Diary

■2007年5月

07.05.26

■京都へB 〜マンガミュージアム&南禅寺〜

前日の疲労のせいで寝坊。
フロントからの電話で起こされ、少々二日酔いの頭でなんとか帰り支度をしてチェックアウト。
とりあえずコーヒーでもと近くのスタバへ、ここでやっと目が覚める。

烏丸御池からすぐのところに「京都国際マンガミュージアム」というのが出来たと聞いていたので、早速行ってみる。
子供向けの図書館に毛が生えた程度のものだろうとたかをくくっていた僕はびっくり。
まずは建物自体が非常に大きい。
もともと昭和初期に建てられた「龍池小学校」の校舎を利用したもので、天井や階段などそこかしこにクラシカルな名残がうかがえて美しい。
上野にある「国際子ども図書館」を彷彿とさせるような古い建築物の素晴らしい利用法。
展示室や回廊にある本棚には古いものから新しいものまでコミックスがびっしり。
もちろんそれらは全て手にとって近くの机や椅子を使って読むことが出来る。
マンガ好きの女房が「あたしここ1日中居れるわぁ」と大喜びで、子供の頃読んだ懐かしいマンガを開いては大騒ぎであった。
資料展示や地下の蔵書室もなかなか良い。
古〜い「少年マガジン」(長嶋選手が表紙)はもちろん、「こんなのいつ出てたの?」という見たこともないマンガ雑誌がいくつも。
「リイドコミック」という雑誌がそもそもさいとう・たかをによって立ち上げられたものだということが判明(看板マンガはもちろん「ゴルゴ13」)。
特別展の「海洋堂フィギュアミュージアム展」もかなりじっくり見た。
あの技術はすごいな、世界一だろう。
大英博物館のオフィシャルグッズを任されるだけある。
なんとも素晴らしかったこの博物館、なんと館長はあの養老 孟司であった。
この人マンガ好きで有名らしい。
そういや(マンガじゃないけど)映画「平成ガメラ」シリーズに解剖医役で出てたりしたっけ。

その後は昼食も兼ねて「南禅寺」へ。
地下鉄をほんの数駅乗るだけで山の中に出てしまうのがなんともシュール。
初夏の日差しのせいもあってクラッと来た。
南禅寺と言えば「湯豆腐」。
この暑さで「湯」もないもんだが、まあここに来たらこれ食べるよね。
メインの湯豆腐にゴマ豆腐やら山菜やら京漬物やらのサイドメニューが付いてなんと2700円。
僕はビールも飲んだから2人で6000円の昼飯。
た、高い。
騒ぎ立てるような美味い豆腐でもないしな。

山門を入って右手に向かうと寺には不釣合いな西洋風の巨大なアーチが。「疏水」といって、明治時代に琵琶湖から京都へ水を引くために作られた水道らしい。
石段を登って上から見ると、ホントだ、水が流れている。
今でも現役なのだな。
それにしても寺を見に来てこんなものに出くわすとは、なんとも非現実的でクラクラする。
疏水をくぐった山の斜面にある「南禅院」に入って庭を眺める。
緑の眩しさに目を細めながらも「秋はさぞ素晴らしいのであろうな」と想像してみる。
最後は「方丈」とやらに上がりこみ、「狩野派」による襖絵の数々を廊下から覗き込む。
虎が可愛い。
砂利を敷き波模様をつけられた庭を前にボーッとしてみる。

そんなことをしてるうちに早くも帰る時間に。
京都駅まではせっかくだからタクシーで景色を楽しみながら。
お喋り好きの運転手からいろんな話を聞いた。
「南禅寺周辺の湯豆腐屋はどこで食べても同じ(くらい美味くない)」
「修学旅行生のチャーターは監視役も兼ねているので大変」
「舞妓はんは買い物も食事もタクシーも全てツケ」
「そのツケはお茶屋のお母はんが払うのではなく‘スポンサー’が払う」
「真冬の京都は空いてるし雪がキレイだし穴場」
などなど、時折女房をからかいながら冗談まじりに面白おかしく。

