Diary

■2008年9月〜12月

08.12.16

■その他に見たものをショート・レヴューで

 もう今年も終わりだなぁ。
『ピアノチューナー
       ・オブ・アースクエイク』
80年代に見た『ストリート・オブ・クロコダイル』などの短篇作品群が大衝撃だった、英国のヘンタイ双生児クエイ兄弟久々の新作は、またしてもアニメではなく実写による長編。お得意の人形アニメーションを一部に使ってはいるが、さすがにこの御時世、デジカメで撮影しCGを使うのは当たり前。しかしまあ今回よくわかったんだけど、アナクロとも言える「前衛」や「幻想アート」といったものをいまだにひっそりと作り続ける作家たちの世界に落ち着いちゃったのだな、クエイ兄弟は。ヤン・シュヴァンクマイエルがヘンタイ道を突き進んでいるのと違って。でも一番不思議なのは、クエイ兄弟がどうやって生活費やパブの飲み代を稼いでいるかだな。ホント謎だよ。
『トロピック・サンダー』 全篇笑いながら楽しく見たものの、残念ながら『ズーランダー』ほどの傑作には成り得なかった。何か足りない。『ズーランダー』にあって『トロピック・サンダー』に無いもの、それはオーウェン・ウィルソンだ。彼が出ていればガラリと全体の印象が変わったはず。結局ベン・スティラーとのコンビが最もしっくり来るのはオーウェンなのである。だが『トロピック・サンダー』にはとんでもない新機軸がある。それはロバート・ダウニーJr.だ。ダウニーが出ている、しかも黒人に成り切っている。もうそれだけで可笑しい。今回ばかりはベン・スティラーもジャック・ブラックも形無しだ。3人のバランスが今ひとつ良くないのは、ダウニーひとりが面白過ぎてしまったからだ。「監督」ベン・スティラーとダウニーJr.の相性は良いわけだから、次回作でも使えばいいと思う。ただしその時にダウニーJr.とオーウェン・ウィルソンの相性が良いかはわからぬ。
『デス・レース』 ロジャー・コーマン製作(今回も)の70年代カルト『デスレース2000年』のリメイク(オリジナルを撮ったポール・バーテルって2000年に亡くなってたんだな)。監督はポール・トーマス、ウェスと並ぶ「アンダーソン三人衆」の中で一貫してボンクラ映画ばかり撮っているポール・W・S・アンダーソン。『マッド・マックス』シリーズと『ソウ』シリーズを足したような映画になってるのが、新しいと言えばまあ新しい。映像と音響がハデなので大劇場で見る分には楽しめるが、ストーリーはめちゃくちゃだ。ジェイソン・ステイサムはハマってたんだが、ジョアン・アレンはいかがなものか。デミ・ムーアなんかの方がクレイジー感が増してよかったんじゃなかろうか。
『ブラインドネス』 謎の現象によって未知の恐怖に落とされた人間たちがどうサヴァイヴして行くのか、という物語としては、『クローバー・フィールド』、『ミスト』、『ハプニング』に続いて今年4本目か。ここに至って、登場人物たちが現象の正体を探ろうとすることはもう無く、よってミステリーの要素が削ぎ落とされたせいで、人間の本性への考察と、なぜ1人だけ目が見えるのかという寓話めいた設定ばかりが際立ち、そのことが作品をヘヴィなものにしているように感じられるが、これがまあ退屈と言えば退屈なわけで。主人公グループに日本人を入れたのはオトナの事情なのか、『バベル』を狙ったのか、いずれにせよますます説教臭く感じられ、そして「盲目になる」という現象そのものが何かのメタファであると解釈せよ、とのメッセージがビンビン感じられはするものの、ジュリアン・ムーアのソバカスだらけの肩とブサイクな横顔を見ているうちに、なんだかどうでもよくなってしまう、という作品だったな。


08.12.16

■家族ゲーム
 
『その土曜日、7時58分』

 この映画のツカミはもしかして今年一番かも知れない。
 素っ裸のフィリップ・シーモア・ホフマンが後背位で女とセックスしている。激しく突き立てる度に巨体がブルンブルン揺れ、でっぷりとした腹が女のケツの上にデロンと乗っちゃってる。しかもそれを鏡に映してウットリ見ていたりする。こんなに醜いセックスのお相手はどんな女だろう?それは次のシーンで明らかになる。
 その女とは、なんとマリサ・トメイであった!

