Diary

■2007年7月

07.07.20

■面白い、でも虚しい、でも仕方ないね
 
『ダイ・ハード 4.0』

 『ブレードランナー』がSF映画に革命をもたらし、その影響が映画のみならずその後の文学やコミックにも浸透して行ったように、1作目の『ダイ・ハード』(1988年)もまた「刑事アクション」の分野における革命だったのだな、と今になって思う。あそこでアクション映画のフォーマットが大きく変わった気がする。あの面白さは本当に新しかった。ハリウッド映画の主人公は「死なない」というお約束をタイトルにしちゃったところもナイスだった。
 スケールアップしたセルフ・パロディのようだった『ダイ・ハード2』。ジョン・マクティアナンの手に戻ったとは信じられぬ駄作だった『ダイ・ハード3』。同じ20世紀フォックスの配給作「エイリアン」シリーズが辿った歴史と似ている気がしないでもない(そういや、『エイリアン3』は当初レニー・ハーリンが監督候補だった)。
 あの3作目の後であるから、まあどう転んでもマシな作品になるだろうと思ってた。確かに『3』よりもはるかに楽しめる。CGで作製された背景の前であってもブルース・ウィリスの肉体性は健在だ。弾丸が飛び交い、爆炎が吹き上がる中、マクレーン刑事の活躍は、映画そのもののフォーマットが変わった21世紀において、最新のルックを纏って繰り広げられる。スピード感も見せ場もてんこ盛り。確かにこれは「ダイ・ハード」シリーズの最新作だ。
 しかし、何か虚しい。テクノミュージックのオリジネイターだったクラフトワークが久し振りに発表したアルバムが、全てノートパソコン上で作られていたように。再結成したYMOのサウンドが追従する若手のテクノと大差無い音だった時のように。空気感に乏しい、とでも言うべきか。製品としての見た目もスペックもアップしたが、手に持ってみると物凄く軽い家電品、と言ってもいいかも。
 しかしまあ、こんなことで作品の評価を下げてしまっては、この時代、映画なんか見れません。いいんじゃないすか、この4作目。ただし、コンピューターのディスプレイ画面がウソっぽかったり、ハリウッド大作におけるオタクの描写ってどうしていつもああなんだろう、とか文句が無いわけじゃないけど。
 ・・・・・・結局1作目を見直したくなるんだよね、やっぱり。


07.07.20

■一晩中リンチ
 
『エレファント・マン』
『ロスト・ハイウェイ』
『マルホランド・ドライブ』

 7月14日、新文芸坐にて開催されたオールナイト上映「新作『インランド・エンパイア』公開記念 世界の映画作家(53) デイヴィッド・リンチ」に行って来た。
 昨今のリンチ人気がどの程度のものなのかさっぱり見当がつかず、それでもまあ、3分の2くらい入ればいいんじゃないかな、などと高をくくっていたらとんでもない。満席どころか通路に補助席が出されるほどの大盛況。凄いな、リンチ、大人気じゃん。
 20代の若者が圧倒的に多かった。『ブルーベルベット』も『ワイルド・アット・ハート』も映画館で見てないどころか、『ツイン・ピークス』が大ブームだった頃でさえまだ小学生だった人たちだ。
 今回の上映は、『エレファント・マン』(ニューマスター版)、『ロスト・ハイウェイ』、そして『マルホランド・ドライブ』の3本。
新文芸坐館長の発言によると、現在配給権が残っているのはこの3本プラス1本(『ストレイト・ストーリー』か?)だけらしい。もし『イレイザーヘッド』の「サウンドリニューアル版」の権利が切れてなかったら、『エレファント・マン』ではなく当然こちらがセレクトされていたことだろうな。
 だから、『エレファント・マン』の後に、いきなり『ロスト・ハイウェイ』を見せられるという、ステップを無視したなんともかんとも乱暴な上映には、わかっちゃいたものの驚いてしまった。
 『エレファント・マン』はニューマスター版で3年前にリバイバルされた時に久し振りに見て、初公開時「感動のヒューマンドラマ」(しかも文部省特選)として大ヒットしたことが信じられないほど、リンチお得意のシュールな描写と彼の趣味趣向が散りばめられた異様な映画だったことを確認済み。
 『マルホランド・ドライブ』は、劇場で3回見て、その後ケーブルTVやDVDで繰り返し見ている。
 だから今回の上映で最も興味あったのは『ロスト・ハイウェイ』である。
 なにしろ公開当時2度鑑賞するもピンと来ず、そのまま封印してしまったこの作品を見るのは、なんと10年ぶり。なぜピンと来なかったか?と言えば、恐らく『ツイン・ピークス』を見ていなかったからだろう。
 先行して発売された「パイロット版」VHSを買っては繰り返し見て狂喜したものの、その後ビデオレンタルに並んだTVシリーズは2巻目あたりで挫折(と言うかクールダウン)。そして、猫も杓子も「リンチ、リンチ」という大ヒット状況に、「こういうの、なんか違う」と居心地の悪さを感じ、リンチ・ブームから離脱。だから、劇場版の『ローラ・パーマー最期の7日間』は、リンチのフィルモグラフィ中唯一今だに見ていない作品である。
 では『ロスト・ハイウェイ』がピンと来なかったくせに、なぜ『マルホランド・ドライブ』はOKだったのか?
 まあ、それは自分でもよくわからないんだが、とにかく『マルホランド・ドライブ』から逆行して気分も新たに見直した『ロスト・ハイウェイ』に、小生は夢中であったのだ。
 これほどの傑作を10年も思い出さずにいたとは。
 この映画が、今はよくわかる。
 いや、わからないが、わかる。
 ロックとシュルレアリスムとノワールとポルノの完全な融合。
 もう最高だ。

