Diary

■2007年9〜10月

07.10.15

■これがウワサの「アトミック・ホラー」だ!(by テレ東 ←ウソ)
 
『ヒルズ・ハブ・アイズ』

 アメリカン・サバービアの夢と希望を象徴する、オーブンからケーキを取り出す女性の平和な光景を捉えた古いフィルム(50年代のCMか)に続いて、50年代アメリカの核実験フィルムが流れるメインタイトル。キノコ雲や爆風で吹っ飛ぶ家などの映像の合間に、サブリミナル的に挿入される畸形児たちの写真。まともに生えていない手足、肥大した頭部、シャム双生児、カエルのような顔の無頭児・・・・ネバダでの実験とは無関係の畸形児なはずだが(セミパラチンスク辺りのやつか)、どの写真も本物であり、これ以上無いほどの悪夢を目に焼き付ける。

 キャンピングカーで旅行中の家族が砂漠で立ち往生するまでのプロセスは丁寧に描かれているし、テッド・レヴィン(『羊沈』のバッファロー・ビルね)とキャスリーン・クインラン(この人『ブレーキダウン』でも田舎で怖い目に遭っていた)というキャスティングもナイスだ。サスペンスの盛り上げもヴァイオレンスも決して悪いレベルではない。『ホステル』には負けるが。

 しかし、問題の「人食い一家」の見た目がどうしようもなく怖くない。これが致命傷だ。なぜ怖くないかは明白である。既にオープニングで最高におぞましいものを見せられてしまったからだ。死産ではなく生きて成長することが出来た程度という設定のフリークスであるから、外見はせいぜいあれくらいに留めておかなきゃいけないのは理解出来るが、理屈ではなく画的インパクトが優先するのが映画ってもんだ。この監督、自ら首を絞めたか。

 そういえば、ネバダでの核実験の際に新薬の実験体となった両親から生まれた超能力者を描く『スポンティニアス・コンバッション 人体自然発火』という傑作があった。監督は『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパーである。
 オリジナルである『サランドラ』(これ未見なり)を超えたと評判の『ヒルズ・ハブ・アイズ』だが、この映画が射程に定めていたのは『サランドラ』なんぞではなく、ホラー映画史における永遠の指標、『悪魔のいけにえ』の方だったのではないだろうか。

 それにしても「被爆」というワードにデリケートなこの国でよく公開出来たとは思うが。


07.10.15

■長谷川和彦はもう撮らなくていい
 
『青春の殺人者』(1976年)
『太陽を盗んだ男』(1979年)

 長谷川和彦は2本しか映画を撮ってない。もう28年間映画を撮ってない。大友克洋の「童夢」を映画化するという噂。「連合赤軍」をアクション映画として製作する企画。『太陽を盗んだ男』を撮った男の次回作への期待は大きかった。「長谷川和彦10年ぶりに始動」・・・・「20年ぶりにメガホンを執る」・・・・「今度こそ新作に着手するらしい」・・・・長谷川和彦が再び日本映画界に殴り込みをかける、という映画ファンや映画業界の夢は長い年月をかけて都市伝説と化してしまった。

 小生が『太陽を盗んだ男』を初めて見たのはTV放映でだった。1981年のことだったと思う。その後ビデオ、レーザーディスク、DVDで繰り返し見て来たが、映画館のスクリーンで見るのは今回初めてである。しかも『青春の殺人者』と2本立てだ。早稲田松竹よ、ありがとう。

 DVDの映像特典で、長谷川和彦は撮影中の裏話を90分近くにわたって事細かに語っている。そこからわかるのは、『太陽を盗んだ男』という作品がいかに「ナマモノ」であったか、ということだ。皇居坂下門でのバスジャック、渋谷での(作り物の)1万円札バラ撒き、首都高速でのカーチェイスなど、目を疑いたくなる見せ場の数々は、長谷川はじめ若い現場スタッフが逮捕覚悟で敢行した無許可撮影だった。スタッフだけではない。運転免許を取得したばかりのジュリーによる無謀な運転や、スタント無しで菅原文太自らが爆炎に身を晒した迫力満点のシーンもある。

 撮影当時の世相や風俗が映り込み、瞬く間に風化してしまうのは、映画という芸術の宿命である。『太陽を盗んだ男』が今でも輝きを失っていないのは、長谷川を中心とする若々しい現場にみなぎっていた才気と情熱と混沌がフィルムにしっかりと定着しているからである。テーマの普遍性を以って「時代を超えた名作」などと評価される作品は多いが(『青春の殺人者』はそういう類の映画ということになるかも知れない)、時を超えて見る者に直接訴えかけるものとは、普遍的なテーマなんかじゃなく、むしろアクチュアリティの方ではないか。「あの時」「あのスタッフ」と「あのキャスト」が「あそこ」にいたからこそ成立し得た、という映画の奇跡と、刻まれた「永遠の現在」。関わる人間が多ければ多いほどそれが起こる確率は低くなる。

 映画がデジタル化し、完璧な商品として要求されるようになった現在、そういうアクチュアリティは邪魔物であり、現場で起こる奇跡はエラーと見なされ、映画の神は単なるバグに成り下がってしまった、とは言い過ぎだろうか。

 『太陽を盗んだ男』は2度と撮れない映画である。1回こっきりの大勝負だった。長谷川和彦はそれをよくわかっている。そしてその勝負に勝ったことで、自ら墓穴を掘ってしまったことも。あの映画自体が原爆だったのだ。


07.10.15

■昔の監督はもっと上手だったぞ、ソダーバーグ
 
『さらば、ベルリン』

 スティーヴン・ソダーバーグを作家として語れるほど彼の作品を見てない。まあ、大体半分てところか。デビュー作『セックスと嘘とビデオテープ』に打ちのめされたものの、続く『KAFKA 迷宮の悪夢』は前作とのあまりの振り幅に混乱させただけではなく、魅力ある作品とは言えなかったし、シネマスクェアとうきゅうでひっそりと公開されたノワール作品『蒼い記憶』に、「この監督は一体何がやりたいんだろうな」と首を傾げ、ソダーバーグを追いかけることはやめてしまった。
 しかし、その後何気なくビデオで見た『アウト・オブ・サイト』は思いのほか素晴らしく、劇場に見に行かなかったことを後悔したほどだった。それまでの、良く言えば上質のアマチュアリズムとインテリジェンスに裏打ちされた、悪く言えば頭でっかちの映画青年が作った、アート・フィルムともエンターテインメントとも言えないどっちつかずの作品とは違い、ジョージ・クルーニー、ジェニファー・ロペス双方の色気が展開に弾みをつけた第一級のクライム・ムービーに仕上がっていた。デビュー以来初めてソダーバーグを評価出来る作品だった。
 大嫌いなジュリア・ロバーツ主演の『エリン・ブロコビッチ』を見ることはなかったが、『トラフィック』には熱狂、『オーシャンズ11』、『ソラリス』と続くリメイクでもソダーバーグの仕事は悪くなかった。特に『ソラリス』で見せた天下の大名作へのアプローチは評価出来る。

