Diary

■2008年5〜6月

08.6.30

■ナンシー・アレン、ドリュー・バリモア、そしてディアブロ・コーディ
 
『JUNO/ジュノ』

 ディアブロ・コーディの姿をアカデミー賞授賞式で目にした時、僕は一目惚れしてしまった。たくましい二の腕も、グラマーな体型も結構だが、何よりも彼女の顔が、僕の好みである「良い塩梅に目の離れた美人」なのだ。おまけに黒髪のおかっぱと来たもんだ。こうなるともう200%の女である。
 そして、あのインテリでビッチなたたずまいにノックアウトされてしまったのは、『殺しのドレス』でナンシー・アレンが演じた娼婦リズにかつてメロメロになったこととそもそも根っ子が同じなんだと思う。「気のいい」「頭の切れる」「娼婦」・・・・ナンシー・アレンも目の離れた美人だった。
 「目の離れた」「気のいい」「頭の切れる」「ビッチ」として、この10年ほど女王として僕の中に君臨しているのは、何を隠そうドリュー・バリモアである。「奥さんを捨ててアタシと逃げて」と言われれば秒速で「イエス」と返事出来るのはずっとドリューだけだったが、ディアブロ・コーディがそこへ一気に食い込んで来たことになる。「アタシたちのどっちを取るのよっ」とドリューとディアブロに詰め寄られたら、幸せ過ぎて死んでしまうに違いない。喜んで死ぬね。ああ死ぬとも。
 ディアブロの来日&舞台挨拶を見逃したのは不覚だった。悔しさのあまり嫌いになってしまおうか、とか、ドリューの方がイイ女だい、などと思い込もうとしたが、やはり可愛い、ディアブロは。でも髪型は以前の方が良かったぞ。

 と言うわけで、そんなディアブロ・コーディが脚本を書いてオスカーまで獲っちゃった『JUNO/ジュノ』を見に行った。
 この映画、16歳で妊娠する風変わりな女子高生が主人公のハートウォーミングなコメディなのは結構だが、何と言ってもジュノに魅力を感じるかどうかが肝心なわけ。そこがこの映画に乗れるかどうかの最大のポイントである。で、エレン・ペイジは女優として完璧に成り切っていたと思う、ジュノに。もう本当にお見事だった。
 ただね、エレン・ペイジって微妙に可愛くないんだよ・・・・顔が。パッと見可愛いのに、どうしてなんだろう、表情のせいだろうか。でもって、ジュノの性格も苦手だった。里親になる中年男が見せるオタクっぷりは他人とは思えなかったんだが、彼の心がジュノに傾いて行くのがどうにも嫌だった。予告編のコピーみたいに、見ているうちに好きになるかなと思ってたんだけど、結局僕は最後まで彼女を可愛いとは思えなかった。

 ジュノを演じるのが20歳前のドリュー・バリモアかディアブロ・コーディだったら・・・・つうか、そもそも「ジュノ」なんて名前はいかがなもんだろう。日本だったら「弁天」なんぞという名前を女の子に付けるようなものか。
 そういや、マンガ『うる星やつら』で最も好きなキャラは弁天だったことを思い出した。あのキャラも目の離れた気のいいビッチだったな。
 うん、上手に落ちたぞ。お後がよろしいようで。


08.6.30

■スパニッシュ・アパートメント・ホラー
 
『REC/レック』

 この歳にもなると、子供の頃怖がってたもののうち、大抵のものはもはや怖くない。
 「幽霊」「妖怪」「怪物」「宇宙人」・・・・実際に出会ってしまったら、そりゃ怖いのだろうが、創作物となると怖がるのが非常に難しいんだな、この歳にもなると。所詮、人間様の考えるものだからね。
 活字など個々人の想像力に訴えるものはともかく、映画のように作り手が「どう?こういうの、怖いでしょう?」と具体的に画として提示して来るものが自分の「怖がるツボ」にジャストだったら、そりゃもう何の問題も無く怖がれるんだが、時として真逆のツボを押す場合がある。『サイン』で家庭用ビデオの映像に宇宙人が初登場した場面や、『呪怨』(予告編しか見てないけど)に登場する白塗りの幽霊がまさにそれ。僕はそれらを見た途端、ゲラゲラと笑い出してしまったんだな。だって、素っ裸のホームレスが歩いてるようにしか見えなかったし、白く塗りたくった不健康そうな男の子にしか見えなかったから。

 このスペイン発の「手持ちカメラ映画」、『28日後・・・』を小さなアパート内でやって、それをまあドキュメンタリー映像風に見せる、と言ってしまえばまあそれだけの映画。目新しいところは1つも無く、ホラー映画としては凡庸だ。ゾンビと化した住人がカメラに向かって「ウオーッ」とやって来るだけだからね。密室の中で「次は誰が餌食になるのか」というサスペンスも、いつものお約束。
 でもってクライマックス、このゾンビ騒動の核心となる「ある人物」が登場する。唐突に登場する。ここで、観客は恐怖の絶頂に達するはずだった。
 ただし、僕以外。
 僕は、またしても真逆のツボを突かれ、笑いがこみ上げてしまったのだ。しかも、幕切れの瞬間、床に落とされたカメラに向かって、レポーターの女の子が恐怖に顔を引きつらせて「匍匐前進」(ほふくぜんしん)して来るのだが、その様子がまるで、左右のオッパイを交互に使ってヨチヨチと歩いているように見えてしまったからさあ大変。さらに、エンドロールで流れ出したのが、スペイン語(多分)のデス・メタルなんだよ。わははははっ!

 一応フォローしておくと、びっくりする瞬間はある。僕の隣に座った僕よりもはるかに年上の男性は、何度もビクッとしていた。あれだけびっくりすれば入場料分は楽しんだだろうな。
 でも恐怖とびっくりは別物だからね。


08.6.30

■ソン・ガンホは金のネックレスが似合う
 
『シークレット・サンシャイン』

 韓国映画は子供に対して容赦ない。
 『浮気な家族』(2003年)では、7歳の子供を小脇に抱えた男が廃ビルの階段を上がって行き、「おじさん、僕を投げないでね」と子供が言い終わるやいなや、男は屋上からポーンと投げてしまう。
 パク・チャヌクの「復讐三部作」には、どれも物語の核心に子供の死や喪失がある。『復讐者に憐れみを』では誘拐した子供を溺死させ、『オールドボーイ』では15年後に再会したもののお互いが判らぬ父娘に近親相姦をさせ、『親切なクムジャさん』に至っては連続幼児殺人を録画したビデオの中で子供たちが実際に泣きわめく姿を見せた。
 ポン・ジュノも子供を殺している。『殺人の追憶』は、女子中学生が犠牲となったことを発火点として一気にクライマックスへとなだれ込み、続く『グエムル 漢江の怪物』でも、離散しそうな主人公一家をつなぎ留めていた中学生の娘が、ラストで結局怪物によって殺されてしまう。

