Diary

■2008年1〜2月

08.2.24

■オレ(ロックンローラー)は怒ってるんだぜ!
 
『団塊ボーイズ』

 いや、もうさ、当初はこの邦題からしてなんとかして欲しかったぜ!原題は「WILD HOGS」なんだぜ!でも見てるうちにそんなことどうでもよくなっちゃったぜ!メタボだったり、オタクだったり、妻の尻に敷かれてたり、離婚して全財産を失ったりした、ダメダメな中年男(ていうより壮年男)がケータイ電話をブン投げてバイクでツーリングに出かけるんだが、そのケータイをブン投げて壊すという「儀式」自体がも〜あまりにもわかり易くて寒過ぎだぜ!若いネーちゃんの乗った車に色目使ったり、キャンプしてるとテントが火事になったり、ホモの白バイ警官に言い寄られたり、男4人裸で水浴びしているところへ家族連れが来ちゃったり、というベッタベタなエピソードが数珠繋ぎなんだぜ!その後は、モノホンのコアな暴走族に頭を悩ませる田舎町を一念発起して救うという、まるで『サボテンブラザーズ』のごとき展開が待っていたぜ!設定から物語から全部コテコテなのは構わないんだぜ!でもとにかく気になって仕方なかったのが音楽だったぜ!場面場面をくどくど説明するように大袈裟な音楽が終始鳴りっ放しなんだぜ!安っぽいにもほどがあるだろっ!だぜ!音楽がダメな映画が一番ダメなんだよ、ホント。だぜ!ジョン・トラボルタがほざく「サリー!走れ!サリー!」は『ミッドナイト・クロス』のパロディだったのか?全っ然面白くねーぜ!『デス・プルーフ』を見習えよだぜ!でも、暴走族のリーダーがレイ・リオッタだったのだけはウケたぜ!思わず笑ったぜ!新宿バルト9の客はピンと来てなかったけどだぜ!しかもラストで登場する奴のボスがピーター・フォンダなんだぜっ!バルト9の客はここもスルーだったぜ!みんなどうかしてるぜ!もしかしてピーター・フォンダじゃなくて、デニス・ホッパーだったらウケたりして?んなワケねーっつーのだぜ!こんなクソ映画作ったのどこだよっ!何?ブエナ・ヴィスタ!?ディズニーじゃねーかよっ!どうりでヌりぃわけだぜ!おととい来やがれ!カモーン!!ロケンローーーーーールッ!!!ファック・ユーーーーッ!!!


08.2.24

■女のみさお
 
『ブレイブ ワン』
『インベージョン』  新文芸坐での2本立て

 その昔、とんねるず司会の番組「ハンマープライス」出品のため、ジョディ・フォスターは掛け軸に「女のみさお」と毛筆で書いた。この掛け軸を74万円で落札したのは「いたずらなKiss」で有名な漫画家、多田かおるだった。ジョディの熱烈なファンだったのだそうだ。彼女は1999年に急逝してしまう。残念だ。僕は「いたずらなKiss」の愛読者だった。

 「みさお(操)」とは「節操」「貞節」、そして「女性の貞操」という意味だ。単にその凛としたルックスのせいか、それともまるで男っ気の無いプライベートのせいなのか、ジョディが書かされたのは皮肉にも一方的な男側の論理である「女のみさお」という言葉だった。その時の通訳(恐らくT田N津子センセ)がこの言葉に込められたニュアンスをどう説明したのかわからないが、ジョディが同性愛者であることを知ってのオファーだったのだろうか。

 97年、ロバート・ゼメキスは『未知との遭遇』の新解釈版とも言うべき作品『コンタクト』を撮る。UFOを追い求める科学者たちがお祭り騒ぎに興じ、UFOとの接近遭遇を宗教的体験のごとく描き、主人公はさっさと家族を捨ててUFOに乗り込んで夜空へと消えて行くという『未知との遭遇』とは反対に、『コンタクト』という作品は、地球外生命の存在を信じるマインドそのものへと立ち返り、家族(父親)との絆や自分を信じてくれる恋人との関係を通して地球に身を置くことの重要性を説く、いわば実存主義的な作品だった。
 ネット環境を含む当時最先端だった情報テクノロジーをガジェットとしてフル活用することで、ハイパーリアルなUFOコンタクト映画に仕上がったが、そのリアリティもストーリーも、全て主演のジョディ・フォスター無くしては有り得なかった。
 ワームホールを抜けて宇宙の彼方へ到達した主人公が、眼前に広がるえもいわれぬ美しい光景に眼を潤ませながら「私なんかじゃなく詩人がここに来るべきだったわ」と呟くクローズアップは、この物語がなぜジョディ・フォスターという女優を必要としたのかを大画面いっぱいに示してみせた。

 チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』に始まる人気シリーズ「DEATH WISH」の新解釈版という捉え方が可能な『ブレイブ ワン』。ニューヨークを舞台にした復讐モノ、というテーマを今現在掲げれば、当然ながら「9.11」を想定に入れざるを得ない。作り手側の意図も当然ながらそういうことだろう。『未知との遭遇』と『コンタクト』の間にある解釈の開きを「復讐」というモチーフに当てはめると、単純に『狼よさらば』と『ブレイブ ワン』の関係になる。