 『オーシャンズ12』、『オーシャンズ13』と、小生にとってどうでもいい作品が続いた後、久し振りにソダーバーグ作品を見た。『カサブランカ』やヒッチコック作品など1940〜50年代のハリウッド・クラシックの映像スタイルを完璧に再現し、戦争に狂わされた男女の悲恋という、オールド・ファッションなラヴ・ストーリーを復活させた『さらば、ベルリン』。
 画作りにこだわるのは結構だが、もっとわかりやすく出来なかったのだろうか。ロケット開発者の引き抜きとユダヤ人収容所での虐殺の資料をめぐって米ソの謀略が渦巻き、それに記者と元恋人が巻き込まれるのはいいんだが、謎めいた人物の暗躍なんてものを通り越して、あれじゃ単に人物関係が把握しにくいだけ。終戦間際のベルリンを覆っていたカオティックな状況を表現している、ということとは別物だ。ゆえに今ひとつサスペンスも盛り上がらない。待ち合わせの部屋に行くと、ドアの影に何者かが潜んでいてクルーニーと乱闘になる、という見せ場も一本調子で退屈だ。
 昔の監督はもっと上手だったぞ、ソダーバーグ。ついでに『ブラックブック』のポール・ヴァーホーヴェンを見習え。

 しかしあそこまでやったのなら、クルーニーなんかじゃなくてもっと古臭い顔の2枚目をキャスティングすれば良かったのに、と思う。ケイト・ブランシェットの古風な美貌が怖ろしくハマっていただけに惜しい。トビー・マグワイアは意外な役どころだったな。
 予想外に大きな役のリーランド・オーサーにも驚いた。『セブン』では腰に殺人ペニスを装着されて泣き叫び、『エイリアン4』ではエイリアンの子供を産み付けられ悶絶していたオーサー。うーん、感慨深い。


07.10.15

■声優について考えてみよう
 
『ストレンヂア 無皇刃譚』

 劇場版アニメ黎明期の作品には声優以外の人間をキャスティングしたものが多かった。東映動画の『白蛇伝』には森繁久彌・宮城まり子が、『太陽の王子ホルスの冒険』には市原悦子・平幹二朗・東野英治郎が出演するなど、当時の演劇界・映画界から連れて来られた俳優たちは、話題づくり以上の仕事を成し遂げている。一方手塚治虫は、俳優ばかりか作家やコメディアンまで起用して作品をぶち壊す自虐ぶりを展開。それは話題づくりでもあり、既成のアニメの殻を破ろうとする実験でもあった。
 「アニメとは言え1本の映画であるのだから俳優をキャスティングすべき」、「子供のものであるアニメに俳優たちは風格や品格を与えてくれる」、「知名度の高い俳優を使えば話題になる」、「そうすれば大人の観客も呼び込める」・・・・作り手の意図や思惑は昔も今も変わらない。しかし声優を取り巻く状況は大分変わった。
 もともと主に映画や演劇を活躍の場としていた役者たちが、アルバイトのように請け負っていたTVの洋画やアニメの吹き替えという仕事は、長い年月をかけて市民権を得た。普段表に顔を出さない日陰者のような声優という職業だが、そんな彼らの世界にも「スター」や「名優」と言えるような人たちが生まれた。名前を挙げ出すと止まらなくなるので挙げないが、TV番組の発展とともに多くの優れた声優たちが育ち、声優という職業を1つの「文化」であり「芸術」の域にまで高めて来たという歴史が日本にはある。
 宮崎駿は当初、永井一郎・納谷悟郎・家弓家正などのベテランをちゃんと使っていたが、「宮崎ブランド」が巨大産業になるにつれて、彼らを切り捨てヴォイス・キャストを俳優で固めるようになってしまう。宮崎にどんな哲学や信念があるのかは知らないが、なんでもかんでも俳優をキャスティングしてしまうのは違うだろう。菅原文太や小林薫は果たして本当に必要だったのだろうか?もっと表現力豊かにやれたプロの声優がいたんじゃないのか?声優という仕事を軽視しているとしか思えないのである。
 ジブリ作品が声優以外をキャスティングするようになったことは業界に悪影響を及ぼした。
 その最たるものが、「劇場版シンプソンズ問題」である。
 
俳優を使うのが全面的に悪いわけではない。適材適所、ということだ。押井守作品において、根津甚八は抑えた演技で顔の見えない声優に徹していたし、竹中直人のアクの強いヴォイス・アクトさえもそのキャラクターには必要だったと言える。『ルパン三世』の西村晃も、『オネアミスの翼』の森本レオも、『アキラ』の鈴木瑞穂も、今敏作品の江守徹も、みんな作品に必要とされた、アニメに選ばれた俳優なのである。

 今回の『ストレンヂア』、主人公の声をアテているのはTOKIOの長瀬智也である。普段アニメなど見ない人間、長瀬のファンを呼び込んで集客を増やしたいという製作側の思惑と、「キムタクに続けてアニメ界にも進出したい」とするジャニーズ事務所の色気が合致した、ということなんだろう。その証拠に、主人公が守る少年役はジャニーズのチビッ子だ。
 見る前からそういう「大人の事情」が透けて見える映画だったが、敵役の声優が山寺宏一というその一点で思わず見に行ってしまった。山ちゃんの美声には本当にうっとりする。おまけに大塚明夫まで出ている。これはうれしい。
 しかし・・・・長瀬智也が予想外になかなか良いのだ。何が良いか。それは長瀬の顔が見えて来ないところである。アテている人間の顔が浮かばず、作品世界に没頭出来る。だから下手ではない。下手だったら顔が浮かんでしまう。そういう意味で、今回長瀬は見事声優に徹している。彼は話題づくり以上の素晴らしい仕事をしたのだ。
 ただし、今回竹中直人は要らなかっただろう。そもそも役に全く合ってなかったし、長瀬が声優に徹していたのに対し、完全に顔が見えてしまっていた。竹中をアニメに使うの、いい加減もうよそうぜ。


07.10.05

■このタイトル、誰が誰に言ったものなんだろうな
 
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

 今年見た新作の邦画では今のところベストだな、これは。
 疎遠になっていた家族や兄弟が葬式で再会し、またもやひと騒動起きる、という設定に『蛇イチゴ』という傑作があったが、『腑抜けども〜』の方はもっとドロドロしているし、もっと漫画的でドラマチックだ。