 『シークレット・サンシャイン』の主人公は、夫を事故で失い、幼い息子と2人、夫の故郷で新しい生活を始めようとする女性だが、彼女の人生は息子が誘拐され殺されてしまったことで大きく変わる。演じるチャン・ドヨンは99年の『ハッピー・エンド』で不倫する妻を大胆に(ヌードありで)演じていた女優だが、思えばこの映画でドヨンが夫に殺される引き鉄を引いたのは子供(赤ん坊)の存在だった。
 子供を大事に思う親心に国境は無いとは思うが、子供の死をきっかけに人生の歯車が狂ってしまうドラマが韓国映画に多いのは、儒教思想や民族意識によるものなのか、それとも僕の気のせいだろうか。

 壊れてしまった主人公を、ポリシーもデリカシーも無いまま、不器用に助けようとするバカな男を演じるのが、ソン・ガンホである。田舎町で自動車整備工場を営む冴えない独身男をリアルに演じるガンホだが、『グエムル』公開時、舞台挨拶に立ったガンホは華のある大変なハンサムガイだった。女優チャン・ドヨンの代表作になるはずの今作だが、この映画を特別にしているのは間違いなくソン・ガンホの存在である。タイトルは、町の名前「密陽」と主人公を支えるガンホとのダブルミーニングだ。

 とは言いつつも、この作品、なんとなく日本映画を見ているような錯覚に幾度となく陥ってしまった。韓国映画ならではのダイナミックな演出も力技もスケール感も無い、かつて見たことないほど淡々とした韓国映画だったからだろうか。青山真治あたりが撮りそうな題材な気もする。拍子抜けした、というのが正直な感想。いや、悪くはないんだが。
 『僕の彼女はサイボーグ』が「韓国映画みたいな日本映画」だったのと逆なのがなんだか可笑しい。


08.6.21

■時をかける少女
 
『僕の彼女はサイボーグ』

 「あのさ、もし未来からやって来たボディガードがネコ型ロボットやアーノルド・シュワルツェネッガーじゃなくて、綾瀬はるかだったらどうする?」
 「いいねえ、全然OK」
 「いや、体は機械で出来ているし、ニコリともしねーし、セックスも出来ねーんだぜ」
 「だって綾瀬はるかなんだろ?だったらオレそれでも問題なし」
 「だよなあ、やっぱ。オレもー」
 なんぞという童貞たちによる虚言・妄言200%の会話が聞こえて来そうな、もうはっきり言ってそれだけをモチベーションに作られてしまったような映画である。

 クァク・ジェヨンという監督の作品はどれもこれも「力技」を効かせたものばかりだ。時系列を入れ替え、伏線を散りばめ、パズルのピースがラストでぴたりとはまる、あたかも手品のような恋愛譚。一見良く出来た脚本のようだが、その実、彼の考え出すトリックが最後までなんとかきちんと機能するのは、主演女優のおかげである。
 『猟奇的な彼女』、『僕の彼女を紹介します』、そして脚本を書いた『デイジー』で、「そんなのありかよっ!」とツッ込みたくなる強引な展開やうま過ぎるエンディングに跳躍力と着地点を与えたのは、主演したチョン・ジヒョンのブス可愛いあの独特の美貌であったのは間違いない。

 ツッ込みどころは今回も多々ある。「タイム・パラドックス」などと言い出したらこちらが馬鹿扱いされそうなくらいに突っ走ってたし、そもそも脳まで機械だったらそれ「サイボーグ」じゃなくて「ロボット」だろ。SFとしてこういうのはいかがなものか。それに『ドラえもん』と『ターミネーター』を今更どうして、とか。やっぱり『エヴァ』ネタなのかよ、とか。ジローの幼少期が昭和30年代みたいなのはなぜ?いつからネコ飼ってんだよ、等々、リアリティや整合性を無視したシーンが続く。

 でもそんなことはどうでもいい。なにしろ「綾瀬はるか」が主演なのである。綾瀬はるかの笑顔と巨乳は、ブルドーザーのように数々の疑問点を押しのけて、この童貞臭の充満するファンタジーを完遂させてしまう。そもそもこの「僕の彼女」には名前が無い。ある日突然あんなに可愛い娘とお近付きになれたら、フツー名前くらい訊くだろう。だからもう、そこに「綾瀬はるか」がいる、としか認識出来ないようにこの映画は作られている。これぞアイドル映画。

 そしてそのアイドルが機械の体である、という屈折した、変態プレイとも言える自虐的恋愛を、綾瀬はるかという肉体が増幅・加速させる。演技をどうこう言うのは野暮だ。おかっぱ頭に肩の出たワンピースを着た綾瀬はるかは、今までのどんな綾瀬はるかよりも魅力的だ。
 おかっぱのサイボーグが己の肉体を引きちぎって奮闘する姿に直結するのは『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』である。人間と機械のボーダーに立たされたのが男ではなく女だった、という残酷さがここでも繰り返される。かなり判りやすい形ではあるが。
 終盤、『A.I.』のラストで「どうやったらロボットが人間になれるか」を逆転の構図で見せたトリックを、さらにひねったような裏技で、この映画はアクロバティックに着地する。パクリ要素が多いながらも、このラストには感嘆させられてしまった。ま、綾瀬はるかが演じているからだが。

 冒頭でいきなり提示された2人の別離が、カメラ位置を変えて再びラストに登場する。後姿を見られたくないから目をつむるように言って立ち去ろうとする綾瀬はるかが、最後に振り返って言う。

 「あなた、今、目あけたでしょ。あたし目すっごく良いんだから。2.0以上あるんだから。本当に目つむってるの?あなた、バカじゃないの」

 目に涙をためてムリに笑顔を作りながら熱演する、綾瀬はるか一世一代の大芝居に僕は不覚にも涙が出てしまった。そして、中年男のハートを鷲づかみにしたこのシーンに、僕はある映画のある名場面で原田知世が見せた、一生に一度しか出来ない演技を思い出さざるを得なかった。

