Diary

■2007年11〜12月

07.12.31

■思い出し怒り

『魍魎の匣』

 京極夏彦はそもそも実相寺昭雄のファンであり、あの特殊な映像世界が京極の小説世界に与えた影響は大きい。僕は彼の小説を全て実相寺の映像へと変換して脳内上映する、という読み方をしたものだが、その行為は至極当然のことだったのだ。
 しかし残念ながら『姑獲鳥の夏』は失敗作だった。失敗へと導いたのは脚本の圧倒的なマズさだった。かつてのような冴えは無いものの、実相寺監督という人選は絶対に間違っていなかったし、彼が撮ってダメなんだから他の誰にもあの小説を映画化することなんか出来はしない。
 実相寺が亡くなり『魍魎の匣』映画化の希望は絶たれたが、もしバトンを渡すのであれば塚本晋也あたりが適任だったはずだ。少女バラバラ殺人事件がメカニカルなグランギニョールへとシフトする驚愕の物語は、乱歩や特撮映画を愛して来た塚本なら映像化出来たことだろう。

 原田眞人が『魍魎の匣』を撮ると聞いて、彼のことをほとんど知らない僕のような人間でも不安になったことだから、彼の作品を見たことのある人が抱いたであろう「なんで京極作品をあんな監督が?」という疑問は相当なものだっただろう。   原田眞人という名前を知ってはいたが、彼が監督した映画を1本も見たことがない。知っていた、とは言っても、アメリカ帰りという経歴を生かしてキューブリック作品『フルメタル・ジャケット』の日本語字幕を担当したこと、TVで偶然見かけた『ガンヘッド』での高嶋政宏の演技に寒気がしてすぐにチャンネルを変えてしまったこと、そして『ラストサムライ』に出演していたことくらいだ。彼のフィルモグラフィをざっと見渡しても、タイトルに聞き覚えはあるものの、当時見たかった作品、今見たいと思わせる作品なんぞは無いな。

 そんな疑問や不安は的中。この監督、京極夏彦の小説に対して理解も愛情も無い。ハリウッドの流儀や作法を勉強して来たんだろうが、そんなメソッドで京極作品が映像化出来るはずがない。ハリウッド大作を意識したような細か過ぎるカット割りは、ムードを作らないどころか、ミステリーをミステリーとして牽引しない。もともと謎解きを放棄してしまったような脚本なのに、だ。

 「昭和20年代の風景に似ている」「実際の東京との微妙なズレが不思議な効果をもたらす」なんぞとばかりに上海でロケしたんだろうが、空気から街並みからエキストラから何から何まで中国にしか見えず。映画『姑獲鳥の夏』でもダメだったが、戦後の東京の地理が持つ「異界のパースペクティヴ」をまず背景としてきちんと描かないと、京極のミステリーは成立しない。巨大な「匣」がある場所もあれじゃどこなんだかわからないし、だいたい京極堂のある中野がなんで杉の大木がそびえる山なんだよ。やはり失敗作と言われたが、『帝都物語』(1988年)が見せてくれたような「パノラマ感」こそが、京極小説の映像化には必要だった。上海ロケなんかじゃなくて、CGにすべきだったんだ。

 前作からの続投組も含め、俳優たちの演技は全滅。特に京極堂や関口(永瀬正敏の方が良かった)のキャラ付け、あれは何の冗談であろうか。前作でイイ味を出していた宮迫博之も今回は全くいただけない。クドカンは案の定ミスキャストだし、柄本明はマッドサイエンティストと言うよりも水道施設の作業員だった。黒木瞳なんてのは言わずもがな。
 そう言えば宮迫が劇中で見る映画だが、戦前・戦中にあんな撮影方法をとった時代劇が存在していたら、黒澤明は生まれて来なかったはずだ。上海ロケもそうだが、そういう「甘さ」「勘違い」「近視眼」が、監督の意図とは理解されることは無く、結局はコメディとしか映らない。

 ああ・・・・せっかく忘れていたのに、書いていてなんだか腹が立って来たな。『姑獲鳥の夏』は1本の映画として成立していたからこそ、原作と比較してあれこれ文句を言いたくなったのだが、今回はもうあまりにもお粗末過ぎて文句を言う気にならなかったんだよね、当初は。
 「原作と映画は別物」とは言うけどさ、「別物と思えば楽しめた」とか、「『姑獲鳥の夏』に比べたら面白かった」とか言ってる京極夏彦ファンは、もうファンやめた方がいいと思う。

