Diary

■2007年4月

07.04.28

■コン・リー萌え
 
『ハンニバル・ライジング』

 レクター博士物の5本目の映画にして、初めて原作者トマス・ハリスが脚本まで書いたというこの作品。リドリー・スコットの映像センスの悪さに驚いた『ハンニバル』(久し振りにTVで再見したがあの変なスローモーションの多用は目に余るね)。最初の映画化作品にして傑作『刑事グラハム 凍りついた欲望』への冒涜としか映らなかったリメイク『レッド・ドラゴン』。つまり『羊たちの沈黙』を頂点にあとは話題性も作品の出来も下降する一方。果たしてシリーズを続ける意味はあるのか?と疑わざるを得ないこのシリーズに残された道は、レクターとクラリスがその後営んでいるであろう楽園生活などではなく、当然ながら、原作に記述のあったレクターの妹「ミーシャ」にまつわるエピソードを膨らませ、青年時代の博士がどのようにトラウマを克服し殺人鬼としての才能を育てて行ったのか、を描くことにある。
 もちろん映画化を前提に書かれた原作だが、どうやらコン・リーに惚れたトマス・ハリスが無理矢理ハンニバルの叔父の奥方を日本人(中国人じゃなくて、ね)に設定したと伝え聞いた。おまけに戦国時代の甲冑まで引っ張り出し、面の下半分を装着させて『羊たちの沈黙』で披露された拘束衣姿のレクターと重ね合わせようとする涙ぐましさ。そもそもあの時の「マスク」って原作には無い(原作では単なるホッケーマスク)映画ならではのアレンジではなかったか。それに『ハンニバル』への布石として「ブタ」(つうかイノシシ?)まで登場させるワザとらしさ。つまり、トマス・ハリスという人はこの映画シリーズに踊らされっ放しの原作者ということになる。もはや「ベストセラー小説 待望の映画化!」でもなんでもないのだ。こういう姿勢って小説家としていかがなもんだろうな。
 コン・リーが日本人を演じるのは、映画監督チャン・イーモウが俳優として主演した歴史SF『テラコッタウォリア 秦傭』と『SAYURI』に続いて恐らく3度目である。相変わらず艶やかだ。胸元もまぶしい。小生と同い年なのにあのツヤツヤお肌。ハリウッド女優ではこうは行くまい。
 そして、トマス・ハリスよりも先に彼女に魅せられ『マイアミ・バイス』に起用したマイケル・マンは『刑事グラハム〜』の監督である。うん、つながったぞ。

 あ、で、肝心の映画ね・・・・この映画を作る意義もわからないし、この映画の存在価値も見出せませんでした。


07.04.28

■小生には必要の無い映画でしたね
 
『プラダを着た悪魔』

・ジャーナリズム誌を志望してた冴えない娘がどういうわけか超一流ファッション誌の編集長のメガネにかなう。
・最初は失敗続きだが、ブランド物を身に着け始めた途端に周囲から一目置かれ仕事もこなせるように。
・仕事がうまく行き始めると恋人や友人との関係がギクシャクし出す。
・仕事のせいで恋人の誕生日に間に合わず、修正不可能な仲に。
・同じ業界のステキな先輩男性が目をかけてくれる。
・スッピン&涙目の「悪魔」を前に、こいつもやはりひとりの女だった、とわかる。
・同僚を出し抜いて憧れのパリへ取材に。幸せの絶頂。
・ステキな先輩男性と酔った勢いも手伝って一晩のアヴァンチュール。
・ヨロシクやった翌朝はやっぱり寝坊。
・業界内のちょっとした陰謀劇を知り、「悪魔」を救おうと奔走。
・でも「悪魔」の方がやっぱり1枚うわて。「悪魔」大勝。
・最上級のお褒めの言葉「あなたわたしに似てるわ」を言われて辞職を決意。
・案の定携帯電話を投げ捨てるシーンあり。
・当初の希望だったジャーナリズム誌に就職。元の冴えない娘に逆戻りだが、恋人とも寄りが戻る。
・ニューヨークのストリートで偶然「悪魔」と出会うが無視される。
・タクシーに乗り込んでからサングラスをはずし笑顔を見せる「悪魔」。

 上映開始3分、いや見る前から予告編だけで全て読める展開。とにかく全部がお約束だけで成り立ってる。TV以上にTVっぽいので驚いた。なんでこんな映画見たんだろーな・・・・魔が射したのか。
 アン・ハサウェイは「銀杏BOYZ」の峯田和伸くんによく似てると思います。


07.04.28

■この映画はウソです!
 