 「胸が苦しい。これは何?これは愛なの?」

 『僕の彼女はサイボーグ』は、21世紀の『時をかける少女』である、と言っては誉め過ぎだろうか。
 


08.6.21

■国民的人気まんが 実写版大会!! at 新文芸坐
 
『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年)
『ルパン三世 念力珍作戦』(1974年)
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(1977年)
『サザエさん』(1956年)

 まんがを実写映画化する場合、最も大きな要素はもちろんキャスティングだが、まんがのキャラに似てる役者を探すのと、逆にその時旬の芸能人にまんがのキャラを当てはめるのと、2つの方向があると思う。
 この4本のうち『ゴルゴ』と『ルパン』は、消去法で行ったらまあこの人しかいないでしょ、という前者。『サザエ』は、当時売れっ子だったタレントで1本映画を作るのに丁度いい素材がたまたままんがだった、という後者。『こち亀』はその両方と言った感じか。

 で、そのキャスティングが吉にも凶にもなる。

 高倉健が全くいつもの調子でそのまんま演じた第1作『ゴルゴ13』に続き、『ゴルゴ13 九竜の首』では、なぜかパンチパーマと付けモミアゲと青黒いメイクの千葉真一が、パツパツのド派手なスーツに身を包んでデューク東郷を演じるのだが、彼が登場するだけでもうコントにしか見えない有様だったのは、ポスターの写真を見て嫌な予感がした通り。だがこれがこの4本中最高に面白かった。つうか爆笑。
 カラダを張った千葉アクションを台無しにするようなヘタクソな撮影と不自然極まりない編集。外国人キャストは全て声優によって吹き替えられているのだが、それが山田康雄・小林清志・大塚周夫(つまり1st「ルパン三世」)に富山敬(「侍ジャイアンツ」)という、東京ムービー組の面々で、出ている役者よりもこちらの方が断然豪華。大塚周夫はオカマを含む3役をこなすという芸達者ぶり、というかインスタントな感じ。
 東京・京都・香港・マカオ・マイアミと舞台をコロコロ変えながら、スケール感のまるで無い、まるでTVの「Gメン75」をブロウアップしたような安〜い画面。プリントの損傷が激しく、退色やキズやコマ飛びが全篇に渡ってこの「なんじゃこりゃ映画」を盛り上げる。むしろこの劣悪なフィルムで良かった、と心底思う。なんたってこれぞ「リアル・グラインドハウス」だからだ。

 『ルパン三世 念力珍作戦』は、ルパン=目黒裕樹、次元大介=田中邦衛、銭形警部=伊東四郎、峰不二子=知らない女優、というまさにキャスティングの妙を期待させる面子だったが、作品そのものをウェルメイドなコメディに仕上げようとする演出の中で、どうにもこうにもハジけることが出来ず、ちっとも笑えないシロモノに。「ルパン三世」の映画化作品としても、単なるアクション・コメディとしても完全に失敗。
 別に外見が似てなくてもいいのだが、目黒ルパンはあまりにもキャラが違い過ぎ。ただし、峰不二子役の女優がとても良かった。いや、不二子に似てるわけではなく、彼女だけがナチュラルに生き生きとしていたから。
 1stシリーズのアニメは1971年の放映当時人気が無かったらしいが、それにしてもこの映画化はルパン人気を本気でリベンジしようと作られたのか疑わしい。「怪作」と称して楽しむ余裕すら無い、お寒い1本。

 『こち亀』は、当時人気だったせんだみつおと、丁度少年ジャンプで連載が始まったまんが(映画のクレジットでは原作:山止たつひこになってた)を、「両津、せんだで行けんじゃね?」と軽〜くコラボしたと思しき企画。そもそも「トラック野郎」シリーズの併映作品だから、手抜きなムードがプンプン。
 葛飾区の人情喜劇と言えば「寅さん」だが、こちらは何せ東映。エロネタも多く笑いのツボもとことん下品。最初は開いた口が塞がらなかったが、見ているうちにそのヘンなパワーに乗せられて、だんだんせんだみつおが両津勘吉に見えて来るから不思議だ。さっき見た『ゴルゴ13』に出ていてもおかしくなかった「Gメン75」のキャストがなぜかこっちの映画に、しかも唐突に登場して両津にからむというシュールなサービスもあり。
 スナックのママを演じる由紀さおりがその時売出し中だったと思しき新曲を延々とフルコーラス歌う場面に唖然としたり、ヒロインの松本ちえこが歌手になろうと田舎から出て来た少女を演じているくせに、派出所内には松本が当時キャラクターを務めていた「バスボン」のポスターが既に貼ってあったり、と失笑・苦笑の連続だったが、面白く見てしまったのは確か。

 『サザエさん』は、もう52年も前の作品。当時スターだった江利チエミのコメディエンヌぶりを堪能出来る一作だが、おかげで歌ったり踊ったりのシーンが見せ場としてたびたび登場するのがなんとも。これだけ古いともう「サザエさん」の映画化うんぬんではなく、単に戦後の風俗を知る記録モノになっちゃってる。
 江利チエミはともかく、ワカメちゃんを演じているのが、なんと松島トモ子で、大きな眼をギョロつかせて歌ったりするんだが、これがまあなんともグロテスク。まるで妖怪のよう。松島=ワカメはこれ1本で他の女優にチェンジしたようだが、江利チエミのこのシリーズは大人気だったと見えて、合計10本ほど作られたようである。

 この4本立てオールナイト、「東映(『ゴルゴ』『こち亀』) VS 東宝(『ルパン』『サザエ』)」という図式でキレイに勝負がついた感あり。もちろん下世話なパワーで押し切った東映の圧勝。
 


08.6.21

■クレイジーラブ
 
『靖国』

 見始めてすぐに吐き気がした。やたらと揺れるハンディカムのせいではない。あそこに映し出された連中、派手な儀式(と言うかデモンストレーション)に我を忘れる「右の人」も、彼らを遠巻きに眺める無自覚な一般参拝客も、全部ひとまとめにして、見ていて胸糞が悪くなった。「君が代」を歌う奴らも、合祀されてしまった家族を帰せと訴える台湾人たちも、ことなかれ主義の宮司たちも、どいつもこいつも何故あんなに芝居がかっているのか。靖国神社という場所が「芝居小屋」に見えてしまう。

