Diary

■2007年3月

07.03.18

■Dr.コトー ウガンダ診療所
 
『ラスト・キング・オブ・スコットランド』

 主人公が異国の地で痛い目に遭ったり、悪夢のような体験を強いられる映画は怖ろしいものだ。『ディア・ハンター』などいわゆるヴェトナム戦争物はどれもそうだし、トルコの刑務所で終身刑となるアメリカ青年を描いた『ミッドナイト・エクスプレス』、パリで妻を誘拐され陰謀に巻き込まれるアメリカ人医師を描いた『フランティック』、最近では三池崇史の『インプリント ぼっけえ、きょうてえ』が地獄のような遊郭を訪れる外国人という設定に原作をアレンジしていたし、イーライ・ロスの『ホステル』はモロにスプラッター・ホラーとしてそんな恐怖体験を描いていた。
 『ラスト・キング・オブ・スコットランド』(親スコットランドだったアミンは「スコットランド最後の王」とジャーナリストから呼ばれたらしい)もまた『ホステル』のような映画の系譜に連なる作品として見た。厳格な家庭で窒息しそうだったスコットランド人の医者の卵が「自分探し(クソ)」の旅に選んだ行き先はウガンダだった。しかし行ってみたらウガンダはクーデター直後。新大統領アミンの豪放で無邪気な人柄に惹かれたその主人公は、「根拠の無い自信」と「その場のノリ」と「無謀な向上心」でもってアミンの主治医兼側近に成りあがる。アミンが本当はどんな人間であるかも知らずに。
 無知な若者が新天地を目指すがそこでキツ〜イお灸を据えられる。この若造、冒頭からしてもうセックス好きで、「あ、こいつ女でしくじるタイプだな」という予感がプンプン。途中、同僚医師の妻(なんと「Xファイル」のスカリー)とデキそうになりハラハラさせるが、彼の女グセは後に最大級のスリルと恐怖と絶望を招くことになる。こりゃもう本当に『ホステル』だよ。
 フォレスト・ウィテカーが、持ち前の愛嬌と子供のような笑顔を生かして演じたアミンがとにかく怖い。大量の汗をかき、人懐っこい笑顔を豹変させて怒鳴り散らし、それまでエヘラエヘラしてた奴を凍りつかせる。「朝生」の大島渚か、『グッドフェローズ』のジョー・ペシのようだ。
 周囲への疑心暗鬼から狂ってしまうアミン大統領だが、ラスト、逃げ出そうとする若者に突きつけるセリフは正論だ。「お前は白人で俺たちは黒人。そういうゲームをしたかっただけだろ?俺たちのはゲームじゃないんだ」。海外の危険地帯へ平気で赴く若者や、横暴なグローバリゼーションへの鉄槌。
 世に言う「エンテベ空港事件」をクライマックスに持って来たところがニクい。『ミュンヘン』に続いてまたイスラエルとパレスチナ。70年代ってまだまだネタの宝庫だ。


07.03.18

■いやあ、映画って
 
『アニー・ホール』(1977年)
『マンハッタン』(1979年)

