Diary

■2008年3〜4月

08.4.23

■タキヤン、「関ジャニ」って言っちゃったよ
 
『タクシデルミア ある剥製師の遺言』

 動乱の時代を皮切りに、祖父=オナニスト、父=大食いマシン、息子=剥製師というハンガリー人親子3代の数奇な運命を、3部構成ながら90分というコンパクトな枠に収めようという意欲作。この日のトークショーのゲスト、ヴィヴィアン佐藤氏は世紀の傑作『ブリキの太鼓』を引き合いに出していたが、正直それほどのものではないのね。
 親子3代で描くことの面白さははっきり言って無いし、そこからハンガリーという国の肖像が浮かび上がることも無い。エロやグロやゲロへの妄執的なアプローチから、御大ヤン・シュヴァンクマイエルの名前を持ち出す輩もいるようだが、ヤン爺のアート哲学には及ばないね、全然。

 ただ、凄いのが第3部の剥製師。なんでこのモチーフだけでやろうとしなかったんだ!と声を大にしたいくらいに凄い。祖父と父を描くエピソードを軽く吹っ飛ばすほどのヘンタイ度。彼のキャラクターだけで1本のホラー映画が作れたはずなんだ。彼に「ある物」の加工を依頼する医師も相当に良いキャラクターだし、剥製師である主人公がどのような最期を迎えるのかが、「まあこれ王道だろうな」と思いつつもあんな風に映像で見せられると、それはもう圧倒的に素晴らしく、最高だ。あの完璧なラストに至るまでの主人公の心理描写を緻密に積み重ねるだけで、ちゃんと1本の映画になるのに、なんとも残念だ。グロテスクなモチーフの扱いはピカイチだし、エロ要素もナイス。それだけに惜しい。

 トークショーに出演したわが師=滝本誠の口からあれほど男性器名称の数々が飛び出すのは爆笑だったが、それよりも師の口から「関ジャニ」という言葉が発せられた時にはどうしてよいのやらだったな。司会の女子も困ってたよ。う〜ん、タキヤン、ますますイイ感じ。


08.4.23

■ファンタジーの王様
 
『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』

 1年前、高輪の原美術館で開催された「ヘンリー・ダーガー展」のことが忘れられない。
 展示内容はそれ以前のワタリウム美術館での展示に負けないほど素晴らしいものだった。忘れられないというのは展示作品のことではない。原美術館には展示スペースに隣接してカフェがあるのだが、そこでの光景が忘れられないのだ。

 平日だから混雑はしていなかったものの、非常に目に付いたのが若い女性のグループ。うら若き女性たちが、瀟洒なカフェで豪勢なランチを食しながら談笑する空間から壁1枚隔てたところには、我々の想像を絶するほどの孤独な人生を送ったであろう老人が生涯かけて描き上げた作品群が置かれている。ダーガー作品の魔力に恐れをなしてカフェに逃げ込みコーヒーをすする僕は(結局僕だって同じだ)、コンクリートの壁1枚隔てただけの2つの空間の温度差に慄然としたのだった。

 このドキュメンタリー、ダコタ・ファニングちゃんがヴィヴィアン・ガールズの冒険譚を読み上げるというので、妙な期待を持たせたもんだが、蓋を開ければまあなんと言うか「NHK的な」ドキュメントに仕上がっていて、肩透かしを感じた、というのが正直な感想。それでも生前のダーガーを知る大家さんやご近所さんによるナマの証言は貴重だし、興味深かったけど。「ダージャー」とか「ダージャア」とか、正確な発音すら誰も知らなかったとは。

 『乙女の祈り』、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、『パンズ・ラビリンス』と見て来れば、ファンタジーを生み出す土壌とは地獄のような現実である、という「正論」は極自然に導き出されるので、ヘンリー・ダーガーという老人がいかに優れたファンタジー作家であったか、というのは重々理解していたつもりだったが、やはりね、生前の彼のショボくれた写真(なんと2枚しか存在しない!)を見ると、彼が残した崇高とも言える「異形の偉業」の凄まじさ、と言うか「我らの隣人が実際に生きた世界」の広大さに言葉を失うしか無いわけなんだな、もう。


08.4.23

■若葉の頃
 
『コントロール』

 1981年の春、僕は高校に入学した。

 その1年前、中2の冬休みにYMOの洗礼を受けた僕は、他にもクラフトワークやゲイリー・ニューマンやDEVOなんぞばかりにうつつを抜かして中学3年生という教育的に大事な1年間を過ごしたばかりに、地元進学校への合格ラインのボーダーでヨタヨタするハメになった。そして担任の教師が勧めるままに隣の隣町あたりにある1ランク下の県立高校を受験し、そこに入学することになった。