 才能も無いのに女優になりたがるメチャクチャな姉をネタにホラー漫画を描いた大人しい妹。それが雑誌に掲載され村にいられなくなったどころか、上京して自称女優になった後も、女優の仕事が無いのは妹が描いた漫画のせいだと思い込んでるクレイジーな姉。父の後妻の連れ子で炭焼きを生業にしている兄は何が面白くて生きているのかわからないような寡黙な男。そんな男のところへ何をどう間違って来たのかわからない躁状態の変な嫁。

 「ザ・農村」といった風景の中、派手な服で歩く佐藤江梨子のプロポーションと美貌が起こす摩擦感がまずは凄い。彼女の演技をちゃんと見るのは初めてだが、あの勝気なキャラはサトエリがもともと持っているものを少々増幅させただけのものなんだろう。いや、そう思わせるということは、やはりあの演技力は本物なのか?いや、まあどっちでもいいが、とにかく役にぴったりハマっていたのは確か。
 サトエリ以外のキャストも良い。いつもは苦手な永瀬正敏も、あの何を考えてるかわからないような顔を生かして、何を考えてるかわからないような役に成り切ってる。兄嫁役の永作博美も、ちょっと、いや、かなり心を病んだ女性を、小動物的なルックスと挙動を生かして自分のものにしている。漫画家志望の妹を演じた女の子もメガネが似合っててナイス。風呂に入ってる彼女をサトエリが熱い湯で責めるシーンには思わずボーッとしたな。

 傍若無人のサトエリ、オドオドした妹、黙ったままの兄、彼らの間でオロオロ、ニコニコする兄嫁という4人の力関係から生まれるスリルとサスペンスと苦笑いが、一瞬も弛まない。ハードな逆境ホームドラマとして良く出来ているのは、脚本、いや、原作が素晴らしいからなのか。この監督、CMやTVの人だから、まあ未知数。映像使いは巧いんだが、あんなに遊ばなくても物語は成立するはず。クライマックスで突如漫画になるのは良いんだけど、その前に「明和電機」の顔が割れて妹の顔が現れるところなんぞは幼稚な気がした。CMやプロモヴィデオ出身者にありがちだ。おまけにフィルム使ってないから加工し易いのも遊び過ぎの原因だろうな。それでも他の邦画よりは遊んでない方ではあるが。
 それと、音楽の印象が薄いのが残念。最後に流れる、全盛期の椎名林檎みたいな曲が映画に合ってるとは思えなかった。再度引き合いに出して悪いけど、『蛇イチゴ』はとても上手だったぜ。

 姉と妹の力が逆転するクライマックス。ブチ切れて「アンタあたしをネタに漫画描くなら最後まで見なさいよ!これからが面白いんだから!」と言い放つサトエリが素晴らしい。いろいろと難はあるものの、俳優たちの「顔」を忘れて物語に没頭出来た、邦画においては希少な1本であることは間違いない。 


07.10.05

■ドリュー・バリモアはいつだって可愛い
 
『ラブソングができるまで』

 この手の映画、ちょっと変わったシチュエーションを持つ軽いタッチのコメディを、「ドリュー・バリモア映画」と呼んで差し支えないのではないか。と言うか、もしかしてドリューは「ドリュー・バリモア映画」にしか出られないのではあるまいか。

 重いテーマを持つヒューマン・ドラマや、歴史上の人物を描く実録物にドリューが主演し、「オスカー最有力」などと書き立てられる日が将来来るだろうか。『クラッシュ』や『モンスター』や『チョコレート』に出ているドリューを想像出来るだろうか。小生には一切そのような絵は思い浮かばない。
 そのかわり、『25年目のキス』や『50回目のファースト・キス』や『2番目のキス』でドリューが演じた役をドリュー以上にやれる女優が他にいるだろうか。つうか「キス3部作」かよ、これ。

 この『ラブソングができるまで』も、ドリューが出てるからこそ、という「ドリュー・バリモア映画」である。観葉植物をケアするバイトをしている女性がかつて一世を風靡したアイドルミュージシャンと出会い、眠っていた才能を覚まされ作詞家として彼とコンビを組むが、彼が愛してるのはあたしじゃなくてあたしの才能?となって1度は破局、しかしラストで彼が心情を吐露した自作ラブソングをコンサートで歌いめでたしめでたし、なんぞという怖ろしく陳腐なラブコメも、ドリューが演じればすべてオッケーなのである。キュートでセクシーなドリューを真ん中に置けば、どんなにアホな物語もちゃんと回り出すのである。

 この映画の原題は「Music and Lyrics 」という。男が音楽で女が言葉か。なんか象徴的な感じ。作曲:ヒュー・グラント、作詞:ドリュー・バリモア。でもって2人はラブラブ。
 そんなカップルが日本に実在する。宇崎竜童と阿木曜子だ。おー、怖え〜。

 そういやヒュー・グラントの出てる映画を映画館で見たのって初めてだったことに気付いた。
 


07.10.05

■まさか本当にスキヤキが出て来るとはね
 
『スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ』

 というわけでこちらも一時代を築いたジャンルの1つ、「マカロニ・ウェスタン」を三池崇史流に再構築して見せた作品。

 いきなりタランティーノの出演シーンで幕を開けるとはうれしいサプライズだったが、同時に最悪のサプライズもお見舞いされてしまった。なんで香取慎吾が出てんの?しかもあの猿芝居はなんだ?せっかくのオープニングに大変なケチが付いてしまった。「劇場版ザ・シンプソンズ」で「大人の事情」に心底ウンザリさせられた後で、またかよ、って感じ。

 三池作品は、『IZO』のようにあらかじめ壊れた物語ではなく、きちんとした原作や脚本を持つ企画の中で好き放題暴れちゃう方が、「らしさ」がある。今回の『ジャンゴ』も、だから良い。伊藤英明にだけ正統派のウェスタンをやらせれば、あとはふざけた衣装だろうが、セリフが英語だろうが、何をやってもいい、恐らくそう決めて自由に遊んでみたのだろう。しかし結果的にそんな遊びよりも、カッチリとウェスタンの型にはめた伊藤英明が実にカッコ良かった。背丈もあるし、ヒゲも衣装もバッチリだ。彼を取り巻くキャラクターがどいつもこいつもクレイジーなせいだけではない。三池はもともと「漢(おとこ)」を描く名人なのだ。でも時々ガイ・ピアースに見えたけど、伊藤。