 恐らくその日たまたま知り合った2人のおばさんの会話の成立してなさがスゴイ。酒を飲んで言いたいことを言ってるおっさんたちにも呆れる。式典に乱入した中国人留学生(多分)が神社の外へ連れ出される間中、「中国に帰れ!」という言葉をサンプリング&ループのように何度も繰り返すオヤジは精神異常者にしか見えない。星条旗を掲げるクレイジーなアメリカ人も、彼を安易に応援する日本人も、彼に抗議する日本人も、彼に退場を促す警察官も、誰一人きちんとコミュニケーションをとれていない。年に一度、言いたいことや思いの丈をなりふり構わず吐き出す、という意味では8月15日のあの場所は間違いなく「祭り」であり、あの盲目的・狂信的な言動からすると、彼らを突き動かしているのは「愛」なのだろう。

 そんな魑魅魍魎たちが宴を繰り広げる中、最も不気味な大ボスとも言える人物は、この映画の主軸として描かれる、「靖国刀」と呼ばれる刀を作り続けている老人である。高齢のせいもあり、もごもごと何を喋っているのか聞き取りにくいのだが、耳は悪くないようで、監督が何度となく投げかける「靖国刀が戦地で使われたことをどう思うか」という質問には、のらりくらりと誤魔化したり、沈黙で答えてしまったりする。監督が望む言葉がこの好々爺の口から語られることは、結局無い。あの人はああやって墓場まで行くのだ。

 この映画の最後は、戦時下から戦後に渡る昭和天皇の姿を延々と記録フィルムで見せて終わる。いろいろと取り沙汰されたが、僕にはこの映画は穏やかながらも「反日映画」に見えた。でも反日映画で何が悪い。日本政府から助成金が出たのはしくじった、とは思うが。
 


08.6.5

■スタローン作品を劇場で見るのは2回目です
 
『ランボー 最後の戦場』

 シルベスター・スタローンが全然好きではない。彼の容姿も声も演技も。彼が主演する映画にはシュワルツェネッガー以上にロクなものが無い、と思って来た。『クリフハンガー』を見に行ったことがあるが、あれは山岳アクションだからという理由だった。予想外にくっだらない映画だったな。
 TVでさえもスタローン作品を見ていない。70年代における名作の誉れ高い『ロッキー』でさえも見たことがない。そして『ランボー』もだ。1作目を見てないくらいだから「2」も「3」も見てない。ただどんなキャラクターであるのかくらいは知識としてあった。映画館で予告編さえ見ていればそのくらいは見当がつく。僕には必要の無い映画だった。ただ、長年、スタローンのフィルモグラフィ中「どれかをどうしても見なきゃいけないなら、これかな」と思っていたのが『ランボー』だった。
 今回の公開に合わせてTV放映された1作目を見た。うん、面白かった。当時宣伝されていたような超大作でも何でもなく、遅れて来たニューシネマの香りさえ漂うようなB級作品に好感を持った。「2」と「3」はまあ置いといて、シリーズの導入部だけは押さえたから、これなら4作目を見ても罰は当たらないだろう。しかし、そもそもなんで今回『ランボー 最後の戦場』を見る気になったのだろうな。

 ビルマ軍事政権の鬼畜っぷりは冒頭から凄まじい。小さな村ひとつを皆殺しである。そのリアルさは、かの『プライベート・ライアン』に匹敵する。そしてそのリアルさはクライマックスでのランボーたちによる反撃で苛烈さを増す。機関砲を撃って撃って撃ちまくってビルマ兵たちを肉片に変えて行くランボー。期待以上の地獄絵図・・・・お、なんだ、結局これが見たくて映画館まで来たんじゃないか、オレは。
 正義のための戦いなど無い。あるのは殺し合いだけだ。ビルマ軍も残虐なら、ランボーも残虐だ。手加減の無い、あまりにも緻密な殺戮描写によってこそ、両者は初めて平等となる。戦いが終わり、救出に成功した医療班はランボーに手を振るが、その直前、ランボーの手で腹を裂かれた敵のリーダーは、内臓を振り撒きながら土手を転げ落ちていたのだ。
 熱い男のドラマなどは存在しなかった。殺人マシンの成れの果てが、ただ、石のようにそこにあるだけだった。熱帯を舞台にしながら、この温度の低さはなんだろう。

 エンドロールを埋め尽くしていたのはタイ人スタッフとキャストの見慣れない名前だった。特撮部分を担当したのはロシア人だと思われる。実は怖ろしく低予算な作品だったのだな。途中、フィルムの動きがつまづくシーンがいくつかあったが、デジカメか編集ソフトも安物だったということなのだろうか。21世紀ならではのB級感。
 


08.6.5

■「シューレマッ!」が正しい
 
『シューテム・アップ』

 僕にはそもそも、映画館で映画を見ながら飲んだり食べたりする習慣はほぼ無い。せいぜいコーヒーもしくはコーラをちびちび飲む程度である。だから他人が飲み食いしながら映画を見ているのは嫌いだし迷惑だと思っている。真剣に見入っている者にとっては、いかなる雑音も許しがたいのだ。恐らくアメリカのシネコンなんぞに行った日にゃあ、もう怒りで映画も何もあったもんじゃないだろうね。
 この『シューテム・アップ』を「ユナイテッドシネマとしまえん」というシネコンに見に行ったのだが、予告編を見て大した物語など無い全篇ドンパチだらけのバカ映画と踏んだ僕は、珍しくビールとポップコーン(S)を買って座席についた。ガラ空きのシネコンのレイトショーでこんな楽しみ方をするのは『ボラット』以来だと思う。

 でもって、これが丁度いい塩梅である。ビール→クライブ・オーウェン→にんじん→ポップコーン→銃撃戦→ポール・ジアマッティ→ビール→ポップコーン→モニカ・ベルッチ→ポップコーン→セックス→銃撃戦→にんじん→ビール→銃撃戦→ポップコーン、てな感じ。頭を使う必要など無い。銃弾と薬莢と血液の雨あられがこれでもかと降り注ぐ。かつてジョン・ウーの『ハードボイルド 新・男たちの挽歌』を見た時、物凄く上手いゲーマーがプレイしているシューティング・ゲームを見せられているようだと思ったが、久々にその感想が甦った。

 物語の方は、「今どき香港映画だってこんなのやんねーよ」というくらい、アホでコテコテの展開。『少林サッカー』以前のチャウ・シンチー作品と同レベル。でもノー・プロブレム。なにせこちとらビール飲んじゃってますから。
 クライブ・オーウェンは『シン・シティ』と全く同じ演技。モニカ・ベルッチはそろそろ年齢的にアップがキツくなって来た。というわけで、やはりポール・ジアマッティのギャングスターっぷりが最高。悪ノリし過ぎてもOK。だってこちとらビール飲んじゃってるし。