 そこで僕は「A君」と出会う。出会う、と言っても高校に入って初めて出会ったわけではない。A君とは同じ中学校出身だったのだが、同じクラスになったことが1度も無かったから会話を交わしたことも無かったのだ。しかし、中3の時に生徒会主催で開かれたコンサートでA君たちが「ヒカシュー」のコピーバンドをやったのは鮮烈だったし、狭い学校内のこと、「変わったロックを聴いている奴が他にもいるな」くらいの認識はお互いにあった。だから僕らはすぐに打ち解け、仲良くなることが出来た。登校するのも下校するのも一緒だった。周囲の奴らがみんな馬鹿に見え始めた。

 A君の家は我が家から自転車で15分程度のところにあった。塗装業を営んでいる彼の家は、我が家のようなサラリーマン家庭とは随分と違い、白い壁の大きくシャレた建物で、庭ではアヒルが飼われていて、玄関にはA君の父親のゴルフバッグが置いてあったりするような羽振りの良いお宅だった。
 A君には姉と兄がいた。彼よりも3歳か4歳上の兄は埼玉にある私立大学に通う大学生で、僕らが入学した高校の卒業生でもあった。A君と兄は揃って、ちょっと変わった音楽や映画や文学に詳しい、当時はそんな言葉は無かったが、いわゆる「サブカル」の申し子のような兄弟だった。

 「モダーン・ミュージック」や「ディスク・ユニオン」といった東京の輸入レコード店に兄が通っていたせいで、A君の家には田舎町のレコード店では見たことも無いようなレコードが沢山あった。スロッビング・グリッスル、キャバレー・ヴォルテール、バウハウスの1stアルバム(ジャケットのヌード男性の股間が塗り潰されていた)など、当時「オルタナティヴ」などと呼ばれたUKインディーズのアルバムやシングルが、なぜか尾崎紀世彦のLPと一緒くたに並んでいたりするのがA君兄弟の部屋だった。

 週末になると、A君の部屋でそんなレコードを大音量でかけまくり、彼がかき鳴らすノイジーなベースやギターに茫然とし、「HEAVEN」や「ROCK MAGAZINE」などといういかがわしくも魅惑的な雑誌を開く時間が定番のようになった。テクノ&ニュ−・ウェーヴ少年だった僕はそうやってA君に洗脳されて行った。
 聴くだけでは飽き足らず、自分でも曲を作るようになったのもこの頃だ。A君所有のキーボードやリズムマシンを借り受け、自分ではYMOやクラフトワークを意識して曲を作ったつもりが、出来上がるものはみなキャバレー・ヴォルテールやスロッビング・グリッスルみたいなインダストリアル音楽ばかりだった。時にはA君と一緒にプレイすることもあった。女の子に興味を持たずそんなことに熱中する僕を、当然ながら家族は理解出来なかった。

 高校時代の3年間は結局そんな風に過ぎてしまった。ロックやヌーヴェルヴァーグに夢中になり、8mmカメラで実験映画を作ったこともあった。楽しい学生生活ではあったが、おかげで大学進学も遠ざかった。

 1981年当時、A君のフェイヴァリットの中にジョイ・ディヴィジョンがあった。彼らのアルバムは国内では1枚もリリースされていなかった時代である。「このバンド、カッコイイんだよね」と言ってA君がターンテーブルに載せるレコードは意味不明か拒絶反応を起こすようなシロモノばかりだったが、ジョイ・ディヴィジョンの「Love Will Tear Us Apart」だけは別だった。救いの無いタイトル、陰鬱なジャケットとは裏腹に、とてつもなく美しいメロディを持つ分かり易いロック・ナンバーだった。
 あの時、クソみたいなあんな田舎町でジョイ・ディヴィジョンを聴いていたのは、きっと僕たち2人だけだったと思う。そしてお定まりのように、「若くして死ぬこと」に美学を見出し、それを合言葉のように繰り返していた16歳の僕らだったのだ。

 当時雑誌「ロッキング・オン」のグラビアで、「おっ、この写真カッコイイ」と思わせるのはみなアントン・コービンの写真だった。だからイアン・カーティスを題材にした映画をコービンが撮るのは当たり前だと思う。そしてコービンの映画初仕事は、適度にエモーショナルだが感傷に流されることは無く、アーティスティックな気取りも一切無い、素晴らしいものだった。