 『コンタクト』がクリントン政権下の作品であり、『ブレイブ ワン』がブッシュ政権下の作品であることから、様々な解釈が可能であるとは思う。しかし、2つの時代のアメリカを「女優としての操(みさお)」でたくましく乗り切ってみせたジョディ・フォスターの軌跡に深い感慨を覚えずはおれない。

 30〜40代の女優にとって、ジョディ・フォスターは指標となる女優の1人だろう。ニコール・キッドマンにとっても憧れの存在であるはずだ。
 ここで試しに『ブレイブ ワン』と『インベージョン』の主演女優を入れ替えてみたらどうだろう。ジョディは『インベージョン』での母親役を手堅くこなすはずである。同様の役は『パニック・ルーム』と『フライトプラン』で実証済みだ。だが、ニコール・キッドマンが『ブレイブ ワン』の主人公を演じ切れるだろうか。あのあまりにも整い過ぎた美貌がきっと邪魔になるに決まっている。有色人種のフィアンセという設定もムリだったろう。『ブレイブ ワン』が試みた「アメリカ」というものへのアプローチに、キッドマンはもっともっと「色々な何か」を付加してしまったはずである。思えば、ニコールの『ドッグヴィル』で描かれたのは「そういうアメリカ」だった。そして『ドッグヴィル』という作品もまた、ジョディ・フォスターでは成立しない。ニコールのあの美貌が展開の推進力となっていたし、物語の核であったからだ(ゆえに主人公グレースがブライス・ダラス・ハワードに交替した『マンダレイ』は脆弱になってしまった)。

 ジョディ・フォスターやシガーニィ・ウィーヴァーが持ち得なかったポジションをニコール・キッドマンは、その美貌を駆使して獲得したのだと思う。40代に足を踏み入れた彼女のこれからが楽しみではあるが、この『インベージョン』という映画、途中まではなかなか面白かったのだが、気の抜けたようなハッピーエンドには「???」だった。それに、下着姿になったニコールのブラジャーの下に一瞬確認出来る、パッドなのかヌーブラなのか判らないベージュ色の物体は一体何だったのだろうか。あれこそがインベージョンの正体ではなかったのだろうか・・・・って、だからさっ!うまいこと言ってんじゃねーよってっ!


08.2.24

■恐るべきかな、潜水服
 
『潜水服は蝶の夢を見る』

 以前にも書いたことがあるが、マチュー・アマルリックという俳優はロマン・ポランスキーに見た目がそっくりだ。背の小さいところまで似ている。スピルバーグが『ミュンヘン』において、暗殺チームに情報提供する謎めいたフランス人役に彼を起用したのは、名声と血とスキャンダルに彩られた60〜70年代を送ったポランスキーへの、シネフィル=スピルバーグからの目配せとしか見えなかった。ちなみに、アマルリックの母はポランスキーと同じくポーランド系ユダヤ人である。

 アマルリック演じる主人公ジャン=ドミニクの妻に扮するのは、なんとポランスキーの奥方であるエマニュエル・セニエだ。かつて『フランティック』で、デボラ・ハリーを思わせるパンキッシュな美貌と悲劇的な最期を迎える役どころを演じて、主演のハリソン・フォードを食うほどの強烈な印象を残したセニエは、その後89年にポランスキーと結婚。その時ポランスキー56歳、セニエ23歳であった。1977年、34歳の時に13歳の少女とセックス・スキャンダルを起こしているポランスキーにとって、この「歳の差婚」は当然のことだ。

 小男、似たようなスキャンダル、そして最近二十歳そこそこの女優にトチ狂ったジジイ、と言えばウディ・アレンだ。どうでもいいが、2人ともユダヤ人である(アレンが2歳下)。20代の頃のエマニエル・セニエと現在のスカーレット・ヨハンソンの魔性っぷりを結び付けるのは強引過ぎるだろうか。

 言語療法士の女性を演じるのは、こちらも『ミュンヘン』に出演していたマリ=ジョゼ・クローズだ。謎めいた美人暗殺者に扮した彼女は、素っ裸でピューピュー血を噴き出しながら絶命するという怖ろしいシーンによって、僕の映画脳に強力にインプットされた女優だ。スティーブン・ソダーバーグがリメイクした『ソラリス』でナターシャ・マケルホーンが演じた役を打診されていた他、なんと彼女、前述したウディ・アレンがスカーレット・ヨハンソンにトチ狂った作品『マッチポイント』への出演もオファーされていたという。再びどうでもいいことだが、スピルバーグ、アレン、ソダーバーグ3人ともユダヤ人である。

 『バスキア』という作品が、実は大して印象に残っていない。バスキアを演じたのが当時まだ無名だったジェフリー・ライトであったことなど忘れているし、C・ウォーケンにG・オールドマンにD・ホッパーという『トゥルー・ロマンス』アミーゴスに加え、ウィレム・デフォーにベニチオ・デル・トロまで出ていたとは。バスキアの友達役を当時僕が好きだったマイケル・ウィンコットが、ウォーホル役をデイヴィッド・ボウイが演じたことくらいは記憶しているが。それと、コートニー・ラヴの美脚もね。
 でもって、再三どうでもいいのだが、ジュリアン・シュナーベルもまたユダヤ人なのよねえ。

 と、ここまで書いて来て、肝心の映画の感想に全く触れてない。あろうことか僕は、上映中ほぼ全篇に渡って執拗に迫り来る睡魔と闘い続けながら、必死に眼を見開いているのがやっと、という体たらくであったのだ!居眠りこそしなかったものの、画面上で起きていることや美しい映像の数々は、僕の感情を揺さぶることなく、ただただ過ぎ去って行った。目の前に映し出されている映画が素晴らしいものであることは認識出来ている。だがそれが感動に結び付かない。スクリーンが遙か遠くに感じられて。
 その時、僕の心は潜水服を着ていたのだ・・・・ってうまいこと言ってる場合じゃねーよっ!

