Diary

■2007年6月

07.06.20

■この映画をめぐるトリビア
 
『ゾディアック』

 1969年、独立記念日で花火が打ち上げられ、お祭りムードに包まれた街の夜景でこの映画は幕を開ける。とある郊外の駐車場に車を停めるカップル。近づくもう1台の車。女の方は不安そうだ。カーラジオからはドノヴァンの曲「ハーディー・ガーディー・マン」(1968年)が流れている。

 ♪ハーディー・ガーディー・マンが愛の唄を歌いながらやって来た・・・・

 やって来たのはハーディー・ガーディー・マンではない。拳銃を手にした大柄の男だ。そしてあっという間に銃弾を撃ち込まれる2人。ゾディアック事件のスタートだ(実はこれ以前の犯行もあり)。このシーンに『セブン』の猟奇性を期待すると肩透かしを食うことになる。ジョン・ドゥのような芸術的な殺人趣味はゾディアックには無かった。彼が楽しんだのは犯行後にメディアを騒がせることだった。
 デイヴィッド・フィンチャー監督は、顔の見えないゾディアックを登場シーン別に3人の俳優に演じさせている。この初登場シーンでゾディアックを演じたのは、どうやらリッチモンド・アークェットらしい。ロザンナ、パトリシア、デイヴィッドらアークェット兄弟の1人で、彼は『セブン』でトレイシーの首が入った箱を届ける宅配業者を、『ファイトクラブ』では精神科医を演じている、フィンチャー作品の常連と言っていい俳優だ。

 映画はゾディアックの正体をつきとめようとする4人の男たちを追う。新聞記者、同新聞の風刺漫画化、そして刑事2人組。記者を演じるのはロバート・ダウニーJr.。野心家で良い線まで行くものの、やがて酒とドラッグに溺れてリタイアするという破滅型キャラは、ダウニー以外には考えられない。『レス・ザン・ゼロ』か・・・この人、小生と同い年なのだな。年齢も修羅場も重ねて、どんどん良い顔になっている。どこかデニス・ホッパーを思わせる存在だ。
 彼が一線から退くのと入れ替わるように、ゾディアック事件に埋没し始める漫画家にジェイク・ギレンホール。『ブロークバック・マウンテン』に続き、「家庭外のこと」に夢中になるあまりに身を滅ぼす男を再び演じるが、時代的にも『ゾディアック』と重なる。
 デニス・ホッパーの名前が出たついでに言えば、1991年にホッパーとエド・ハリスが共演した『パリス・トラウト』は、ジェイクの父、スティーブン・ギレンホールの監督作品である。しかも同年、スティーブンは「ツインピークス」の1エピソードも監督したこともあり。ちなみに、ジェイクの名付け親は女優のジェミー・リー・カーティス。そしてジェイク自身もある子供の名付け親になったことがある。それはヒース・レジャーとミッシェル・ウィリアムズ夫妻(つまり『ブロークバック〜』での2人)の娘だ。
 刑事の1人を演じるのはマーク・ラファロ。メインキャラの中でこの人が最も60〜70年代の風味を醸し出していた。はっきり言って「ん?誰?」と言うほど記憶に無い俳優だが、そうか、『エターナル・サンシャイン』で劇中キルスティン・ダンストとイイ仲になってた男であった(お、これでジェイク・ギレンホールと繋がったぞ)。デイヴィッド・フィンチャーは「この映画にスターは要らない」と言っているが、そんな彼の意向を最も体現していたのがラファロということになる。彼の風貌・ファッションはそのまま「チャーリーズ・エンジェル」や「刑事スタスキー&ハッチ」など往年のTVシリーズに溶け込めるほどだ。相棒役のアンソニー・エドワーズもまた然り。

