Diary

■2009年3月

09.03.14

■正しい、世間的には
 
『ヤッターマン』

 三池崇史監督作を今まで何本見たか数えたことは無いが、「まともな映画」は1本たりとも無かったように思う。まだ見てない作品も、恐らく同じだろう。「やくざ」「ホラー」「アイドル」「家族」「SF」と、どんなジャンルやテーマを撮ろうとも、こちらの予想通りに大人しく納まったことなど1度も無い。異物が混入していたり、やってはいけないことをやったり、着地点が無かったり、やり過ぎだったり、やり逃げだったり・・・・・せっかくここまでちゃんと出来てるのに、なんでこんなことすっかなー、というのが「三池節」だと思う。だから三池作品に期待するのはいつも「今回はどう転んでくれるか」なのだ。

 往年のTVアニメ『ヤッターマン』を三池崇史が撮る、と聞いた時、「これ以上の人選は無い」と思った。通常の30分アニメのフォーマットを逸脱したあの革命的なオフビート感は、三池が展開して来た映画手法そのものだ。もうこれは最初から成功を約束されたようなものだ。

 だがちょっと待て。

 三池哲学とは、与えられた物語・素材・テーマの中でいかに転んでみせるか、だったはずだ。あらかじめ転んでしまっているアニメを素材に三池が撮るということは、「転んでないヤッターマン」にするということだろう。そうやって完成するのは、どう考えても「こんなの『ヤッターマン』じゃねーよっ!」という作品だ。しかしその作品は、映画の出来としては「まともな映画」ということになる。
 三池崇史が『ヤッターマン』を撮るという現実は、実は大いなる矛盾を孕んでいるのだ。「ラップ界の反逆児」は世間から見たら「優等生」、ということと同じなのである。

 この映画版『ヤッターマン』には多くの人が満足すると思う。完成度が高いとは言えないが、もともとがそういう原作だと思えば腹も立たない。緻密に再現されたヴィジュアルも、オリジナル作品へのリスペクトも、小ネタの炸裂っぷりも、ほとんど申し分無い。どうせならいっそのこと25分エピソードの3本立てなんぞと、構成すら真似てもよかった。その方が潔いだろう。無理矢理1ピソードをエキスパンドして「映画感」を出そうとした脚本は失敗だった・・・・・ってあれ書いたの悪名高きあの『少林少女』を書いたヤツじゃねーか!

 あまりにも三池っぽくて逆に三池作品らしくないとか、ストーリーがまるでダメとか、あまり笑えないなどの不満はあるものの、そんなものを全て吹き飛ばして余りあるのが深田・ドロンジョ・恭子である。あの殺人的なまでのキュートさとお色気は、作り手の思惑以上のものだったに違いない。この映画の主役を思い切ってヤッターマンではなくドロンボー一味(生瀬勝久もケンコバも最高に素晴らしい)にしたことが、唯一、三池哲学と言えるかも知れない。いや、オリジナル・アニメだって主役はドロンジョだったか。
 かつて『漂流街』での闘鶏シーンを『マトリックス』のパロディ(360度カメラ)にしたように、今回三池崇史は『ヤッターマン』を、『ダークナイト』のパロディとして撮ったんじゃあるまいか・・・・いや、そんな勘繰りも深キョン演じるドロンジョの前には、もはやどうでもよくなってしまう。

 いずれにせよ、転ぶのが上手い作家三池崇史が撮るべきだったのは、あらかじめ転んだアニメ『ヤッターマン』ではなく、『科学忍者隊ガッチャマン』の方だったのかも知れない。

09.03.14

■タキヤン(滝本誠師匠)に背中を押されて
 
『フェイク・シティ ある男のルール』

 大した数読んでないくせにこんなことを言うのはおかしいが、『L.A.コンフィデンシャル』なんぞよりもこちらの方がジェイムズ・エルロイらしい気がした。『L.A.コンフィデンシャル』は、監督カーティス・ハンソンのお行儀の良さがイヤらしく、『チャイナタウン』への目配せがなんとも的外れで、評価しようがなかった。良く出来てはいるが面白くはなかった。好きでもなかった。
 この『フェイク・シティ』(原題は「STREET KINGS」。「ストリーキング」に聞こえるから変えたのか)は逆だ。出来は悪いが面白い。不満は・・・・キャスティングか。