 しかしな、今年最後の日記がこれかよ・・・・。

 新文芸坐恒例「シネマカーテンコール」で再見した『ブラックブック』と『アポカリプト』はやはり素晴らしかった。でもって、今年最後に見たのは『デス・プルーフinグラインドハウス』だっ!「U.S.A.ヴァージョン」を併せればなんとこれで6回目!やっぱ最高だぜっ!ありがとう!スタントマン・マイク!

 アディオス!2007年!


07.12.18

■ここ1ヶ月で見た映画のことをまたまた少しばかり
 
 仕事の多忙もあるんだが、今までのように映画の感想を細かに綴ることに、まあはっきり言って飽きている。夏の終わりに見た『グラインドハウス』で燃えつきてしまった感もあるし、見た感動を無性に語りたくなる作品にあれ以降出会っていないのも確かだ。始めてまだ3年目だと言うのに、これではイカンな。ポスターコレクションのページも長らく更新していない。コレクションは少しづつ増えてるのだが。ああ、イカンイカン。何をやっとるんだ、オレは。

 と言うわけで、ここ1ヶ月に見た映画(再見の『300』と『ブレードランナー ファイナル・カット』は除いて)の感想を一言、二言ばかり記しておくか。またまた、ゆる〜く。


『ヘアスプレー』
 ジョン・ウォーターズのオリジナルを見てないんだが、「ああ、これオリジナルの方を見たいな」という思いがフツフツと。主演のおデブちゃんが朝目覚めるファーストシーンからもうアウト。「この娘っ子の顔を2時間も見せられるのか」とゲンナリ。体型は別にいい。生理的に全く受け付けない顔の作りと表情と声なんだな。映画の出来不出来をうんぬんする以前の問題である。いや、出来の良い作品とも思えんかったが。
 ミュージカルだからと言って差別するわけじゃない。だって『ドリームガールズ』は面白く見られたもんな。いわゆる「バカ映画」を作ろうとしてる、あまりにもなあざとさに嫌悪感を覚えたのかも。見ている間、クスリとも笑わなかったよ。黒人差別問題を今なぜ取り上げねばならないのか、という必然性もまったく感じられず。拷問のような2時間だった。


『ボーン・アルティメイタム』
 いよいよジェイソン・ボーンの正体が明らかになる最終章、というわけだが、その辺りのドラマを期待しちゃダメね。この3部作は、最新のテクノロジーを武器に展開する「鬼ごっこ」「かくれんぼ」が全ての映画なんだから。
 冒頭、ロンドンのウォータールー駅の追跡&狙撃シークェンスの緊迫感と緻密な展開に見事にツカまれちゃった。手持ちカメラのせいで揺れ動く画面に最初は「またこれか、こういうの多いよなー、最近。バカのひとつ覚えみたいにさー。リドリー&トニーのスコット兄弟ですらこんなのばっかなんだよ。こういうわざとらしい画作りはもういいって!」と辟易だったのだが、いつの間にか興奮しながら目が釘付けになっていたよ。あれは相当に巧い。
 ハイテンションのカーチェイスは今回も凄まじい。アクション映画の水準を確実に上げたな、この3部作は。「007」シリーズ、これからは相当頑張らないと。あ、でもあっちにはお色気があったっけ。


『ヒッチャー』
 1986年のオリジナル版を書いたエリック・レッドは、ウィリアム・ギブスンの跡を継いで『エイリアン3』の脚本に参加した。2人の脚本が映像化されることはなく、寄ってたかってリライトされた脚本によって作られた映画は評論家からもファンからも誉められることはなかったが、それは必ずしもデイヴィッド・フィンチャーの技量のせいとは言えないはずだ。
 その後、彼は『セブン』という超傑作を物にすることになる。カイル・クーパーによってデザインされたオープニングで流れた曲は、ナイン・インチ・ネイルズの「クローサー」のリミックス・ヴァージョンだった。
 そして今回、リメイク版『ヒッチャー』の最も大きな見せ場を、「クローサー」のアルバム・ヴァージョンが盛り上げる。ショーン・ビーンは残念ながらミスキャストだったが、このシーンの不吉な空気感は拾い物だった。