 活躍めざましい桃井かおりはここでも良い。『クィック&デッド』のシャロン・ストーンばりに冴えたガン・アクションを見せるが、三つ編みの少女時代から立ちション姿まで披露する女優魂にも頭が下がる。夏木マリのつまらなさ(『サクラン』なんかウンザリだった)と対照的に桃井の活躍ぶりには溜飲が下がるね。
 香川照之も良い。ああいう小悪党も出来るのだ、彼は。俳優としてのスキルは同世代中最高であろうな。あの分裂キャラはどう考えても『ロード・オブ・ザ・リング』の「ゴラム」なんだけど、その辺はご愛嬌。
 木村佳乃は『さくらん』に続いて好印象だったんだが、blow jobまでやるんだったら脱げよなー、と文句言いたくなった。でもよくよく考えると、三池作品で女優が脱ぐシーンて、どれもちゃんとした濡れ場になってなかった気がする。拷問だったりレイプだったり殺人だったり。つまり、普通のエロが撮れないんだろうか。まさか三池監督、ゲイじゃあるまいな。でもその方がガテンが行くかも。
 安藤政信が派手な特殊メイクをしていたり、意外にもおいしい役の松重豊がクリストファー・ウォーケンに見えたり、塩見三省の顔がインディオにしか見えないなど、ウェスタンは男の映画であり、ゆえに顔の映画である、というお約束も守られてる。

 反面、なんでコイツ?というキャストもいる。伊勢谷友介は伊藤とのバランスを考えて選ばれたのかも知れないが、「窪塚洋介の後釜」に座ったようなこの男を小生はどうにもこうにも好きになれない。こいつが出て来るだけで「あぁ・・・」と下を向きたくなる。弁慶だって石橋貴明なんかじゃなくて、格闘技の人を連れて来てセリフを与えずに立たせるだけにしておけばよかったのだ。黒澤が『用心棒』で台湾出身のプロレスラー羅生門綱五郎(この役を演じたのはジャイアント馬場だと長年思ってましたよ、てへへ)を使ったように。

 それにしてもタランティーノは良い俳優だと思った。『グラインドハウス』でもそうだったが、彼が現れるとサッと空気が変わる。後半で車椅子に乗って登場するシーンでは『デス・プルーフ』の「ラバー・ダック」も拝める。

 三池崇史、来年『ヤッターマン』をどう料理してくれるのか、キャスティングも含め非常に楽しみである。


07.10.05

■大長編感想文

『グラインドハウス U.S.A.バージョン』
『デス・プルーフ in グラインドハウス』
『プラネット・テラー in グラインドハウス』


@俺のグラインドハウス

 「グラインドハウス」とは、70年代あたりまでアメリカに存在した、「エクスプロイテーション映画」を中心にプログラムを組んでいた場末の映画館の俗称で、スクリーンに映される映画に負けず劣らず、集まる観客もいかがわしく胡散臭い連中だったんだそうだ。必ずしも映画鑑賞が目的ではなく、実際には時期はずれのメジャー作品なんかも上映していた、という意味では郊外の「ドライブイン・シアター」も同類ととらえて差し支えないだろう。そして双方とも「シネコン」に駆逐され、絶滅することになる。

 初めて東京で入った映画館は銀座にあった「テアトル東京」だった。絨毯が敷かれ、シャンデリア(が下がっていたと思う)に照らされた明るくゴージャスなロビー、作りの良い座席、目もくらむ巨大なシネラマ・スクリーン・・・・「日本一の映画館」での体験はその日見た映画(なんと『世界が燃えつきる日』である)の、劇場に不釣合いなB級感とともに、思い出に深く残っている。

 小生が普段通っていた田舎の映画館は、テアトル東京などと比較するのもおこがましいようなところだった。
 出前の丼物をほおばりながら切符をもぎる小汚いオバさん。もちろん売店もこのオバさんだ。廊下に粗末なソファを置いただけの薄暗いロビー。清潔とは程遠いトイレ。スクリーンは大して大きくなく、音響はモノラル。座席もガタガタ。ピントも甘けりゃフィルム切れも当たり前。菓子袋やジュースのビンはもちろん、なんとタバコの吸い殻までが場内に散らかってる始末。帰り客の車を狭い駐車場から出すため、邪魔になってる車のナンバーを呼び出すアナウンスが上映中にも関わらず場内に鳴り響くことも多かった。ポルノ映画の上映館を併設しているところもあったし、ヘタすると今いる映画館の次回上映がポルノなんてこともあり、猥雑で毒々しいポスターを視界に入れていいのかいけないのか、小学校高学年の子供には複雑であった。しかも、映画館の周囲はスナックだったりキャバレーだったりする。

 つまり、映画館とは、実に「いかがわしい」場所だったのである。

 そんな映画館(どの小屋もそんな感じだった)で見たのは、東京から2週間遅れでやって来た新作映画や、1本は新作でもう1本は前年に公開された準新作もしくは旧作、といった2本立て。『グリズリー』と『地底王国』、『エアポート77』と『テンタクルズ』といった「底抜け超大作」(by 映画秘宝)にはヘンな満腹感をおぼえ、『パニック・イン・スタジアム』と『合衆国最後の日』のカップリングは子供に背伸びと虚脱感を強いた。理解不可能な2本立てもあった。『十戒』と『タクシードライバー』には首を傾げ、『エクソシスト2』と『新・青い体験』に親は顔をしかめた。

 暗く、小便臭い、いかがわしい小屋で、遠い世界に思いを馳せる儀式。それが小生にとってのグラインドハウスだった。

 さらに、当時はTVの映画劇場もまた刺激的だった。キズだらけでコマ飛びもあるひどい状態のフィルムを平気で流す東京12チャンネル(現テレビ東京)は、お茶の間を一瞬にしてグラインドハウスに変えた。ホラー映画や犯罪映画はもちろんのこと、マックィーンも、イーストウッドも、ペキンパーも、『タクシードライバー』も、12チャンネルで流したが最後、「そういう映画」にしか見えなかった。番組枠に合わせて30分以上も適当にカットし、ストーリーもラストも変わり果てた『地球に落ちて来た男』や『惑星ソラリス』は、もともと芸術映画であるはずなのに、安いB級SF映画と化していた。いや、むしろ多くのアート・フィルムが湛える気だるく不条理なムードは、グラインドハウス的なものと地続きにすら思える。後年、アントニオーニ作品『さすらいの二人』を渋谷あたりのオシャレな映画館で見た時、「12チャンネルで見たかったよ、これ」と後悔したことがある。

 厳密な意味では、ストリップ小屋→ポルノ映画館→B級映画専門館という歴史をたどったグラインドハウスではあるが、そのスピリットは遠く離れた日本でも、いや、世界中どこでも、映画のあるところには必ずグラインドハウスがあった、と言っていいのではないか。シネコン時代以前に映画を体験して来た者、どこの誰が作ったかもわからないような映画をTVでダラダラと見て来た者たちは、みなそれぞれがグラインドハウスを1つずつ持っているはずなのだ。


