Diary

■2007年8月

07.08.30

■幸せ探しの物語、なのか?これは
 
『リトル・チルドレン』

 『ツイスター』などの脇役で存在感を示して来たトッド・フィールドは、『イン・ザ・ベッドルーム』で長編監督デビューした。ロブスター漁のさかんな田舎町を舞台に、息子を殺された老医師とその妻の悲劇と復讐の物語を、徹頭徹尾淡々と静謐なタッチで描き切ったこの作品は、ロブスターの缶詰工場のドキュメンタリー映像を模したカイル・クーパーによるタイトル・デザインとともに強烈な印象を残し、L.A.映画批評家協会賞をはじめ名だたる映画賞を多数獲得した。

 そんなトッド・フィールドの新作は、サバービアを舞台にした一風変わった群像劇だ。
 司法試験に落ちまくり、ドキュメンタリー・ディレクターである妻の代わりに炊事や子育てをする夫。そんな彼を陰で「プロム・キング」などと呼ぶご近所の主婦たち。彼に声もかけられない彼女たちを尻目に、プロム・キングにキスして見せる主人公。会社での地位もなんのその、ポルノサイトにはまりオナニーしまくるその夫。「幼児へのイタズラ」という犯罪歴を持ち、刑期を終えて戻って来た男。彼を異常に溺愛する老母。前科者のロリコン男を排斥する活動とアメフトを捌け口にしている元警官。
 平穏な高級住宅街で何不自由なく生活する人々が普通に送る日常。退屈と欲望と欺瞞がほどよくミックスされた楽園。またもやトッド・フィールドは、トリッキーな演出や自己満足的な映像を排除して、登場人物たちに近づこうとする。この「距離感」が実はありそうで無い。これ見よがしではなく、空気感を自然に醸し出せるところも彼の才能だ。だから今回、ナレーションが邪魔だった。監督の視点と優れた俳優たちだけで全てを物語れたように思う。

 この映画は決して、日常に疲れたOLや主婦が「本当の自分探し」(Fuck it)なんぞへと踏み出すのを手助けするような作品ではない。主人公2人はセックス=浮気を通して目覚め、安易に逃避行を計画して人生の袋小路を打破しようとする。しかし最終的には、幼稚な男のあまりにもバカなアクシデントのせいでうまく行かない。結局彼らはまた元の日常へと帰らざるを得ないのだ。こんな物語展開に勇気づけられる人間なんているだろうか。
 この映画のタイトルには、「チルドレン」にさらに「リトル」が付いている。箱庭のような世界、怖ろしく矮小な宇宙で人生を全うするちっぽけな人間たちの悲喜劇。人間はいつ大人になるのか。そもそも大人とは何か。我々が形作っている世界なんて、所詮小さな子供が戯れているに過ぎないのではないか。洗濯部屋で立ったままセックスするのも、通販で買った使用済みパンティを頭に被るのも、お見合い相手の前でオナニーするのも、心臓の悪い老婆を死なせてしまうのも、股間を血で染めた変態を贖罪のために救うのも、スケボー乗りに失敗して救急車で運ばれるのも、どれも小さな子供たちが遊んでるだけではないのか。
 このようにある種「キューブリック的視点」を獲得したトッド・フィールドは、キューブリック最後の作品『アイズ・ワイド・シャット』に出演している。倦怠期の夫婦に残されているのは(愛のある)セックスではない。「Fuck」である、とニコール・キッドマンがラストで言い放った映画だ。

 元の鞘に納まったケイト・ウィンスレットにもパトリック・ウィルソンにも、それぞれの伴侶とのFuckくらいは残されているだろう。ジャッキー・アール・ヘイリー(最高の演技を見せる)にはオナニーすら残されない。なんともやるせない、残酷なラストである。
 


07.08.30

■熊井啓5本
 
『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)
『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981年)
『日本列島』(1965年)
『ひかりごけ』(1992年)
『海と毒薬』(1986年)

 今年5月に亡くなった熊井啓監督の追悼特集が新文芸坐で組まれ、そのうち5本を見ることが出来た。
 『謀殺・下山事件』以外は初めて見る作品。「女性の人身売買」「GHQの謀略」「カニバリズム」など、どれもズシリと思いテーマを据えながら、一級の娯楽作品として見せ切るテクニックはさすが。中でも『海と毒薬』は小生のツボを突いた作品だった。