『ALWAYS 続・三丁目の夕日』
 一昨年のベスト2なんぞに選出してしまったことがいまだに恥ずかしく、悔やまれる作品の続編。『ロード・オブ・ザ・リング』で開発・使用された「マッシヴ」というソフトを使ったおかげで、前作にあったCGエキストラのお粗末さが無くなっただけでなく、全体的に特撮技術は上がったものの、なんだろう、このつまらなさは。
 @目が慣れたので驚きが無い。
 A首都高を通してない日本橋や羽田空港が見せ場として弱い。
 B手垢にまみれた人情話は別に構わないが、テンポがすこぶる悪し。
 などが主な原因か。しかし、ノスタルジーを過剰に演出するためなのか、セットやミニチュアなどを「汚し過ぎ」なんだよね。文字のかすれた看板や薄汚れた建物に違和感が・・・・30年代当時はピカピカだったはずなんだが。リアルと演出が混在した誰も見たことの無い架空の30年代、と言われれば、まあそうなんだろうけど。
 次回作は東京オリンピックか。


『クワイエットルームにようこそ』
 『恋の門』がめちゃめちゃ面白かったんで今回も期待したんだが、いやー、本当に面白かったな、これ。素晴らしかった。演劇人や文筆家としての松尾スズキっていう人をほぼ知らないんだが、「映画を撮る門外漢」としては相当な才能を持ってるみたいね。
 キャスティングがモノを言うタイプの設定・物語であるが、各々の持ち味や外見をフルに活かしつつも、最終的には演技力をちゃんと引き出しているのはさすが。内田有紀の演技をちゃんと見たのはこれが最初だが、かなり実力ある人なんだな。好みの女優ではないが、彼女の上手さで思わず引き込まれた。
 『カッコーの巣の上で』もそうだったが(やはりちょっと似た展開がある)、主人公を取り巻く人物たちの群像劇として描くのがこの手の映画の王道。そのアンサンブルはこの映画でもお見事。大竹しのぶ(『恋の門』のメーテルが忘れられない)のふてぶてしい悪役ぶりも良いし、蒼井優の不健康さも天才的だ。しかし最も輝いていたのは中村優子だったな。オーヴァーアクション演出に味付けされた出演陣の中にあって、彼女の清楚な存在感は異様であるが美しく、ラストに用意された哀しいオチは「この病気」の持つ底知れなさと恐ろしさを垣間見せる。
 自分で書いた小説を自分で脚色し自分で監督して映画にする。全部自分のものなんだから100%の完成度になって当然のような気もするが、案外こういうのが一番難しいことかも知れない。
 次回作も期待しちゃうぞ、松尾スズキ。しかし最も楽しみなのは、彼のエロ演出だったりする。 


07.11.22

■さよなら「最終版」
 
『ブレードランナー ファイナル・カット』

 1992年の『ディレクターズカット 最終版』を見た時、はっきり言って「余計なことしやがって」と思った。ナレーションを外し、都合の良い能天気なハッピーエンドを取っ払い、ユニコーンの映像を足してデッカードをレプリカントであると断定したのはまあいい。本当はよくないけど、まあこの際いいや。

 『最終版』の公開前、今は無き「東京国際ファンタスティック映画祭」で「『ブレードランナー』の3時間あるヴァージョンが上映される」とアナウンスされた。実行委員長の小松沢陽一氏本人がテレビ番組で喋ったことである。その時、『ブレードランナー』には膨大な量のアウトテイク・フッテージが現存するのではないか、という推測が植え付けられてしまった。
 そんな経緯の後で公開された『ディレクターズ・カット 最終版』に、僕は心底がっかりした。一目で判別の出来る未公開ショットは、ユニコーン以外には皆無。
しかも編集から画質・音質に至るまで、なにもかもがお粗末な気がした。「これがもともと作りたかった本来の形です」と満を持して提示するような完成度とは到底思えなかった。「初公開版」や「完全版」を差し置いて、あんなものが決定版として大きな顔をし続けているのが許せなかった。だから僕は長い間、「最終版」のDVD(なんだかんだ言いながらも買ってしまうところが情けない)を見るよりも、「完全版」のLDを引っ張り出して見ることにしていた。作品としての完成度が悪いとしても、初めて見た時の感動を反芻出来る分、こちらの方が断然良い。

