここはやはりイーストウッドの手腕を讃えるべきだ。しかし、だからこそ違和感がある。どうしてこんな映画がアメリカ人に撮れるのだろうか。日本映画ではないかと見間違えるかのような作品だ。日本兵の心の動きを丹念に追うばかりか、投降して捕虜となった日本兵を「面倒だ」と射殺するアメリカ兵さえ描く。『父親たちの星条旗』では描くことの無かった「日米の交流」を丁寧に織り交ぜ、「戦争の理不尽さ」に前作よりも一歩踏み込んでみせる。
 そして考えてしまう。日米双方の視点から見たこの「硫黄島2部作」を日本人監督が撮ることは可能なのだろうか。イーストウッドが示したあれほどまでの理解を、日本の映画人はアメリカに対して示せるのか。分け隔て無く「戦争」「文化」「歴史」を描けるのか。それを見たアメリカ人から「なんだこりゃ」と言われることなくアメリカという国を表現出来るのか。
 答えは「NO」だ。こんなことを成し遂げられたのは世界で唯1人、「何も足さない、何も引かない」クリント・イーストウッドだけだ。他のアメリカ人監督はスペクタクルを、日本人監督だったらヒロイズムを足してしまうだろう。そして、双方の国への無理解と偏見が作り出す2部作はとてつもなくいびつなものに違いない。ちょうど「戦争」のように。
 アメリカ兵も日本兵も同じくらい相手を恐れ、そして生きて帰ることを望んでいた。2部構成にすれば全ての戦争をフェアに描けるとは思わないが、今回の企画が戦争映画史に大きな一石を投じたのは確か。
 『ミスティック・リバー』以降、「遺言」のような作品が続いているイーストウッド。来年は77歳だ。まさか「ダーティハリー」復活なんて無いだろうな。


06.12.26

■「アメリカ映画らしいアメリカ映画」by黒沢清

『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』

 10月に黒沢清のトークセッションを聞きに行った際、この映画の話題が出た。「久し振りにアメリカ映画らしいアメリカ映画を見ました」という感想を監督がしみじみと言った時、ああ、やはり見とくべきだったとかなり後悔したが、念願かなって新文芸坐で見ることが出来た。
 親友のメキシコ人を国境警備隊員によって殺されたトミー・リー・ジョーンズが、生前に聞いていた「死んだら故郷の家族のところへ連れてってくれ」という親友の言葉を真に受けて、2度に渡って埋められた(1度は撃った本人による隠蔽、2度目は警察による埋葬)死体を掘り起こし、彼を撃った国境警備隊員を誘拐して同行させ罪を償わせる、2人と死体の旅を描く作品だ。
 国境警備隊員とその妻がテキサスの田舎町に赴任して来て、トレーラーハウスをまずは買う。夫が仕事へ行く日中はすることが無い妻。向かいのトレーラーハウスに住むのは愛玩犬を抱く太った陰気なババア。他に行くところが無く近所のダイナーに入り浸るのだが、ここの店主は年寄りで、ウェイトレスをやってるケバい中年女は店主の妻。彼女はトミー・リー・ジョーンズとデキていて、しかも店に来る保安官ともイイ仲。この保安官がメキシコ人射殺事件をめぐってトミー・リーと対立。さらに、トミーはメキシコ人のダチに生前女を紹介するのだが、恋人であるダイナーのウェイトレスが連れて来たのは、なんと自分とこの店に入り浸ってる国境警備隊員の妻。つまり、加害者と被害者は「兄弟」。そして、今回の「国境警備隊員誘拐&不法国境越え事件」の首謀者と、彼を追う保安官も「兄弟」。
 こんな風に「ノワール」で「ウェスタン」な設定ではあるものの、トミー・リー・ジョーンズ監督の描き方はかなり淡々としている。黒沢清が言った「アメリカ映画らしい」という表現が非情によくわかる。ニューシネマの燃えカスのような70年代前半(スピルバーグやルーカス登場以前)の映画・・・・どれとは言えないが、テレビ東京で昼過ぎや夜中に放映しているような、大して面白くもないがムードだけは満点のB級作品。そんなものを彷彿とさせるのだ。とにかくムーディ。
 それに「ホラー監督」である黒沢清にとっては、旅を続けながらどんどん傷んでいく死体のリアルな造型もツボだったに違いない。コヨーテに齧られ、蟻のたかった顔をオイルで焼かれ、口から不凍液を注がれるという、やりたい放題(まあ、これが笑えるんだが)された死体が腐敗していく過程を、ホラー映画以上に丁寧に見せてくれたのがうれしい。
 そして、トミー・リー・ジョーンズ監督の演出は驚くほど破綻が無い。このあたりは長年の盟友クリント・イーストウッドと共通している。イーストウッドは、かつて自分がいかにも得意として来たようなこの分野でこれほどの傑作を撮り上げてしまったトミー・リーに嫉妬を覚えたのではあるまいか。
 命がけで国境を越えるメキシコ人たちと入れ替わるように、メキシコへと侵入するトミー・リーたち。荒涼とした風景に、人々の退屈そうな暮らし。国境の向こうもこちらも大差ないという事実に愕然とさせられる。場末のバーで、テキサスにいる恋人を想うトミー・リー。背後ではメキシコ人の女の子が弾くチューニングの狂ったピアノからショパンの「別れの曲」が流れる。なんともグッと心に迫る場面だ。
 結局親友が言っていた故郷や家族など存在せず、それでも無理矢理彼の願いを叶え、復讐相手を殺すことなくどこかへと消えて行く主人公。不器用だが友情には厚かった男の挽歌はこうして幕を閉じる。
 ロバート・アルドリッチ、サム・ペキンパー、ドン・シーゲル、イーストウッド・・・・この系譜にトミー・リー・ジョーンズが加わったことに喜びを覚えた瞬間だった。