 いわゆる「九州大学医学部事件」をモデルにした遠藤周作の小説の映画化。大学内の派閥争いに翻弄されながらも、医者としてのアイデンティティを模索する2人の対照的な若い医師(奥田瑛二、渡辺謙)は、陸軍から提供された米軍捕虜を生体解剖実験するメンバーとなる。田村高廣、成田三樹夫、岸田今日子、西田健、岡田真澄など手堅いキャストによる抑制の効いた演技。監督曰く「ドイツ表現主義を意識した」というモノクロ映像。そして何よりも、リアリティとディテールにこだわった手術シーンに圧倒される。
 この日のトークゲストは『海と毒薬』でチーフ助監督を務めた原一男。時期的に恐らく『ゆきゆきて、神軍』の準備や撮影と掛け持ちだったと思われる。

 あのリアルな手術・解剖シーンは、ある大学の獣医学部に依頼してブタを人間に見立てて原一男が撮影したものであり、そのフィルムに映った医師たちの手元を俳優たちに真似させて撮影、編集でうまく繋いだものであること。

 そうやって撮影して来たフィルムを見て熊井監督が最も気に入ったのは、メスを入れた皮膚の裂け目から少し遅れて血が玉のように吹き出すショットであり、それを冒頭の手術シーンでは使わずクライマックスの米兵の解剖シーンで使ったこと。

 手術中、ガーゼに吸わせて足元に落とし、床を流れる水に広がる血液は、血糊でも動物の血でもなく、下っ端のスタッフが病院で採血して来て提供した本物であること(5人から200ccずつ採血したらしい)。

 と、このようなエピソードが原監督の楽しいおしゃべりで語られた。こういう裏話を現場スタッフの口からじかに聞けるのは非常に貴重な機会である。徒弟制度が健在だった頃の日本映画界を生き抜いて来た人の証言はすこぶる面白く、故熊井監督の映画に対する姿勢をも偲ばせる。現在の若い監督たちにこのような充実した映画人生は果たしてあるのか。

 『サンダカン八番娼館』は、「からゆきさん」=田中絹代の若かりし頃を当時20歳の高橋洋子が演じているので見に行った。いつも脱ぎっぷりのいい高橋洋子はここでもヌードを披露。美しい・・・・胸が苦しい・・・タイムマシンにお願い。
 ちなみにこの映画、田中絹代の遺作であった。合掌。
 


07.08.30

樋口真嗣が監督すればよかったのに

『トランスフォーマー』
 
 どうせ「バカ映画」だ。ドラマなんかどうでもいい。リアルな巨大ロボットが暴れまわる姿に血湧き肉踊ればそれでいい・・・・そんな気持ちで『トランスフォーマー』を見に行った。

 主人公の男女を筆頭にどのキャラクターも本当にバカっぽい上に、ことごとく魅力と精彩を欠いている。主人公の男子が登場した瞬間、「ああ、こいつの顔を2時間以上も見なきゃいけないのか・・・」と落胆した。嫌いなタイプのルックスも落ち着きの無い演技も、見ているだけでウンザリだった。ドラマなんかどうでもいい、とは言え、あんな主人公が出ずっぱりでは見る気力も半減である。『スターシップ・トゥルーパーズ』だって登場人物はこぞってバカ揃いだったが、それはあの作品にとって重要な要素だったし、バカなりに見ていて楽しい連中だった。
 ツッこみどころも満載だ。そもそも、姿を変えられる金属生命体ならなぜ自動車ではなく戦闘車両にならないのか?戦闘機になって移動した方が便利なのではないか?大体、エアフォース1にラジカセが転がってる方がよっぽど怪しいだろ。コンピューター・ルームでよくもまあ発砲出来るもんだ・・・・・などなど。

 いやいや、肝心のロボットがカッコ良ければいいではないか。しかし、いざ「トランスフォーム」が始まるとガッカリした。ヘリコプターの、車の、ジェット戦闘機の、どの部分がどう変形してロボットに姿を変えるのかがさっぱり見えない。スピードが速過ぎてトランスフォームのプロセスがちっとも楽しめない上に、結局そのフォルムは鉄クズの塊にしか見えない。ちっともカッコ良くないのである。
 そしてそのスピードはロボット同士の格闘シーンにおいても緩まない。とにかく速い。誰と誰がどういうフォームで戦っているのか見えない、と言うか、見せてくれない。観客の動体視力を置いてきぼりにするほどのアクションは最早アクションではなく、そんなものはスリルも恐怖感も生まない。そしてその動きの速さは、巨大ロボットにとって要であるはずの「重量感」をも奪う。あれだけの巨体が走り、跳び、ぶつかり合ってるくせに、「軽い」のである。