 この映画の公開に便乗してJ-WAVEでジョイ・ディヴィジョンの特集番組が組まれたのを偶然耳にした。A君との蜜月(こう言うと恥ずかしいが、まあそんなものだった)から27年、僕らが秘密のように聴いていた音楽は随分と日当たりが良くなってしまった。そのうちスロッビング・グリッスルのリーダー=ジェネシス・P・オーリッジの生涯あたりも映画ネタになる時が来るかも知れない。
 FMラジオから彼らの曲が流れるであろうその時、想像を絶するほどの「隔世の感」が僕を引き裂くに違いない。

 ちなみにA君とは現在でも連絡を取り合う仲だ。現在の僕らの姿をあの当時の2人はどう思うのだろう。


08.3.18

■殺人者には荒野が似合う
 
『ノーカントリー』

 小学生の時に映画を見始めて以来、最もアメリカらしい風景とは「荒野」だと思って来た。西部劇、ニューシネマ、ホラーと、様々なジャンルの多くの映画が荒野から生まれた。人間が住むことを拒絶し、それでもそこに住もうとする人間は狂わせて同化してしまう、ただ何も無い、何も育たないというだけではない、力強い「無」。先住民の霊や怨念にいまだ守られた土地。コーエン兄弟の新作は、そんな荒野で危険な大金を手に入れた男と彼を追う殺し屋、そして2人を追う保安官が織り成す追跡劇という、いかにもアメリカらしい映画だ。

 大金を手に逃げ回る男を演じるジョシュ・ブローリンがまず素晴らしい。父親ジェームズ・ブローリンのようなハンサムガイではなく、ニック・ノルティ系の厳つい「ノワール顔」が荒涼とした風景にはまり過ぎるくらいにはまっていて、どうしようもなく「ザ・アメリカ映画」だ。思えば父親ジェームズもかつて『ウエストワールド』と『カプリコン・1』で荒野を逃げ回っていた人だった。このキャラクターに「ちょっとドジ」とか「面白い顔」とかいう、今までコーエン兄弟が得意として来た特徴付けが一切無いところが良い。彼を追うバルデムが頭のきれる殺し屋であるのと同レベルで、ブローリンもまた逃亡術に長け、銃の扱いにも慣れている。それは彼がベトナム帰還兵だからだ。1980年という時代設定ならでは。

 イギー・ポップとゴリラを足して珍奇なおかっぱ頭にしたようなルックスが、もうそれだけで見る者に胸騒ぎをもたらす上に、手にしている武器が圧縮空気ボンベに繋がった変な筒という(のちに家畜屠殺用の銃だと判る)、長い映画史において出会ったことの無い類の殺し屋。ハビエル・バルデムはスペイン映画界ではセクシーな二枚目俳優として活躍して来た人だそうだが、この映画に出たことが、しかもオスカーまで獲得してしまったことが、果たして彼の俳優人生(バルデムはなんとまだ30代である)にとって良かったのか悪かったのか心配になってしまうほどの、一世一代のハマリ役だった。
 向き合った者に一切の感情を持たず、「仕事」を楽しんでいる風にも見えない、本当に何を考えているのかわからない男、アントン・シガー。「死神」とはこういう奴のことを言うのかも知れない。ハンニバル・レクターも『セブン』のジョン・ドウも、思えば大層人間的だった。「話せばわかる」キャラクターだった。シガーに比べれば遙かに。シガーがこの先「映画史に残る悪のヒーロー」としてレクター博士のように語り継がれるかどうかは疑問だ。どのような過去を持つとこういう人間になるのか、という精神的バックボーンが全く見えない究極の悪には、もはや戦慄する以外に無いからだ。

 トミー・リー・ジョーンズは自作『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』に続いてまたもや西部の男を演じるが、この人の顔も佇まいも馬に乗る姿も、役柄ではなくもうこの人自身でしかない、という域に入っている。『ノーカントリー』という作品で、英雄の不在・正義の無力を実感した戸惑いと諦念を体現出来るのはトミー爺しかいない。
 「年寄りのための国は無い」(この映画の原題)という意味で思い出されるのは『セブン』だろう。定年退職間近の老刑事モーガン・フリーマンの「近頃の事件にはもう着いて行けない」というため息は、『ノーカントリー』の冒頭で聞けるトミー爺の独白と同じものだ。「いったいこの国はいつからこんな風になっちまったんだ」という問いに、双方の映画とも答えを出さない。ラストの一見救いを見出せそうな2人のセリフから、どうやっても絶望感が拭い切れないのも一緒だ。ちなみに『セブン』のラストは舞台に荒野を選び、ついでに言えば浦沢直樹のコミック『モンスター』のクライマックスでも殺人者の心象風景として描かれたのは荒野だった。