06.12.19

■宮廷芸人はつらいよ

『王の男』

 南北分断をベースにしたアクションや戦争スペクタクルから恐らく始まった韓国映画ブーム。いやもうブームとは言えないな。すっかり定着したから。某TVドラマが大ヒットすれば純愛映画が量産され、J・ホラーが流行ればK・ホラーが作られる。若手は若手で低予算の「自分探し映画」でアーティスト気取り。映画館で韓国映画の予告編を見せられると「またこんな映画かよ・・・誰が見んだよ」と辟易することが多い(いや日本映画も含めて全世界的にこんな感じ)。ま、そういう作品が多数派を占めてるからこそ、ポン・ジュノやパク・チャヌクやキム・ギドクの才能が一層引き立つわけだけど。
 この『王の男』、韓国映画史上観客動員数NO.1(その後『グエムル 漢江の怪物』が記録を塗り替えるが色々とケチが付いた模様)だけあって、娯楽作品としては一級品。こりゃあ面白かった。
 「絢爛豪華な宮廷」「韓国史上に残る暴君」「王をネタにした芸人コンビ」「その片方は絶世の美少年」「意地悪そうな妾」「大臣ら側近の陰謀」・・・・予告編で示された通りのストーリーではあるが、韓国映画ならではの「熱さ」や「巧さ」といったスパイスが随所に効いている。時の権力によって運命を左右される男役・女役の芸人2人、なんぞと聞くとすぐにチェン・カイコーの名作『覇王別姫』を思い出すが(監督は多分リスペクトしてるはず)、『王の男』の方はずっとコミックタッチでわかり易い。重厚な歴史劇ではなく、あくまでもメロドラマね。コメディの得意な大道芸人が主人公というのが、まあとにかくナイスアイデアだ。ただしその芸はベタで下品で笑えないんだけど。
 今まで馴染みの無かった主役たちのキャスティングが、珍しさも手伝って印象深い。王(この人の顔は忘れないな。面白いから)、厳つい方の芸人(この人『スパイダーフォレスト 懺悔』に出てたらしい)、美少年の方の芸人(本当に美少年)、妾(広田レオナにチョイ似)の4人。
 しかし脇役キラーの小生としては、芦屋雁之助似の側近(かなり重要な役)を演じたオッサンがどうもどこかで見た顔だと気になる。調べたら案の定、『カル』でハン・ソッキュの相棒刑事を、『魚と寝る女』で愛人連れで魚釣りに来るガハハおやじを演じた俳優だった。このオヤジの顔、これでもう完璧にインプット。