 そんな風にほろ酔い気分でドンパチを楽しんでいる中、見た顔が2つ。黒幕の銃器メーカーの社長と殺し屋。こいつら『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の冒頭でヴィゴ・モーテンセンにブッ殺されてた強盗2人組じゃん。しかも『シューテム・アップ』の衣装を担当したのはデニス・クローネンバーグ、つまりデイヴィッド・クローネンバーグの姉である。撮影地はトロントだしな。

 ビール飲みながらゲタゲタ笑ってるうちに、楽しい時間は瞬く間に過ぎた。あー、バカな映画だった。
 


08.6.5

■長澤まさみはキャリー・フィッシャーよりも可愛い
 
『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』

 何を隠そう、僕は樋口真嗣と同い年である。
 同じような怪獣映画、特撮TV、アニメで子供時代を過ごし、映画館に通うようになった少年期にお互いどんな作品と出会って感銘を受けたのかは、大体わかる。『ローレライ』を見た時も、『日本沈没』を見た時も、「うん、うん、わかる、わかる」とシンパシーを抱いたり、「ああ、なるほど、そういう手で来たか」と感心したりと、同い年ならではの楽しみ方をさせてもらった。いや、そういう楽しみ方しか出来ない、と言うべきか。
 作る側がオタクなら、見る側もオタク。僕程度の生半可なオタクでさえこうなのだから、ハードコアなオタクにとっては、樋口真嗣(や小説家の福井晴敏)の仕事はもうエンターテインメントとして単純に楽しむことなど到底ムリなんじゃないかと思う。場面場面に脚注を付けて、「このシーンの元ネタはこの映画」とか、「ここは画的にあれとそっくり」とか、そんなことばかりに気を取られて、映画を楽しめてるのか、それとも解剖して満足してるだけなのか。

 1977年の第1作『スターウォーズ』(日本公開は78年)に当時夢中になった者なら、あの映画の元ネタの数々が黒澤作品『隠し砦の三悪人』にあることや、ルーカスは当初オビ=ワンに三船敏郎を起用するつもりだったことなど、誰でも知っている。樋口真嗣が『隠し砦の三悪人』をリメイクする、と聞いた時、黒澤作品をそのままリメイクするのではなく、必ず『スターウォーズ』を「逆輸入」するという方法でアプローチするはずだ、という確信があった。そして、蓋を開けてみればまあ、笑っちゃうほどその通りだった。
 似ているところを上げ出せばキリが無いが、1つだけ上げれば、場面転換に使う「ワイプ」。洋画でも邦画でも昔は頻繁に使われた手法だが、黒澤への判りやすいオマージュとしてルーカスが取り入れたものだ。そのまま普通にワイプするのでは芸が無いということで、今回ああいう風にしたんだろうけど。

 あと、まさかとは思うんだが、気絶していた松本潤が目覚めるシーンの、向こうに掘っ立て小屋、さらにはるか後ろを山が囲んでいるという画は、タルコフスキーの『ノスタルジア』へのオマージュじゃないだろうな。それに姫を出迎える自国の民衆がニコニコ笑ってる姿を正面から捉えたショットは、まさか『未知との遭遇』をマネしたんじゃないだろうな。まさかな。

 松本潤も宮川大輔もルックスから何から全部苦手なので、見に行く前から気が重かったのだが、まあ案の定キツかった。阿部寛が素晴らしかったのは評判どおり。この人で『椿三十郎』やれば良かったんじゃないか?ダースベーダー役の椎名桔平は、「モジャモジャちょんまげ」と「おもしろヒゲ」と「タコ坊主顔」というトリプル技で爆笑。「グループ魂」の港カヲル(皆川猿時)が結構な大役だったのは嬉しかった。甲本雅裕の存在感も出色。そういや『リンダリンダリンダ』の先生役も良い味出してたな。しかしこの人、甲本ヒロトの弟だったんだな、ああ驚いた。
 でもって長澤まさみ・・・・・よくよく考えてみたら長澤が出てる作品を見るのはTVも含めて初めてなんだな。怖ろしく演技の下手な娘だ。アクションが出来ないのはまあいい。しかし、多大な犠牲を払った脱出行に対する姫のジレンマも、マツジュンへのよろめきも全く表現出来ていない。あのいかにも視力の低そうな目つきの悪さのせいだろうか。でも可愛い、結局。
 『スターウォーズ』のまんまだったり、黒澤よりもむしろ同じ東宝の岡本喜八にノリが近かったり、そんなのあり得ねーだろっ、という大団円まで、樋口真嗣としては思う存分遊んだことだろう。この人に「情感あふれる」とか「心のひだ」とかは絶対ムリである。その辺を勘違いして道を踏み外さない限り、この分で遊び続ければいいんじゃないかな、別に。
 


08.5.24

■漂流マーケット
 
『ミスト』

 CGによる霧がフワーッとスーパーマーケットの駐車場に押し寄せる予告編映像を見て、「なんかダメそう」とか「霧の中に何かいるって言われても別に」とか「そもそも霧ってそんなに怖いか?」などと、大して食指が動かなかったものの、『クローバーフィールド』のクリーチャーのダメさ加減の溜飲を下げるつもりもあって、あまり期待せずにのこのこ見に行ったら、これがとてつもない傑作であった。

 霧が発生する原因とかはまあ重要ではない。軍がどうやら「異次元」を覗く実験をしていたらしい、程度にしか判明しない抽象性は、怪奇小説を読んでいるようでなかなか良い。なんでも「つまびらか」や「理詰め」にすればいいってもんじゃない。黒沢清作品『回路』も、そういった意味では文学的な匂いがしたものだ。

 ここで描かれるのはスーパーマーケットに閉じ込められた人々のドラマだ。外からやって来るグロテスクな昆虫や凶暴な生物と戦う生存者の姿に、楳図かずおの名作『漂流教室』を幾度となく思い出したが、あのマンガも子供たちが「小さな社会」を築いていく、という展開だった。
 特殊な状況下に置かれた、「自分だけを信じる者」、「他人を扇動する者」、「どうにでもなるその他大勢」、といった人間たちがどういう行動をとり、そこからどういう緊張感が生まれ、どんなドラマが展開するのかは、パニック映画や密室劇の王道だ。そこに渦巻くことになる欲望と憎しみは、時として外の怪物たちよりも怖ろしい。『マタンゴ』の恐怖とはキノコ人間ではなく、生存者の間に張り詰めた緊張感であったし、第二次大戦終結の時の沖縄では、米軍より味方である日本軍の方が怖かった、という証言さえある。