『ブラッド・ダイヤモンド』

 小生の職業は「宝飾品にダイヤなどを留める職人」である。弟子入りしたのが1989年だから、もうすぐ18年もこの仕事で食っていることになる。業界入りする以前から、ジュエリーに興味・関心があったわけではない。単に「他人から紹介され」つい「成り行き」で始めてしまった仕事である。だからもし10代の頃の小生が、今現在こんな仕事で食っている「未来の自分」を見たら本当に驚くはずだと思う。
 キャリアを積むことでスキルアップはして来たものの、ジュエリーへの関心は依然として薄い。顧客のニーズに応えられる仕事をこなし、次回の仕事へつなげて行くだけで充分である。「職人としての誇り」のようなものは勿論ある程度は持っているつもりだが、自分のした仕事や商品そのものへの過度な愛情は全くと言っていいほど無い。要するに「メシの種」に過ぎないということだ。食えればそれでいい。
 だからほぼ毎日見たりいじったりしている大小様々のダイヤモンドがどこの山で誰の手で採掘され、研磨されて、どういうルートを巡って今目の前にあるのかなど、ほとんど考えたこともない。大まかな知識こそあれど、ダイヤのありがたみに感謝しながら作業をしているわけではない。よほど大きなダイヤでもない限り破損しても動じない。

 アフリカの紛争地域で採掘されたダイヤがゲリラの武器購入の資金になっているという事実。それを闇ルートで買い上げ世界ダイヤモンド市場を牛耳っているイギリスの企業。いわゆる「血のダイヤ」がベルギー辺りでマネー・ロンダリングならぬ「ダイヤ・ロンダリング」され、なんと市場の15%を占める量が流出しているという。この映画はつまり、先進国の金持ちどもが身に着けているジュエリーはアフリカ人の血を吸っているから買うな、とはっきり言っている。
 困ったものだ・・・・。この映画を見てショックを受けた独身OLたちはもう自分にご褒美を買わなくなるかも知れない。恋人や婚約者にジュエリーをねだったりしなくなるかも知れない。小生が普段手がけているクラスのジュエリーは、あの映画を見ても決して動じない金持ちが買うような立派な物(映画のラストで映るショウウィンドウに飾られていたような)ではない。どうしよう・・・・明日からおまんまの食い上げだ。鯨漁師の気持ちがわかる気がする。
 だから、お願いである。ディカプリオ目当てであの映画を見に行って「えー、紛争ダイヤ?マジ?もうあたしダイヤなんか欲しくなーい。ゼッテー買わねー」とか言ってる女性の方々。そんなこと言わないでちょーだい。

 この映画はウソです!「血のダイヤ」なんてもなぁこの世界に存在しませんからっ!

 ま、冗談はさて置き、グローバリゼーションのダークサイドを描くという点では、昨年度屈指の傑作『ナイロビの蜂』と同じと言えるこの映画(あの映画の悪者もイギリスの製薬会社だった)。あの面白さにはとても敵わないとは言え、『ブラッド・ダイヤモンド』もエンターテインメントとしてはなかなかのもの。先日見たばかりの『クィーン』でブレア首相を演じていた俳優が、ロンドンのダイヤ会社の悪者として顔を出していて大混乱。ディカプリオの父親とも言うべき傭兵部隊のリーダーを演じていたのは懐かしや『ハムナプトラ』のミイラ男だった。
 しかしさ、子供をさらわれたアフリカ人の父親を演じたのってなんとも目立たない冴えない顔の俳優だけど、なになに、『スターゲイト』とか『ザ・グリード』とか『グラディエーター』とか『トゥームレイダー2』とか『コンスタンティン』とか『アイランド』とかに出てたワケ?ホントに目立たねーなー、おい。