 高田馬場にある老舗の名画座「早稲田松竹」での2本立て。
 ウッディ・アレンの作品は、別に避けているわけじゃないけど実は数えられるほどしか見ていない。『スリーパー』『バナナ』『アニー・ホール』『マンハッタン』、そして『スターダスト・メモリー』を最後に昨年の『マッチポイント』を見るまでの80〜90年代は全く見ないという・・・・う〜ん、まあ嫌いではないが関心も無かった、ということになるな、ウッディ・アレンに関しては。恐らく作家として最も脂の乗っていた時期の作品をゴソッと見てないのだから、アレンについては何も語れない。
 それでも、この2本は好きだ、と久し振りに見て実感した。アレンの独白によるオープニングやキッチンでのロブスター騒ぎなど、『アニー・ホール』の数々の名場面は何度見ても楽しいし、スコセッシ作品とは違った70年代のニューヨークの空気感は、ひたすら懐かしい気分にさせてくれる。
 特に『マンハッタン』の方はニューヨークの記録物として優れている。それはオープニングでモノクロのシネスコ画面いっぱいに映し出されるニューヨークの風景だ。四季折々の街角や高層ビルの夜景、セントラルパークで上がる花火などを短いカットで「ラプソディ・イン・ブルー」に乗せて見せてくれる。これから起こる人間たちの少々馬鹿げた営みの背景となる都市の姿をまず提示する方法が小津安二郎作品に酷似しているのは、シネフィルならではだろう。
 久し振りに再見して気付いたのは、『エターナル・サンシャイン』は『アニー・ホール』の、『サイドウェイ』は『マンハッタン』の強力な影響下にあるのではないか、ということ。いや、似てるんだ、ホントに。
 アニーとの楽しかった日々がヌーヴェルヴァーグ風にフラッシュバックする『アニー・ホール』、まだ17歳の恋人に「少しは人を信用しなくちゃ」と40男の方が諭される『マンハッタン』。それぞれのラストシーンに思わず涙腺がゆるむ始末。これだから歳はとりたくない、と思うと同時に、これが映画の醍醐味かと実感した。水野晴郎の決まり文句が思わず口から出そうになったもんなぁ。


07.03.18

■予想外でありんす
 
『さくらん』

 多くの人がそうであると思うが、小生もまた門外漢の映画監督デビューに対して懐疑的である。CMやMTV出身ならいい。そもそもが映像のエキスパートであるし、それらからスタートして世界的な名監督になった人は多い(消えて行った者のほうがもっと多いか)。しかし、画家、音楽家、小説家、漫画家などが撮った映画で後世に名を残すほどの作品が一体何本あるだろうか?
 写真家が映画を撮りたがるのはなんとなく理解出来る。普段勝負している「静止画」の世界を窮屈に感じて、被写体を動かしたい、動かすことで物語を紡ぎたい、そこへサウンドも付けて彩りを増したいと欲張ることは、クリエイターとしての自然な欲求に思える。
 蜷川実花という人が今まで撮って来た写真を見たことないし、安野モヨコの漫画を読んだこともないし、脚本を書いたタナダユキという人が映画監督だったことも知らない。椎名林檎はアルバムを持っているのでどんな歌を歌って来た人なのかくらいは知っているが、土屋アンナを「女優としてどう?」などと考えたことが無いばかりか、女性としての魅力すら感じたことが無い。今をときめくこの5人の女性が・・・と言われたところで知らないもんだから期待しようが無い。女性ならではの美意識を売りにしたいんだろうが、所詮「企画モノ」だ。男が作ろうが女が作ろうが良いものは良い。ってなワケで全く期待せずに『さくらん』を見た。唯一楽しみだったのは歌舞伎役者の市川左團次。この人ヘンタイだから。

 予告編で見せられていたようなド派手な映像と音楽が突っ走ったいびつな作品を予想していたが、開けてびっくり、かなりしっかりした映画に仕上がっていた。俳優たちの使い方、ストーリーの語り口、映像の美しさなどバランスがとても良い。モダンな雰囲気とクラシカルな要素のミックス具合もなかなか。必要以上の外連味(けれんみ)は無く、逆にしっとりとした場面の美しさが際立っていたし、椎名林檎の音楽も結果的にはあの作品に良く合っていたと思う。初めてとは思えぬほど地に足の付いた立派な監督っぷりだった。
 あんな顔の花魁が江戸時代の流行に成り得たのかという疑問はともかく、土屋アンナの「ヤンキー演技」のミスマッチぶりが物語の大きな牽引力となったのは確か。その点、木村佳乃の花魁はリアル。いや、キレイだったな、ありゃあ。怖かったしな。あれで「体当たり」演技でも見せてくれたら最高だったんだが(それでもかなりエロし)。個人的にどうにも好きになれない成宮寛貴と永瀬正敏がああいう役をやらされていたのは溜飲が下がる。そして『キッズリターン』から10年、安藤政信の成長っぷりがなんとも感慨深い。良い俳優になったなあ。左團次は案の定最高だったね。
 俳優たちがみなこの映画でしか味わえないような競演を見せる中、実に・・・実につまらなかったのが夏木マリ。彼女をキャスティングしたのは失敗。『ピンポン』と同じ手垢にまみれた演技で、はっきり言ってもう飽き飽きだし、あの作品にはそぐわないものだった(竹中直人と同じだ)。同じ歌手出身を使うなら、「りりぃ」あたりを使うべきだったのにな。