 デイヴィッド・フィンチャーは『セブン』によって貼られた「シリアルキラー物監督」というレッテルをとことん嫌悪しているようだ。以前インタビューで「『セブン』はコメディだった」などとうそぶいたこともある。だから『ゾディアック』のルックは『セブン』とは完全に異なっている。撮影は、『セブン』では撮影助手を、『ゲーム』では撮影監督を務めたハリス・サヴィデス。フィンチャーと組むのは3度目ということになるが、撮影監督をコロコロ変えるフィンチャーにとってサヴィデスの起用は、ガス・ヴァン・サント作品『エレファント』での仕事を見てではあるまいか。ナチュラルなルックを必要としたに違いない(撮影はフィルムではなくデジタル)。
 とは言っても『ゾディアック』にはCGによって作り込まれた映像も登場する。冒頭の花火の空撮から始まって、ロングショットの映像はほとんどCGだろう。さらにゾディアックによる最後の犯行であるタクシー運転手殺人事件で、走るイエローキャブを真上でカメラをカッチリ固定させて捉えた映像がなんとも異様だ。もちろんこれもCGだろうが、ルックを極端に変えたこのシーンはそれだけでもう既に不穏である。

 不穏、と言えば、夜間赤ん坊を乗せてドライヴしている途中、ゾディアックに殺されそうになる女性を演じていた女優は、イギリス生まれのアイオン・スカイ。なんと、彼女は前述のミュ−ジシャン、ドノヴァンの実娘である。

 そして、このシークェンスに漂う不吉な空気で思い起こすのはポン・ジュノ作品『殺人の追憶』だ。この作品と『ゾディアック』は似ている。捜査陣をあざ笑うように連続殺人を重ねる犯人を逮捕出来ず苦悩する刑事たちの姿を描いたこの韓国の「実話」には、『セブン』にそっくりなセリフまで存在する。そしてフィンチャーもまた『殺人の追憶』を見たに違いない。刑事たちが事件にとり憑かれ、オブセッションに陥って行く姿に洋の東西は関係ない。

 オブセッション、と言えば、フィンチャーが降板した『ブラック・ダリア』だ。あれだけオブセッションというテーマに執着して来たブライアン・デ・パルマが、ジェイムズ・エルロイの書いた「デ・パルマ的オブセッション」をどういうわけか映像化し損ねた。『ゾディアック』後半で、まるでストーカーのように事件担当者につきまとうジェイク・ギレンホールの姿に、虚ろな目ですさんだ生活を送っているロバート・ダウニーJr.に、やはり『ブラック・ダリア』はフィンチャーが適任だったのでは、と考えたくもなってしまう。
 『殺人の追憶』、『ブラック・ダリア』、そして『ゾディアック』・・・・迷宮入り殺人とは、いつの時代もどこの国でも、関わった人間の人生を狂わせるもの。

 ラストシーン、冒頭で恋人をゾディアックに殺された男の22年後の姿が描かれる。「もう昔のことだから」と記憶に自信の無さ気な彼が、「この中にあなたを撃った男がいますか」と捜査官から差し出された写真を見て、劇中、最重要容疑者として描かれた男を迷うこと無く指差す。絶妙なタイミングで流れ出すのは、あの晩カーラジオから聞こえていた曲だ。
 アルバム「ハーディー・ガーディー・マン」のライナーノーツ(解説・訳詩 渚十吾)によると、ドノヴァンはザ・ビートルズ、ミア・ファーローらと共にインドへ旅した折りにこの曲を作った。「ハーディー・ガーディー」とは中世の楽器で、手回しの自動ヴァイオリンのようなもの。出来た曲を早速ジョージ・ハリスンに聴かせたところ、彼は以下の歌詞を付け加えたが、結局はレコーディングの際に割愛されてしまったという。

 真実がゆがめられ
 遠い眠りにほうむり去られても
 めぐりめぐる時に
 真実は明らかになる

 「ハーディー・ガーディー・マン」という曲に隠されたこの歌詞のことを、デイヴィッド・フィンチャーは果たして知った上で使ったのだろうか。

 『時計じかけのオレンジ』でかかるジーン・ケリーの「雨に唄えば」が、『未来世紀ブラジル』でかかるあのサンバの名曲が、『ブルー・ベルベット』のボビー・ヴィントンの歌声がそうだったように、小生はもうドノヴァンの「ハーディー・ガーディー・マン」を冷静に聴くことが出来ないだろう。
 またやられてしまった・・・・デイヴィッド・フィンチャーめ!