 ラスト近く、息子を迎えに意気揚々とオープンカーを駆るジャン=ドミニク。このシーンで流れるのはフランソワ・トリュフォーの名作『大人は判ってくれない』のテーマ曲だ。凱旋門など流れゆく景色を捉えたショットも、まさにあの映画のオープニングへのオマージュである。息子を助手席に乗せたまま運転中、突然発作に襲われるジャン=ドミニク。流れる曲はオープニングでも流れたシャンソン「ラ・メール」に変わっている。『大人は判ってくれない』の主人公アントワーヌ少年がラストで向かうのは、「海」である。

 さすがの睡魔もこのシークェンスに至って鳴りを潜めた。ラストも素晴らしかった。
 僕はこの作品をもう1度見ようと思う。ああ、悔しい。


08.2.10

■「リドリー・スコット」というブランドとの決別
 
『アメリカン・ギャングスター』

 ‘『エイリアン』の’とか、‘『ブレードランナー』’のとかいうフレーズはもう必要ない。あの頃の天才ヴィジュアリストぶりを期待しても肩透かしを食らわされるのはわかってるし、そんなものをいまだに求められたところでリドリー・スコットも困るはずだ。あれ以降も彼はずっと立派に監督業をこなして来た。いや、今となっては、むしろ80年代後半からこそがリドリーのキャリア本番である、という評価の方が恐らくまかり通っているだろう。それは単純に興行成績から見てそうである。『ブレードランナー』が映画史においてどれくらい重要な作品に位置付けられようとも、『ブラック・レイン』や『ハンニバル』や『グラディエーター』といった作品こそがリドリーを裕福にした(そしてあんなに若い嫁さんをもたらした)のだ。

 だから、<リドリー・スコット監督作品>という冠ナシに、僕はこの作品をとても楽しんだ。デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウの共演(と言っても2人が顔を会わせるのはラスト10分ほどだけ)は、『ヒート』でのロバート・デ・ニーロとアル・パチーノとの演技合戦ほどアクが強いわけではなく、彼らの生き方の対比も交錯も熱く描かれるわけではない。2時間半以上という長尺を使って丁寧に語られる物語に新鮮味は無いものの、リドリーがこの30年で養って来た監督術をフルに使ったであろう「匠の技」を堪能出来る作品だ。

 しかし、今、何故リドリー・スコットが60〜70年代のニューヨークを舞台にした、しかもギャング映画を撮る気になったのだろうか。『セルピコ』や『フレンチ・コネクション』といった70年代の刑事物や、それこそ名作『ゴッドファーザー』への多大なるリスペクトは、他の監督と同様に長年持ち続けて来たことだろう。だが、彼の背中を直接押したのは、スピルバーグが『ミュンヘン』を、デイヴィッド・フィンチャーが『ゾディアック』を撮ったような、ここ何年かの「70年代再検証ブーム」ではあるまいか。
 さらに、ニューヨークを舞台にしたギャング映画と言えばマーティン・スコセッシである。フランク(デンゼル)の妻を演じた女優がロレイン・ブラッコを思わせる美人だったり、大金を手にして派手な格好で浮かれるファミリーをフランクが「目立つな」と叱るシーンや、エンドロール終了後突然現れたフランクがカメラに向けて発砲するラストは、『グッドフェローズ』へのあからさまな目配せである。スコセッシが『ディパーテッド』でオスカーを受賞したことも大きな刺激になったことだろう(ちなみにスコットの次回作はレオナルド・ディカプリオ主演である)。
 加えて、銃撃シーンには『コラテラル』や『マイアミ・バイス』といった、最近のマイケル・マン作品への憧憬も濃厚である。
 これほど、往年の名作ではなく、現役バリバリの同業者へのリスペクトやオマージュがモチベーションになっている作品も珍しいのではないか。しかもスコットほどの巨匠が、である。

 スコットは、かつてキューブリックの『バリー・リンドン』に憧れて『デュエリスト 決闘者』を、『スターウォーズ』を見てSFが撮りたくなり『エイリアン』を、そして往年のハリウッド製歴史劇を甦らせたくて『グラディエーター』を、映画史に残る殺人鬼のその後を『ハンニバル』で、『プライベート・ライアン』にヒントを得て『ブラックホーク・ダウン』を、その後は『ロード・オブ・ザ・リング』に刺激され『キングダム・オブ・ヘブン』を作った。彼の監督人生は、まるで手塚治虫がそうだったように同業者への羨望と嫉妬に苛まれ、周囲の評価や売り上げに一喜一憂するものだったに違いない。