 それにしても、隣の席の女性、起きていたのは『エレファント・マン』までで、後の2本は爆睡だった。 一体何しに来たのやら。 まあ朝の4時から『マルホランド・ドライブ』を食い入るように見ている方も見ている方だが。

 というわけで、『ロスト・ハイウェイ』のポスターが届いたら、『エレファント・マン』、そして『インランド・エンパイア』のポスター画像とともに、デイヴィッド・リンチのページを全面改稿しようと思う。


07.07.10

■「舞妓はーん1枚」と窓口で言いました
 
『舞妓Haaaan!!!』

 このところ見たコメディで一番笑ったな、これ。
 宮藤官九郎の書く脚本の自由さと阿部サダヲはじめキャスティングの妙でもって、相変わらずのクレイジーな世界と映画・演劇・TVのボーダーで炸裂する遊びが楽しませてくれる。クライマックスで人情話にシフトするご愛嬌もいつものクドカン節。最早安心して楽しめる「プログラムピクチャー」のようだな、クドカン印の映画は(監督はどうでもいいか)。
 どのキャストも良いんだが、やっぱりいただけないのが柴咲コウだった。演技がどうこうじゃなく(どの映画見ても同じですが)、もう生理的にダメなんだな。中谷美紀と同じくらいに。2人ともあんな怖い顔じゃコメディエンヌとしてどうかと思うし。もう『どろろ』なんてポスター写真見かけただけで秒速で目をそらしちゃうからね。
 ま、そんなことより何より、この映画を見ている間中、小生の目は駒子役の小出早織にロックオンされっぱなしだったのだ。もう〜可愛くて可愛くてとろけそう。ああいう寝ぼけたようなタヌキ顔は舞妓メイクのキャンバスとしては最高だろうね。タレ目がなんとも色っぽい。あれほどの舞妓はんを京都で見ちゃったら人生狂うよ。おかげで大好きな酒井若菜が出ていたことに全く気付かなかった。柴咲コウの舞妓は当然最悪。
 これが遺作となった植木等、幸せだったんじゃないかな。