 理性的でなければならないはずの弁護士が法を笠に着た食わせ物だったり、スーパーの店員が射撃の名手だったり、主要キャラクター中最も美しい女性が見るも無残な死に方をしたり、と人間模様にも一捻りあって面白い。主人公もスーパーマン的な活躍をするわけではなく、その行動は全て幼い息子を守るためである。
 そして、『ミスト』で最も怖ろしいのは、確たる信念を持たない「その他大勢」の動向だ。狂信的な中年女(マーシャ・ゲイ・ハーデンが見事)を最初は誰もが気狂いでも見るように扱うが、恐怖がエスカレートするにつれて教祖として崇めるようになるのだ。内側にも外側にも敵がいる、という状況がサスペンスを加速し、主人公一派は狂った連中を残してスーパーを脱出することになる。

 密室内での人間関係の均衡が崩れて恐怖が増殖する、という意味では『遊星からの物体X』という傑作を忘れてはならない。『ミスト』の主人公は映画ポスター画家という設定で、彼のアトリエには数々のアートが飾ってあるのだが、これらはドリュー・ストルーザンによるものだ。その中に『遊星からの物体X』のポスター・アートがあるのを確認出来る。オタク気質のフランク・ダラボンならではのリスペクトだ。そう言えば『ショーシャンクの空に』のポスターもストルーザンによるものだった。

 見ているうち予想に反して、霧が作り出すホワイトアウトというものが非常に怖くなってしまったのだが、ラストでヒッチコックの『鳥』よろしく自動車でゆっくりとスーパーから脱出するシーンでは、怪物を内包していながらもその霧が妙な安堵感をもたらすことに驚く。デッド・カン・ダンスによるレクイエムを思わせる曲が、人間たちが死に絶えた外の世界を冥界として現出させ、悠然とのし歩く超巨大な生物が霧の中に浮かび上がるシークェンスは、怖いどころか美しくさえある。造形でも見せ方でも『クローバーフィールド』の怪獣など目じゃない出来だ。

 そして、そのレクイエムを引きずって、衝撃的な結末が訪れる。
 もしも『ポセイドン・アドベンチャー』で、生存者を先導するジーン・ハックマンが主張した脱出ルートが最終的に間違っていたらどうか。もし『12人の怒れる男』で、ヘンリー・フォンダがリーダーとなって陪審員全員が無罪とした少年が本当は人殺しだったらどうだろう。信念を持って行動した結果、そして希望を捨てた瞬間の選択が、その直後絶望と化す。

 エンドロールでヘリコプターのローター音などの効果音だけを流し続けたのが、主人公の絶望感を際立たせるのに、どんな音楽よりも効果的だった。観客はそこで向き合わねばならないのだ。信念や選択というものに。
 この映画の主人公が味わう苦しみは、『セブン』のように伝説となるかも知れない。
 


08.5.24

■気分はもう戦争
 
『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』

 ウェルメイドな政治風刺コメディ。良くも悪くも手堅い作り。出だしは少々かったるいのだが、トム・ハンクスとフィリップ・シーモア・ホフマンのコンビが誕生する中盤以降は、俄然面白くなる。僕の嫌いなジュリア・ロバーツの登場シーンが少なかったのでホッとした。それにしても久し振りに見たら、あの女優、整形キツくないか?

 『スリー・キングス』や『ロード・オブ・ウォー』のようなノリで描けば、もっとブラックになった気もするが、この映画、なんたって「タリバン誕生秘話」なわけだから、そんなに悪ノリしてもまずいか。まずいよな。

 この映画を見る前の晩、偶然だが、TV放映を録画しておいたジョン・ブアマン作品『脱出』を見た。森に住む田舎者にカマを掘られていたネッド・ビーティ。この人ってなんか「小悪党キャラ」だよなあ。『スーパーマン』の印象が強いからか。『ザ・シューター 極大射程』にも出ていたが、まだまだお元気そうで。

 しかし日本での売り方がえげつない。ポスターを見ると、白いスーツにニッコリ笑ったトム・ハンクスの横に、「たったひとりで世界を変えた本当にウソみたいな話」、下には「5.17 『奇蹟』が起きる!」とある。なんだそりゃ。『フォレスト・ガンプ』や『グリーン・マイル』=トム・ハンクスと刷り込まれた観客層に、「これって泣けんじゃね?」とでも思わせようというのか。お前らサギで訴えられっぞ!

 とは言え、あんなキャラクター(いや実在した人ですが)にトム・ハンクスをキャスティングしたのが、もうそれ自体がブラックなわけで、このクソみたいな日本版キャッチコピーを読んだ製作側(トム・ハンクス含む)は案外喜んだりしてね。ブラックの上塗り、ってことで。

 所詮、日本人には関係無い映画だろうな、これ。窓口で「チャーリーなんとか1枚ください」と言ってた老婦人には、なんのことやらさっぱり、だったに違いない。
 


08.5.24

■お前のカレーをぜ〜んぶ喰ってやるっ!(と、いろいろ応用が利きます)
 
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

 まだタイトルが現れる前から「ピャー〜〜〜」と不穏な和音が鳴り出した途端、『未知との遭遇』のオープニングを思い出した。パンフの中で我が師滝本誠は「ペンデレッキかリゲティか」と仰っているが、僕が想起したのは、間接的にジョルジ・リゲティ、ということになる。『未知との遭遇』は『2001年宇宙の旅』へのオマージュであり、例の「スター・ゲート」シークェンスで流れていたリゲティ作曲「Atmospheres」を、ジョン・ウィリアムズは随所でマネしてみせたからだ。

 この映画はダニエル・プレインヴューなる男が石油王へと成りあがる物語ではあるが、「サクセス・ストーリー」ではない。周囲を信用出来ず孤独になって行くが、マイケル・コルレオーネのような悲哀はない。長尺のドラマであるにも関わらず、時間配分はメチャメチャだし、群像劇としてのアンサンブルを味わえるわけでもない。

 そもそもダニエル・プレインヴューとは何者なのか(Plainview=「平原を望む」とはふざけた名前だ)。どこのどんな親が生み育てると、あんな男に成長するのか。いつから山を掘ることにとり憑かれているのか。何が彼を駆り立てているのか。
 そんな疑問の数々に回答することをダニエル・デイ=ルイスは全て拒否する。脚本がそうなっている、からではない。デイ=ルイスが、その顔で、その声で、その佇まいで「私の生い立ちや生まれ故郷などどうでもいい。そこに石油がある。だから掘る。そして金持ちになる。ただそれだけだ」と、そんな愚問を跳ね除けてしまうのだ。我々観客は、そんな彼をただ見続けるしかない。主人公への感情移入が出来ない?そんな軟弱な鑑賞方法などクソ喰らえ、だ。