 押井守は『ブレードランナー』のことを「リドリー・スコットの発明」だと述懐した。あれから25年が経ったが、スコットはとうの昔に発明家をやめ、職人の道を選んでしまった。もちろん職人であることは決して悪いことではない。しかもスコットはすこぶる腕の良い職人だ。その腕の良さは、最早彼がイギリス人であることすら感じさせないほどだ。

 リドリー・スコットが撮ったからと言ってその作品に興味を持つことはもう無いだろう。もう1度言うが、僕はこの『アメリカン・ギャングスター』をとても楽しんだし、3時間近い長尺も苦ではなかった。このことは、「リドリー・スコット」というブランドとの完全な決別を、実にスムーズに、嫌味無く促すことを可能にした、と言える。
 それは僕にとっても、リドリーにとっても、健全で幸福なことであったと信じている。


08.2.10

■イーモウ、カイコー、そしてベルトルッチよ、嫉妬せよ
 
『ラスト、コーション』

 『インファナル・アフェア』に続き、トニー・レオンはまたもや「潜入捜査モノ」に主演した。ただし今回は、潜入される側、である。日本軍の傀儡政権下にある上海、特務機関のトップであるイーと、彼を暗殺しようとする抗日組織から派遣された女スパイ=ワン。潜入しているうちに相手方のボスや義兄弟と親しくなり過ぎてどうしたらよいのかわからなくなってしまう、という潜入モノの王道である「アイデンティティのよろめき」を、男と女のメロドラマ上で展開させるこの映画。決して新鮮味のある題材とは言えないが、日本占領下の中国という設定、トニー・レオンと新人女優タン・ウェイの激しい濡れ場、という魅力的な要素を得て、結果、かつて無いスリリングで美しいラヴストーリーが出来上がってしまった。

 『ハードボイルド』や『インファナル・アフェア』で、スターにしては足りない身長と、基本寂しげなおどおどしたような表情を浮かべた万年青年顔を使って、潜入捜査官の味わう緊迫感を増幅させて来たトニー・レオンが、今度は拷問や処刑にも顔色を変えない冷酷無比な男を演じる。話題になっているベッドシーンよりも実はこのことの方が凄い。こんな役柄はトニーにとって全くの新境地であり、挑戦だったはずだ。劇中、彼はセリフも少なく、表情もほとんど崩さない。
 そこへ来て、物静かな彼とワンとの最初のセックスは、強姦に近いものである。ワンのドレスを破り、ベッドに放り投げ、スボンのベルトをシュルッと抜いて背中を鞭打った後、両手を縛り上げる。トニーのサディストへの豹変ぶりに驚いたのは、何も女性ファンだけではない。

 新人タン・ウェイは童顔で寄り目のちょいブスなのだが、ああいう顔はともすると素晴らしいキャンバスになるものと決まっている。チャイナドレスに身を包み、眉と目をキリッと描き上げ、小さな唇を濃い紅で染めた彼女は、まるであの当時流行った煙草の広告画から抜け出たような別嬪だ。タン・ウェイは杭州生まれで身長が172cm。その昔杭州に旅行した折、モデルかと思わせる長身の美女が5人くらいで一塊になって向こうから歩いて来るのに出くわし、ドキドキした、と言うよりはあまりにも非現実的で怖くなった経験がある。上海も杭州もとにかく美人が多かった。いや、化粧美人か。

 濡れ場は確かにギョッするくらい激しいものだった。あれだけ色々と体位を変えるセックスシーンはアメリカ映画にすら無い。局部が「修正」によって隠されているものだから、「これ、本当にヤッてるんじゃないか?」と勘繰りたくなるほど、2人ともリアルに励んでいる。双方ともムダな肉が付いてないせいか、淫靡な感じというよりはスポーツをやっているように見える。『ラストタンゴ・イン・パリ』のような寂寥感でも、『愛のコリーダ』のような抱擁感でもない。延々と続くその風景に見えて来るのは、余計なものを削ぎ落とした、生きている証しを求め合うかのような切実な肉体の姿だ。そして、その結果生まれる絆は、危うく、遅かれ早かれ断ち切られるべく宿命付けられたものであり、どちらか一方、もしくは双方の死をもって終わるしかないものである。

 CGの力を借りながらも、よく作りこまれたオープンセットでの撮影はどのシーンにもスケール感と奥行きがある。ヨーロピアンな古き良き上海を再現した映像にはクラクラした。衣装も美術も文句の付けようが無い。派手さやケレン味とは無縁の、本物の贅沢が画面を満たす。それは演出においても同じだ。地に足の着いた、浮ついたところが1つも無い、いぶし銀のような監督術を堪能出来た。日本軍の描写にも当然ながら妥協は無く、不自然なセリフ回しも皆無だった。だからこそ2時間38分という尺はムダに長くなく、クライマックスの宝石店でイーとワンが見せる緊張は凄まじいものとなったのだ。