07.07.10

■ゴンドリー1勝2敗 スパイク1勝1敗 カウフマン3勝2敗
 
『恋愛睡眠のすすめ』

 チャーリー・カウフマンという脚本家がどうにも苦手だ。彼の書く話には「どう?僕って天才でしょ?こんなストーリー誰にも考えつかないよ」という匂いがプンプンする。
 スパイク・ジョーンズと組んだ『マルコヴィッチの穴』、ミシェル・ゴンドリーと組んだ『ヒューマンネイチャー』・・・・なんとも鼻持ちならない作品だった。しかし彼らの2作目は良かった。スパイク・ジョーンズ作品『アダプテーション』にミシェル・ゴンドリー作品『エターナル・サンシャイン』・・・・カウフマンの放射する「天才ビーム」に両監督の個性が勝ったのだろうか、キャスティングの勝利だろうか。とにかく傑作だった。
 そう言えば、ジョージ・クルーニー初監督作品『コンフェッション』もカウフマン脚本だが、クルーニー(狂う兄)の才能ばかりに目が行ってカウフマン臭が気にならなかったのだった。つまりカウフマンの書く奇抜なストーリーと、それを映像化する監督の技量のバランスの問題なのか。
 ミシェル・ゴンドリーがオリジナル脚本で撮った恋愛映画は、『エターナル・サンシャイン』の後だけに心配だったが、その心配は的中してしまった。ここには前作が描いたような「恋の奇跡」も「愛の深淵」も「人生のパースペクティヴ」も無い。夢と現実をいたずらに行き来するスタイルには辟易だし、魅力的なキャスティングにも関わらずキャラクター(特に主人公)に揺り動かされることはない。シャルロットも随分と歳をとってしまった。むしろ友達のゾーイを演じた娘の方が魅力的だった。それでも、主人公の同僚の中年男ギィを演じる俳優は素晴らしかった。彼はなんと珍品コメディ『ミッション・クレオパトラ』の監督(出演も)なんだそうだ。ああいう味のある中年俳優がいるのがフランス映画界である。
 と言うわけで、あれだけ嫌っていたチャーリー・カウフマンの才能を結果的に評価しなければならなくなってしまった。いやいや、まだわからぬぞ・・・・カウフマンの次回作はなんとカウフマン初監督作品なのである!大丈夫か!?
 ちなみにチャーリー・カウフマンのもう1人の盟友、スパイク・ジョーンズの新作はモーリス・センダックの童話『かいじゅうたちのいるところ』である。
 敗退したゴンドリー、勝負はスパイクVSカウフマン、さてどちらの才能が勝つのか。


07.07.10

■原作 諸星大二郎 (ウソ)
 
『アポカリプト』

 実はメル・ギブソンの監督作品を初めて見た。『ブレイブハート』には関心なかったし、超リアルな拷問ショーだと話題になった前作『パッション』は、見たかったけど見逃してしまった。けれど結果的にそれで良かった気がする。『アポカリプト』という作品を、予備知識も先入観も持たずに見ることが出来たから。

 言語はマヤ語、キャスティングは素人ばかり。英語とスター俳優を排除することで、これほどまでに自由になれるのか、と言うほどこの映画には純然たる娯楽がある。いや、娯楽しかない、と言ってもいい。村を焼き払われ、生贄として奉げられるためにマヤの都市に連れて来られた少数部族の青年が、間一髪のところで逃亡、追っ手を次々と殺しながら、洞窟に隠して来た身重の妻と幼い息子の元へとひたすら走る、というただそれだけの物語である。欲望渦巻く血塗られた魔都に対して、森の中で素朴な生活を営む誇り高き少数部族という、あまりにも分かり易い図式を背景に展開する、命がけの「追いかけっこ」。スピード感と躍動感がみなぎる映像からほとばしるアドレナリンは、最早小ざかしい人間ドラマなど寄せ付けないほどの高純度だ。
 未開の人々を無名の俳優で描くとは言え、混乱することは無い。有名な俳優たちには無い類の個性的な容貌と、『マッドマックス』(の2と3)を想起させるパンキッシュな装飾品や刺青が、それぞれのキャラクターを際立たせていてお見事。しかも主人公ジャガー・パウの妊娠中の妻が「香椎由宇」似の美少女というのもうれしい。
 奴隷のように扱われ、1度は生贄台に上って殺されかけたジャガー・パウが、傷を負いながらも追っ手をかわし、自分のテリトリーに入った途端、ジャングルでの知恵を駆使して逆襲に転じる。黒豹を駆る伝説の勇者が降臨し、蜂の巣を、毒蛙を、バクを仕留める罠を使って次々と敵をやっつけて行くカタルシス。妻と子を残した縦穴はどんどん雨水で満たされ、しかも迫り来る出産の時というタイムリミットに向かって疾走するスリルとアクション。これぞ映画である。
 この映画は、静かなジャングルに向けて据えられたカメラの前を横切る脚で幕を開けるが、この映像で思い出すのは、ジャングルを捉えたカメラの前をヘリコプターが横切る『地獄の黙示録』(原題「アポカリプス・ナウ」)のオープニングである。ただし『アポカリプト』ではナパームの代わりにバクが飛び出してくるのだが。
 息もつかせぬクライマックスの果てに判明する事実。紀元前なのか紀元後なのか、設定は一体何年なのか知らされることなく語られて来た物語のラストで、上陸せんとするスペイン船を前に唖然となるマヤ人たち。この映画、なんと16世紀という設定だったのである。浜辺で迎える衝撃のラストとしては、『猿の惑星』以来ではなかろうか。
 メル・ギブソンがキリスト教の熱狂的な信者であることは有名であり、西洋文明とキリスト教の力が野蛮なマヤ帝国を滅ぼすことを暗示するラストはギブソンの創作である(スペイン人が上陸するはるか前にマヤ文明は滅亡していた)。だからこの映画は、冒険映画であって歴史映画などではない。
 グリーンバックのスタジオ撮影とCGでお手軽に作られたファンタジー作品が乱立する中にあって、メル・ギブソンが提示したのは、掛け値無しの本物の冒険映画、そしてコピーどおり「誰も見たことの無い世界」だった。
 これほどまでに「連れて行ってくれる」映画は久し振りだ。