 主人公のアル中刑事を演じるキアヌ・リーヴスは体重を増量、二重アゴでウォッカのミニボトルを手に頑張ってはいるが、どうにもアル中に見えない。キアヌは『コンスタンティン』でも煙草に火をつけて吸う演技が下手でヘヴィ・スモーカーに見えなかった。でも『スキャナー・ダークリー』ではちゃんとジャンキーに見えたんだよな。酒と煙草はダメで麻薬ならOKってどういうことだよ。
 彼の上司を演じるのがフォレスト・ウィテカーなんだが、『ラストキング・オブ・スコットランド』と演技が被っているのが気になったし、キアヌに協力する別の課の刑事にクリス・エヴァンスのマスクは甘すぎじゃないか。ギスギスした警察内部をリアルに見せようと、名の知れた俳優を起用しなかったのは得策だが、もうちょっとキャラの立った面子を周囲に揃えてもよかったのでは・・・・などなど。この映画に今ひとつ深みが無いのはキャスティングのせいではないかと思う。主人公はジョシュ・ブローリンあたりが適役だと思うが、そうなると『アメリカン・ギャングスター』で演じた役柄とニアミスか。難しいもんだな、キャスティングは。

 それでも『フェイク・シティ』は面白い。この映画には『L.A.コンフィデンシャル』に無いものがある。「ガラの悪さ」だ。キャスティングに感じた不満とは矛盾するが、汚職警官の面々やギャングスターどものキャラ立ちの弱さは、逆に得体の知れない怖さを出しているとも言える。銃撃シーンが粘着質なのもナイスだし、死体描写に妥協が無いのも素晴らしい。LAを舞台にした作品独特のヒリヒリした空気も伝わって来る。一流の映画に成りきれない、どこかB級臭いガラの悪さと、エルロイの書いたストーリーとが妙なマッチングの良さを見せるのだ。

 エルロイの大作小説を映画化するのも結構だが、『フェイク・シティ』のような作品にこそハードボイルド映画の未来があるような気がする。そんな風に思わせてしまうほど、この映画の幕切れは鮮やかだった。

09.03.14

■『ロリータ』、そして『卒業』
 
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

 特殊な生まれ方をした男の目から見たアメリカの20世紀、という意味では『フォレスト・ガンプ』を想起してしまうが、アメリカ史を形作った様々なイベントに浅く深く関わったガンプの人生の面白さは、ここには無い。フリークスとして生まれ落ちたベンジャミン・バトンが、世界を見る特殊な眼を持っているわけでも、その肉体の特殊性を生かしたかたちで歴史の歯車になるというわけでもない。この映画に登場するアメリカ史は、主人公2人の老いと若返りの背景でしかなく、「時計」以上の役割を与えられていないのだ。ハリケーン・カトリーナが物語を根こそぎさらってしまうというオチにしたって、「だから何?」としか思えない。

 だから『フォレスト・ガンプ』なんかを引き合いに出したらこの映画を楽しむことは出来ない。と言うか、僕はハナからそういう見方をしなかった。CGで作られた背景よりも何倍もリアルな「年齢操作VFX」に驚嘆しっ放しだったからだ。特にケイト・ブランシェットは凄い。IMDbを見ると、ブラッド・ピットの方は、老人メイクをした顔を他の役者のボディに貼り付けたものをはじめ何人もで演じ分けているのだが、ブランシェットは、バレエを始めるティーンエイジャー以降から末期癌で入院中と思しき晩年になるまで、全て彼女1人で演じたようだ。演技力を見ればブラピなんぞよりも遙かに優れているブランシェットが、特殊メイクとVFXの併せ技(だと思う)を得て演じきる老婆は信じ難いクオリティである。

 そうやって歴史的背景よりも見事に作りこまれた2人のルックは、年齢の神秘や加齢の残酷さについて考えさせ、とりわけ、かなりの年齢差を持って向き合う彼らの姿は背徳感さえ醸し出す。
 年寄りのブラピと幼女時代のブランシェット(彼女を演じるのは、「ヘンリー・ダーガーに関するドキュメンタリー映画」でナレーションを担当したダコタ・ファニングの妹である)の出会い、そしてその後別の少女によって演じられる10代のブランシェットとの2ショットは『ロリータ』と地続きの光景であったと気付く(ブラピの中身はブランシェットと同年代なわけだが)。
 20代のブラピと50代のブランシェットが再会しベッドを共にした後で彼女が服を着て帰り支度をする場面には、「その筋の趣味趣向」を持つ人間にとって堪らないエロティックな匂いが漂う。ここでも1本の映画を思い出さざるを得ない。それは『卒業』のダスティン・ホフマンとアン・バンクロフトだ。

 究極の「年の差カップル」から立ちのぼるフリークでイケない香りを味わいつつも、ラストでついに「お婆さんと孫」になってしまう彼らを見て、男にとって女性とは何なのか?という疑問に対する答えに近付けた気がする。アメリカの20世紀史などどうでもいい。この映画は、実はもっともっと深遠なるテーマ、「生命の神秘」についての考察なのだ。しかも、デイヴィッド・フィンチャーならではの変態的なアプローチを使っての。

 でも、ま、そんなもんじゃオスカー獲れんわな。