 かつて『紅いコーリャン』で、そして『さらば、わが愛 覇王別姫』で同じ時代へと果敢にアプローチしたチャン・イーモウとチェン・カイコーは、21世紀に入り、台湾出身の監督が撮ったこの映画をどんな思いで見ただろうか。さらに言えば、かつて『ラストタンゴ・イン・パリ』、『ラストエンペラー』で世界を沸かせたベルナルド・ベルトルッチは、この映画の誕生に嫉妬してはいないだろうか。

 最後、イーはかつて心底愛した女のベッドに1人腰掛け、様子を見に来て全てを悟った奥方に、「何も言うな」と涙を浮かべて懇願する。『ブロークバック・マウンテン』のラストで、ヒース・レジャーが2人のシャツを重ねて抱きしめ、「ずっといっしょだよ」と言っていたのを思い出す。イーはこの先、以前にも増して心を閉ざし、冷徹になってしまうだろう。だが、彼の心の内側にはワンがいるはずだ。終戦を迎えるその時、日本軍の犬であったイーには死という道しか残されていない。その瞬間、イーはワンが死に際にそうしたように、微笑み、そして2人は「ずっといっしょ」になる。

 アン・リーはまたしても凄い映画を作ってみせた。


08.2.5

■グレッチェン・モルの裸が見たくて映画館まで行きましたが、それが何か?
 
『ベティ・ペイジ』

 ベティ・ペイジのことは有名なボンデージ写真を見たことがある程度で全くと言っていいほど知らなかったのだが、グレッチェン・モルが彼女を演じるというので見に行ってしまった。
 マリリン・モンローの生涯を映画化すれば、主演に誰をキャスティングするかという問題やら、JFKとの関係をどこまで描くかやらで、そりゃあ大騒ぎになるだろうし、スケール感のある大作になるはずだが、こちらはベティ・ペイジなだけにこじんまりと。信仰心も教養もあるベティがなぜピンナップガールとして一世を風靡し消えて行ったのかを描く作品だが、そんなに深く描くわけでも、人物像に肉薄するわけでもない。ベティが信仰心を取り戻して普通の女性に戻ってしまう心理のプロセスは、『カポーティ』でもそうだったように、結局観客には伝わらないのだ。

 でもそんなことはどうでもいい。なにを隠そう、グレッチェン・モルの裸体が拝みたくて僕はこの映画を見に行ったのだった。彼女のボディはとにかく眩しかった。ありがたいことに全裸シーンが無修正だった。頭のてっぺんからつま先まで、全部が美しかった。胸いっぱい、お腹いっぱいであった。
 しかし、ふと疑問に思う。僕はいつから彼女のことを好きになったのだろう?彼女の出演作を調べると、僕が見ているのはなんと『フューネラル』と『フェイク』だけ。ん???全く記憶に無いぞ。ベティ・ペイジどころか、グレッチェン・モルのことも僕は知らなかったようだ。いつの間にあのキュートな笑顔の虜になっていたのだろう。
 そう、今回思ったのだが、彼女は別に脱がなくていい。僕が好きなのはあの可愛らしい顔なのだ。それに黒髪も似合わねーし。それにしても不思議な顔の美人だ。あんな顔なかなか他にいないな。ゲッ、去年子供生んでるのか。彼女の夫は映画監督で、しかも彼はファムケ・ヤンセンの前夫なんだそうだ。へーえ。

 脇役がチョイ豪華なのも楽しかった。『グナ&グラ』ブレイク直後のデイヴィッド・ストラザーンに、『8mm』の変態野郎クリス・バウアー、懐かしいリリ・テイラー、相変わらずショーン・ビーンに似ているノーマン・リーダス、おまけにリチャード・ハリスの息子まで出てる。
 でも一番目を引いたのは、カーラ・セイモアという女優。この人、『アメリカン・サイコ』(『ベティ・ペイジ』の監督メアリー・ハロンの前作)ではクリスチャン・ベールに殺される売春婦を、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ではセルマの金を盗む警官の浪費家の妻を演じて悪女の印象を植え付けた後、一転『ホテル・ルワンダ』では赤十字の職員に、と思ったら今回はボンデージ・ファッションに身を包んでのお色気キャラという物凄い振り幅を披露。しかもどうやら『アダプテーション』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』にも出てたらしいのだが。ちなみにこの女優、イギリス人である。


08.2.5

■『28ヶ月後・・・』も『28年後・・・』も、もういい
 
『28週後・・・』

 物凄い速さで走ったり跳んだりするゾンビ(感染者)のヴィジュアルが非常に怖ろしく斬新だったダニー・ボイルの『28日後・・・』は、キリアン・マーフィーの不健康そうなルックスと、無人のロンドンと、ハッピーなラストで流れるブライアン・イーノのアンビエントなサウンド(この曲は『トラフィック』の最後でも使われてた)が強烈な印象を残した傑作であった。