07.04.23

■「お葬式」
 
『クィーン』

 ロンドンという街が好きで何度か行っているが、英国王室への関心はほとんど無い。バッキンガム宮殿は観光名所だから一応訪れているけど、大して面白くもなかったし、ダイアナ妃の浮気・事故死ほか王室関連のニュースやスキャンダルにも特別な興味は無い。ダイアナの死から2年後、ロンドンの老舗デパート「ハロッズ」を訪れた際、店内にあったオーナーの息子ドディとダイアナの祭壇に苦笑して通り過ぎた。まあ、そのくらい王室関係のネタには関心が無かったのだな。
 人が死ぬと残された者は大変だ。故人への思い入れの差から内輪もめが発生するし、故人への怨みつらみに発展することもある。日常の中で埋もれ忘れられていた様々な感情が一気に噴き出し、それまで見えなかった人間模様が顕わになるのが葬式なのである。我々一般人でさえそうなのだから、セレブなんてのは想像を絶する奇怪な様相を呈するはず。
 『クィーン』はダイアナの死から葬儀までの狂乱(ホントお祭り騒ぎだったんだな、あれ)の1週間を描く。伝統と世論の板ばさみに苦しむエリザベス女王とその家族。そんな女王と大衆の橋渡しに奔走する就任したてのブレア首相およびその周辺スタッフ。女王とブレアを軸に、偏見やプロパガンダに陥ることなく丁寧に描いていて非常に好感が持てた。
 新しい時代への対応を迫られた女王の困惑ぶりをヘレン・ミレンが見事に表現している。物真似大会に終始した『太陽』『カポーティ』に比べ、似ていないことが逆に演技者としてキャラクターに深みをもたらし、女王の心情を逃げることなく正面から描くことになった。いくら世界中から愛され王室人気を高めたとは言え、女王にとってダイアナは「厄介な嫁」に過ぎなかったはず。階級社会であるイギリスへの無理解があの狂信的なダイアナ熱を生み(移民と思しき男性へのインタビュー映像が象徴的)、伝統と格式の中で生きて来た女王に変革を迫る理不尽さ。それでも「一人間」として死者を哀悼する気持ちを持つ女王。シカ撃ちの最中のエピソードが女王の心模様を表現している。
 ここしばらくの実録モノの中ではかなり良い出来だ。『ラストキング・オブ・スコットランド』のような変な面白味は無いものの、作り手の真摯な姿勢が見えるのは悪くない。しかし、あの画質の悪さはいただけない。別にフィルムで撮れとは言わないが、あのお粗末な画質の映画をアカデミー会員は疑問に思わなかったのだろうか。