07.03.18

■「LEON」でも読んでろ
 
『世界最速のインディアン』

 クレイジーな男を描く映画が好きだ。スピードや高さに果敢に挑戦したり、死と隣り合わせのスリルに平気で身をゆだねる男たち・・・・『ライトスタッフ』と『ハート・ブルー』が大好きで何度も繰り返し見たものだ。
 しかしこの2作品、映画の出来としてはどうかと思う。伝説のテストパイロット、チャック・イェガーとマーキュリー計画の宇宙飛行士たちの姿を通して、ある1つの時代を描こうとした『ライトスタッフ』は、その長尺ゆえ展開にムラがあり、群像劇としても今ひとつバランスが悪い。『ハート・ブルー』は、毎年夏になると発生する連続銀行強盗事件がサーファーのチームによる犯行だと目を付けたFBI捜査官が、グループに潜入してサーフィンをするうちにカリスマ的なリーダーに魅せられていくという、ストーリーからしてもうなんだか「アレ」な感じの作品。
 しかしクレイジーな男たちを描く映画に「完成度」なんぞを求めるのは野暮だ。こういう映画は「転んじゃって」いていい。その分異常に突出した何かがあれば。『ライトスタッフ』はイェガーを演じるサム・シェパードの涼しげなたたずまいが、『ハート・ブルー』はサーファー強盗団のリーダーを演じるパトリック・スウェイジの男臭い魅力が全てをなぎ倒すほど全開だった。彼らの姿を見ているだけでもう最高なのである。

 アンソニー・ホプキンス演じる実在のバイク乗りがニュージーランドからアメリカまで貧乏旅行をして、結局レースで凄い記録を出すという映画『世界最速のインディアン』。主人公は一応クレイジーな爺さんなんだが、旅の途中で出会う人々がなんだかもう良い人たちばかり。「大人のためのおとぎ話」と言われちゃえば「ああ、そうなんでしょうね」と言うしかないが、演出から音楽のつけ方からとにかく子供っぽくて、馬鹿にされているような気にさえなって来る。安っぽいヒューマニズムと、少年の心を持つ老人へのこれ見よがしなエールが鼻につくどころか、時折不愉快にさえなった。構造としては『ブッシュマン』のようなものなんだがな。
 展開のバランスも良く、完成度も高い作品だが、その分クレイジーではなくなってしまった。メカへのフェティシズムも無い。「転んだ」主人公を描く映画は、それ自体が「転んで」なければいけない。だからクレイジーな映画は常にカルト作品になるのだ。
 カルトになる要素を持ちながら、いかにも一般受けしそうな最大公約数の「カッコイイじじい映画」に成り下がってしまったこの映画。こんな映画で胸を熱くする野郎は雑誌「LEON」でも読んでおれ!
 クローネンバーグあたりが撮っていれば超傑作になったはずなんだがなあ・・・いや、まあカルトにするつもりもなかったんだろうが。