 今回、ボイルはプロデューサーに回り、監督したのは全く知らないスペイン人だ。脚本もこいつに加えて全く知らない奴。あれだけのカタストロフィを惹き起こしておきながら、たったの28週間後で復興を始め、海外にいた英国人たちを呼び戻してしまうのが、まず理解しにくい。せめて「28ヶ月後・・・」くらいにしておいたらどうだろう。
 テムズ川の広大な中州をセイフティエリアにして通常通りの生活を営む人々、という設定の中に1人感染者を放り込む、という展開はなかなか良い。閉塞状況の中、秒速で拡大する感染と、感染者・非感染者の区別がつかずにおたおたする兵士たちまで巻き込んだパニック描写はかなり怖ろしい。前作でキリアン・マーフィーが寝ている間に起こった「ウィルスがどんな風にしてイギリス中に蔓延していったのか」を再現しているのだ。
 主人公の姉弟を連れて逃げる大人たちがバタバタと死んで行くのも新鮮。なにしろ彼らの父親であるロバート・カーライルは真っ先にゾンビ化してしまうのだ。『トロイ』で目を付けたローズ・バーンは相変わらずキュート。この映画への起用はダニー・ボイル作品『サンシャイン2057』からの流れだろう。タフな兵士役のジェレミー・レナーという俳優は、特徴的な顔のせいか『ジェシー・ジェームズの暗殺』でも印象的だった。

 でも前作のインパクトが大き過ぎたせいで、「良く出来た凡作」程度の印象しか残らなかったな。それに、キリアン・マーフィーという存在があの新時代のゾンビ・ムービーにもたらした「温度」というものが、いかに重要だったかを思い知らされた。それに加え、アルフォンソ・キュアロン作品『トゥモローワールド』という爆弾が投下された後だけに、ロンドンを舞台にした破滅型近未来映画を作る際のハードルは相当に高かったと思う。
 いろいろあって、まあラストシーンはパリなんだよね、案の定。エッフェル塔に向かって走って行くゾンビたち、という画があまりにも幼稚な気がしたよ。もう続編は必要ないだろ。つうかやるなら全世界分やれ。


08.2.5

■レディース・デーの丸の内ピカデリー、夕方6:50、客席はOLたちで埋め尽くされていた
 
『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』

 『アリゾナ・ドリーム』や『ギルバート・グレイプ』のジョニー・デップを絶賛する人がいるのはわかるが、彼が輝くのは、やはり「異形のもの」を演じた時ではないかと思う。それに『パイレーツ〜』のように、金を稼ぐのもやはり「異形のもの」として主演した作品である。顔を白く塗ったり、特殊メイクかと思わせるほど顔を変えて、大仰に、コミカルに演じられるこの世ならぬ者たち。そしてそういった作品を引っさげて来日した時の、メガネをかけた物静かで愛想の良い好人物ぶりとのギャップに、ファンはいつだってうっとりする。デップ本人なのかエージェントの戦略なのかわからないが、「スター俳優のあり方」の成功例としてはジョニー・デップという人は最高だろうと思う。

 そんなデップのキャリアにおける最重要監督ティム・バートンとの6回目のコラボレーション。傑作『スリーピー・ホロウ』以降、どうにもこうにも楽しみ切れない作品が多いバートン作品だが、今度はホラーだし、ジョニデだし、と期待したんだが、いや、わかっちゃいたんだけど、これミュージカルなんだよねえ。妻子を奪われた悲しみも奪った判事への憎しみも何もかもが歌で綴られちゃうだな、これが。
 しかし逆に、これをフツーにシリアスなドラマとして映画にしたところで、「バートン、またか」と飽きられちゃうはず。だからまあ、今回はミュージカルってことで良いワケなんだが、楽しめるのは、恐らくミュージカル映画史上最も多量の血しぶきを誇るスプラッター場面などの残虐描写ばかり。しかし、これがどういうわけか大してティム・バートンらしく見えない。ジョニー・デップが美声を聴かせるものの、キャラクターに魅力があるわけでもない。見ていてどう楽しんでよいのやら困ってしまった。

 『バットマン・リターンズ』や『スリーピー・ホロウ』のような傑作はもう望めないのだろうか。ま、ムリか。
 それにしても丸の内・銀座のOLさんたち、水を打ったように静かだったな。あの血しぶきじゃムリもないね。


08.2.5

■ジェシー・ジェームズを撃った男を演じた男
 
『ジェシー・ジェームズの暗殺』

 非常に渋い映画だった。コーエン兄弟とのコラボで有名なロジャー・ディキンスによるカメラが切り取る風景は、どれもこれも厳しく美しい。そんな風景の中、ジェシー・ジェームズ一味の面々も皆イイ顔つきをしている。ウェスタンとギャング映画は顔つきで決まる、といつも思うが、この映画は画的にはどこまでも完璧だ。ニック・ケイヴのムーディなスコアもピタリはまっている。ケイヴはラスト近くの酒場のシーンに出演し、歌声も披露している。
 ただ、解散した仲間たちが懸賞首である自分を売るのではないかと疑い、彼らを脅し、粛清してしまうジェシーの行動はわかるとしても、そこに至るまでのジェシー一味の動向が把握しにくいので、物語が進行している間も何か釈然としないものを抱えてしまった。単に僕の理解力の貧しさのせいだと思うのだが。

 殺人や強盗を繰り返しながらも、大衆から「義賊」「英雄」として崇め奉られたジェシーだが、彼の疑心暗鬼の標的となった仲間にとっては、恐怖をまき散らす死神である。普段喋るとどうにもこうにもバカっぽいブラッド・ピットは、感情的になることもなく寡黙で何を考えているのかわからないこのジェシーという男を、ほぼ佇まいだけで演じ、見事に成功している。実にカッコイイのだ。