A良くも悪くもロドリゲス

 タランティーノとロドリゲスによる2本立て映画『グラインドハウス』は、本国での大コケにより、国際的には分割公開されることになってしまった。オリジナルヴァージョンが1週間限定公開された日本は幸福である。
 2本の映画それぞれの前に流れる、存在しない映画の予告編合計4本と、「OUR FEATURE PRESENTATION」や「PREVIEWS OF COMING ATTRACTIONS」と言った文字が躍るサイケなタグ・フィルム(タランティーノは『キル・ビル』でもこれを使った)、実在するのかしないのかわからないメキシコ料理店のCMなどが、主役である本編を食わんばかりの重要なファクターとしてグラインドハウスという上映形式を完璧なものにしている。フィルムの劣化に伴うサウンドトラックの歪みや、「ブツッ」とか「チリチリ」というノイズ類も妥協無く再現されている。

 ロバート・ロドリゲスによる『プラネット・テラー』は、70年代末から80年代中期にかけて量産されブームとなったホラー映画やスプラッター映画へのオマージュだが、最もテイスト的に似ているのは『要塞警察』や『ハロウィン』『ザ・フォッグ』といった、一連のジョン・カーペンター作品であろう。
 大した予算もかけず、スターが出ているわけでもなく、脚本も良く練られていると言うよりはアイデア勝負だが、ムードだけはギンギンの映画。実際当時、カーペンター作品はグラインドハウス・ムービーとして最適なプログラムだったのではないだろうか。アナログ・シンセサイザーを多用した監督本人による安っぽいスコアが、カーペンター作品の肝でもあるが、ロドリゲスはこれを再現するのにグレアム・レヴェルの手を借りている。レヴェルは、かつてオーストラリアで結成されカルト的人気を誇ったインダストリアル&テクノ・バンド「SPK」のメンバーである。

 ストリップ・バーで踊るローズ・マッゴーワンで幕を開け、カーペンター・テイストをベースにしながらも、数々のゾンビ映画からネタを拾い、『ターミネーター』にそっくりな展開を見せる『プラネット・テラー』。オープニングで流れるテーマ曲の終わりでむせび泣くサックスの音色に呼応するかのように、なぜか涙で顔を濡らしたマッゴーワンの真っ赤な唇に吸い寄せられるカメラは、思わずデイヴィッド・リンチを想起させる、というサービスまである。そう、この映画はサービスに溢れている。

 コンピューター技術でアナログを再現することの矛盾が生む快感。コマ飛びや退色はもちろん、過剰にキズついて荒れたフィルムは途中で止まった途端、電球の熱で溶けて燃え出し、しかもそれらアクシデントがストーリー展開に一役買っている、という芸の細かさ。これでもかと詰め込まれた見せ場と笑いどころ。『デスペラード』のセルフ・パロディさえ見せてくれる『プラネット・テラー』は、ロドリゲスならではのサービス精神が、かつてないほど花開いた作品であることに間違いはない。

 だが反面、グラインドハウス的ギミックや遊びに走り過ぎたため、単なるパロディに納まってしまった感があるのは否めない。ロドリゲス作品はいつだって、破天荒なようでいて実は映像のテクニックと計算されたケレンに裏打ちされた「商品」であった。だから、「グラインドハウス」という企画にカッチリはまる作品、「グラインドハウス」以上でも以下でもない完璧な商品を作ることがロドリゲスのモットーであり、同時に作家としての限界でもあるのだ。


Bタランティーノの最高傑作

 タランティーノの『デス・プルーフ』も、最初はグラインドハウス的に幕を開ける。スポーツカーのエンジン音で始まるジャック・ニッチェの曲「The Last Race」が流れ、ダッシュボードに投げ出された女の子の脚を背景に、「QUENTIN TARANTINO'S THUNDER BOLT」という派手なロゴのタイトルが一瞬現れたかと思うと、黒地に「DEATH PROOF」と味気なく浮かぶタイトルにすり替えられる。「小生にとってのグラインドハウス」が動き出し、軽い目眩を覚える瞬間。『デス・プルーフ』がアート・フィルムであることを予感させる瞬間であった。

 オシッコを我慢して股ぐらを抑えた女の子の下半身という、かつて見たことの無いバカなオープニングに続いて、いかにも頭の悪そうな女の子たちの呆れるほどくだらない会話にこれでもかと時間が割かれる。『プラネット・テラー』ほどのフィルム荒れは無い。そのかわり、ここぞという場面で巧くコマ飛びを使う。それは最初に黒いシボレー・ノバが登場する場面だ。ノバがフレームインする直前、前を走っていた女の子たちが乗る車が、コマ飛びによってパッと消滅するのである。単なるフィルムのアクシデントが、この追跡ショットにシュールなバカバカしさと同時に不吉さをももたらす。そして、おバカな彼女たちに鉄槌を下ろすべく、この映画の主人公「スタントマン・マイク」が登場する。

 ジョン・カーペンターのテイストを炸裂させた『プラネット・テラー』を引き継ぐかのようにカート・ラッセルは現れる。カーペンターが創作したSF映画史上に残るアウトロー、『ニューヨーク1997』の「スネーク・プリスキン」を演じた男への、これはオマージュである。カートはスネークというキャラクターに惚れ込み、続編『エスケープ・フロム・LA』では脚本およびプロデュースにも名前を連ねているが、ちなみにこの続編には、スティーヴ・ブシェーミ、パム・グリア、デイヴィッド・キャラダインの弟ロバートと、タランティーノゆかりの俳優たちが出演している。

 ジャングル・ジュリアが携帯メールを使うシーンで流れ、突如として映画のムードを変えるのは、ブライアン・デ・パルマの名作『ミッドナイトクロス』の音楽だ。ピノ・ドナジオによる美しくも哀しいこのピアノ曲は、想いを寄せる女性を死なせてしまった主人公ジョン・トラボルタが悲しみに暮れるラストシークェンスを印象的に彩る曲だった。だから、ジャングル・ジュリアが恋人とメールのやりとりをするあのあまりにも安っぽいシーンにこの曲を使うという、タランティーノの変化球的リスペクトに思わず吹き出してしまったのだが、同時に、あんなことを恥ずかしげもなくやってしまう彼の選曲センスに凄味すら感じた。

 スタントマン・マイクは運転席だけ「耐死仕様(デス・プルーフ)」に改造したシボレー・ノバに、パブで拾った娘を乗せ、カメラに向かって不敵に笑って見せる。シリアル・キラーがカメラ目線でほくそえんだりするショットなどというものは、ホラー映画にはあまり見られない手法だ。
 タランティーノがリスペクトするジャン・リュック・ゴダールの作品には、『勝手にしやがれ』をはじめ、登場人物がカメラを凝視したり、カメラに語りかけたりする、「非映画的行為」がたびたび用いられる。『キル・ビル』でタランティーノはこの手法を大胆に使った。
 しかしこの、映画であることを無視したスタントマン・マイクの大胆不敵な行動は、むしろ昔ながらのカートゥーン・フィルムを意識したものかも知れない(「トム&ジェリー」で最後にジェリーがカメラ目線で肩をすくめたりするアレである)。マンガ的な茶目っ気を殺人鬼に持たせるのも悪くない。思わずギョッとするこういうショットを撮れるか撮れないかの差は大きい。