07.03.11

■「デブ専」宣言 in ベルリン
 
『善き人のためのソナタ』

 ドイツに旅行して驚いたことがある。太った女性がやたらと多いのだ。
 成田空港でチェックインする際、30代と思しきドイツ人カップルを見かけ、その女性の方のお腹が「妊娠してるのかな」と思わず女房に耳打ちしたほどTシャツを突き破ってポッコリと出ていたのだが、いざドイツに到着して驚いた。とにかく太った女性が多い。中年女性やお婆さんばかりでなく、若い娘にも多く目に付く。成田で見かけた女性は単に太っているだけだったのだ。そこで小生が吐いたセリフ。

 「ドイツに妊婦はいない。ただデブがいるだけだ」

 世界トップレベルの深刻な「少子化&高齢化」に悩むドイツだけに、我ながら名言だと思う。そして怖ろしいことに太った女性に対してどんどん免疫が出来てくる。それどころか、デブの中でも「ブサイク」と「可愛い」という評価がなされ始める。ベルリンで、「この痩せたブスよりもあそこにいるデブの方が可愛い」とつい口が滑ってしまったことから、女房に以後「デブ専」のレッテルを貼られることになってしまった。

 『善き人のためのソナタ』で、主人公である国家保安省のヴィースラー大尉と売春婦との濡れ場があるのだが、この中年女性の「たっぷたぷ」の裸が大変な迫力だ。痩身のヴィースラーとの対比があるせいだけではない。そうそう、これがドイツなのだ。リアルなドイツ女性。
 盗聴されるドライマンの恋人クリスタを演じるマルティナ・ゲデックという女優もまたなんとも立派なカラダつきをしている。でもって100%小生好みの美貌。「ドイツのモニカ・ベルッチ」と呼ぶことにしよう。おまけに小生よりも4歳上というイ〜イ熟女っぷりだ。ん?ロリコンじゃなかったんだっけ?

 つい先日「アカデミー最優秀外国語映画賞」を受賞したこの映画。実はこんな冗談を言ってる場合ではないほどシリアスな作品だ。旧東ベルリンを舞台に描かれる、恐怖政治の執行人である国家保安省の役人と、悲惨な現実を西側に伝えようとする芸術家たちの駆け引きと攻防。1984年に始まり、89年のベルリンの壁崩壊を挟んで91年に幕を閉じるこの物語は、20世紀末の大きな転換点を、あくまでもパーソナルな視点で捉える。軍事政権下の韓国で連続殺人事件に翻弄される刑事たちを描いた『殺人の追憶』がそうだったように。
 かつて盗聴のエキスパートで数々の反政府主義者を挙げた男が、一介の郵便配達へと身を落としているラスト。昨日までの英雄が殺人者になったり、昨日までの殺人者が一市民として暮らしているのは何もドイツだけではない。それでも考えてしまう。2005年に訪れたドイツは、明るく、旅行者にも親切な人々ばかりだった。だからこそあのラストは衝撃的だ。

 ベルリン市内、検問所のあったポイントは旧ソ連の軍服を売ったりする観光地と化していた。旧東側にはほとんど行かなかったが、行っていればこの映画にもっと近づけたかも知れない。