07.04.23

■未見の人は絶対読まないでください
 
『デジャヴ』

 予告編を見て「ああ、きっとこんな内容だろーな」と想像していたものの、実際に本編を見たら「ええっ!?こんなのありかよっ」ということになる映画がたまにある。ラストはまるで変身ヒーロー物だった『ドリームキャッチャー』。宇宙人による侵略がオチだった『フォーガットン』。シャマラン作品のようにクライマックスに用意された意外な真相を売りにするわけではなく、途中で別物にすりかわってしまうヘ〜ンな映画。
 『デジャヴ』の予告編を見て「ああ、きっとデンゼル・ワシントンは何者かによって記憶を操作されて陰謀の渦中に放り込まれ、行く先々で味わうデジャヴ(既視感)を手ががりに自分が何者か、そしてなぜ未来がわかるのかを暴いて行くのだろうな」と、『ボーン・アイデンティティ』にも似た映画を想像していた、というかそうだと確信していた。
 ところが・・・・おっどろいたね〜、なんとタイムマシンが出て来るとは!実はこれ、SF映画だったのだ!
 ただそこに「科学の匂い」は稀薄だ。そこを突き詰めて提示する必要のあるストーリーではない。ジョン・ウーの『フェイスオフ』で顔面を取り替える最新の手術方法が全然科学的ではなかったのと同じように。むしろタイムマシンだとバレる前にデンゼルにするウソの説明・・・・「複数の衛星からの映像を組み合わせて立体化し360度視点を変えて再現出来るようになるまでの解析に4日かかるからつまり事件の4日前の映像が今ここにあるわけでこれを見て容疑者を割り出せないかなただし巻き戻しは出来ないんだよねこれある意味リアルタイム映像だからさ」の方がリアルで良い感じだった。トニーの兄貴リドリーの『ブレードランナー』でポラロイド写真をズームやヴァーチャルな回り込みで解析するシークェンスの最新版とも言える。
 時間モノSFには「過去をいじってはならない」とか「同時間に2人存在することは出来ない」というお約束があるのだが、この映画では未来に起こる大惨事を未然に防ぐためどんどん「歴史」を変えてしまう。プロジェクトのスタッフが「どんどん変えちゃえば支流が本流に替わるから」と説明するのだが、どうなんだろうな、その理論て。テロは防げるものの結局は死んでしまうデンゼルと入れ替わるようにもう1人の(未来のというか現在の)デンゼルが現れて、デジャヴを味わうハッピーエンドってのもなんだかおかしな話じゃないか?時間は連続してないのか?考えるともうワケわかんなくなっちゃうな。
 ま、いっか、結構面白かったから。


07.04.23

■日本のアニメはやはり世界一
 
『時をかける少女』
『ゆれる』

 昨年見逃してしまった劇場版アニメと、ぜひもう1度見たかった邦画の2本立てを新文芸坐にて鑑賞。

 言わずと知れた筒井康隆の小説で、1983年には原田知世主演で映画化された『時をかける少女』。読んだのがはるか昔30年近く前のことなのでもはや原作のことはほとんど記憶に無いが、大林宣彦による映画版は昨年再見した際に思わず落涙するほど感動した。初恋のせつなさと永遠性を、原田知世の素人芝居と尾道の美しい町並みで見事に封じ込めた名作であった。
 原作から20年後を設定した続編ながらも(主人公の叔母として芳山和子が登場する)、このアニメがまたしても描くのは「初恋へのとまどいとときめき」だ。大林&原田版が昭和へのノスタルジーと日本映画の黄金時代への憧憬に溢れていたのに対し、この続編は都会で暮らす現代の高校生がフツーに送っているのであろう(恐らく)ある程度リアルな学園生活を基盤にしている。だから言葉遣いもすべて当世風だ。それに今回の主人公はとにかく元気いっぱい。2人の男子に挟まれて揺れ動く乙女心、という部分は踏襲しているものの、彼女のとことん活発なキャラクターが今ヴァージョンの最大の売りだ(だってポスターがあれだし)。そしてそのアレンジは大成功だった。
 女の子が飛んだりするだけで、ただもうそれだけでうれしくなる。『パプリカ』でも泣けたのは主人公が大空を落下するシーンだった。こういうのは実写映画では成立しない。CGを背景に誰が落下しようが飛ぼうが感動しようがない。アニメだから、である。夕暮れ時の告白シーンだって「絵」だから説得力があるのだ。しかし『時をかける少女』の白眉は、クライマックスで主人公が延々と走る場面だろう。走っている、女の子が全速力で走っている、ただそれだけで素晴らしい。フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』のラストを思い出す。
 今となってはこういう類のリリシズムは日本のアニメにしか存在しない気がする。かつて宮崎駿が専売特許としていた「若い娘モノ」の最新版とも言える『パプリカ』と『時をかける少女』が大勝した昨年度、ジブリが発表した作品が「あれ」というのがなんとも皮肉だ。