前回2005年に来た時に、京みやげ「生八つ橋」を買う機会をどこまで引っ張れるか、という「八つ橋チキンレース」を考案したことを思い出す。
帰りの新幹線の車内販売がラストチャンスだったか。
「『さらばっ京都っ』と言いながら新幹線に乗り込んだら東京でビールをおごるよ」と女房から提案され、早口&小声で「サラバキョウト」と言ったら却下されたことも思い出した。

うん、今回の京都は前回よりも良かった。
若冲も蕭白も見ちゃったから次回どんな機会に来れるかわからないが、いつかきっとまた来よう。
その時は今回よりももっと楽しいはず。

*なお、今回の日記で写真が1枚たりともUPされていないのは、京都到着30分後にデジカメを駅の床に落っことし、壊してしまったから。
ま、写真の無い旅も案外おつなもの、かと。


07.05.26

■京都へA 〜夜のお楽しみ〜

「ああ」とか「うう」とか「おお」とか言いながら「若冲展」を後にした我々夫婦。

あれだけ濃厚な時間を過ごせば腹も減る。
先斗町まで移動し、鴨川に突き出した「川床」のある店で晩酌。
鮎の塩焼きを注文したらなんと売り切れ。
気がつけば周囲の客全員が鮎を食ってやがった。
みるみる暮れて行く鴨川べり。
等間隔に並んだカップルたちを2年ぶりに目撃。
「南座」もライトアップされ夕暮れ時の京都を満喫。
普段飲まない日本酒(もちろん京都の)を飲んじゃったりしてイイ気分。
おまけに料理を運んでくれる女性が超〜超〜超〜美人(これには女房も合意)。
どのくらい美人かと言うと、鈴木京香と山本モナを足しちゃったような美人(しかも僕の好きなおかっぱ頭)。
女房が言うには「長谷川京子も入ってる」そうだ。
「あんな美人そうそうお目にかかれないな。さすが京都」と僕。
「でもあの人標準語喋ってたよ」と女房。
「・・・・・」
ま、あれで京都弁なんぞを話されたら完全にノックアウトだったな、おお、あぶないあぶない。
京都で出会った女性に運命を感じ、先斗町の料理屋でなぜか板前に納まってる自分の姿を、女房を前にして一瞬夢想(「ゲンセン館主人」か、オレは)。

一昨年京都を訪れた時(京博での「曾我蕭白展」)はなぜか昼間祗園に来てしまい、こりゃ夜じゃなきゃダメだろ、ここは、ということで、その後は夜の祗園をぶらぶら。
闇に浮かぶ提灯がなんともムーディ。
案の定この辺りは外国人観光客が多い。
舞妓はんを見ることは無かったが、先斗町では2人ほど。
かなり早歩きで通り過ぎたから恐らく本物(デジカメを持った舞妓はんはコスプレらしい)。
入ってみたい料理屋もあったが、さすがに食べたばかりだからムリ。
女房にせがまれて抹茶の店でデザートを食べることに。
白玉とわらび餅が美味かった。
その後新京極、寺町通を横切って烏丸御池近くのホテルまで歩き出すが、どうにもまた1杯やりたくなって来た。
京都の地ビールの看板に惹かれて小ジャレた創作料理の店に入る。
地ビールはどうってことない味だった。
料理もまあフツー。
だいたい「イベリコ豚と京水菜のユッケ」ってなんだよ。
食ったけど。
でも日本酒がフルーティで美味かったな。
「ナントカ」いう酒と「カントカ」という、両方とも京都の地酒。
先斗町の美人の店から数えれば計3合の日本酒を飲んだことになり、さすがに酔っ払う。
う〜ん、京都、いいね〜。


07.05.26

■京都へ@ 〜若冲〜

 21・22日と、相国寺承天閣美術館で開催中の「若冲展」を見に京都へ行って来た。

2000年の年頭、東京国立博物館での「皇室の名宝展」で「動植綵絵」のうち11幅を、その年の秋に京都国立博物館の「没後200年 若冲」でさらに11幅を見て、「これを全部見れる日はいつ来るのだろうか」と思っていたら昨年三の丸尚蔵館で半年に渡って全30幅を分散展示。
「釈迦三尊像」3幅は京博で見ていたから、これでコンプリート出来たことになるが、1辺に33幅を見ることが本来の鑑賞法である。
そんな機会が120年ぶりにやって来たのだ。