06.12.19

和田誠が「もう一度観たいのになかなかチャンスがない」と言っている日本映画〜その2〜

『あなた買います』(1956年)
『宿無し犬』(1964年)

 この日のトークゲストは中井貴一。日中合作映画製作中の彼は、中国からの帰国後初の公けの場への露出だったこともあり、例の女優が書いた暴露本のせいで腫れ物に触るような感じで舞台に上がるのかと思いきや、別にそんなことは全然無く。頼みもしないのに「ふぞろいの林檎たち」撮影時のエピソードまで語ってみせて、なんだかこちらが申し訳なく思ってしまったり、でもそんなのはもしかして芸能人の手なのかな、などと勘繰りたくもなり、なんてヘンな緊張感があったのか無かったのか、まあそんなこたあどーでもいいや。
 中井貴一が話してくれた子供時代のエピソードで素晴らしかったのは、父・佐田啓二の命日になると笠智衆と三井弘次が毎年のように訪れるのだが、三井はすでに酔っ払っていて泣きながら仏壇に語りかけ、その後ろで笠智衆がニコニコとそれを見守っていた、というもの。こりゃイイ話だ。心底グッと来た。

 『あなた買います』は、大学野球の花形選手(大木実)をめぐって、選手のエージェントを名乗る男(伊藤雄之助)、球団のスカウトマンたち(佐田啓二ら)、選手の親兄弟(三井弘次ら)の欲望が渦巻くとんでもなくイヤ〜な話。最初は「好きな野球さえやれればいい」などとクリーンなイメージだった大木実が、最後の最後には一番ダーティーに成り下がり、彼のプロ入りに命をかけていた伊藤雄之助は病死し、ギラギラしていた周囲の大人たちは辛酸を舐めることになる。満員の球場、バッターボックスに立つ大木実の雄姿で映画は幕を閉じる。なんという救いの無いラストだ。大木実って演技は大根だし、どうも好きになれない顔だったんだが、この映画でトドメを刺されたね。もう大嫌いだ。
 松坂のレッドソックス契約問題が映画館の外では大騒ぎとなっていたこの時期、この映画はなんともアクチュアル過ぎる内容とテーマだったな。ゲストの中井貴一以上に。

 『宿無し犬』は田宮二郎が飄々としたチンピラを関西弁で演じる、「悪名シリーズ」を想起させるようなキャラを演じるフィルムノワール。実は田宮よりも、敵役の水島道太郎(凄腕の拳銃使い)や須賀不二男(可愛い親分)、成田三樹夫(スーパークール)、そして田宮をつけ回す刑事役の天知茂ら脇役が輝きまくっちゃってるところがイイ。

 残念ながら風邪をひいてしまい、この特集に足を運べたのは2日間のみ。


06.12.19

■和田誠が「もう一度観たいのになかなかチャンスがない」と言っている日本映画

『三十六人の乗客』(1957年)
『死の十字路』(1956年)

 という長ったらしいタイトルの特集が池袋新文芸坐で始まったので行く。ソフト化されておらず、名画座での上映も稀な、しかし強烈な個性を持つ埋もれた傑作を和田氏がセレクトし、日替わりでゲストを招いてトークショウまで開くという、力の入った企画。
 で、初日のゲストは三谷幸喜。大人気なんだな、彼は。トークショウ開始時には通路まで埋まる盛況ぶりだ。メディアへの露出の多い三谷がトーク上手なのは言うまでも無いが、和田氏のホストっぷりもなかなかのものだった。あの状況だったらきっとタモリでも同じようなもんじゃないかな。