07.03.11

■また幽霊かよ・・・
 
『叫』

 黒沢清『CURE』(1997年)と『回路』(2001年)という2大傑作を足したような物語なんだが、どうにもこうにもいただけなかった・・・・う〜ん、前作『LOFT』でもそうだったんだが、やっぱり「幽霊」ってヴィジュアルにすると物凄くマヌケなんだよね。全く怖くないんだ。登場パターンも『女優霊』や『リング』以降マンネリだし、バアと出て来られたところで思わず吹き出しちゃったり困っちゃったりするだけ。
 物語の滑り出しはなかなか良い。埋め立て地に捨てられた若い女の死体。彼女の着ていた赤いワンピースへのオブセッションと、自分が犯人かも知れないという疑心暗鬼に追い詰められていく刑事(役所広司)。やがて起こる第2、第3の殺人事件。湾岸地域を襲う群発地震。埋め立て地にひっそりとたたずむ廃墟となった黒い建物。なぜ犠牲者たちはみな海水を飲んでいるのか。刑事の恋人(小西真奈美)はなぜあんなに若いのか。謎が謎を呼ぶ展開だ。
 押井守(「機動警察パトレイバー」ね)を彷彿とさせる都市論や、ニコラス・ローグ作品『赤い影』やポランスキーの『チャイナタウン』を思い起こさせる要素(赤いワンピース、死体が飲んでいた海水)を匂わせつつも、結局は単純な怪談へと着地してしまう。いや、怪談でもいい。あの葉月里緒奈の幽霊さえ無ければ。部屋の片隅にさりげなくいたり、窓の外をスーッと通ったり、目を見開いてこちらに迫って来たり・・・・こんな演出が、絶対面白くなったはずのこの映画をどうにも安っぽくしてしまった。
 もう幽霊話はたくさんだ。『アカルイミライ』みたいな傑作をこの次は見たい。本気で見たい。
 


07.03.11

■池部良という人
 
『石中先生行状記』(1950年)
『早春』(1956年)

 池袋新文芸坐の特集「二枚目スター 池部良の魅力のすべて」に池部良本人が来館してトークショーをやる、というので見に行って来た。朝からじいさんばあさんで満杯だった。

 良くも悪くも池部良は本当に二枚目だと思う。佐田啓二あたりと比較しても池部のクールな二枚目っぷりはかなりのものだ。しかしこの人、存在感にインパクトが無いんだよね。カッコイイだけで、大して「引っ掛からない」人。何考えてるかわかんないし。若い頃はそれでも良かったかも知れないけど、プログラムピクチャーの時代が終焉を迎えてからは案の定あまり需要が無くなっちゃったんだと思う。

 そんな池部良を強烈に記憶している映画がある。1980年のATG作品『海潮音』である。荻野目慶子のデビュー作でもあるこの作品は、田舎の旧家を舞台に思春期の少女が抱く「外の世界」への憧憬と「大人」への嫌悪を描いているが、主演の池部はその旧家の主人で荻野目の父親を演じている。
 妻に先立たれて何年も経つ池部は母親と娘の3人暮らし。海岸で記憶喪失の女を拾い、家に住まわせたところから父娘の確執が始まり、そこへ義理の弟(なんと泉谷しげる)までもが絡んで来て・・・・というサスペンス風物語なのだが、田舎の漁村に似つかわしくないほどクールな二枚目の池部がひたすら浮いていて凄い。
 記憶喪失の女同様、池部演じる旧家の寡黙な主人も相当ミステリアス。ATGならではの暗く内省的な画面にとことんミスマッチな池部の時代遅れなハンサムっぷりが、年頃の娘を持ちながら(荻野目が入浴中に生理になる場面もある)どこの誰とも知れぬ美しい女(山口果林)を家に囲うという展開に、なんとも言えぬ不穏な空気を与え続けるのだ。おまけに池部と泉谷の2ショットってのもかなり変だったし。ぜひとももう1度見たい作品だ。

 新文芸坐の舞台に上がった池部良はかなり痩せて小さくなってしまったものの、89歳と思えぬほどしっかりとしていた。杉葉子とのエピソードを下ネタオンリーで語ってみせたり、小津安二郎との思い出をジョークまじりで披露したりの大サービス。両脇を固めた聞き手の若い女性(最近刊行された「映画俳優 池部良」という本の編集者らしい)をほったらかして暴走する年寄りの長話に思わず目を細めた。
 