07.07.06

■小市民のハードボイルド
 
『ハリウッドランド』

 TVシリーズ「スーパーマン」で人気者だった俳優ジョージ・リーヴスは1959年に拳銃で頭を撃ち抜いて死んでいるところを発見された。俳優としての未来を憂えた末の自殺と言われたが、MGMの重役とその妻(映画ではリーヴスの恋人として描かれる)が深く関与していることから、他殺も疑われた。この映画は、リーヴスとその周辺人脈が織り成す愛憎劇と、彼の死後、自殺の真相を探るうちにハリウッドの闇に足を踏み入れてしまう探偵とを交互に描く、というもの。
 描き方は非常にオーソドックスな探偵物。アメリカン・オールディーズのムードは悪くない。探偵役のエイドリアン・ブロディ、ジョージ・リーヴス役のベン・アフレック(ハマリ役だった)、恋人のMGM重役夫人にダイアン・レイン、その夫にボブ・ホスキンスと、キャスティングも手堅い。小品ながらもそれなりに楽しめる作品ではある。
 この監督、TVシリーズの『セックス・アンド・ザ・シティ』や『ザ・ソプラノズ』を撮った人なんだな。どうりでスケール感、と言うか奥行きに乏しいわけだ。予算の規模のことではない。「ハリウッドの闇」を描くには、作り手側にもある種の狂気が宿っていないとダメなんじゃなかろうか。フェティシズムやオブセッション抜きには、「闇」に踏み込むことは出来ないはず。
 先日『L.A.コンフィデンシャル』を再見したのだが、初めて見た時の印象と変わらなかった。あの映画に必要だったのは、カーティス・ハンソンみたいに健全で職人的な監督ではなかったはず。「転んじゃった」ぶん、デ・パルマの『ブラック・ダリア』の方が断然魅力的だった。
 格闘家への転身という未来に俳優としてのプライドを傷つけられ、絶望しての自殺ではなかったか、という推測に対して、柔道着に身を包んだリーヴスが練習に励む姿を捉えた白黒フィルムが、最後、静かに何かを語る。主人公の探偵は、結局リーヴス死亡の核心にはたどり着けず、家族の元へと帰って行く。
 なんとも小市民的なハードボイルドの小市民的なラストであった。
 


07.07.06

■監督の言いつけどおりネタバレはしてませんので
 
『プレステージ』

 クリストファー・ノーランてどーなんだろな。
 記憶障害を持つ男を主人公にトリッキーな時制の入れ替えで物語を展開させた『メメント』は、その語り口が新しい気がしただけで、肝心の物語を全く憶えてない。『インソムニア』は、白夜の町を舞台に不眠症の刑事が殺人事件を捜査するという、またまた設定ありきな作品(ただし冒頭の空撮は良かった)。『メメント』でブレイクする以前の作品も恐らく「設定」と「語り口」だけの、アート気取りの映画だったに違いない。
 クリスチャン・ベール・・・・不思議な俳優だ。
 クローネンバーグ作品『ザ・フライ』の「テレポッド」(瞬間物質転送マシン)を使ってトム・クルーズを転送しようとしたところ、どういうわけかイーサン・ホークがまぎれ込んでいるのに気付かずスイッチ・オン。転送先のポッドから出て来たのは、暗い眼差しとひねた口元で卑屈に笑う、なんとも陰気で屈折したトム・クルーズ似の男・・・・クリスチャン・ベールとはそんな男だ。
 子役時代の『太陽の帝国』は置いといて、『アメリカンサイコ』、『サラマンダー』、『リベリオン』・・・・彼が主役を張る映画はどうにも「あれれ?」な作品ばかりだ。トム・クルーズをキャスティングしたいのは山々だが、そんな金あるわけないし、トムの興味をそそるような立派な企画でもない。「ほら、アイツいるじゃん・・・・ええと、ええと、なんか辛気臭いトム・クルーズみたいな・・・・ううん、なんだっけアイツの名前・・・・・あ、そうそうそう、クリスチャン・ベール。あいつならやるだろ、この主役。もういいや、この際アイツで」というプロデューサーの声が聞こえて来るようだ。
 そんな、トム・クルーズが鼻にもかけないような映画ばかりを拾ってキャリアを重ねて来たクリスチャン・ベールと、変わった作風を持つ才気走った若手監督として話題性だけは一流だったクリストファー・ノーランが組んだのが『バットマン ビギンズ』だが、これは悪くなかった。特殊な美意識を持つ異形のファンタジーとして新バットマンの方向性を決定付けたティム・バートン版には及ばずとも、ゴージャスなキャスティングに頼った凡庸なアクション映画に成り下がったジョエル・シューマカー版よりは遥かに出来が良かった。
 しかし、いかんせんクリスチャン・ベールが貧乏臭かった。あの辛気臭い顔は、子供時代のトラウマを克服しやがてヒーローになろうという男を体現することは出来ても、大富豪にしてゴッサム・シティの名士ブルース・ウェインを演じるには、あまりにも貧相だった。彼はあの「どこか贋物臭い顔」にコンプレックスは無いのだろうか。