 そんなモヤモヤがスーッと晴れた。

 最新のデジタル技術でブラッシュアップされたフィルムは、DLP上映されることで、驚異的に鮮やかな映像として甦り、役者の顔の毛穴までくっきりと見える恐るべき解像度は、ロサンゼルスの景観の奥深くまで再現する。ミステイクや不可解だったディテールを修正しただけでなく、未公開ショットをも混ぜ込んだ新たな編集もごく自然である。そして音の良さには震えが来るほどだった。ヴァンゲリスのスコアの艶かしさが増しているのはもちろん、サウンドエフェクトとのミックス・バランスも完璧。スピナーの無線から日本語音声が流れるなどの新たな趣向も良い感じだ。
 背景のディテールアップも決してやり過ぎていない。タイレルのオフィスから見える、静止画のように味気無かった窓外風景に、小さく光るスピナーがさりげなく足されている、といった程度。マット画の中に動く光点など、一見したところ今回のヴァージョンで大幅に付加されたものかと思われたが、鮮明さを取り戻した映像がそう見せただけで、実は元々のフィルムが相当なディテールを持っていたことをあらためて確認した。

 精緻を極めたSFX、革命的な美術・デザインはこの25年で全く色褪せることなく、「人間とは何か」という命題にあそこまで肉薄するSF映画もあれから現れていない。あの瞬間才能の頂点を極めていた監督、俳優人生を決定するほどのキャラクターを演じた役者たち、少ない予算をバネに持てる才能を出し尽くした特撮・美術スタッフ。それら全てが混然となって、この映画史上類を見ない魔法・錬金術を可能にしたのだ。

 『ブレードランナー』を超えるSF映画など無い。せいぜい肩を並べられるのは『ブレードランナー ファイナル・カット』だけだ。禅問答のようだが、そう言うしかない。これほどの感動は実に25年ぶりである。
 しかし、これから先の映画史において繰り返し見られ、何度と無く再評価されるのは「ファイナル・カット」の方かも知れない。そしてその時、色々な意味で不幸だった「初公開版」は、「参考資料」という扱いに追いやられてしまうだろう。そうなっても異存は無い、とこの際断言しよう。リドリー・スコットはそれほどのヴァージョンを完成させたのだ。

 ただし・・・・幕切れが惜しいんだよな・・・・エレベーターのドアが閉まるところで「初公開版」に流れた「Love Theme」のイントロが始まり強引に「End Titles」へとつながる曲展開は「最終版」と同じじゃんか。新たな編集でもっと余韻を持たせるべきだったと思うんだよ。鳩が飛ぶシーンの背景の作り過ぎは許せても、あの幕切れは気に入らないね。


07.11.22

■牧神と犬
 
 ついこの間まで死ぬほどヒマだったのに、仕事とプライベート(映画を見る以外の)がダブルで忙しくなって来やがった。1ヶ月以上日記を更新してないのは映画をあまり見に行けなかったせいでもある。
 このままズルズル更新出来ないのはイヤなので、かなり前に見た2本だけど、感想を少しばかり。しばらく書いてなかったから、まあ、ゆる〜く。


『パンズ・ラビリンス』

 うん、オレはつくづくロリコンなんだなー、と思ったね。ダンゴっ鼻だし唇は分厚いしの、決して美少女とは言えないルックスの主人公イバナちゃんではあるんだが、こういうちょいブスな少女に限ってミョーな色気を醸し出せるのをオレは知っている。浴室でふと露わになる脚に思わず目眩がしちゃったが、いちばんウットリさせたのは、予告編でも流れた、イバナちゃんが巨木の裂け目の中へと侵入する姿を、樹の内側から逆光で捉えたショットだったな、やっぱり。

 ノースリーブのワンピース一丁(というか、肌着だな、ありゃ)になったイバナちゃんが、迷宮の入り口をかき分けるように入って来る姿は、ほとんどシルエットであるにもかかわらず、少女の好奇心と、大胆さと、おののきを、ほんの短いシークェンスで表現出来ている。露出した肩から腕にかけてのラインが、少女特有のエロティシズムを匂わせる。
 ある映画にこれと良く似たシーンがあった。『マリー・アントワネット』で、嫁入りのアントワネットが国境を越える時にストッキング一丁になってトンネルを抜けるシーンだ。アナザー・ワールドへと足を踏み入れる時、少女は裸(同然)でなくてはならない。