 『ゆれる』は昨年中に再見していればベスト10が変わっていたくらい2度目のインパクトが強かった。西川監督の前作『蛇イチゴ』の影が終始チラついてしまい、評価としては10点満点で7くらいだったが、今回はその呪縛から逃れて見ることが出来た。香川照之が本当に素晴らしい。刑務所でオダギリと対峙する彼が全くまばたきしないのはレクター博士と同じか。そう言えばこの映画、脇役全てが存在感あり過ぎという点で『羊たちの沈黙』と似ている気がしたな。西川美和という監督、案外ジョナサン・デミにかなり近い才能を持つ人なのかも知れない。
 もう打ちのめされたな。見終わってクタクタだ。ラスト、香川照之は果たしてバスに乗ったのか乗らなかったのか、再見してもやっぱり答えが出ない。デビュー作と同様に兄弟をテーマに選んだ西川美和ちゃんだが、2作目にして物凄い領域に突入したもんだ。恐るべき作品である。個人的には笑える分『蛇イチゴ』がどうしても好きなんだが。邦画界では数少ない「次回作が楽しみな監督」になった。


07.04.23

■なんだこのエンドロールは
 
『サンシャイン2057』

 傑作ではないと予想はしていた。原題は「Sunshine」。「2057」なんていう数字をくっつけた時点で、こんな邦題を持つSF映画が傑作であるはずがない。だが予告編を見る限りでは、ヴィジュアルがかなり良い。野田昌宏がかつて言ったように「SFは絵(画)だ」。理屈よりもまず一枚画で圧倒せねばSFではない。だから久し振り(スティーブン・ソダーバーグの『ソラリス』以来か)の本格宇宙映画の登場に血が騒いだのだった。
 案の定映像は素晴らしかった。巨大な円形シールド(兼核爆弾)に隠れながら太陽へと航行する「イカロス」(このネーミングがベタだね)の外観はなかなか刺激的だし、デジタルならではの特撮ショットがどれも見事だ。宇宙にいることの不安感・恐怖感もちゃんと出ていた。しかしストーリーがどうもね・・・・。
 死滅しそうな太陽のコアに核爆弾を打ち込んで再生させ、氷河期になった地球を救うという物語なんだが、そもそもそのアイデアに説得力が薄いだけではなく、滅亡の危機に瀕した地球を冒頭に画で見せてくれないから、ミッションの重要性やクルーたちが見せる自己犠牲感に説得力も無い。そんな手垢にまみれた演出はダニー・ボイル流ではないのかも知れないが、いわゆる「滅亡モノ」のお約束は踏まえてもらわないと映画として成立しなくなる。
 当然のことながらSF映画の名作の数々に対するオマージュ、というかコンプレックスによってこの映画は成り立っている。船内で植物園を育成してたり(『サイレント・ランニング』)、信号をキャッチして救助に向かい取り返しの付かないアクシデントに見舞われたり(『エイリアン』)、最初に向かった1号に後続の2号がランデヴーしたり(『2010年』)、ヘルメット無しで1号から2号に乗り移ったり(『2001年宇宙の旅』)・・・・。しかし、到達点目前で発見された1号にひとり生き残っていた船長がやたら「神がかった」言動を見せるという、まるで『地獄の黙示録』のようなキャラクターが登場してから、物語は「ありゃりゃ」な展開を見せ始める。『28日後・・・』で新しいゾンビを見せてくれた要領で演出されたこの「偽カーツ大佐」はなんともリアリティに乏しく、哲学的なカリスマにも成りえていない、なんともお粗末な出来。クライマックスをいたずらに味付けするばかりで、見る者を混乱させるだけだ。
 SF映画の失敗作には魅力的なものが結構ある。『アルタード・ステーツ』『アウトランド』『デューン砂の惑星』『2010年』『アビス』『エイリアン3』などなど・・・・色々な意味で「転んじゃった」作品だが、どうにも抵抗しがたい魅力を内包している。ダメだと判り切っていながら、ついつい繰り返し見てしまうのである。ブライアン・デ・パルマがどういうわけか監督した『ミッション・トゥ・マーズ』の怪作っぷりが懐かしい。『サンシャイン2057』もそういった作品の系譜に加えていいのかも知れないと思わなくもなかった。
 あの愚かなエンドロールさえなければね。あんなことするくらいならいっそのこと「NG集」でも流せよ!これからどうするんだ?ダニー・ボイルよ。ヴィジュアリストには馬鹿じゃなれないぜ。