 赤ん坊を盗んだおかげで凶暴な賞金稼ぎに追い回される夫婦のドタバタ劇を描いた『赤ちゃん泥棒』(1987年)もまた物語の締めくくりは主人公が見た夢の話だった。似たようなプロット、似たような風景を持ちながらこの開きは何だろう。同じ地平、地続きの荒野の上にありながら、この2つの作品の温度差は凄まじい。いや、こう言い換えよう。歴代アカデミー受賞作品全てをこれ1本で冷却し得る作品だ、と。

 「9.11以降のアメリカ」云々などという狭い物言いやこじつけはどうでもいい。分析も深読みも必要無い。僕は見終わった後、この映画の不思議な味わいを何度も反芻してみた。「これはアメリカ映画だ」としか言いようが無かった。 


08.3.18

■オヤジのいない映画なんて
 
『ダージリン急行』

 ウェス・アンダーソン作品は、『天才マックスの世界』も『ロイヤル・テネンバウムズ』も『ライフ・アクアティック』も、(『天才マックス〜』は変則ワザだが)どれもみな「父親と息子」の話だった。オフビートなノリとグラフィカルな美術・映像がアンダーソン作品の売りではあるが、作品の胆である独特のペーソスや死生観は、ビル・マーレイやジーン・ハックマンの存在が醸し出していたものだ。そして、彼ら「年寄り組」とオーウェン・ウィルソンやジェイソン・シュワルツマンら「若手組」が絶妙なアンサンブルを見せる群像劇という形態こそがアンダーソン作品の醍醐味であった。

 今回の『ダージリン急行』には物語を支える年寄り組がいない。それもそのはず、この作品は父親を亡くした3人兄弟がインドで「スピリチュアル・ジャーニー」をする話である。3人がインドでいくつかの事件や人物に出会い、父親のいない人生を受け入れて行く、という大雑把に言えばまあそういう物語ではあるんだが、これがね・・・・一向に面白くならない。
 アンダーソンが料理すれば素晴らしい映画に成りそうな素材だし、カラフルで楽しい美術もいつも通りなんだが、面白くない。笑えない。笑えないから物悲しさも無い。ただ単に空虚なだけだ。父親の死を背負った3人の喪失感を表現している、と言われたらその通りなのかも知れない。しかしそれを超えて成長して行くプロセスを笑わせながら見せてくれるはず、と期待するじゃないか。
 共感しようなどとは思ってない。アンダーソン作品の登場人物はどいつもこいつも人格や生き方に問題のある奴らばかりだからね。みんな自分のことしか考えてないし。でもそういう人間たちが触れ合ったり理解し合えたという幻を見たりするところに生まれる、そこはかとない温かみがアンダーソン作品の「味」だと思ってるんだよ。
 
 主演3人のキャスティングは悪くないと思う。映像もいつもながら良い。とすると、やはりマズいのは脚本だったということになる。インドを舞台にしたロードムービーといういかにも面白そうな設定に慢心してしまった印象さえある。それに、本編前に上映されるあの短篇もつまんないし、なんでああいう構成にしたのか意味不明。
 いずれにせよ、年寄りの出て来ないアンダーソン作品のなんと退屈なことか。
 次回はちゃんとビル・マーレイ主演で頼むね。 


08.3.18

■小池栄子という女
 
『接吻』

 グラビア、タレント、女優・・・・小池栄子をカテゴライズするのは難しい。水着になろうが、バラエティ番組の司会をやろうが、村上龍の横に座っていようが、そこには「小池栄子がいる」としか認識出来ない。それは、インパクトのあるあの「顔」のせいだと思う。豊満な肉体を駆使したグラビアも、頭の回転の良さを生かしたTVでの仕事も、クドカンの映画も、全ての垣根をブチ破ってしまうあの顔。吊り上がった眼と大きな口は、どこかこの世ならぬ印象さえ漂う。「ウルトラマン」に似てると言われているのも頷ける。あの顔で、あの眼で面と向かってキッと睨まれたと想像してみよう。もう1歩も動けず、泣き出してしまうかも知れない。