 『三十六人の乗客』は、強盗殺人犯が乗り込んだ夜行のスキーバスを舞台に展開する人間ドラマ&アクション&パニック巨編(ホントかよ)。そのバスに非番の刑事が偶然乗っていたからさあ大変という『ダイハード』そっくりな展開に『スピード』の味も少々。「どの乗客が犯人か?」と疑心暗鬼にとりつかれた刑事の心理戦と種明かしで、乗客全員をつぶさに描いていく王道な演出に、携帯電話の無い時代ならではの外部とのすれ違いがスリルを加速させ、犯人が名乗り出てバスをジャックしてからのサスペンスは一瞬たりともダレることはない。巧みに配置された人物図、ニクい伏線とドンデン返し。ヒッチコックを彷彿とさせるようなシニカルな笑い。
 全く古さを感じさせない。スゴイことだ。50年前に日本映画はこんな第1級エンターテインメントを作って、長いこと埋もれさせて来たのだ。今年最大の発掘か。

 『死の十字路』の方は、江戸川乱歩には珍しくエロでもグロでもないクールなクライムストーリー。誤って妻を殺してしまった会社社長(三國連太郎)と秘書兼愛人(新珠三千代)が完全な隠蔽を目指すものの、やり手の探偵(大坂志郎)に追い詰められて・・・・というもの。
 『飢餓海峡』もそうだったが、三國はなんだかこういう役が似合うな。うわずったり、うろたえたり、脂汗をかいたり・・・・外見の威厳とは裏腹の小心者風な言動がなんともキュートだし、逆にセクシーだ。
 あと、「パパと呼ばないで」など30年以上前の日テレのホームドラマで気のいい親父を演じていた大坂志郎が、意外にもピカレスクな役どころでこちらをドギマギさせるのも面白かった。

 黒澤や小津や溝口や成瀬は世界が認める巨匠だから見る機会はいくらでもある。スターを主演にシリーズ化された作品たちもDVDになってるからいい。でも、この日出会ったような、不幸にも埋もれてしまった、しかし目の覚めるような傑作がプログラムピクチャーの中にはまだまだ存在するのだろう。
 映画とは、一期一会なのだな。


06.12.19

■もうイギリスになんか行かない(うそ)

『麦の穂をゆらす風』

 「イギリスの属国(小作人)」「宗教はカソリック」「昔独立戦争があった」「IRA(アイルランド共和軍)による爆弾テロ」「U2を生んだ国」・・・・イギリスには何度も行っているくせに、すぐ隣のアイルランドについてはこんなザックリとした知識しか実は持ち合わせていない。
 80年代まではIRAによるロンドンでのテロ活動をたびたびニュースで見て来た。92年の『パトリオットゲーム』ではショーン・ビーンやリチャード・ハリスがIRAのテロリストを演じて強烈な印象を残した。そして、高村薫の小説「リヴィエラを撃て」に興奮し、そこで描かれた冷たく、暗く、貧しい風景は小生の中の「アイルランド=IRA観」を決定付けた。
 そんな偏った情報しか持たずにこの映画を見ることが良いのか悪いのかわからないが、この物語で描かれる1920年代の過酷なアイルランドの状況に、すうっと入って行けた。開巻早々登場するイギリス軍の傍若無人・極悪非道っぷりに驚かされ、この事件が起爆剤となってIRAの戦士になることを決意する主人公=キリアン・マーフィーに否が応でもシンクロさせられる。色素の薄い瞳に、栄養状態の悪そうな辛気臭い顔。キリアンが異様なほどハマっている。今までいろんなキリアンを見て来たが、これほどまでにIRAに馴染むとは。「リヴィエラを撃て」を実写映画化する際は、是非ともジャック・モーガンを演じるべきだ。
 以前、予告編だけ見た『マイケル・コリンズ』(リーアム・ニーソン主演だったかな)がいかにもハリウッド大作然としていたのに対し、『麦の穂をゆらす風』が描くアイルランド独立戦争はずっと小規模だ。派手なスペクタクルも無いし、スケール感にも乏しい。医学を志しロンドンに発とうとした青年が、結局は仲間たちを選び、IRAの闘士となり、最後は政府軍の兵士である実兄の手で処刑される、という物語だ。ひとりの普通の若者としてキリアン・マーフィーが演じた(というか彼はそのものだった)からこそ、暗く重苦しいラストがある。決して英雄譚などではない。若々しい青春映画でもない。政治的なプロパガンダフィルムでもない。
 クリント・イーストウッド以上に「何も足さない、何も引かない」ケン・ローチの映画である。