10時に京都着後すぐに相国寺へ。
チケット売り場は混雑しておらず「もしかして空いてるのか」と疑問に思いながら美術館に入ったら、とんでもない、激混みだ。
水墨画や襖絵を並べた第1展示室でさえ大変な混み様。
「葡萄図襖絵」の前などはびっちり列が出来ていて遅々として進まず。
こりゃもしかしてと「釈迦三尊像」3幅と「動植綵絵」30幅のある第2展示室へ移動すると、案の定怖ろしいことに。
3重4重、所によっては5重に人垣が張り付いていて作品に近づけず。
展示室の中央に立ってぐるりと全33幅を見渡すが、あまりの人の多さに感動を得られず。
スタッフに訊いたらこれでもマシな方で、土日はこんなもんじゃなかったんだそうだ。

図録などを購入しとりあえず退散。
三条まで移動して昼食、錦小路をぶらぶらした後イノダコーヒで一休みしてホテルへ。

そして4時に再び「若冲展」へ。
おおぅ、やっぱり!第1展示室はかなり空いている。
よく見ることの出来なかった水墨画や襖絵(今回初めて見るものばかりだった)をじっくり見た後第2展示室へ。
うん、かなり混んではいるが午前中の半分ほどか。
それに1分ごとに人垣が小さくなって行くのがわかる。
その調子その調子。
余裕で作品に近づけるようになって来た。
閉館30分前の入館終了後は人が減って行くばかり。
わくわくして来た。

やがて閉館3分前、客は我々夫婦を含め10人以下に。
部屋の中央に立って全33幅をぐるりと見渡す。
長い間この瞬間を夢見ていた。
言葉も無い。
これは宗教画だったのだ。
5時ちょっと過ぎまで粘るがスタッフに促されて退場。
今まで経験したことのない5分間だった。
だらだらと長時間眺めていればいいというものじゃないことがわかった。
ほんの数分だが僕は完全に満足していた。
もう今後「動植綵絵」を見なくてもいいとさえ思った。
あの5分間という時間を僕は墓場まで持って行く。


07.05.26

■暗殺者多すぎ
 
『スモーキン・エース 暗殺者がいっぱい』

 ジョー・カーナハンの前作『NARC』は、70年代の刑事モノの名作『フレンチ・コネクション』や『セルピコ』を思わず想起させるほど、クールかつホットな超傑作であった。だから今回、チャカチャカと目まぐるしく動く予告編を見て「あれ?今回随分とハデじゃん」といささか不安に思いつつも、まあ『NARC』を撮った奴だもん、面白いに決まってるさ、と期待し過ぎるくらいに期待しながらこの映画を見てしまった。
 めまぐるしいカット割りは別にいい。トニー・スコット作品をはじめここ何年かで、観客の動体視力に挑むかのようにチャカチャカと変わる画面はどんどんその速度を増しているし、このスタイルは最早流行ではなく定着したものだ。ただ、この『スモーキン・エース』のように「複数のトガったキャラ」を配置して複雑な物語を組み上げたい場合、あんなに細かくカット割りなんかしていいものだろうか?
 ある程度じっくり見せることでキャラの魅力を引き出さねばならないのに、ズタズタに寸断された場面からはキャラの存在感どころか、その役割や設定すら見えにくいのが問題。しかも、どうやら暗殺者や刑事たちが圧倒的に魅力が無い。ただただやかましかったり、凶暴だったりするだけでちっともクールじゃない。見せ方はもちろんだが、そもそも大してカッコよくない連中だったのだ。
 そんなダメダメな中でも、レイ・リオッタは良い。この人は年輪を重ねてどんどんイイ顔して来た。加えて、思わせぶりに登場しておきながら、あっちゅう間に殺されるベン・アフレック(ヒゲ面)もナイス。
 物語の展開が速過ぎて先を読む間を与えないばかりか、今何が起きてるかすら判らない部分も。この半分のスピードで作り直して欲しいもんだ、カーナハン以外の監督に。これは『NARC』を撮った奴が作るような映画ではない、断じて。とは言いつつも、あの苦々しいラストはカーナハンのものなんだよなあ。暗殺者はあんなにいらなかった、ということか。
 この手の出来の悪いクライム・アクションを見るにつけ、タランティーノの才能を再確認させられる。口直しに『レザボア・ドッグズ』でも見るかっ!