 しかし、この映画はカッコイイ男の物語では断じてない。カッコ悪い男の物語なのである。ジェシーを殺す若者ロバート・フォードは、その持ち前の顔つきによってケイシー・アフレック一世一代のハマリ役と成った。「野心」「傲慢」「小心」「媚び」「コンプレックス」「狡猾」「恥」といった要素をごちゃ混ぜにして塗りたくったような、あのいかにも冴えない、気味の悪い、青白い顔。ジェシーの兄(なんとサム・シェパードだ!)から煙たがられ、しまいには拳銃まで抜かれて「あっちへ行け」と追い払われる登場シーンからして、その「マイナスの顔力」は全開だ。憧れだったジェシーに近付き、取り入り、彼の実像を知って恐怖し、野心も手伝って暗殺してしまう、というロバートの「あらかじめ負けた犬」の物語を、ケイシー・アフレックは薄ら笑いを貼り付けたその顔だけで見事に紡いで見せる。
 そして、彼の物語が本格的に動き出すのは、ジェシーを殺した後である。実はこの映画で最も素晴らしいのは、ジェシーが死んだ後、ロバートとその兄(サム・ロックウェルもハマってた)がたどる顛末を描いた、映画のラスト10分か15分ほどの部分なのだ。このラストシークェンスを主軸にして、回想形式でジェシー・ジェームズの実像を描くのも1つの手だったのでは、と思わせるほど、卑怯者の人生の最後を演じるケイシー・アフレックが最高にイイ。

 ケイシー・アフレックには是非ともオスカーを受賞して欲しい。なぜなら、彼にはこれ以上の役はもう回って来ないだろうからだ。きっと彼は長い間語り継がれることだろう。いや、後ろ指をさされるかも知れない。
 「ジェシー・ジェームズを撃った男を演じた男」として。


08.1.16

■パンフが無かったもので豆知識をいくつか
 
『俺たちフィギュアスケーター』

 こりゃもう『ズーランダー』以来の傑作コメディだ、と思ったらプロデューサーにベン・スティラーの名前が。そりゃそうだよ、『ズーランダー』と『俺フィギ』はよく似ている。

 『バス男』のアホ面ジョン・ヘダーが男子フィギュアの貴公子ってどうなんだろうな、と疑問だったが、あの髪型のせいかバッチリだった。もっと若ければオーウェン・ウィルソンがキャスティングされてたはずだが、そうなると相手役はやっぱりベン・スティラーしか無い。実際、スティラーは候補に挙がっていたが、「今まで演じて来たキャラと似ているから」と断ったらしい。そういや、ルーク・ウィルソンが意外な役どころで登場して、もうそれだけで爆笑。

 ウィル・フェレルを初めて見たのも『ズーランダー』だったっけ。「サタデーナイト・ライヴ」の出身なのだな。オーウェンとスティラーとフェレルの3人で『サボテン・ブラザーズ』をリメイクして欲しいもんだね。

 エンドロールの中にカイル・クーパーの名前を発見。彼は『ズーランダー』のタイトルデザイナーだった。ただし今回はタイトルデザインではなく、何かのアドバイザーだったようだが。

 ジョン・ヘダーが、日本人記者による日本語での質問に対して非常に流暢な日本語で答えるシーンには唖然だったが、彼はモルモン教の宣教師として2年間日本に住んだことがあるんだそうだ。へ〜え。

 ライバルの男女ペアは私生活では夫婦なんだって。へ〜え。
 クライマックスで彼らが演じるのはJFKとマリリン・モンロー。スーツを着た男の方にウィル・フェレルが「なんだ、その格好は」とバカにするセリフが字幕で出るが、本当は「ロッド・サーリングかよ」と言っている。ロッド・サーリングはTVシリーズ「トワイライトゾーン」(「ミステリーゾーン」)のメインライター&番組ホスト。そのシリーズで多くの脚本を執筆していたのが、『アイ・アム・レジェンド』の原作者リチャード・マシスンである。ほーら、つながった!って、つなげる必要ねーよ!


08.1.16

■9.11テロやら何やらいろいろありましたから
 
『アイ・アム・レジェンド』

 10年以上前だったか、リドリー・スコット監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演でリメイクを企画された作品だったと記憶しているこの映画。『オメガマン』でチャールトン・ヘストンが演じた役をシュワちゃん(死語)が演じるというのはあまりにも据わりが良かったし、あれだけの才能を持ちながらSFを2作品しか撮ってないリドリーがまたSF映画を監督するというのも楽しみだったが、まあ実現しなかった。

 その後、9.11テロやら何やらいろいろあって、結局ウィル・スミス主演で映画化されたわけだが、ちょっと前だったらデンゼル・ワシントンやトム・ハンクスが演じていたんじゃないか、と気付かせるほどウィル・スミスの役作りや演技がデンゼルやハンクスを彷彿とさせた。そもそも、このところのウィルの作品選びそのものが彼らを追いかけている感すらある。オスカーを「獲りに行ってる」なー、と。もう40歳だしな。ヒットも良いがそろそろ欲しいだろ、オスカー。