 彼が転がす黒いシボレー・ノバは、ボンネットにドクロがペイントされ、最前部にアヒルのオーナメントが取り付けられている。このオーナメントはサム・ペキンパー監督作品『コンボイ』(1978年)で主人公「ラバー・ダック」(ゴムのアヒルをトラックに付けてることからこう呼ばれる)がシンボルにしていたものを原型にして新たに金属で作った物だ。
 ペキンパーのファンはもちろん、一般の映画ファンにも評判が悪く、当時映画館で見た小生にも面白いとは思えなかった『コンボイ』に、意外なところで再会し、驚いた。大して見せ場の無い、ただ巨大トラックが隊列を組んで走るだけの映画をリスペクトする奴なんてタランティーノぐらいだろう。
 スタントマン・マイクのくしゃみが不発に終わる場面は、タランティーノに言わせると性的不能のメタファーとして撮ったということだ。「性的不能者の殺人鬼」と「鳥」という組み合わせに、ヒッチコックの『サイコ』があるが、とすると、マイクがオーナメントにアヒルを使ってるという設定もなんだか納得出来たりする。

 スタントマン・マイクは、助手席に乗せた娘を血祭りに上げるだけでは飽き足らず、ずっと尾けていた女の子たちが乗ったホンダ車の正面に自分の車を衝突させ皆殺しにする。1人は車外に放り出されてアスファルトに叩きつけられ、1人はハンドルに胸を押しつぶされ、1人は窓外に投げ出していた脚をもぎ取られ(この映画で脚フェチを全開にしているタランティーノにとってヌケる瞬間だ)、後部座席でシートベルトを1人締め、「この子だけ生き残るのでは」と思われた前半の主役格であった女の子でさえ、屋根を割って突っ込んで来たタイヤに顔面を「持って行かれる」のだ。
 「耐死仕様」によって無事に生き残ったスタントマン・マイクの病室を後にした保安官親子(『フロム・ダスク・ティル・ドーン』『キル・ビル』にも登場したキャラ)が語る、「セックスではなく、カークラッシュの衝撃でイク」というスタントマン・マイクの異常な性癖は、J・G・バラード原作、デイヴィッド・クローネンバーグ映画化作品『クラッシュ』を即座に彷彿とさせるものである。
 あの映画で衝突による人体破壊プロセスをスローモーションで見せることをしなかったクローネンバーグは賢明だったが、タランティーノはその真逆をあえてやって見せた。複数のショットやスローモーションを執拗に使い、まるで車の耐久実験フィルムを、ダミーではなく生身の女の子たちで再現するように。なぜなら、『デス・プルーフ』はあくまでも車を使った殺人鬼の物語だからだ。殺しのプロセスはきちんと見せねばなるまい。

 『U.S.A.バージョン』には無く単独バージョンに追加されたシーンはどれも素晴らしいが、中でもスタントマン・マイクが絡むシーンは「なぜこれをカットしたのか」と思いたくなるほど良い。ストーカー行為に疲れて目薬を注したり、ロザリオ・ドーソンの足先を舐めるかわりに唾で濡らした指を這わせたり。茶目っ気のあるヘンタイをカート・ラッセルが嬉しそうに演じていて意外だが、その辺がタランティーノのキャスティング・マジックである。

 ホラー映画として幕を下ろす前半が終わり、後半では新たなキャラクター、つまりスタントマン・マイクの次のターゲットが登場する。そして、モノクロ映像のシークェンスを挟んでカラーに戻る後半において、『デス・プルーフ』はあからさまにそのルックを変える。不自然なくらい、いつものタランティーノ映画に戻してしまう。つまり、ここでタランティーノは「グラインドハウス」から降りてしまうのだ。

 しかし、くだらないガールズ・トークは後半でも健在だ。前半が地方局のDJを中心にしたグループだったのに対し、後半に登場するのは映画のスタントウーマンとヘア係と女優というチーム。作品のルックも変わり、全篇昼間のシーンということもあって、前半の子たちとは打って変わってハツラツとした彼女たちの魅力が後半の牽引力となる。食事をしながら会話に花を咲かせる女の子たちをパンしながら捉える場面は、もちろん『レザボア・ドッグズ』のセルフ・パロディだが、背後のカウンターに座るスタントマン・マイクをさりげなくフレームインさせるためでもある。

 4人のうち最も美しいメアリー・エリザベス・ウィンステッドを残して70年型ダッジ・チャレンジャーを“試乗”に行くという展開から、何かタフなイベントが起こる予感を匂わせる。パンフで柳下毅一郎氏が言ってたように、「シップス・マスト」を「ボンネットに乗る」などと字幕を付けては実はブチ壊しではあるが、そんなネタバレも吹っ飛ぶほどの見せ場が出現する。
 仲間の中でも演技も控え目で女優としての存在感も希薄だったゾーイ・ベル(役名も同じ)が、走るダッジの窓からスルリと身を乗り出して屋根に上がった時、それまで映画だと思って見ていたものが、急に映画でなくなる。スタントウーマン役を演じているのだとばかり思っていた女優が、本当にスタントウーマンだった、という驚き。たとえゾーイが『キル・ビル』でユマ・サーマンのスタントを担当した女性だと知っていたとしても、驚きのレベルは変わらないはずである。たとえるなら、普通の恋愛映画を見ていたらヒロインを演じていた女優が恋人役の男優と「本番」を始めてしまうようなものか(そういえば大島渚の『愛のコリーダ』を見た時の衝撃に似てなくもない)。

 そして、一瞬映画でなくなった映画が再び映画へと戻って来た時、ボンネットにゾーイを乗せて疾走する70年型ダッジ・チャレンジャーは、久しく忘れていた高揚感とカタルシスを味わわせてくれる。「映画だ。これが映画なんだ」と。『バニシング・ポイント』という映画が、白いダッジがただ走ってるというだけである意味成立してしまったように、それと同種のダイナミズムがここにはみなぎっている。もちろんそれがタランティーノの狙いなわけだが。