 だが、僕は小池栄子を嫌いではない。
 居酒屋(バーなどではない)のカウンターで、たまたま隣に小池栄子が座ったとする。「お1人ですかっ?じゃ、一緒に飲みませんかっ?」と元気よく声をかけてくる小池栄子。彼女の勢いに気圧されて「あ、はい」としか返せない僕。ビールをがぶがぶ飲みながら肴をパクつき、あれやこれやと色んな話題を僕に振る小池。打ち解けるのは早かった。明朗快活な話しぶりと、大きな口で楽しそうに笑うその顔を見ているうちに、こちらの恐怖心も薄らいで来る。意志の強そうな迫力ある顔には違いないが、間近で見るとなかなかの美人だ。話が盛り上がるにつれ、時折「ヤダ、もう」と僕の肩を軽く叩いて来る。自己紹介も兼ねて話のネタがひと通り済み、「あたし、日本酒にしようかな」と彼女が言う頃には、僕は完全に小池栄子の虜だ。いや、実際会うとすげーイイ女だと思うよ、本気で。

 豊川悦司が住宅街へと続く階段をゆっくりと上がって行く後姿を捉えたファーストシーンが怖ろしく不穏だ。寄りの画でもないのに、彼のズボンの尻ポケットに挿してあるのが金槌だと判るからだ。その後続く惨劇のシークェンスには、トヨエツの異常性を説明するショットも、サスペンスを盛り上げる音楽も、金槌を「使う」場面も犠牲者の叫び声も無い。こうしてこの映画は観る者に想像力のウォーミングアップを促す。その後の展開に着いて来れるかどうかは想像力次第なのだ。

 仕事にも人間関係にも疲れた孤独なOL(小池栄子)が、偶然TVでトヨエツの逮捕劇を目にする。逮捕後TVカメラに向けて放つ笑顔に小池は一目惚れする。新聞や雑誌の記事をスクラップし、トヨエツのことを調べつくしてコクヨのノートにファイリングしていく小池。彼のことならもう何でも知っている。異常と言えば異常だが、なにしろこれは「恋」である。
 裁判を傍聴し(好きなアイドルのコンサートに行く女性ファンと同じだ)、弁護士(仲村トオル)に近付いて面会の許可を獲得し、誰とも話さないトヨエツの口を開かせることに成功する小池。ストーキングとも言える彼女の行為は、なんと獄中結婚という形に結実する。仲村が寄せる恋心を知ってか知らずか。

 あれだけ小池以外の人間には口を閉ざしていたトヨエツが仲村に対して口を開いた時、小池の心は激しく揺さぶられる。「共犯者」であり「同志」であるトヨエツの裏切り。インディーズ時代から応援していたミュージシャンがメジャーデビューする時の複雑なファン心理にも似た。
 豊川悦司も仲村トオルも手垢にまみれてしまっている俳優ではあるが、この作品では凄くいい。少ないセリフと抑えた演技が、小池栄子との距離の微妙さを巧みに表現し、張り詰めた空気をラストまで持続させる。渡部篤郎あたりならどちらの役でもハマるだろうが、あざと過ぎて映画のトーンを狂わすだろうし、小池とのバランスも悪い。やはりトヨエツと仲村トオルでいいのだ。

 死刑確実である犯罪者と、仕事とは言え彼を生かそうとする男。小池はタナトスとエロスに引き裂かれることになる。TVでの仲村トオルの記者会見に見入る小池。カメラの向こうにいるはずの彼女に訴えかけるような視線を送る仲村。トヨエツが小池を「落とした」のと同じ方法で仲村は小池にアプローチするのだ。優れた脚本とそれを確かな演出で映像に置換する万田邦敏監督と脚本家の万田珠美。見るに値しない映画で埋め尽くされている日本映画界において、彼ら夫婦の作り出した空間と時間は、あまりにも濃密であり、本物だ。

 これから何が起こるかわかっていながら、クライマックスのあの緊張感は何だろう。そして、それまでの静謐なトーンから激変する数分のラストシークェンス。映画史に刻まれるであろうキスシーンを目撃し、目を疑いたくなる瞬間。「抱擁」と「接吻」とは・・・・まるでクリムトだ。
 純愛か、サスペンスか、ホラーか。小池栄子は「あの顔」で映画のジャンルさえ跳躍して見せた。
 この物語がなぜ小池栄子という女性を必要としたのか。それはラストで全て判明する。

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