 でもこの映画の主役は細部まで完璧に作られた無人のニューヨークだ。CGIの野生動物、感染した人間や犬などはまあそこそこの出来だが、荒廃したマンハッタンのストリート、ロングショット、真上からの空撮など、どれも怖ろしくリアルに見える。実際にロケ撮影してそれを加工したんだろうけど、物凄く上手い。「スーパーマン VS バットマン」らしき巨大ビルボードも微笑ましい。ニューヨークに住んでいる人には、きっとこの映画は特別に見えるんだろう。
 ウィル・スミスが航空母艦の上でゴルフの打ちっぱなしを楽しむシーンがあるが、あの空母は人類が死滅する騒動の時に出動してそのまま放置された、という設定で作られたまるごと特撮シーンかと思ってたんだが、本当にあそこにある「イントレピッド」という名の空母だったんだな。ニューヨークのことを知らないと、あれがなんともシュールな光景に見える。

 というわけで、出だしはなかなか画的に見せるんだが、中盤あたりから何を語るべきかを見失ってしまう。「感染者」は、そのゾンビのような見た目も今イチなら、知恵があるのか無いのかも結局わからず仕舞い。元は一般市民だった彼らとの駆け引きを描くことでドラマを作ることが出来たのにそれをしなかったから、ラストでいくらウィルが「キミたちを助けられる!」と叫んでもそこに悲痛さは無い。新たな生存者に出会ったというのに、どういうわけかそこからもドラマは生まれない。唯一のドラマは、シェパード犬との関係だけである。食料はともかく、電気・水道・ガスがストップしてないことにツッ込む気にもならない。この監督、『コンスタンティン』を撮った人か・・・・大したことないな。

 ところでこの映画、『28日後・・・』に似てるよなあ。つうか、ゾンビ映画はみんなこの映画の原作(リチャード・マシスンの小説)を戴いちゃってるということか。マシスンはスピルバーグを世に知らしめた『激突!』の原作者・脚本家でもある。マシスン様様だね。


08.1.16

■ひとつはっきりさせておきたい
 
『エイリアンズ VS プレデター』

 「エイリアン」シリーズ4作品を見た人ならご存知のように、怪物=エイリアンのデザインは4作とも全て異なっている。オリジナルをデザインしたH・R・ギーガーが参加したのは第1作のみ。ギーガーがデザインばかりか、エイリアンの造形や美術セットの製作にまで自ら取り組み心血を注いだ1作目は、シリーズにおいて別格と言える。
 ギーガーの悪趣味をダイレクトに具現化した1stエイリアンの最も大きな特徴は、ヌルヌル、ツルツル、テカテカと黒光りしたその長い頭部にある(実際には半透明のフードが頭蓋骨を覆っているのだが、劇中では全体的に黒く見える)。当然ながら、これはペニスを模したものだ。そしてその長い頭部の下に付いた顎。まるで人間の歯のようにキレイに生え揃った銀色の歯は、角度によってはニカッと笑っているように見える。つまり、エイリアンの頭部とは、ニカニカ笑いながらダラダラと汁を垂らす巨大な男根なのである。だから、クライマックスで下着姿のリプリーに迫るエイリアン、という図はこれ以上無いというくらいにエロいシーンだったのだ。

 ゴシック・ホラーを戦争映画に変え、画期的なパート2を作って見せたジェームズ・キャメロンはアイデアマンだった。ストーリーは面白く、美術もSFXもなかなか良かった。しかし、それは銃器や乗り物類だけだ。キャメロンは作風に合わせるように肝心のエイリアンのデザイン、造形を変更してしまう。エイリアンの長い頭部を覆っていたフードを取り去ってしまったのだ。
 イルカの背のようにツルッとした頭ではなく、ゴツゴツと不恰好な頭には、もはやエレガンスもエロティシズムも無い。1stエイリアンより俊敏に動くせいもあって「着ぐるみ」感が増し、巨大感も失せてしまった。ウジャウジャと大量に登場するわけだから、当初ギーガーの考えた「バイオメカノイド」というコンセプトは必要無かったんだろうが、あまりの変わり様に戸惑い、クライマックスでクイーン・エイリアンが登場するに至って、「それでもこれをエイリアンと呼べるのか」と、その設定にもデザインにも落胆したものである。

 キャメロンが作ったそんなカッコ悪い方のエイリアンが大挙して登場する今回の「AVP」第2弾。1作目に続いて、今回も「プレデター寄り」の作り方になってる。エイリアンへの愛情が無いんだよなあ、結局。ただ、面白かったのは「プレデリアン」(ミックスね)が生殖のため、人間の妊婦の口から卵か何かを直接送り込み孵化させるという荒技。腹を食い破られて絶命する妊婦や、子供の胸からチェストバスターが飛び出すなどの情け容赦無い残虐な描写も新鮮だった。
 誰一人知っている俳優がいなかったのは別に問題じゃないんだが、どいつもこいつも魅力に乏しくてツライ。最後のあのオチ(シリーズではお馴染みの名前が登場する)は「ターミネーター」シリーズに似た展開を予想させる気もするが、正直よくわからなかったな。ま、いっか。

 いずれにせよ、ここでひとつはっきりさせておきたい。
 頭がヌルヌル、ツルツル、テカテカしてないエイリアンはカッコ悪いからダーメ!

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