 そんな風に危険な遊びに興じている彼女たちにスタントマン・マイクが参戦する。今度の車はダッジ・チャージャーであるが、シンボルのダックは変わらない。ダッジ・チャレンジャーVSダッジ・チャージャー。スタントウーマンVSスタントマン。単純だが、逆に力強いカー・チェイスのシークェンスがこれでもかと続く。前半では早漏のように楽しみを終えてしまったマイクだが、今回は後から横からとじっくり楽しむ。車体を激突させるたびに恐怖で泣き叫ぶ女たちが、彼を燃え立たせる。必死でボンネットにしがみつくゾーイによる生身のスタントは、肝心のアクションをフルCGにしてしまう昨今の映画に「チキン野郎!」と罵声を浴びせているかのようだ。

 「性的不能者によるレイプ」が終わり、「お前ら楽しかったぜ。じゃあな」とズボンをはくように車に乗り込もうとするスタントマン・マイクに女たちは反撃する。レイプされた女の復讐劇はグラインドハウス映画の定番プログラムの1つだ。カークラッシュの衝撃や痛みには強いはずのマイクは、肩に1発銃弾を喰らっただけで子供のように泣き出すのだが、この不条理とも言える変わり身が想起させるのは、『マッドマックス』の冒頭に登場する「ナイトライダー」だ。「オレ様はナイトライダーだ!」とハイテンションで暴走し、警察の追跡をことごとく振り切るこの悪漢は、マックスの乗ったパトカーが現れるやいなや、メソメソと泣き出してしまうのである。
 そもそも後半で繰り広げられるカーチェイスは、ローアングルでのショットや目を見開くカットの挿入など、かなりの部分『マッドマックス』を参考にしていると思しいし、「妻子を殺された男の復讐譚」という『マッドマックス』の骨子は、いかにもグラインドハウス的だ。エンドロールの「Thanks」の中にはジョージ・ミラーの名前もある。

 『レザボア・ドッグズ』『パルプ・フィクション』『ジャッキー・ブラウン』と、活劇の要素をごそっと抜いてクライム・ムービーを成立させて来たタランティーノ。『キル・ビル』では殺陣とカンフー、『デス・プルーフ』ではカーアクションという、日本・香港・アメリカの映画界において娯楽作品の王道として一時代を築いて来たジャンルからサンプリングし、タランティーノ流の活劇を作り上げた。そして今回の活劇はラス・メイヤー作品へのオマージュで幕を下ろす。

 タランティーノの創作の原動力は常にオマージュだった。しかし、完成した作品がいつだってオマージュで終わらなかったのは、そもそもタランティーノの思い入れによってキャスティングされた俳優たちが、彼の思惑を超えるほどの芝居や存在感や他のキャストとのアンサンブルを見せることで、作品を化学変化させて来たことが大きい。
 『デス・プルーフ』を傑作にしたのは、意表を突くカート・ラッセルのキャラクターであり、危険なアクションに体を張ったゾーイ・ベルである。彼らの起用によって発生した猛烈な化学変化は、過去のタランティーノ作品の比ではなく、その爆発力は「グラインドハウス」という枠組みをも軽々とブチ破った。

 ヒット作の続編や古い映画のリメイクを、親会社や保険会社の顔色をうかがいながら当たり障りの無い企画に仕立て、誰もが知るスターを合成スクリーンの前にはべらせ、落ち着き無く動く画面と考えるスキを与えないほどの細切れな編集でごまかして、シネコンに向け量産される絶対安全な「商品」。タランティーノとロドリゲスは、映画だけが持ちえたはずの興奮をサルベージすべく、かつていかがわしい場所だった映画館と、そんなところで流された映画をまるごと現代に復活させ、小ギレイなシネコンを場末の映画小屋へと変えた。『グラインドハウス』という映画は、つまり「インスタレーション」なわけである。
 クソみたいなB級・C級映画も何十本も見続ければ1本くらいは凄い作品に当たる。タランティーノが最初からそういう1本を作ろうとしたかどうかはわからないし、過去のB級映画の傑作だって作り手の意図を超えたところで偶然出来てしまったのかも知れない。映画というものはその時々の「ナマモノ」だ。傑作というものは出来てしまう時には出来てしまうものなのである。
 タランティーノは「映画の魔物」に取り憑かれることはあっても、「映画の神」が降りて来ることは今まで無かった。『デス・プルーフ』の撮影中、タランティーノには「映画の神」が降りて来たに違いない。そうなったらもう、インスタレーションとしてのグラインドハウスなど必要無い。

 「映画の魔法」を久し振りに見せてくれた作品、そして「映画の神」が味方した初めてのタランティーノ作品、それが『デス・プルーフ』である。これほどの傑作をものにしたタランティーノ、これからどこへ行くのか。


07.09.06

■「ブルース」は本当は「ブルーズ」と言わなきゃピーター・バラカンに叱られる
 
『ブラック・スネーク・モーン』

 禿げ上がった頭にランニング姿で鎖を手にするサッちゃん(サミュエル・L・ジャクソン)と、扇情的な目つきでその鎖に掴まるクリスティーナ・リッチ。予告編やポスターからかなりノワールでワイルドな内容を予想していた。
 南部、冴えない田舎町、パッとしないバー・・・・設定もムードも満点だ。女房を寝取られ町外れで細々と農業を営む元ブルースシンガー。ある朝彼は傷だらけで気絶している若い女を拾い、最初は治療目的で鎖で繋ぎとめるのだが、彼女は町ではちょいと知れたニンフォマニアだった。C・リッチのエロエロなボディ(随分痩せたけど)とサッちゃんの醸し出す男臭さから、とんでもなく淫靡でビザールな展開を期待してしまう。映像の方も、深夜に12チャンネルで流れていそうな、先日見た『グラインドハウス』を思い出させるような、そんな雰囲気がある。

 しかし、この映画は意外な展開を見せる。サッちゃんは友達の牧師と共に、トラウマを抱えたリッチを癒そうと努力する、という「リハビリ物」と化すのだ。それでも、農園で使ってる男の子をリッチが誘惑したり、冒頭で兵役のため町を出て行ったリッチの恋人が除隊させられて帰郷して来るあたりなど、緊迫感とノワールな空気が漂う場面もある。リッチの恋人が拳銃を手にサッちゃんの家に乗り込んで来るところなんぞなかなか良い。ところがどっこい、この恋人くんもトラウマ持ちで拳銃を撃てないと来たもんだ(ゆえに除隊)。そしてなんとなんと、サッちゃんたち親切な黒人たちがこの2人を結婚させて町から旅立たせてやるという、なんともハートウォーミングなラストに落ち着いてしまうのだ。なんだそりゃ。