07.06.20

■マーキー・マーク参上
 
『ザ・シューター 極大射程』

 マーク・ウォルバーグはもう36歳である。
 『ブギーナイツ』で「ヘンな顔した男だなあ。冴えないなあ。でもダーク・ディグラー良いなあ」と強い印象を残してから早10年。『ビッグヒット』(いまだにこれがフェイヴァリット)、『パーフェクト・ストーム』に『猿の惑星』に『ミニミニ大作戦』と、まあウォルバーグの作品を全部見ようという気など無い割りには、比較的コンスタントに彼の成長を見守って来た感がある。
 彼が最高に輝いていた『ディパーテッド』を先日再見し、ディカプリオもマット・デイモンも霞むほどの存在感で映画を圧倒したウォルバーグの姿にまたもや惚れ惚れした。アカデミー助演男優賞ノミネートは当然である、つうかぜひとも獲って欲しかった。ダーク・ディグラーがあんなに立派になったのである。

 そんな追い風を受けて主演した『ザ・シューター 極大射程』は、「このミステリーがすごい!」で1位になったほどの人気小説の映画化なんだそうだ。なるほど、パッと見、よくあるちょっとB級入った(タイトルのせいだな)アクション映画なんだが、実はそうでもない。大統領暗殺計画に巻き込まれた元スナイパーが自身の潔白を証明しようと孤軍奮闘(とは言ってももちろん協力者がいるわけだが)、やがてグローバリゼーションにおける陰謀劇を暴く、という「スナイパー版『ナイロビの蜂』」のような話だ。そこそこ入り組んでいて、そこそこ骨太、ってところか。
 『ナイロビの蜂』に刺激されちゃったのか、必要以上にどぎつい色調が演出の方向を狂わせてしまったのではないだろうか。むしろ『ジャッカルの日』のような抑えた色合い(「銀残し」ってのももうありがたみが無いが)にした方が重みがあって、サスペンスに拍車がかかったのではないか。どうにも映像が軽いのだ。
 クライマックスで雪山のシーンが出て来るのだが、息も白く凍らず全く寒そうに見えない。こういう適当さはハリウッド映画にありがちだ。それだけで作品自体が一気に安っぽくなる。
 とは言っても、マイケル・ペーニャの髪が伸びていたので最初は誰だか判らなかったり、エリアス(イライアス)・コティーズのエキセントリックな演技が久し振りだったり、ウォルバーグを助ける女(かつてのパートナーの妻、しかも元看護婦ってのがナイス)が『ブロークバック・マウンテン』でヒース・レジャーの娘役だった女優だったり、ネッド・ビーティが懐かしかったり、とキャスティングの妙で結構楽しんだのも確か。でもマーク・ウォルバーグが適役だったのかどうか・・・もしかして製作者側には、「ジェイソン・ボーン」シリーズで化けた同じ猿顔であるマット・デイモンのことが頭にあったのだろうか。


07.06.20

■負け犬兄弟の逆襲
 
『300』

 『ロード・オブ・ザ・リング』トリロジーで、数あるキャラクターの中最も魅力的だったのは、「ボロミア」と「ファラミア」である。アラゴルンやレゴラスの超人的な活躍と対照的に、コンプレックスを抱えるがゆえに指輪の魔力に落ちる彼ら「負け犬兄弟」のあまりにも人間的な姿は、シンパシーを呼ぶと同時に物語に奥行きを与えていた。
 ボロミアに限らず、どの映画でもショーン・ビーンの役は悪者だったり、途中で死んだり、最後に死んだり、と多かれ少なかれ「負け犬臭」の漂う役ばかりだった。しかし『トロイ』(2004年)は違った。最後まで生き残るばかりか、物語を締めくくるナレーションまでもショーン・ビーンが務め上げたのである。映画の出来・不出来はともかく、彼のファンにとっては忘れ難い作品になった。