06.12.08

彼女は脳の海にダイブする

『パプリカ』

 1995年秋の『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』の衝撃は大変なものだった。映画館に3度も足を運んだのは、1度見ただけでは把握し切れない情報量のせいだけではない。押井守とProduction I.G.が作り上げた魔法のような映像美に酔い、それを何度も味わいたかったからだ。
 やはり鳴り物入りで同時期に公開された大友克洋の『MEMORIES』は、一部実験的な試みに感心したものの、作品としての完成度は『攻殻機動隊』に遠く及ばず。その後ハリウッド映画に与えた影響の大きさ(『マトリックス』他、女性コスプレヒーロー物はほとんど)を考えても、『攻殻機動隊』の圧勝であった。アメリカにおける日本のアニメへのコンセンサスは、この作品によって拡大し固定したと断言出来るだろう。あの時点で確実にアニメ史が変わったのだ。

 そして負け犬(言い過ぎか)『MEMORIES』の製作に携わった人間が、『攻殻機動隊』以来11年ぶりに小生を打ちのめしてくれたことに、深い感慨と喜びを覚える。『パーフェクトブルー』『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』と一作毎にクオリティが確実に上がって行くことに驚嘆させられっ放しだった監督、今敏。アニメならではのアプローチで「現実と非現実」を描き続けた彼が、筒井康隆の小説「パプリカ」(たまたま発売当時に読んでいた)を映画化すると聞いた時思い出したのは、クローネンバーグがバロウズの「裸のランチ」を映画化した時のことだった。映像化不可能と言われた小説の、才能溢れる監督による幸福なアダプテーション。「パプリカ」をやれるのは今敏しかいない。

 素晴らしい作品に仕上がる確信はあったが、まさかこれほどの完成度とは思っていなかった。あふれ出るイメージ群の狂気・乱舞は原作者のイマジネーション(何せあの筒井康隆なのである)と互角に戦えているし、今敏自身「アニメっぽくした」と言っているように、リアリティに縛られない自由な表現やアニメの特権である「可愛さ」に溢れている。
 主人公千葉敦子の美しさ(ヌードもあり)はハリウッド女優なんか目ではなく、もう1人の主人公パプリカのキューティーっぷりは完全にオヤジ(おいらのことね)のハートをワシ掴み。そう言えば、中年男の若い娘へのムフフな視線というのも原作の重要な要素であった。小生の持論に、「映画には美人が出てなくともよい。ただイイ男さえいれば」(いや、これおすぎの持論ではなくてよ)というのがあるんだが、アニメ映画に関しては逆に美しい女性こそいた方がいい。千葉敦子のクールビューティーっぷりは『攻殻機動隊』の草薙素子以来だ。

 デジタルアニメがスタンダードとなった現在、3-Dではなくあえてセル画時代の絵柄&動きに統一することで、かつてアニメだけが持ち得た躍動感や解放感へと回帰し、「視ること」の快感と快楽を再確認させられ、長らく忘れていた興奮を呼び覚まされた。メインタイトルシークェンス、および中盤で見ることの出来る、物理や常識を断ち切ったパプリカの魔法のような移動&飛行シーンには、カタルシスとともに「懐かしさ」さえ覚えてしまった。