07.03.06

■フォーエヴァー・ロリータ。フォーエヴァー・初恋。 
 
『パフューム ある人殺しの物語』

 この5ヶ月ほど狂ったように聴き続けている曲がある。
 ジャズ・ミュージシャン菊地成孔が以前「SPANK HAPPY」名義でリリースした「フォーエヴァー・モーツァルト」という曲だ。サビ部分で「何で何で 恋をするの?」「何で何で あたしが好きなの?」とロリータ・ヴォイス(つうかアニメ声)で繰り返す岩澤瞳嬢(菊地曰く、モデルは吾妻ひでおが描く美少女)。何度聴いても40オヤジの胸はキュンとなる。狂おしく燃え上がる恋の炎・・・ああっ・・・。

 そして、『パフューム』に登場する赤毛の美少女レイチェル・ハード=ウッド(撮影時は15歳!)を一目見た時、そんな「フォーエヴァー・モーツァルト」が小生の頭の中で鳴り出した。あの曲で歌われたロリータがそこにいた。彼女に釘付けだった。主人公の調香師ジャン=バティスト・グルヌイユならずとも、あの美少女の顔やカラダから発せられる芳香が嗅ぎわけられるような気にさえなった。
 匂い・香りを映像に定着させることの難しさが製作側によって語られているが、そもそも映像表現においては「心理描写」などというものでさえ錯覚に過ぎない。レイチェル・ハード=ウッド嬢のおかげで「擬似嗅覚」がこれ以上無いほど機能した。「性欲」が「香り」を引き出すのだ。
 それにしても彼女のヌードが無かったのは残念だった。グルヌイユを目覚めさせたプラム売りの赤毛少女が美しい裸体を披露してくれたのは堪らなかったが。

 『ドッグヴィル』で味わいのあるナレーションを聞かせたジョン・ハートの淡々とした声で語られる、超嗅覚を持つ殺人者グルヌイユの運命は、冒頭彼が産み落とされるシーンからして凄まじい。魚の臓物が散乱する石畳の上で産声を上げる赤ん坊。その後目も見えぬうちに売られた先で、ひとりの孤児が差し出した指をむんずと掴み匂いを嗅ぐ場面。一体どうやって撮影したのか。さらに魔法のような映像は18世紀のパリの街並みをもスペクタキュラーに再現して見せる。古色蒼然とした巨大建築群のリアルな造型。優れた絵心が生むパースペクティヴは想像力をかき立て、作品世界に風格を与えている。
 風格を湛えながらも、ありきたりの「重厚な歴史ドラマ」に転ばなかったのは、時にポップとも言えるような撮影法にもあるだろう。父親に連れ去られた赤毛美少女を、はるか彼方にいるにも関わらず「嗅ぎ出す」シーンのトリッキーなシークェンスはその最たるものだ。良い意味でコミックのような演出。そう言えば、この作品の共同脚本家が以前に脚色した『薔薇の名前』も、どことなく似たような味のある作品だった憶えがある。
 しかしこの作品を陳腐な歴史物におとしめていない最大の要因は、何と言ってもその「ヘンタイ度」の高さにある。実は、匂いに対するフェティシズムだけではないのだ。
 グルヌイユが死体から香りを抽出するプロセスは<ネクロフィリア>であるし、少女を生贄にするという趣向は前述の通り観客の<ロリータ志向>を刺激する(オレです、オレ)。処刑場でのクライマックスでは<群集乱交>(そんな用語ねーだろ)というかつて見たことの無いスペクタクルまで登場。究極の香水を創るための13番目の香料にされた娘の仇をとろうとグルヌイユに刃向かうアラン・リックマンが、結局は泣き崩れて(娘の匂いのする)グルヌイユを抱きしめるシーンには<父娘相姦>的イメージもある。そして生まれ落ちた場所に舞い戻ったグルヌイユの最期は<カニバリズム>である。「香り」と「性欲」の果てにあるものは「食欲」だったのだ。
 ちなみに、<群集乱交>シーンの演出に参加したのは、なんとスペインの舞踏集団「ラ・フラ・デルス・バウス」である。火や水やジャンクや生肉を使った、過激でスキャンダラスな彼らの来日パフォーマンスを、バブル華やかなりし頃に横浜で見たことがある。まさか彼らの名前をこのような映画(しかもあんな場面)で目にしようとは。