 そして、弟ファラミアを演じたデイヴィッド・ウェンハムが兄に負けじとラストを「かっさらう」映画が『300』である。役どころはスパルタ王率いる兵の1人だが、戦闘中に負傷した彼はクライマックスを迎える前に王の命令で戦線を離れる。王の形見を王妃に届けるためだけではない。ペルシア軍を前にひるむことなく散っていった300人のスパルタ軍の英雄譚を、後世に伝えなければならないのだ。つまり、全篇でスパルタの勇猛果敢を讃えるナレーションはデイヴィッド・ウェンハムによるものだったと判明する。しかも、数年後1万の兵を率いて逆襲に出る彼の雄姿で物語は幕を下ろすことになる。『ロード・オブ・ザ・リング』のファンにとってあまりにも素敵な拾い物、いや贈り物であった。

 物語をアメリカのイスラム敵視やイラク攻撃正当化のプロパガンダなどと解釈することなかれ。この映画を貫いているのは「スタイル」の美学である。ヘタに入り組んだ展開も、骨太過ぎるドラマも、スタイルにとっては邪魔物に過ぎない。剣と剣が、筋肉と筋肉がぶつかり合い、リアルに血で血を洗う戦闘のディテールを、横スクロールのスローモーションも交えて描破する絵心。実写でもアニメでもない映像・・・・『シン・シティ』ではまだ実験的だった、コミックをフィルムへと移し替える技法がここに1つの完成を見る。スタイルへの徹底的なこだわりがそれを可能にしたのだ。
 新しい映画。スタイルが世界観を形作り、スタイルがドラマを生み、スタイルが演技を決定し、最終的にはスタイルが物語そのものを動かして行く。Garson Yu率いる「yU+Co.」による超クールなエンドクレジットに至るまで、『300』のスタイル哲学は1秒たりとも揺るがない。
 『ロード・オブ・ザ・リング』に希薄だったものを武器に、一点突破で攻めまくったおかげで、『トロイ』などここ数年で雨後の筍のごとく現れたスペクタクル史劇やファンタジー群を「皆殺し」にして見せた『300』。

 「これがスパルタだ!」


07.06.02

■とりあえず爆笑
 
『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』

 ちょっと予想と違う映画ではあった。カザフスタンの国営TVの偽レポーターがアメリカを突撃取材する、というただそれだけのドキュメンタリーを想像していたのだが、蓋を開けたら、『食人族』や『ブレアウィッチ・プロジェクト』のような作り込まれたドキュメンタリータッチの劇映画だと判明。というか、ホテルのTVで「ベイウォッチ」を見て「パメラ・アンダーソンを嫁にしよう」と思い立った勘違いバカ(≒ストーカー)のロードムービーなんだよね、これ。
 ゲリラ撮影なのかやらせなのか判別のつかないシーンの数々に、とりあえずは笑ってしまうものの、だんだん背筋が寒くなる。自動車教習や中古車を買う場面、フリマをやってる主婦から万引きをする場面などはまだいい。「ロデオ大会」や「キリスト教原理主義者の集会」、「上流社会の方々との食事」など、どこまで本当なのだろうか。出演者のリアクションはとことんリアルである。
 カザフスタンの嘘レポーターがアメリカの狂った現状を白日の下に、という趣旨は理解出来るが、ネタ的にはイギリスのお笑い(ボラットを演じるサシャ・バロン・コーエンはロンドン出身、ケンブリッジ大卒のエリートでユダヤ系)のパイオニアであった「モンティ・パイソン」が40年近く前にやっていたことと実は大差ない。とりわけ、エリック・アイドルがやりそうなキャラである。
 アメリカを馬鹿にし、ユダヤをコケにし、自国までもターゲットにするギャグ魂。モンティ・パイソンのフォロワーと言いたい気もするが、あまりにも下品過ぎるので言わずにおこう。見終わってそれほど「残る」映画でもなかったしな。