 主人公の‘宿敵’であるイーライの描き方も全く一筋縄では行かない。演じるポール・ダノはまず、ダニエルに石油の在り処を教えに来た若造ポールとして登場する。彼の言うことを信じて現地に赴くと、代わりに現れるのは双子の片割れイーライである。以後ポールが登場するシーンは無い。双子という設定にも関わらず、演じるポール・ダノをコンピューターを使ってもう1人増やすことで彼ら双子の2ショットが描かれるシーンなど無いのだ。
 イーライは狂信的なキリスト教徒としてやがてダニエルと確執を深めて行くことになるのだが、ダニエルと出会った当初は双子のもう一方ポールとまるで区別が付かない。原作では双子という設定ではないらしいが、この演出では双子を通り越して、まるでポールとイーライという2つの人格を持った1人の人物のように見える。
 ポール&イーライには妹がおり(彼女は後にダニエルの‘息子’と結婚することになる)、どうやら食事の前にお祈りをしないと父親にぶたれるらしい。子供たちに暴力を行使してまでキリスト教義を守る父親が、イーライの別人格としてのポールを生み出した、とは言えまいか。もちろんクライマックスでイーライと対峙したダニエルからは「お前は負け犬だ。ポールの方は油田で成功している」といったセリフを聞くことが出来るし、クレジット上でもポール・ダノはポールとイーライ2人を演じたことになっている。だが、ポールなんか最初からいない、全部イーライがやったことだ、という妄想が可能なほど風変わりなこの演出は、ダニエル・プレインヴューという希代の怪人物と拮抗するもう1人の主役に、フリーキーな奥行きを与えていて素晴らしい。

 ‘息子’役の少年(無名の新人だが奇跡的な名演だ)が非常に愛らしく賢そうだが、成長して結婚式のシーンになると、途端につまらない顔の俳優に代わってしまう。結婚式の場に‘父’の姿が無いことでわかるように、つまりダニエルは息子をついに失ってしまったのだが、それを少年期と似ても似つかない俳優に演じさせることでダニエルの心情を映像化したのだろう。ラスト、10年以上を経て再会したイーライが全く歳をとっていない、ということも同じ理屈だ。自分の右腕としてあれだけ頼っていた男(『ミュンヘン』のキアラン・ハインズが相変わらず良い顔してる)が何の説明も無くいつの間にか姿を消しているのも同様だ。

 この映画が大河ドラマや群像劇として‘いびつ’であるのは、ダニエル・プレインヴューの狂ったキャラクターのみを軸に展開しているからだが、いびつな男のいびつな物語を描きながらもこの作品は、映画としての根源的な魅力を豊饒に湛えている。
 油井から吹き出たガスで飛ばされた息子をオイルが噴出する中助け出したダニエルが、彼を抱きかかえたまま一直線に走りぬくシーンで流れ始めるジョニー・グリーンウッドのパーカッシヴなスコアは、不穏さと不吉さをエスカレートさせながら、かつて味わったことの無い奇妙なテンションを高めて行き、このシークェンスのラスト、ダイナマイトで火柱を吹き飛ばすショットまで延々と続く。
 オープニング曲と同様、作品最大のこのスペクタクル・シーンに現代音楽とでも言うべきスコアを合わせられる才能に驚嘆する。スタンリー・キューブリックやデイヴィッド・リンチと同レベルの耳をポール・トーマス・アンダーソンも備えていることが証明された。クライマックスでのボーリング場の映像、および鮮やかな幕切れとともに流れるブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」は、キューブリック作品と見紛うばかりに完璧で、美しい。『バリー・リンドン』か、『シャイニング』か。

 油井が火柱と化すスペクタクルもさることながら、ダニエルたちの頭上を流れる巨大な黒煙をとらえたショットは、まるで『スターウォーズ』第1作の冒頭で帝国軍の戦艦が頭上をかすめて行くシーンのようだ。油井の底で落下物によって死者が出るシーンもだが、コンピューターによる特撮とドラマ部分の整合性が怖ろしく巧みだ。
 『ジャイアンツ』でジェームス・ディーンが油まみれになって演じた時のようなカタルシスは、ここには無い。それは噴出するオイルにも、炎上する油井やぐらにも、ダニエルの心象が投影されることはなく、それを観客がわかり易く享受出来るようなシーンになってないからだ。噴出するオイル(=マネー)と引き替えに、可愛い息子は聴力を失い、さらにはその息子をダニエルは失うことになる。

 キューブリックに似ているから素晴らしい、などという言い方をするつもりはないし、『ブギー・ナイツ』以来P・T・アンダーソンのことを優れた作家だと思っている。それにこの作品はロバート・アルトマンに捧げられている(『マグノリア』は『ショートカッツ』そっくりだった)。
 しかし、ここまでキューブリックに近付くことが出来た人間が果たして他にいるだろうか。
 そのことが心底驚異だったのだ。
 


08.5.11

■鼻血ピューッ!
 
『アイム・ノット・ゼア』

 6人の俳優たちがそれぞれ別人としての6人を演じ(「ボブ・ディラン」という名詞は一切登場しない)、そこから「ボブ・ディランの実像」に少しでも近付こうとした、実験的とも言える作品。出演者の顔ぶれが興味深い、という一点で見に行った。

 実はボブ・ディランのことをほとんど知らない。僕は中学時代にロックに目覚め、色んなアーティストを聴き、自分でも音楽を作ったりもして来たが、ボブ・ディランには全く無関心だった。ロック史における事件のいくつか(それはこの映画でも描かれる)は一般常識として学習したことはあるし、みうらじゅんを通してもボブ・ディランの音楽や人生の極々一部に触れて来たが、自分でCDやDVDを買ってまで彼のことを知ろうとは思ってないし、これからも聴くことは無いだろう。まあ、つまり彼のやってる音楽が僕の中に全く入って来ない、ということだ。
 そもそも洋楽なんて、何を歌っているか、どんなメッセージが込められているか、なんぞが日本人にとってダイレクトに理解出来るはずはないので、要は耳に馴染むか馴染まないか、が最大のポイントだろう。つまり、聴いてみてカッコイイかダメか、ということ。ボブ・ディランの曲をカッコイイと思ったことは、残念ながら無い。