 百貫デブの天才科学者=時田に寄せる敦子の恋心で不条理なロマンティシズムを、足の不自由な研究所理事長と若い研究員男性との肉体関係(ホモ)を描くことで「若さ」「健康」「力」「美」への人間の執着や欲望を、学生時代に憧れた映画監督への道を断念した刑事の抱えるトラウマを描くことで、人生における選択肢が強いる後悔と葛藤と再生のドラマを、さらには人間存在の奇跡と神秘までをも射程に入れたこの作品は、今敏監督が今までの3作品で展開して来た哲学の集大成である。
 ちなみに刑事が学生時代に制作した8mm映画の元ネタは、恐らく石井聰亙監督作品『シャッフル』である。原作は大友克洋のコミック。彼なりのリスペクトだが、なかなか上手く機能していた。

 ラスト、あまりにも鮮やかな幕切れの直後に流れ出す平沢進の曲「百虎野の娘」。その不思議で懐かしいメロディを持つ歌声が力強く鳴り響く中、小生は号泣をこらえるのに必死だった。優れた声優たち(俳優ではない)の才能とともに、『パプリカ』を強力にバックアップしたのは「音」であったことをエンドロールの間中痛感させられた。

 日本のアニメーションを真の意味で背負って立つのは、コミックアーティストとしての才能を忘れつつある大友克洋でも、画よりも語りにウェイトを置く押井守でも、いまだ立地点の定まらない庵野秀明でもなく、ましてやブランド化し腐った宮崎駿などであろうはずがない。

 それは今敏だろう。そう言いたくなるほどの仕事を、彼は『パプリカ』でやってのけたのだ。


06.12.08

久々、新文芸坐2本立て

『ハチミツとクローバー』
『間宮兄弟』

 コミックを無理矢理映画にするのは別に構わないんだけど、大抵原作の素晴らしさを再確認することでその映画の存在価値は終わっちゃう。羽海野チカの「ハチミツとクローバー」という漫画(もちろん全巻読んでます)が、いかに彼女独特の「ギャグセンス」に貫かれていたかを痛感したよ。
 この映画、原作の骨子(恋愛ね)を抽出したのは結構なんだが、監督のギャグセンスがとにかく古臭くて寒い。上映中クスリともしなかったな。羽海野チカに謝れ、って感じだ。
 キャスティングもね・・・わかっちゃいたが森田=伊勢谷友介が最低最悪。羽海野ギャグの体現者たる「森田」というキャラを、この監督は全く理解出来ずにメガホンをとることになっちゃったのだな。だからこの映画の救いは、監督のクソみたいなギャグセンスからただ1人自由であった蒼井優だけなのだ。
 『スクール・オブ・ロック』を見ては「てめえロックをナメてんのか」と毒づき、『スウィングガールズ』を見ては「こんなのジャズじゃねーだろ」と溜息をもらして来た小生。『ハチクロ』を見て呆れ果てたね。「美大ってこんなとこなのか?」と。
 この映画、「なんだか見たことあるところだな」と思ってたら、ロケ地が筑波大学だった。美術をやってる友人が在学していた20年前、たびたび遊びに行ったものだが、確かに学内は楽しそうだったし見ていて羨ましかった。でも筑波大の学生って凄い人たちばっかだったぞ。
 芸術をやる、ってあの映画みたいな「オママゴト」と違うだろ。美大って、ドでかいカンバスにペンキを投げつけたりチェンソーを振り回したりするだけで、世界の檜舞台に立てたり作品が500万円で売れたりするとこなのか?若い奴らに悪しき幻想を植え付けた罪は大きいね、この映画。でも蒼井優にはメロメロだったけどね!