07.06.02

■久し振りにパンフ買いました
 
『主人公は僕だった』

 自分が、主人公を毎回死なせることで有名な小説家の主人公であると判明し右往左往するコメディ、なんだが、この映画は人生哲学のかなり奥深い部分にまで触れていると思う。
 自分の人生を書いている作家のナレーションが頭に響く主人公は、精神科医にも相手にされず、文学部の大学教授に「自分がある小説の主人公ではないか」と相談する。教授役のダスティン・ホフマンが素晴らしい。いかにも現代文学のエキスパートらしく、しかも主人公ウィル・フェレルとの距離の置き方が絶妙だ。適度に狂っていて、適度に研究熱心で、適度に本気・・・・この手の登場人物は少し前だったらロビン・ウィリアムズあたりにお鉢が廻って来るところだが、あんなに暑苦しくてはダメだ。ホフマンの抑えた演技は、税務署の役人然としたフェレルの落ち着いた演技(他作品では躁状態なんだが)と見事なアンサンブルを見せる。
 小説家役のエマ・トンプソンも良い。というか、このキャラがイギリスの女流作家であるところがなかなか。アメリカ在住の人気作家でありながら、世捨て人のように作品を書き続けている、という設定がトンプソンの確かな存在感でリアルに成立している。でもクィーン・ラティファはミスキャストな気がする。2人の絡みが物語を豊かにしているとは言いがたく、クライマックスに向かって牽引する、とも言えない。ミスキャストと言うよりもあの人物自体必要なかったかも知れないな。
 この物語の白眉は、ウィル・フェレルが自分の運命の書かれた草稿を怖くて読むことが出来ず、ダスティン・ホフマンに託すのだが、読み終えた彼の感想が「最高の結末だ。これ以外は考えられない。彼女の最高傑作だ。キミは死ぬべきだ」とフェレルの思惑(彼は死ぬ運命から救われたくてホフマンに相談している)とは逆に、死の宣告を突きつけてしまう場面だ。ホフマンの物腰は文学部教授として終始パーフェクトである。その後に続く、バスの中で草稿を最後まで読み、死を受け入れて主人公としての一生をまっとうしようと決心するフェレルのシークェンス(ザ・ジャムの曲がナイス)もグッと来るが、やはりホフマンの、あくまでも文学者(科学者、数学者とも言える)として「完璧な小説=完璧な人生」をフェレルに進言する姿勢が最も胸を打った。
 若い監督たちの風変わりなコメディ・・・・ミシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、ウェス・アンダーソンなどの作品の系譜に位置する作品かも知れない。もちろん『トゥルーマン・ショー』との類似点も見受けられるだろう。「人生が小説のようであればいいのに」という望みに対して、「人生は小説などではない。もっとドラマティックである」という反論を・・・・例えばジョン・アーヴィングの一連の映画化作品など、ナレーションによって主人公の人生を語ってしまう類の作品に背を向けるように投げて見せた変化球に、小生はとてつもないカタルシスを感じた。あの圧倒的なハッピー・エンドとともに。
 ちなみにマギー・ギレンホールが怖ろしくセクシー、だけではなく、トム・ハルス(なんとデ・ニーロの『フランケンシュタイン』以来)とリンダ・ハント(『危険な年』は素晴らしい作品だった)の姿を拝めただけでも拾い物だった。モンティ・パイソンの『人生狂騒曲』やクロード・ルルーシュの『男と女』のフッテージの挿入も悪くなかった。
 『チョコレート』の監督なの?次もがんばってね。

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