 悪魔のような継父の描写に妥協が無いところが素晴らしい。切り裂かれた口端を自分で縫うシーンが白眉か。酒を口に含むと、キズの上に貼ったガーゼに血が浮き出る、といったディテールなんか最高だ。酒に血液が溶け出すのは、『ブレードランナー』以来じゃないかな。

 この映画の結末をハッピーエンドと捉えるかアンハッピーエンドとするかが問題だ。物語の構造としては『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と同じなのだが、自分で原因を作り、ある意味率先してあの不幸の連鎖へと身を投げたセルマと違って、『パンズ・ラビリンス』のオフェリアは、「大人たちの事情」に巻き込まれる被害者である。過去に、『ダンサー〜』はハッピーエンドである、と言い切ったオレとしては、同じラストを迎える『パンズラ』もハッピーエンドと言わねばならないんだが、今回そう言い切れないでいるのは、オフェリアがあまりにも悲劇的だから。でもあれをハッピーエンドと思わずにはこちとらやってられねーよっ!
 かつてあれほど胸をかきむしられるハッピーエンドがあっただろうか。


『グッド・シェパード』

 いやー、面白かったなー、これ。落ち着きの無い映像が踊るアメリカ映画が多い昨今、こういう重厚で落ち着いた味わいを持つ作品は貴重である。スケール感を出そうと無理をしてないところも好ポイントだな。バカな監督がやると、スペクタクルやアクションを盛り込んで、やるべきことを見失っちゃう。デ・ニーロは偉い。つうかまあ、予算も大して組めなかったんだろうが。
 映画作家としてのデ・ニーロ色なんてのは特に無いんだろうな。まだ2本目だし。でも今回彼は、自身にゆかりの深い2人のイタリア人監督へのリスペクトをこの映画に込めた。

 組織の人間として生きる冷徹な男が家族の愛を失いどんどん孤独に追いやられて行く・・・・『ゴッドファーザーPARTU』を思い出さずにおれない物語だ。しかもキューバも絡んでいる。見ながらコッポラの名作が何度と無く甦って来たが、後半で唐突に登場するジョー・ペシの姿に思わず「これハイマン・ロスじゃんっ!」と叫びそうになった。ハイマン・ロスとは、『ゴッドファーザーPARTU』でリー・ストラスバーグが演じたマフィアのドンだが、アロハシャツを着たペシがとにかくよく似てる。出番は少ないものの、ハッとさせられるああいうキャラクターに盟友を使うところなんざあ、さすがデ・ニーロだ。

 亡き父親、ホモセクシュアル、秘密組織、感情を表さない主人公、目前でなぶり殺しにされるかつての恩師・・・・これら要素は間違いなくベルナルド・ベルトルッチ作品『暗殺の森』へのオマージュだ。ファシスト党に入り反政府分子である大学時代の恩師を暗殺せよとの密命を帯びた主人公の孤独を描く『暗殺の森』。教授の最期や、スーツと帽子で石造りの建物の前を歩く主人公など、画的に似ているシーンすらある。ベルトルッチは後に『1900年』でデ・ニーロを主演に迎えたが、コッポラやベルトルッチといった巨匠たちとの仕事でデ・ニーロが得たものが、最善の形で活かされていることに唸ったな。

 何を考えてるのかわからないマット・デイモンが良い。キャスティングはなかなか気が利いてた。「社長俳優」=アレック・ボールドウィンは『ディパーテッド』に続いて今回もまたふてぶてしく。歳食ってからの方が俄然良いね、この人、ジェフ・ブリッジス同様。ドイツ人の女スパイ役が『善き人のためのソナタ』の女優(ドイツのモニカ・ベルッチ、と呼んでる)でナ〜イス。イイ女だなぁ、この女優。驚いたのは『2001年宇宙の旅』のボーマン船長ことキア・デュリアが出てたこと。返り咲いて欲しいもんだよ、こういうマニアックな大御所には。

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