 それでもこの映画を魅力的にしているのは、ギター片手に歌声まで披露するサミュエル・L・ジャクソンの存在感だ。タランティーノ作品以外で良い役者だと思えたためしの無いサッちゃんが、ここではかなり良い。歌を捨て、女房に逃げられ、怒りと悲しみをズダ袋に詰め込んでランニングを着せたような彼のたたずまいが、そこにあるだけでリアルなブルースを表現している。まあ、だからなおさら驚愕なんだけどね、あの最後は。
 サッちゃんとイイ仲になりそうな黒人の綺麗なオバサン、なーんか見たことある人だなと思って調べたら、『ジェイコブス・ラダー』でティム・ロビンスの手相を見て「あなた、もう死んでるはずよ」と言った占い師や、『ターミネーター2』でスカイネットの開発者ダイソンの奥さんを演じてたりした女優さんでした。 


07.09.06

■たまにはこんな風に書いてみる
 
『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』

 とてつもなくイイ女と付き合ったことがある。
 美しいだけではない。頭脳も明晰だった。
 ただし、彼女の生い立ちも含めて謎めいた部分の多い女だった。
 でもそこがまた何とも魅力的だった。
 僕は彼女に夢中だった。
 気まぐれなところのある女だった。
 周囲から見れば僕は振り回されているだけだったかも知れない。
 しかしそれでもよかった。
 僕は幸せだった。
 だが、付き合ううちに僕はどうしても彼女の全てを知りたくなる。
 結婚すら考えるようになった。
 「キミの家族や友達に会わせてくれ」と頼む僕を、最初は拒絶した。
 しかししつこく食い下がる僕に、彼女はやっと折れた。
 「この人、わたしの父さんよ」と彼女が紹介した男は、とても父親とは思えないような男だった。
 絶句し戸惑う僕の前で顔を見合わせクスッと笑う2人。
 そして彼女は僕の前から消えてしまった。
 多くの謎を僕の中に残したまま。
 その後彼女の消息を耳にすることもあったが、僕は他の女と付き合っては別れを繰り返した。
 彼女ほどの美人も、彼女ほど頭のきれる女も、彼女ほど神秘的な魅力にあふれる女もいなかった。
 彼女は、そして彼女が連れて来たあの男は一体何者だったのだろうか。
 そう述懐しながらも、いや、あれでよかったのさ、と頷くことしか僕には許されていない。
 そんな風にして10年が過ぎた。

 そして、彼女は再び僕の前に現れた。
 なぜだ、なぜ今頃になって・・・・。
 その美貌は衰えるどころかますます磨きがかかっていた。
 10年前を懐かしむ僕の胸にすがりついて来る彼女。
 「あの時はごめんなさい、あなたの気も知らないで。
 わたし、悔い改めるわ。もう1度やり直しましょう。
 随分待たせちゃったけど、結婚してちょうだい。わたし、きっと良い奥さんになるわ」
 じっと僕を見て瞳を潤ませている・・・・やはり美しい女だ。
 しかし何か腑に落ちない。
 昔とは反対に彼女の方から結婚を望んでいる。
 どんな心境の変化なのだろう。
 この10年の間に何があったのだろう。
 美しい彼女を前に僕の心は今ひとつ躍らない。
 僕が愛した女は、果たしてこんな風に貞淑な妻に落ち着くような女だったのか。
 彼女の言葉を信じることと引き替えに、何か大きなものを失ってしまうのではあるまいか。
 10年前、彼女の全てを知りたいなどと言いつつ、
 その実僕は、謎めいた女との関係にいつまでも酔っていたかっただけなのではないか。

 とりあえず僕は彼女との関係を再開してみることにする。
 また振り回されるのか、という欲望と不安と絶望の入り混じった奇妙な感慨を抱きながら。
 なんと言っても、これほどの美貌を持つ女なんてやはりそうはいない。
 それにしても、彼女の言う「やり直す」とは、「最初から」という意味だったのにはかなり面食らった。
 出会いの場面に最初のデート、何から何まで全部やり直したがる必要などあるのだろうか。
 それでも再会後初めてのセックスは、10年前より格段に素晴らしいものになっていたのだが。

 渡辺淳一の小説って読んだことないけどこんな感じ?


07.09.06

■映画監督=マイケル・ムーア
 
『シッコ』

 やはりマイケル・ムーアの映画は笑わせてくれなきゃ。『華氏911』は内容が内容だけにとても笑う気になれなかったし、そういう作り方もしてなかった。相手が相手だけに真摯な姿勢で戦わねば、というムーアの生真面目さが映像から伝わって来た。しかしその分、1本の映画作品としては今ひとつ出来が良くなかった気がする。作家性が突出してしまった作品はいつだってエンターテインメントとして「いびつ」だ。
 しかし今回、『ボウリング・フォー・コロンバイン』で銃社会アメリカの歪みを取材し極上のエンターテインメント作品に仕上げたマイケル・ムーアが帰って来た。

 国営の健康保険制度を持たないため、民間の保険会社が熾烈な競争を繰り広げるアメリカ。加入しているのに保険金が下りないため、高額医療費が払えずに、体の一部を失ったり、死亡したり、破産したりする人々への取材から始まる。信じ難い事実に思わず笑ってしまい、ツカミはばっちり。その後、カナダ、イギリス、フランスと、医療費・出産費用がタダでしかも育児のケアまで政府が面倒見てくれる外国の取材へと展開。地獄のようなアメリカの実情の後では、これらの国はパラダイスに見える。しかし英・仏国民が高額の税金を徴収されている具体的なデータは一切ナシ。取材対象が富裕層ばかりなのも「おいおい」って感じ。パリの場面ではジェーン・バーキンの歌が流れ爆笑。でも目をつぶろう。ムーアがやり玉に上げたいのはあくまでもアメリカの医療制度なのだから。

 クライマックスは、「9.11」の時グラウンド・ゼロで救助活動やボランティア活動をして以来、肺の病気になったり心身の不調を訴えるものの、保険金を貰えないため治療出来ずにいる人々をマイケル・ムーアがある国へ連れて行き、その国の制度に則って最高の医療をタダで受けさせる、というものだ。その国とは敵国キューバである。
 国民健康保険という助け合いの制度を、コミュニズムだ、赤(アカ)だとして採用しなかったアメリカ。社会主義への盲目的な恐怖が吹き荒れた時代、9.11以前にアメリカを最も震撼させた13日間の記憶を、このように辛辣なやり方でサルベージして見せるムーア監督の皮肉は痛快だ。

 これを見て啓蒙されたり、危機感を持つのは当然だ。しかしマイケル・ムーアの、活動家・運動化ではなく、あくまでも「映画監督」としての才能を久し振りに堪能出来たことが嬉しい。誇張があろうが、語られない事実があろうが、そんなことはどうでもいい。彼が作っているのは映画だからだ。

 マイケル・ムーア作品は一貫している。「銃社会」も「テロ」も「医療制度」も、みんな同じ怪物から生み落とされたものだ。
 それは、アメリカの言う「自由」である。

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