 急逝したヒース・レジャーの姿を見ると、やはりツライ。本当に才能ある素晴らしい俳優だったと思う。内縁の妻でヒースの子供を生んだミシェル・ウィリアムズも出ている。いたたまれない。

 リチャード・ギアが演じるのは「ビリー・ザ・キッド」だ。若くして死んだはずの無法者の年老いた姿がボブ・ディランのどういった部分を象徴しているのかはわからない。この映画でナレーションを担当したクリス・クリストファーソンもフォーク歌手兼俳優で、かつてサム・ペキンパー作品『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』(1973年)でビリー・ザ・キッドを演じた人だ。この作品にはボブ・ディランが出演し、音楽も担当している。僕は小学生の時にTVでこの映画を見たが、ちょうど同じ頃に見たロバート・アルドリッチ作品『北国の帝王』(1973年)と印象がかぶっている。こちらは「ホーボー」(列車をタダ乗りする放浪者)の伝説である男と鬼車掌の対決を描くヴァイオレンス・ロマン。双方とも強烈な印象を残した映画だ。そのホーボーが『アイム・ノット・ゼア』にも登場し、「ウディ・ガスリー」と名乗る。彼の伝記映画『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(1976年)でガスリーを演じたのはデヴィッド・キャラダインだった。彼の弟キース・キャラダインは先述の『北国の帝王』で主人公リー・マーヴィンに付きまとう若造を演じている。なんと狭い世界なんだ。

 困ったことにトッド・ヘインズの作品を1本も見ていない。彼のことを知っていればもっとこの作品に近づけたかも知れないが、まあ仕方ない。
 ラストでボブ・ディランがハーモニカを吹く実際の映像が流れ、エンドロールでは案の定「Like a Rolling Stone」が流れる。ここで感涙する人は多いだろう。しかし僕には他人事だった。サビで歌われる「How does it feel?」というフレーズが「鼻血ピュー」に聞こえてしまうのは、「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」を見て以来の病いだ。

 鼻血ピューッ!鼻血ピューッ!・・・・やはり僕が見て許される映画ではなかったのだな。
 


08.5.11

■妻も売った男
 
『アメリカを売った男』

 キツネ目に薄い唇を歪めた、苦虫を噛み潰したような顔。眉毛が生えてるのか生えてないのか判らないコワモテを生かしてクリス・クーパーが今回演じたのは、ニュース映像がまだ記憶に新しい実在のFBI捜査官ロバート・ハンセン。KGBに国家機密を売り、彼の地に送り込んだスパイを何人も死に追いやった二重スパイである。
 妻を愛し、孫と戯れ、部下の面倒見も良い一方で、スパイ活動どころか、妻との夜の生活を盗撮して他人を楽しませる変態。クリス・クーパーのなんとも「フクザツそう」なルックスが、この得体の知れない二面性に説得力を与えている。
 ハンセンを監視するために部下として配属されるライアン・フィリップが、やはり上手い。『インファナル・アフェア』ばりの潜入捜査サスペンスがドキドキさせるわけだが、信念と不安、力強さと繊細さが入り混じった表情のフィリップと、石のようなクーパーの顔とのバランスが大きな牽引力となっている。
 かつてあんなに可愛かったローラ・リニーがFBIの女性幹部を演じるようになるとは思わなかったが、ハンセンの妻役のキャスリーン・クインランが振り撒く熟女の色香も凄かった。この人53歳か。映画版『トワイライトゾーン』(1983年)のジョー・ダンテが監督したパートで教師を演じてたのってこの人だったのだな。へぇ〜。
 ムリに話を広げて超大作にするわけにいかない題材ゆえ、手堅い「男たちのドラマ」としてなかなかの佳作。これでフェティシズムさえ備えていれば、相当ツボだったのだが。
 


08.5.11

■怪獣映画の歴史に新たな傑作が、ただし・・・・
 
『クローバーフィールド/HAKAISHA』

 公開前からネットなどで煽ったり、登場人物が持つカメラで撮影された手ブレ映像、ということから『ブレアウィッチ・プロジェクト』を想像するのは簡単だったが、蓋を開ければ、あんな映画とも呼べないただのコケ脅しイベントなんぞとは志しも、技術も、製作側の頭脳も、資金力も全く違う、実に真っ当な作品だった。

 海外赴任の前夜、主人公が恋人と気まずくなる。すると、突然何か巨大な生物が街を破壊し始める。主人公は恋人のアパートまで助けに行く。一旦は別れたカップルが極限状況の中で愛を再確認するという、もう捻りも何も無さ過ぎて物語などと呼べないようなシロモノではあるが、この映画は一応そういう流れで展開する。

 「かつてセントラルパークと呼ばれた場所から軍によって回収されたビデオテープ」という断り書きから始まるこの映画。つまりこのビデオカメラを回していた人間、そして一番最後まで映っていた人間は恐らく今は生きていない、という映画の幕切れをあらかじめ告げられてしまう。死の予感と絶望をいきなり背負わされてしまうのだ。『ユナイテッド93』で味わったイヤ〜な感じを思い出す。救いの無いパニック映画はツライ。

 しかしそのツラさに塩を塗るようなマネをこの映画は用意している。阿鼻叫喚の地獄絵図を記録しているそのビデオテープは使い古しで、録画をストップするたびに、下に記録されていた主人公カップルの楽しげなデート映像に切り替わる、という仕組みなのだ。これは拷問のようである。ギャスパー・ノエがかつて『アレックス』で試みたような精神的拷問(レイプされ瀕死の重傷を負わされた女性を事件から時間を遡る形で追って行くと、恋人との美しい時間や彼女の妊娠などの事実が明らかになる)を思わせるやり方だ。怪獣が暴れまわる街を手持ちカメラでホームビデオ風に切り取って行く、というスタイルの新しさだけではなく、こんな仕掛けまで施すとは、なんとも心憎い。

 怪獣映画の歴史に新たな傑作が加わったと言ってもいい。あの臨場感はかつて体験したことのないものだった。
 だが非常に惜しい。
 なぜクリーチャーをラストであんなに大きく映してしまったのか。それまでチラリとしか見せず観客の想像力に訴えることで恐怖が持続していたのに。しかも新鮮味のまるで無いあのデザイン。『グエムル』もそうだったが、この映画の監督も恐らく『WXIII パトレイバー3』を見ているんだろう。あと、『ダーク・クリスタル』も思い出したね。

 怪獣映画としてあれほど良く出来ていたのに、肝心の怪獣があれじゃあ・・・・と複雑な心境になってしまったよ。
 でも、憎めないんだな。充分怖かったしな。