 ヒーロー物からラブコメまでこなす花のある男ヒュー・ジャックマンをクリスチャン・ベールのライバルに持って来た『プレステージ』。マジシャンとしてステージ映えするのは当然ヒュー・ジャックマンの方であり、クリスチャン・ベールの陰のある容貌がキャラクターにうまく活かされ、好対照をなしている。展開に判りにくい部分もあるが、まあそれはクリストファー・ノーランの映画であるからして、知的好奇心とやらをくすぐるのは彼の持ち味、いや彼の全てか。デイヴィッド・ボウイとアンディ・サーキスが素晴らしい存在感を見せるものの、スカーレット・ヨハンソンの無駄遣いっぷりは彼女のフィルモグラフィ中最悪ではなかろうか。
 ノーランの次回作はまた「バットマン」である。クリスチャン・ベール、少しはゴージャスになっているといいんだが。


07.07.06

■ある筋のマニア、必見
 
『あるスキャンダルの覚え書き』

 赴任先の学校で15歳の男子生徒とデキてしまう女教師、というのがタイトルにあるスキャンダルなのだが、実はこのドラマの本筋は、そのスキャンダルをネタに、自分よりもはるかに若く美しい彼女を親友、いやレズビアンの相手として束縛しようと企む、同僚の老女教師の狂気にある。
 つまり、まあ、『恐怖のメロディ』や『危険な情事』など、サスペンス映画の1ジャンルとして消えることの無い「ストーカー物」なのではあるが、階級社会イギリスを舞台にしていることと、ジュディ・デンチ&ケイト・ブランシェットという2大演技派女優の共演、それにフィリップ・グラスの音楽が独特の味付けをしている、という点でかなりの新鮮味を獲得することに成功している。
 ケイト・ブランシェットのことを美しいと思ったのは『狂っちゃいないぜ』(1999年)だった。『エリザベス』で話題になった女優が演じた主婦は、どこかゴージャスな雰囲気が漂っていた。目も鼻も口も大きい、まるでタカラヅカの男役のような作りの顔が、カジュアルな着こなしとミスマッチで何とも不思議だった。その後『リプリー』、『ギフト』、そして『ロード・オブ・ザ・リング』と見るうちに、その特殊な美貌に知性と憂いを併せ持ち、安定感のある演技を披露し続けるブランシェットに、将来「大女優になる器」を確信。彼女なら「デブラ・ウィンガー」にならずに済むはずだ、と思いたい。
 ジュディ・デンチのことを初めて美しいと思ったのは・・・・おいおい、いや、実はジュディ・デンチの出ている作品を見るのは、『カジノロワイヤル』に続いてこれが2度目である、なんと。色々と話題作に出演しているのは知っていたが、どうも「あのバアさんが出る類の作品」そのものに食指が動かないようで、なんとも言い訳のしようが無い。だから、なのか、『あるスキャンダルの覚え書き』で初めてデンチの演技を新鮮に味わったばかりか、後半で登場する怖ろしくマニアックなシーンに戦慄まで覚えさせて頂いた。
 ケイト・ブランシェットの年の差カップルを演じるビル・ナイも、英国のインテリをリアルに思わせてなかなか良い。長年ロクな映画に出演して来なかった彼だが、ここ数年作品に恵まれている印象。大器晩成にもほどがあるな。彼の妻は、リドリー・スコットの『デュエリスト/決闘者』でキース・キャラダインの恋人を演じていたダイアナ・クイック。そして2人の間に生まれたメアリー・ナイは、ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』で、キルスティン・ダンストとつるんでいた面白い顔の美女(いや、ああいう顔好きなもんで・・・)である。
 小品ではあるが、丁寧に作られたサスペンスの佳作、とでも言うべきか。こういう作品は安心して楽しめる。幕切れにああいうシーンを持って来るのも昔からのお約束だ。
 ただし、ジュディ・デンチのあのシーン以外は。