07.04.23

■佐藤勝の世界
 
『首』(1968年)
『日本沈没』(1973年)

 『用心棒』などの黒澤明作品をはじめ、遺作となった『雨あがる』まで300本余りの映画音楽を手がけ、多くの映画監督と渡り合ってきた巨匠中の巨匠、佐藤勝。池袋新文芸坐の特集「映画音楽家・佐藤勝と七人の名匠」に1日だけ行って来た。
 「日本の映画音楽シリーズ」というコンピレーションの「佐藤勝の世界」というアルバムがここ何年か小生のお気に入りだ。だが購入した動機は佐藤勝という名前ではなかった。このCDに収録されている『メス』(1974年・松竹)という映画の音源である。
 1980年の年頭に偶然TVで見たこの映画は同名の劇画が原作で(小生はなぜかこの原作を小学生時に読んでいた)、大病院を舞台にした「医療ハードボイルド」だが、高橋幸治、三國連太郎、岡田英次などキャスティングが豪華なわりには陰惨なムード、時に不条理とも言える展開、グロテスクな手術場面、そしてあまりにも唐突な幕切れで、日曜午後の茶の間でうっかり見てしまった中学生を凍りつかせ、その後の精神形成に多大な影響を及ぼした怪作である。
 寒々としたフルートの音色と不協和音を混入した鋭利なピアノ・フレーズ。時にメランコリックに、時に不吉に響く佐藤勝のスコアがこの映画にもたらしたものは測り知れない。だから小生はこのコンピレーションCDを見つけた時に跳び付いた。しかもなんとこのアルバム、佐藤勝による自選ベストである。かつて『メス』という映画を小生の脳に強烈にインプットしたサウンドトラックは、佐藤勝自身お気に入りの1曲だったのだ。うれしかった。
 そんな「取っ掛かり」で購入したこのアルバムに収録された映画は『用心棒』『家族』『日本沈没』『金環蝕』など。どれも小生の琴線に触れる楽曲ばかりだ。土着的なフレーズにジャズの要素を併せ持ち、勇壮なオーケストレーションからしっとりとした小品まで、どの曲も小生の「魂の故郷」のBGMに相応しい。伊福部昭とは一味も二味も違った昭和の音。聴いているとノスタルジーに胸をかきむしられ、未来を見ることをやめたくなる音楽。
 バーナード・ハーマンもジェリー・ゴールドスミスもハワード・ショアも良い・・・大好きだ・・・・だが佐藤勝という音楽家は小生にとって「特別な人」なのだ。

 「佐藤勝&森谷司郎」というくくりのこの日のプログラム、何度見ても素晴らしいこの2作品だが、むしろ「橋本忍&小林圭樹」という印象が強い。でも見た後結局『日本沈没』のサントラを買わせてしまったのだから、やはり佐藤勝偉大なり、ということなのだな。