 出来の悪い邦題(原題の意味は「お前が死んでいることを悪魔に知られる前に」)が示す時間に決行される、ある強盗事件。時間軸の入れ替えや異なるカメラアングルによって次々と意外な事実が明らかになり、偶然とも運命ともつかぬ出来事の連鎖が無間地獄の様相を呈し、やがて予想もしなかった恐るべき結末へと至る。

 語る順番をいたずらに入れ替えてムダに撹乱するような贋物頭脳系サスペンスとは全く違う、どっしりとしてブレが無く、それでいて若々しいソリッドな演出。映画史に残るような社会派サスペンス作品を何本も残して来たシドニー・ルメット(なんと84歳である!)ならではの冷徹な視点とテクニックが、フィリップ・シーモア・ホフマン(兄)、イーサン・ホーク(弟)、アルバート・フィニー(父)という曲者俳優たちによるアンサンブルを得て、「あらかじめ壊れた家族」が辿るさらなる崩壊のドラマを紡ぎ出す。兄嫁を演じるマリサ・トメイも、そんなドラマの歯車の大きな1つを(43歳とは思えぬ美しいヌードを潤滑油に)担っていて素晴らしい。

 それにしてもフィリップ・シーモア・ホフマンは良い。巧い、というより、そのルックスや声も含めて存在そのものが良い。飛び抜けて存在感のある脇役としてのキャリアが長かったが、『ハピネス』でのヘンタイぶり、そして『カポーティ』という飛び道具のような「キャラ物映画」を経て、この『その土曜日、7時58分』で主演俳優として完全に花開いた。

 監督作品のどれもが非の打ち所の無い傑作揃いであるクリント・イーストウッドは、その演出タッチの謙虚さ(のようなもの)が逆に押し付けがましく感じられることがあるし、評論家の絶賛ぶりはもはやファシズムのようだ。イーストウッドのような「もう巧いとしか言いようが無い」巧さではない、「巧さを感じさせない巧さ」がこのシドニー・ルメットの作品にはある。


08.12.16

■いきなり感
 
『レッドクリフ Part T』

 「三国志」のことを、魅力あふれる(のであろう)英雄や策士たちが繰り広げる長大な戦争絵巻、程度の知識しか持たない者にとっては、このところ不向きな題材に手を出しては失敗作を連発していたジョン・ウーが満を持して剣劇スペクタクルを手がける、ということだけがこの映画を見るモチベーションであった。

 キャスティングは良い。トニー・レオンのアクションを見るのは久し振りだし、『さらば、わが愛 覇王別姫』のチャン・フォンイーが見せるふてぶてしさは眩しく、ジョニー・トー作品の常連ユウ・ヨンの味わい深いオッサン顔には萌え〜である。他の俳優たちも、主張の強い顔を揃えて濃い芝居をさせることで、キャラクターはどいつもこいつも個性的に見える。

 しかし「三国志」を読んだことのない者には、ここで描かれている「赤壁の戦い」とやらが物語のどの辺に位置するものなのかわからないし、仮にこれがクライマックスだとして、いきなり怒涛のクライマックスを見せられたところで、これをどう楽しんでいいのか戸惑ってしまう(あの取って付けたような頭悪そうな解説映像はこの際除外)。