 感心するところが無いわけではない。高度な合成技術による「まるでロボットが本当にそこにいる」かのような映像は、日本のお家芸であるロボットアニメが実写映画化可能であることを証明した。実写にする必要があるかは別問題としても、とりあえずあれだけの技術があれば「ガンダム」も「パトレイバー」も「エヴァンゲリオン」も完璧な実写映像に置き換えることが出来るわけだ。だから画作りの出来ないマイケル・ベイなんぞではなく、樋口真嗣が監督すればよかったんだよね。

 CGの発達がもたらした特撮の最大の変化は、実はその「ルック」ではなく「速度」であろう。映像の力点も観客の動体視力も無視して画面情報を増やしたい放題だった「スターウォーズ」新3部作あたりが諸悪の根源だったかも知れない。画面上で一体何が起きているのか1度見ただけではわからないほどの目まぐるしい映像。SF映画に限らない。最近のアクション映画はどれもみな「速い」。動きが怖ろしく速い上に1カットが短く、それを細かく繋いでいくもんだから、スピード感はやたらとあるものの、ダイナミズムはその分希薄になる。最近では『ダイ・ハード4.0』がそんな映画だった。

 ハリウッド映画はどこまでスピード感を求め続けるのか?何を恐れてあそこまで速い動画を作るのか?
 こんなものが「映像革命」だと言うなら、映画は停滞したままでいい。
 


07.08.11

■徒然日記
 
 このところ日記の更新が滞っていたのにはワケがある。いや、ウソ。ワケなんか無い。ただ怠けていただけだ。映画を全く見ていなかったかというと、そんなことはない。ただ、無性に筆をとりたくなる(キーボードを叩きたくなる)ほどの映画に出会っていない、ということか。いやいや、そんなことはない。ただの怠惰だな。映画のせいにするとは太てぇ野郎だ。というわけでここ最近見た映画にダラダラと感想を付けていきたい、と今回はまあそういうことにしよう。

 最後に日記を書いたのは『ダイ・ハード4.0』か・・・・結局印象に残る映画じゃなかったなあ、当然だが。そういや劇中一番「おおぅっ」と興味を惹いたのは、ゴム製か何かのキーボードね。クルクルッと巻けるやつ。あれって当たり前に実用化されてるの?映画の小道具じゃなくて?ビックパソコン館に行きゃ買えるのかな。あれ、いいなあ〜、なんとなく。

 でもって、その後は早稲田松竹で『花とアリス』『リリィ・シュシュのすべて』の2本立てを見てるな。早稲田松竹は最近非常にプログラムが良い。マンネリ化して久しい新文芸坐は見習って欲しいよ。今回早稲田松竹は岩井俊二を4本セレクトし2週に渡って上映。その4本は劇場でのアンケート及び、ネット投票で決められた作品だ。あれだけ「蒼井優、蒼井優」言っておきながら、実はデビュー作と出世作を見てない小生はネットでとりあえず『花とアリス』に1票。今回見た2本は岩井の近作の中でも人気の高いことが投票結果に表れた(ちなみにこの前週は『Love Letter』と『スワロウテイル』)。

 『リリィ・シュシュ〜』は、郷里の隣町である栃木県足利市で撮影されたせいで、映っている風景がどれもこれも見たことあるようなものばかり。なんだかヘ〜ンな気分だったな。イジメをテーマにした映画だと勝手に思い込んでいたが、どうも違った。イジメも恋愛も含めた「10代を取り巻く空気」をまんま映像に定着させようとする意欲作、と受け取った。カタルシスを用意しないことで「等身大感」を狙ったか。つまり「リアル」なのだが、「リアル」とはそう作り込むから「リアル」になるのであるからして。ダラダラと2時間半も続く辛気臭いガキどもの日常は、「リアル」に退屈であり、「リアル」にリアルだ。
 これ、恐らく岩井俊二版「新世紀エヴァンゲリオン」とか言われたんじゃないかな、当時。岩井俊二と庵野秀明、かなり近い立地点から、ほぼ同方向の作品を作ろうとした気がするんだよね。似てる。
 あと、岩井俊二が市川崑の影響を強く受けていることが、なんか今頃になってやっとわかった。あのリズムね。