07.04.03

■あるいは顔味という名の職業
 
『あるいは裏切りという名の犬』

 昨年見逃していた作品を新文芸坐で見ることが出来た。
 フランス映画には「フィルムノワール」の長い歴史があるが、この映画はその最新形態ということになる。マイケル・マン作品に通ずる温度と張り詰めたムードに、アンドリュー・ラウやジョニー・トーら香港ネオノワールのヴィジュアル感覚を加えた「美味しいとこ取り」だが、そこに脚本家と監督が揃って元警察官というリアリティと、フランス映画界きっての名オヤジ俳優を配したことにより、随分と異なった風合いの作品になった。
 やはりフィルムノワールは「顔」だ。ジャン・ギャバンもリノ・ヴァンチュラもジャン・ポール・ベルモンドもアラン・ドロンも、フレンチ・ノワールの俳優はみんなイイ顔をしていた。人生の苦渋、仕事に生きる孤独、熱い友情と長続きしない愛、死と隣り合わせの生活・・・・そんなものをグッと噛みしめ酒と煙草で押さえ込み、おかげで顔には深いシワが刻まれた男たち。
 「男の顔は履歴書」とはタモリの言だったか・・・・まさにそんな味わい深い顔を、ダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューはスクリーンいっぱいに見せ付ける。やっぱり男は50歳過ぎてからだ。いつかあんな顔の男になりたい。そう思わせることで、『あるいは裏切りという名の犬』は最新のモードを纏いながらも、しっかりとフレンチ・ノワールの伝統へと帰結している。
 しかしこの邦題、精一杯気を利かせたつもりだろうがいかがなものだろうな。原題は「オルフェーヴル河岸36番地」で、つまりパリ警視庁の住所。カッコいい〜。
 ロバート・デ・ニーロとジョージ・クルーニーでリメイクされるらしいが一体どうなるやら。『ディパーテッド』のようなアプローチはこの映画には通用しない。プロットよりもむしろ主人公2人の「顔味」が最大限にモノを言う作品だからだ。デ・ニーロだったらアル・パチーノあたりじゃないと釣り合わないんじゃなかろうか。そしたら監督はマイケル・マンに決まり!・・・って・・・・あれ?


07.04.03

■ヴァーホーヴェンは手塚治虫か?
 
『ブラックブック』

 興行的にも評価的にも今イチだった2000年の『インビジブル』を最後に、ポール・ヴァーホーヴェンはハリウッドに見切りを付けて(なのか干されたのか)
母国オランダへ帰ってしまった。

 70〜80年代、ルトガー・ハウアーと組んで数々のヒット作を生んだヴァーホーヴェンは「オランダのスピルバーグ」とまで言われたが、予算という足枷から企画や表現に様々な制約を強いられたはずだ。だから、ハリウッドに来てからのヴァーホーヴェンは、本当にやりたい放題だった。ハリウッドで彼が作った6本の作品・・・・『ロボコップ』『トータル・リコール』『氷の微笑』『ショーガール』『スターシップ・トゥルーパーズ』『インビジブル』。4本がSF、2本が悪女モノ。どれもビッグ・バジェットの大作ばかりだ。そして、「スター主演」だったり「鳴り物入り」だったりしたがために、「話題作」「予定調和のハリウッド印映画」を見に行った観客に、期待と違ったものを見せられた居心地の悪さ、なんとも言えぬ後味の悪さを強いることになった。恐らく6本の映画全てが。

 ヴァーホーヴェンは「やり過ぎ」てしまう監督だ。企画そのものは割りとフツーなのだが、彼の演出はいつだって度を越えてしまう。ドラマ部分をオーソドックスに見せる手腕はピカイチでありながら、いざ銃撃戦やセックスシーンになると何かにとり憑かれたようにやり過ぎてしまうのだ。もう死んでる人間にあんなに銃弾を撃ち込まなくてもいいし、人間を盾に銃撃を避けなくてもいいし、そんなに簡単に嘔吐しなくてもいいし、プールでのセックスであんなに腰を動かさなくてもいい。だから、それまでスリルやサスペンスに気持ちよく酔っていた観客は一気に凍りつくことになる。

 そんなヴァーホーヴェンの「やり過ぎ哲学」の金字塔が『スターシップ・トゥルーパーズ』であった。ロバート・A・ハインラインの名作SFを原作としながら、そこには「残虐」「ゲロ」「変なセックス」と全てのヴァーホーヴェン=イズムが盛り込まれていた。とりわけ、宇宙昆虫との戦闘という特殊な状況ならではの残酷描写のオンパレードに彼の情熱は注がれたようだ。「串刺し」「切断」「溶解」「吸引」・・・・巨大昆虫軍団によって血祭りに上げられる兵士たちの「人体破壊カタログ」。そしてこてこてにカリカチュアライズされたファシズム。ナチスによるオランダ占領時代に植え付けられたヴァーホーヴェンの恐怖感と人間不信と戦争の馬鹿馬鹿しさが、最も色濃く表現されたのもこの『スターシップ・トゥルーパーズ』であった。