 僕が『ロード・オブ・ザ・リング』3部作中で最も好きであり、何度も繰り返し見ているのは、中間にあたる『二つの塔』である。しかし『二つの塔』が素晴らしいのは、『旅の仲間』という長大な前提があり、『王の帰還』という大クライマックスが控えているからこそと言える。世界観をじっくりと提示し、主要な駒が出揃うまでの過酷なドラマを描くチャプターがあったからこその、あの大戦争絵巻だったのだ。

 この映画が戦闘シーンのスペクタクルと俳優たちのケレン味ばかりで、どうにもこうにもスケール感や深みに欠けるのは、「いきなりあんな風に物語が滑り出してしまう」せいだと思う。
 それに、『ロード・オブ・ザ・リング』や『トロイ』ばかりか、『300』からも頂いちゃったと思しき「どこかで見たような映像オンパレード」(しかもそれほど出来は良くない)はご愛嬌だが、『ロード・オブ〜』の登場人物にいちいち符号するかのように配置されたキャラクター(ヴィッキー・チャオはまんまエオウィン)には大苦笑。ジョン・ウー先生、多分『二つの塔』を見て、「よしっ!これ使って『三国志』やろう!」と思っちゃったんだろうな。

 ま、いずれにしても1つ言えるのは、北京五輪の開会式を見た後では何を見ても驚かない、ってこと。


08.11.13

■「ニュー・ビデオ・パラダイス」
 
『僕らのミライへ逆回転』

 手放しで絶賛出来たのは『エターナル・サンシャイン』だけ、という僕的には非常に打率の低いミシェル・ゴンドリーだが、今回は悪くない。それはなんと言っても「映画そのもの」をモチーフにしているから。

 主人公たちが「映画作り」(「sweded」という)に興じるシークェンスがやはり魅力的だ。イイ歳した大人たちが本気で遊んでいる姿は、もうそれだけで画になるし、シネフィルならではの小ネタの数々は爆笑モノ。散々『ゴーストバスターズ』をやっておいて、後に登場する著作権取締りエージェントをシガーニィ・ウィーヴァーに演じさせるなどという大ネタもあり。

 クライマックスの核となる人物、「ファッツ・ウォーラー」(Thomas 'Fats' Waller)の名前を久し振りに耳にした。
 デイヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』のサウンドトラックは「ゴウンゴウン」とか「シュゴー」とかいう工場ノイズで満杯だったのだが、それらと対を成すように陽気なランチタイム・ミュージック風のオルガン演奏が時折顔を出す。ここで使用されたのがファッツ・ウォーラーのレコードだった。暗く、ノイジーで、何処とも、どの時代とも確定出来ないような舞台で展開する悪夢を、まるでサーカスか何かのように盛り上げるキッチュな音楽は、後に『ブルー・ベルベット』で完全に開花する「DJ=リンチ」の萌芽である。

 個人的には、ジャック・ブラックのルックスはともかく彼の演技がどうにも苦手であったのだが、今回の作品でそれが解消されるかと期待していた。『エターナル・サンシャイン』でジム・キャリーを見直したように。しかし、やはりダメだったな。あの大仰な顔の演技(多くの俳優がそうであるように恐らくジャック・ニコルソンを手本にしている)と下品な造作がここでも鼻について、「ああ、これがもしベン・スティラーだったら」などと想像しながら見てしまった。

 それでもこの映画のラストは泣かせる。それは、映画というものが持つ原初的な力を見せてくれるからだ。全員が一丸となって作品を作り上げる喜び。完成したものをスクリーンに投影した時に沸き起こる歓声。雲の上のハリウッドから市井の人々の手に魔法の装置が渡った時、映画とは何であったかをあらためて教えられるのだ。

 それにしてもひどい邦題だ。「Be Kind Rewind」のどこにミライ(しかもなぜカタカナ?)が入ってるんだ?Rewindって巻き戻しのことだろ。こんな邦題じゃ全く意味がわからん。それに原題は主人公たちが働くビデオ店の名前なんだから、そのまんまでいいんじゃねーの?もしくは「ニュー・ビデオ・パラダイス」とかさ。