 で、『間宮兄弟』ね。予告編見た段階でまあわかっちゃいたけど、案の定気持ち悪いんだよね、この兄弟。全く似てないからホモにすら見える。つうかホモだったらいっそのこと良い。兄弟だから困るんだ。
 一つ屋根の下に住んで、買い物も自炊も洗濯もぜーんぶ仲良くふたりでこなし、2つ並べた布団でその日の反省会をしながら眠りにつく兄弟。子供時代のようにジャレ合って母親(中島みゆきが大迫力)の目を細めさせる兄弟。外を歩く時はジャンケンで歩数を決めながら(パイナップル、チョコレート、グリコね)、という兄弟。どうかしてるよ、まったく。
 イイ歳して女ッ気が無いが、一応恋人は欲しい2人。兄は行きつけのビデオレンタルの店員を、弟は勤め先の小学校の先生を誘うが、カレーをごちそうしたりモノポリーをしたり花火をしたりで全く恋愛には発展しない。フツーはここでどちらかに恋人が出来て兄弟が精神的均衡を崩しサスペンスへとシフトするんだが、この仲良し兄弟にそんなものは必要ないようだ。
 しかし、「こんな兄弟いねーよ!」などと目くじらを立ててはいけない。これは「ファンタジー」なのだから。
 劇中、世間的に正しいのは、弟の思惑をよそに教員同士で日陰の関係を続ける常盤貴子であり、兄の職場でオフィスラヴから離婚劇へともつれこむ同僚の高嶋政宏であり、弟が恋慕するも気持ち悪いものでも見るような態度でフッてしまう戸田菜穂である。最も「ファンタジー」な風体・言動だった「沢尻エリカの妹の彼」でさえ、向学のためパリに行ってしまう、というリアルを最後には見せる。
 そんなリアルな人々をよそに、兄弟の仲良しライフは続く・・・・てな感じで映画は終わる。エンドロールで見せる、絵葉書に2人を合成した「海外旅行写真」は、結局旅行には行かず「やっぱりうちがイチバンだよね、にいちゃん」と仲良くパソコンに向う兄弟が作ったものだろう。
 親子間・兄弟間で手を血に染める事件が日常茶飯事の時代にあって、この兄弟のファンタジーはすこぶるラジカルではある。「リアル」か?「アンリアル」か?いずれにせよ狂気は双方に内在している。結局はボーダーを歩くしかない。


06.12.08

そのジジイ、変態につき

『ルナシー』

 ヤン・シュヴァンクマイエルは長編・短篇とかなりの数の作品を制作しているが、恐らく『ファウスト』以外は大方見てる、と思う。どこが好きなのか。多分、悪趣味で、下品で、笑えるからだ。手を変え品を変え展開するフロイト的悪夢は、深読みしようとすれば延々と可能であろうし、笑い飛ばしておしまいにすることも出来る。小生は後者だ。

 あまりの悪趣味・変態っぷりにいわゆる「可愛いチェコのアニメ」を期待した客は凍りつくだろう。吊るされたブタの腹を一直線に切り裂いてブリブリと内臓が飛び出すオープニング、這いずり回るブタ(か牛)の舌や目玉、脈打つ生肉など、新作『ルナシー』でも偏執狂的「コマ撮り」とグロテスクな発想は健在だ。オープニングで登場し、「この作品はホラーである。芸術映画ではない」と穏やかに語る素敵な老紳士、というか、単なる可愛いおじいちゃんの一体どこからあんなアイデアが生まれて来るのか。
 おおまかに言っちゃえば、精神病院が一枚噛んだ恐怖譚なので確かにホラーであり、旅人が巻き込まれるというストーリーラインは先日見た『ホステル』に近いものもある(というかホラーの王道だな)。ただシュヴァンクマイエル作品の面白いところは、一見普通に暮らしている人間たちの奇行であって、初めから「おかしな人」というレッテルを貼られた人たちが何を言ったりやらかしたりしようが、それは「そういうこと」であって「なんでもあり」と納得してしまうから、当然面白味は半減することになる。残念だが。
 今回新しかったのは、「マルキ・ド・サドから戴いた」と本人が堂々と言ってのけた通り、鞭打ちなどあからさまなサディズム描写である。だからかつて無いほどヌードが多い。前半にはかなりエッチなシーンもある。ほとんどポルノ映画なのである。う〜ん、爺さん、素晴らしいね。奥さん亡くして気の毒だと思ってたのに。