07.07.06

■次回作は無い
 
『大日本人』

 酷評の嵐が吹き荒れた感のあるこの映画だが、そんなに目くじらを立てるほどのものだろうか。
 「これは映画ではない。TVだ」・・・・う〜ん、まあ気持ちはわかないでもないが、それを言い出すと今の日本映画界、本物の映画がどれだけあるか、ということになっちゃう。予告編が流れるたびに「またかよ・・・」と反吐が出そうになる、いわゆる「泣ける邦画」たちに比べれば、松本人志がやろうとしたことは数億倍マシであろう。
 同時期に公開されて話題になった北野武の新作と比較しても、「映画でやりたいことがある」というだけ、松本の方が表現者として生き生きして見える。それにデビュー作だからなんと言っても新鮮味がある。
 映画の内容は、松本人志がTVやビデオでずっとやって来た「危うい笑い」を、まんま展開しているだけだ。松本人志以上でも以下でもない、松本人志そのものがこの映画だ。映画監督=松本人志ではない。コメディアン=松本人志100%である。それが、映画というフォーマットで見せるべきものかどうか、映画にする価値のあるものかどうか・・・・これじゃまるで堂々巡りだ。
 「怪獣映画」としてなかなかイイ画を見せてくれる場面も多い。「大日本人」のデザインは小生の嫌いなアーティスト天明屋尚だが、この映画には合っていると思う。「獣(ジュウ)」たちの奇抜なデザインと意味不明の暴れ方、それにいちいち挿入されるレトロ調の解説もツボだった。あれぞ悪夢。
 何も無い映画だ。だが、この何も無さはポジティヴである。何かを語ろうとして結果的に何も言ってない映画に比べてずっと誠実に思える。「くだらない」という形容詞にしても同じことだ。
 だから、小生は『大日本人』を憎めない。
 でもこんな映画は1本でたくさんだ。
 松本人志に2作目は無い。


07.07.06

■次回作も見ます
 
『監督・ばんざい!』

 この映画の公開記念として、ケーブルTVで初期の作品を放映しているのをチラチラと見た(DVDを持ってるからね)。『その男、凶暴につき』、『3−4X10月』、『ソナチネ』・・・・・何度見ても素晴らしい作品だ。特に『ソナチネ』はどの場面も映像に力がみなぎっている。良質のアマチュアリズムと映像作家としての萌芽、つまりアマチュアリズムの生と死の危うい狭間で、奇跡的なアートフィルムが誕生した。この時、明らかに北野武には何かが「降りて来て」いた。
 同じスタッフで撮ったと思えないほど、ここ数作の北野作品には映像に力が無い。語りが面白くなくても画に力があればなんとか見ていられるのだが、どこか抜け殻のような空虚な画面が淡々と流れるだけだ。「まだ何かやれるのではないか」という小さな期待にしがみつくのがキツくなって久しい。「たけしの映画はもうとうの昔に終わっている」のはわかり切っている。あのバイク事故が転機であったことも承知だ。作家としての旬をはるか昔に過ぎてしまった者の作品を見続けることに何か意義があるのだろうか。
 北野武にはもう2度と何も降りて来ないだろう。「映画の神」はもう彼に微笑まなくていい。
 今年のカンヌ映画祭では第60回を記念して、「劇場」をテーマにした3分間の短篇を世界の映画監督35人に撮らせる、というイベントがあり、日本からは北野武が選ばれた。セレモニーの壇上、北野の隣にいたのはデイヴィッド・クローネンバーグだった。
 この2ショットの実現が、北野がカンヌに『ソナチネ』を持って行った1993年のことだったらどんなに良かっただろう。
 今はもう、ただ、ひたすら恥ずかしいだけだ。

 家族の1人が治る見込みの無い病気を患ってしまったような気分、と言えばいいのだろうか。
 この病人を死ぬまで見なくてはならないのだ。

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