08.11.13

■もう遙か昔に見た映画だけど、一応ひとこと書いておくか
 
 8月末を最後に日記の更新をしていない。
 原因は仕事の多忙なのだが、こんなことじゃいかんな、と思いつつもどうにもホームページビルダーを立ち上げる体力も気力も無く。それにそもそも、感想を書きたくて書きたくて仕方のないような映画に出会わないどころか(『赤い風船/白い馬』は別)、映画に行く時間すら持てない日々が続いた。それでもチョイの間を縫って見に行けた映画の感想を駆け足で、またまた3行だけ。

『赤い風船/白い馬』 1950年代に作られた子供向けメルヘンの2本立て(グラインドハウス)。ファンタジーの原動力となるのは過酷な日常であるというセオリーが、優しい語り口だからこその悲痛さを持って胸に迫る。一生忘れられない映画。
『TOKYO!』 東京などという設定はこの際どうでもよかったんだろうな、と思えるほどひたすら蒼井優へのフェティシズムを追い続けたポン・ジュノの愛情が、香川照之を透過して僕を完全に狂わせた。他の2本は企画内の出来。
『アクロス・ザ・ユニバース』 ザ・ビートルズの名曲の数々をジグソーパズルのように嵌め合わせた技術は素晴らしい。音楽映画としてはかなりの完成度。ジェニファー・コネリーの再来=エヴァン・レイチェル・ウッドのヌードに嬉しい悲鳴。
『片腕マシンガール』 確信犯的な残虐描写はともかく、ここで注目すべきは主演の八代みなせ他女優陣が漂わせるエロである。ヌード場面は1つも無いのになぜあんなにエロいのか。井口昇なら「ストップ!!ひばりくん!」を撮れるはず。
『闇の子供たち』 骨太という言葉を忘れた邦画界にあって阪本順治の存在のありがたさが身に沁みた。衝撃的なラストを背負わされる江口洋介の他、キャスティングが絶妙。中でもタイ人ブローカーを演じた俳優は白眉。
『落下の王国』 『ザ・セル』とこの2本で「ターセム印」が確立された。映画&アートのサンプリングもここまで美しくリミックス出来れば大変な才能である。石岡瑛子との相性も抜群だ。ストーリーテリングさえクリアすればフィンチャーになれる。
『劇場版 天元突破グレンラガン 紅蓮篇』 文科系アニメの閉塞感をぶち破るのに必要だったのは「ドリル」である。そしてそれを使う者はヤンキーである。エヴァの骨を拾えるのは、エヴァを生み出したガイナックスだけだった。ロボットアニメの金字塔誕生の瞬間。
『トウキョウソナタ』 『人間合格』『アカルイミライ』に続く黒沢清方式の家族映画。香川照之の演技はいつもと同じだが、小泉今日子の存在感がかなり良い。黒沢マジックによってどんどん美しくなる。上手い、というのは黒沢清のことを言う。
『アキレスと亀』 ここ2作ほど煮ても焼いても食えない作品が続いたが、今回は笑えるから良い。現代アートに対する視点も、メチャメチャな展開の末の着地点も別に新しくはないが、久し振りに北野作品で大笑い出来た。
『アイアンマン』 ロバート・ダウニーJr.無くしてこの映画は無い、まさにハマリ役。ここでのメカへのフェティシズムを見れば、『トランスフォーマー』がどうダメだったのかが一目瞭然である。ラストで流れるブラック・サバスはお約束だが最高。
『ICHI』 勝新の磁力から、綾瀬はるかという肉体を盾にして解放されたつもりなのだろうが、映画として成立していなさ過ぎる。俳優も、物語も、撮影も、編集も、何もかもお粗末。綾瀬使うなら『僕の彼女はサイボーグ』を見習え。