 小生の好きなシュヴァンクマイエル作品に『コストニツェ』という短篇がある。プラハに実在する、何万という人骨で飾り立てられた凄まじい墓地教会を、コマ撮りも使ってドキュメンタリー風に美しく撮り上げた白黒作品である。音声トラックに収録されているのは現地ガイドのオバサンの解説なのだが、どうやら子供相手らしく、最初は「静かにして」程度の注意が、やがて「触っちゃいけません!」「ちょっとあんた、なんでペン持ってるの!」「あ!この落書きあんたでしょ!」「こっちいらっしゃい!」という怒号へとエスカレートする、まるで往年の「スネークマンショー」のようなコントをよそに、神聖で静謐なコストニツェの映像が淡々と展開する爆笑モノの逸品。


06.12.08

■本当にネタバレしてますから、これ

『ソウ3』

 こんなこと今更ここで書かなくてもみんな知ってると思うけど、『マッドマックス』(1978年)で、妻子を殺された復讐の1つとして、自動車のガソリンタンクにちょいと仕掛けをして簡易時限爆弾に変え、復讐相手の足をその車に手錠でつなぎ、ノコギリを置いてその場を去る、というものがあった。まあ〜復讐とは言え、マックスという男はなんと怖ろしいことをするのだろうと思った。
 こんなこと今更ここで書かなくてもみんな知ってると思うけど、『セブン』(1995年)という映画は、神の遣いを気取ったサイコ野郎がキリスト教の「七つの大罪」を持ち出して説教殺人を重ね、最後は自分も罪の1つ「嫉妬」を犯しつつ対決相手の刑事に「憤怒」の罪を犯させて七つの罪全てを完成させて死んでいく、という話だった。凄い説教だと思った。世の中には世間に対してあれほどまでに説教をしたがる人間がいるのだ。
 さて、この「ソウ」シリーズ、説教をしたい相手に罠を仕掛け、1つだけ逃げ道を残してやる、という見せ場を繰り返しながら、1作目では最後に犯人「ジグソー」の正体が明かされ、2作目では新たな実行犯が明かされる、という結末に向かって謎解き(「物語」とは言えない)が進んで行くというもの。だった気がするが、違ったかな。
 製作側のヒントになったのは『マッドマックス』と『セブン』に違いないだろうし、『ヘルレイザー』以降ホラー・ヴィジュアルの1タイプとして定着して久しい「インダストリアル」や「デス・メタル」や「ゴス」にはもう新鮮味は無いし、『ユージュアル・サスペクツ』以来「パズル・ムービー」とでも言うべき、最後の最後に「そうだったのかっ!」と観客を唸らせる趣向の脚本は、サスペンスやホラーといったジャンルではもう当たり前。
 結局のところ、もう拷問、と言うか殺人のヴァリエーションで楽しませるしかないのね。ゲップが出たよ。すっかりごちそうさま、だ。ジグソーの弟子(1作目で唯一の生存者。2作目では実行犯。この女ってジグソーの娘、というオチじゃなかったんだっけか。そう思い込んでたから混乱したよ)が「キレやすい」性格付けなのがまあポイントなんだね。
 だからジグソーが今回仕掛けたシリーズ最大のゲームは、この女の「憤怒」で完成するんだな。しかも途中「嫉妬」の罪も少々。でもってこの女もジグソーも死に、後半でゲームの主役になる男にも「憤怒」の罪を強いて幕を閉じることになる。

 あのさ、これ、本当に『セブン』だろ。

 1作目で明かされるジグソーのモチベーションは「末期ガン」だったはずだが、よくまあ持続したもんだね。「病は気から」って言うから、あれだけ生き生きと世間への説教に精を出し続けてたら、ガンが治ったかもよ。
 ま、お疲れ様。

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