07.05.13

■結構しんみりする映画だったね
 
『バベル』

 「言語の壁」や「貧富の差」や「無知」や「自分勝手」や「差別」などもろもろの事情が人間社会を厄介なものにしているなんてのは今まで多くの映画監督がテーマにして来た。ロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』だってチャン・イーモウの『あの子を探して』だって昨年の『クラッシュ』だって、アプローチの違いこそあれみんなそういう映画だった。
 「メキシコ・アメリカ・モロッコ・日本を舞台に壮大なスケールで描く」って?そんな構想が新しいわけないし、壮大でもない。1丁のライフルがもたらす悲劇の連鎖?偶然の驚異を描きたいのだったらもっと面白おかしくしなきゃダメだが、あいにくこの映画はそういう作品ではない。日本で購入して製造番号から何から管理下にあるライフルを「旅行先のモロッコのガイドにあげた」とは、税関てそんなにいい加減なところなのか?リアリティがあるようで無い映画だ。
 離婚の危機にある夫婦がモロッコに行く話はベルナルド・ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ』で既に見ているが、この映画のモロッコパートでの面白くなさが致命的だ。ケイト・ブランシェットとブラッド・ピットというビッグネームを使いながら、全く牽引力の無いドラマに唖然。とにかく退屈。
 メキシコ国境地域の緊迫感はソダーバーグの『トラフィック』などで味わったからもう新鮮味も無い。国境でのシークェンスで2人の俳優クリフトン・コリンズ・Jr(『トラフィック』)とマイケル・ペーニャ(『クラッシュ』)が登場するに至って、「そっか、やっぱりああいう映画が撮りたかったんだね」と苦笑するしかなかった。
 結果、菊地凛子の体当たりの熱演(つまりヌードね)が話題になった日本パートだけが面白かった、ということになる。彼女の演技は実際とても良い、というよりもアカデミーのノミネート通り、『バベル』で圧倒的な演技を見せたのは菊地とメキシコ人女優アドリアナ・バラッサだけである。菊地演じる聾唖の女子高生が送るすきま風だらけの日常をメキシコ人監督がよくあれだけ上手に撮ったと思うし、大音響を鳴らすディスコの場面で菊地目線になるとほぼ無音状態になる演出は、今更ではあるがやはり衝撃を受ける。日本人のように日本を撮れるとはね。それにしてもあのライフルは無ぇーよなぁ。
 新宿の映画館で見たのだが、普段あまり映画なんか見ないであろう(つうか映画よりも楽しいことが他にたくさんありそうな)若い女性が「結構しんみりする映画だったね」と漏らしていたのを帰り際耳にした。うん、それでいい。そんなもんだ、あの映画は。各界からこの映画に賛辞が寄せられているようだが、「この映画を評価しない人間は人としてどうか?」みたいな圧力を感じて嫌悪感を覚える。日本パートのラストで流れる坂本龍一のスコアもクソ食らえだ。
 「バベル」か・・・・・・・随分と大きく構えたもんだね、偉そうに。
 で、何が言いたいの?