 『花とアリス』は、もう蒼井優がそこにいるだけで最高でした。クライマックスのオーディション場面(まさかこれがクライマックスになるとはね)で、無心にバレエを踊る彼女にうっとり出来るかどうかで、作品に対する評価が決定しちゃうの。『フラガール』も結局そういう映画だったんだが。んまぁ〜ぁ〜ぁ〜、可愛いんだよ、蒼井優がっ。映画の評価、出来ないね、これ。でも、ほぼ全篇鳴りっ放しの音楽はヴォリュームを絞って頂きたかったな。うるさくてセリフが聴き取れない場面も。狙いなんだろうけどな。
 しかしまあ、「未来少年コナン」を実写化する際は、ラナ役は蒼井優でキマリね。年齢が合わない?関係ねーってっ!

 『ドリームガールズ』も見た。これ、面白かったなあ。普段こういう映画絶対見ないんだけどね、いやたまには良いわ。エディ・マーフィーがオスカー逃したんだ、これ。気の毒にな。あげるべきだろう、どう見たって。ジェニファー・ハドソンは案の定素晴らしい存在感だった。太っちょの女性好きにはたまらないよなあ、ありゃ・・・・いや、そうじゃなくて、素晴らしい演技と歌でした。オスカー獲るよな、そりゃ。でも、実はビヨンセの抑えた演技と存在あってこそ輝くことが出来たのだと判明。対比がなかなか上手いのね。
 劇後半、プロデューサー(ジェイミー・フォックス。彼は一番損だったな)はビヨンセ主演で「クレオパトラ」を映画化しようとする。そして、「ジャクソン5」がモデルと思しきグループの末っ子が、そんなビヨンセの部屋のドアで聞き耳を立てるシーンがさりげなく挿入される。これ、当然エリザベス・テイラーとマイケル・ジャクソンてことだよね。
 手垢にまみれたようなサクセス・ストーリーだが、手を変え品を変え、このジャンルってつくづく不滅なんだな、と思いました。

 ダーレン・アロノフスキーの新作『ファウンテン 永遠につづく愛』は、なんか異様な映画だったな。末期の脳腫瘍患者である妻レイチェル・ワイズと、怪しい樹の細胞を使って彼女を治療しようと研究に没頭する医師ヒュー・ジャックマンの物語なんだが、宇宙空間に浮かぶ巨木とともにマヤに伝わる黄泉の国を目指すスキンヘッドのヒュー・ジャックマンやら、スペイン王女(これまたレチェル・ワイズ)の命を受けてマヤの聖域を目指す、これまたヒュー・ジャックマンやらのシークェンスが入り乱れて、恋愛映画なのか、SFなのか、歴史物なのか、もう何が何やら。
 でも結局、残される夫のため、死に行く妻が書いた物語(ご丁寧に「ファウンテン」というタイトルだ)を見せられていた、ということなんだよね、実は。その物語を読み進み完成させることで、彼は妻の死を受け入れられるようになる、という展開、およびラスト。
 アロノフスキーって確か塚本晋也監督をリスペクトしてたはずなんだよな。だから、この『ファウンテン』という映画、塚本作品『ヴィタール』(死んだ恋人を解剖する医学生が彼女の死を受け入れて行く物語)をまるっきり頂いたものと言える。まあ彼らはダチなんだろうからそれでもいいんだろうけど。
 でも、この映画にコメントを寄せている面々がすこぶるイタイ。江原啓之、内田恭子、湯川れい子、向井亜紀などなど。スピリチュアル・カウンセラーに配給会社は一体いくら払ったんだろうな。お上品な老婦人が客席に多かったのは、銀座の映画館という理由だけではなかったのだな。あー、気持ち悪い。

 ・・・・とまあこんな具合にこのところ見た映画のヨタ話を綴ってみましたが・・・・・
 ・・・・ん?・・・・『インランド・エンパイア』?・・・・あと1回見ないと書けませんな。

 しかし、mixiの日記やBBSにも再三書いているように、『ブレードランナー THE FINAL CUT』のリリースという超ド級ニュースに今年の夏は何もかも塗り替えられてしまった感があるのは確か。

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