 そして、自身のルーツへとヴァーホーヴェンは戻った。ユダヤ人から巻き上げた巨額の宝石や現金をめぐって、ドイツ敗戦間際のオランダで展開する陰謀劇。ナチスとレジスタンス、そして双方の仲介者が繰り広げる愛と裏切りのドラマ。ヴァーホーヴェンならではの手堅いサスペンスを久し振りに堪能した。とかくゲテモノ監督扱いされて来たヴァーホーヴェンの底力は、実は本当にスピルバーグ・レベルなんだと実感した(ヴァイオレンス描写がやり過ぎちゃってるのは相変わらずだが)。しかしそんな監督の手腕にも増して圧倒的に輝いていたのが主演女優カリス・ファン・ハウテンだ。

 ハリウッドでスターになれるような要素は1つも無い女優である。なんとも売り出すべきポイントの乏しいルックスなのだ。しかしそれは、彼女がとことん均整のとれた美貌を持っているせいだろう。ハウテン嬢に比べたら、ニコール・キッドマンもモニカ・ベルッチもあまりに特徴的なポイントを有しているがために、パーフェクト・ビューティーとは言いにくくなってしまう気さえする。それくらいにハウテン嬢は「特徴の無い美人」なのだ。
 特徴の無い美人・・・・・かつて手塚治虫の描く女性は「記号的」だの「色気が無い」だのと酷評されて来たが、ハウテン嬢の美貌を初めて目にした時、これほどまでに手塚治虫の描くキャラクターに似た女性が実在したことに驚いた。『ブラック・ジャック』あたりの作品に何度と無く登場した外国人系美人キャラは、どれもハウテン嬢にそっくりである。おまけに、エロいのかエロくないのかビミョーな裸体も手塚風だ。そんな彼女が、変装のため陰毛を染めるわ、親の仇を目にしてゲロを吐くわ、嫌がらせに糞尿を浴びせられるわというエキセントリックな場面がしっかり楽しめるのだが、そんなヴァーホーヴェンならではの場面すらも手塚治虫イズムに見えて来るから不思議だ。いや、ヴァーホーヴェンのフィルモグラフィを思い出せば、そこに息づくビザールでダークな魂は手塚マンガと通底する気さえしてしまう。手塚だってヘンタイなのだ。ヒューマニストなどでは断じてない。

 そんなファウテン嬢が発する磁力に引き付けられるように、様々な人物関係が交錯し、血にまみれていく。ファウテンとねんごろになるナチス情報部将校(『善き人のためのソナタ』ではレジスタンスを演じていたセバスチャン・コッホ)が善人で、一方レジスタンスのメンバーの中に悪人がいる。情報部将校と敵対するサディスティックな中尉は、その凶悪なルックスとは裏腹に歌とピアノを美しくこなし、解放後のオランダはドイツへの協力者だった者に対して鬼畜となる。ナチスとレジスタンスの橋渡しを務めた人物は「黒い手帳」を手に顔面を吹き飛ばされ、ファウテンを裏切り者扱いしたレジスタンスのリーダーは本当の裏切り者に制裁を加える。「ナチスVSレジスタンス」「善と悪」という単純な構図を打破し、「真の人間性とは何か」が、ヴァーホーヴェン独特の文体と趣向で壮絶に問われるのだ。
 人間という存在への不信感と嫌悪。同じナチスを扱った『アドルフに告ぐ』どころか、ヴァーホーヴェンなら『どろろ』だって完璧に撮れるに違いない。

 そんな「ヴァーホーヴェン=手塚治虫説」へと導いてくれたのがカリス・ファン・ハウテンという女優である。


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