07.05.13

■乙女の祈り
 
『スパイダーマン3』

 このシリーズは「憎しみ」をテーマとして来たと思う。
 いわゆる「悪の権化」のようなキャラクターが突然出て来て大量殺人を無差別に行なったりはしない。スパイダーマンの敵となるのは、親友の父親だったり、尊敬していた科学者だったり、叔父さんを殺した脱獄犯だったり、恨みを買ったカメラマンだったり、あるいは親友そのものだったりする。そして彼らはみなスパイダーマンの敵にならざるを得ない理由を抱え込んでいる。彼らには彼らの人生・家族・哲学があり、それらを守り通すためにはスパイダーマンと戦わざるを得ない。ニューヨーク市に平和をもたらす正義の味方を気取ったスパイダーマンと断固戦わねばならないのだ。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの影響をもろに食らって、1作目の『スパイダーマン』がクライマックスシーンに変更を迫られたのは有名な話だ。しかし結果としてシリーズ3作に渡ってあのテロ事件が影を落とすことになる。超絶的な能力を手に入れた「純心無垢な若者」が、ある日突然愛する叔父さんを奪った理不尽な暴力を根絶しようと立ち上がり、その中で戦うことになって行く相手とは、前述のように様々な事情や悩みを抱えた「大人や金持ちたち」である。アメリカという国がイラクをはじめ

 とまあ、戯言はこれくらいにして。

 このシリーズはマッチョなアメコミを原作としながらも、随所に乙女心をくすぐる要素を散りばめた少女漫画のごとき作品であった。そもそも「女優を夢見るウェイトレス」と「カメラ小僧」の恋ってのが少女漫画っぽい。でもって恋敵として存在するのは金持ちのぼんぼんやエリート。キルスティン・ダンストを中心にした「あたしの本当の王子様はだあれ?」物語として考えれば、これはもう立派な少女漫画の王道である。
 さかさまに降りて来たスパイダーマンとのキス(1作目)、「あたし、式場から逃げて来ちゃった」というラスト(2作目)、蜘蛛の巣の上に寝そべってのデート(3作目)というピーターとMJの印象的なシーンは全て少女漫画。さらには『3』でピーターが暗黒面に目覚め「モテ男」になって行く過程のマンガっぷりが爆笑だ。ちょいゴスメイクにして髪の分け目を変えただけでモテモテ君に変身、ってなんだそりゃ。MJの店であてつけに新カノとダンスを踊ったりして、「ゴメンナサイ・・・」って走り去っちゃう新カノっていう「いい子」キャラも少女漫画だな。ついでに言えば、ピーターの叔母さんて少女漫画にいかにもありそうなキャラなんだよなあ。優しくて元気でいつも主人公を見守ってるああいう人。
 そもそもサム・ライミ作品はコミックのような演出が持ち味ではあった。『死霊のはらわた』の怖いのか滑稽なのかわからないホラー演出や、『ダークマン』で主人公の怒りが沸点に達する描写など、どれもマンガ風なのだが、これを少女漫画として見ると妙に据わりが良い。『ダークマン』で怒りに我を忘れるリーアム・ニースンなど、細川千栄子先生のキャラのように白目をむく描写と同類である。
 『王家の紋章』や『エースをねらえ!』、それどころか『イタズラなKiss』さえも映画化出来る男。ハリウッドで最も少女漫画の近くにいる乙女はサム・ライミであると、皮肉にも『スパイダーマン』シリーズで確信した。

 『サイドウェイ』でミック・ジャガーとシュワルツェネッガーを足したような胡散臭い二枚目を演じていたトーマス・ヘイデン・チャーチが、こざっぱりとしたマッチョ男になって砂男を演じているが、あのゴリラ顔を起用した理由がラストで判明する。ビルの谷間で暴れまわる巨大化した彼の姿はまんま『キングコング』なのだ。ライミはきっとこれやりたかったんだろうなあ、と思った。さすがにダンストを手に掴んでビルを登るようなことはさせなかったけど(そのかわり『2』ではDr.オクトパスがこれを再現している)。しかも1作目で変更されたクライマックス(世界貿易センターの間に蜘蛛の巣を張る)のリベンジをも今回成し遂げている。
 そしてライミの盟友ブルース・キャンベルの出番はシリーズ中最高だ。ジョン・クリーズ(モンティ・パイソン)のフォロワーをこんな映画で発見した驚き。そして喜び。

 しかし、ジョージ・ルーカスが『スパイダーマン3』を「中身の無いくだらない映画」と批判したらしいけど・・・何言ってんだろなあのオヤジ。ルーカスって映画監督としてはハリウッドでトップクラスの無能だと個人的には思ってますが。

Back To Diary Menu