 体臭を持たないグルヌイユという青年を演じるベン・ウィショーなる俳優の匿名性と童貞性がこの映画にもたらしたものはあまりにも大きい。世界を支配出来るほどの超人的な能力を持ちながら、「誰の息子でもない」グルヌイユは「誰の父親にもならず」(つまり童貞のまま)この世から消え去る。
 「初恋」という、異性への最初の欲望を、香りにして永久に保存すること。
 ヘンタイの限りを尽くしておきながら、なんというロマンティシズムだろう。
 


07.03.06

■黒ブラをバンザイして着ける女
 
『DOA デッド・オア・アライブ』

 裸の美女が黒のブラジャーを放り上げ、眼にも留まらぬ速さで男の手から拳銃を蹴り上げ、両手を高く上げたところへ先程投げたブラジャーがスルリと落ちて来て、続いて手にした拳銃を間一髪のところで後ろ手に突きつけ、男に向かって吐いたセリフが「ホック留めてくれる?」だぜ。
 もう最高だよっ!
 つうか、このシーンをTVでチラッと見て我が目を疑い、この映画を見に行くことに決めたんだが。
 
 童貞の夢がいっぱい詰まったこの映画。設定のイイ加減さ、ヴィジュアルの安っぽさも含めて、なんかゲームっぽい展開だなあと思ったら、原作はゲームだったのだな。割り切って見れば腹も立たないし、なかなか面白かったと言える。
 登場する5人の美女の仲では、デヴォン青木があの特異なルックスゆえ一際目を惹く。ジュリア・ロバーツの兄貴や『マトリックス リローデッド』のサングラス中国人も出ていてビミョーに豪華。
 しかし小生としては、やはり「ブラジャーバンザイ装着法」を映画において初めて実践して見せたクリスティー(ホリー・ヴァランスとかいうおねえちゃん)が何と言っても断然好み。いや、めちゃめちゃビューチフルだったっ。
 よし、今度「トランクス倒立装着法」を練習してみよう。女房にナイショで。
 


07.03.06

■京マチ子の朝
 
 2月は、映画も見に行けないわ、HPの更新も出来ないわという、仕事に忙殺される日々が続いた。
 それでも池袋新文芸坐での特集上映「七回忌追悼 名匠 吉村公三郎の世界 吉村作品の中の女優たち」になんとか滑り込み、4本見ることが出来た。

『偽れる盛装』(1951年)
『夜の河』(1956年)
『夜の蝶』(1957年)
『夜の素顔』(1958年)

 このうち、『夜の河』以外の3本は京マチ子が主演。それぞれ、「男を手玉に取る勝気な芸者」「銀座の高級クラブのマダム」「日舞の大物へと伸し上がる元売春婦のダンサー」という、どれも凄味のあるキャラクターを、濃厚な色気とムチムチの腰つきとセクシーな二重アゴでブルドーザーのように堂々と演じ切る京マチ子。そんなマチ子を朝からゲップが出るほど堪能出来る作品だった。
 思えば江戸川乱歩原作の『黒蜥蜴』は、三島由紀夫が戯曲化し美輪明宏が主演した松竹版が有名だが、それよりも先に大映で映画化したものの方がある意味カルトな輝きを放っていた。
 美脚とは程遠い大根のような足を黒い網タイツにむりやり突っ込み、のっしのっしとステップを踏みながら、ピシッピシッとムチを振るうゴスメイクの京マチ子が開巻早々登場。「今までに見たことのないもの」を前にして笑いと恐怖が同時に湧き起こり、やがて脳内に滲み出す「ヘンな汁」が予想だにしなかった桃源郷へと小生を誘ったのだった。
 思春期にこれを見ずに済んで幸いであった。

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