Diary

■2010年3月

2010.03.26

■時をかけるおれB

『時をかける少女』


 大林版『時かけ』についてグダグダと書いてしまったが、いや、そもそもはこの度仲 里依紗(りいさたん)を主演に据えて新たに製作されたリメイク、ではなく続編を見に行ったのである。これが、こちらのネガティヴな予想を裏切って、なかなか良かった。
 舞台設定をはじめとして厳密に大林版の続編を作ることなど不可能だとはわかっていたが、芳山和子があの後辿ったかも知れない「可能性としての20数年後」と考えれば(と言うかそう考えるしかないのだが)、それは有り、なのである。

 現在42歳の原田知世をキャスティングすれば、それは映画と非映画のボーダーをリープするメタ映画の誕生として、日本映画史上最大級の事件になったはずだが、果たしてその映画を100%受け入れられるか自信は無い。「作りたい続編」「作られるべき続編」「見たい続編」は当然ながら一致しない。実際に完成した続編の最大の勝因は、原田を復帰させなかったことであり、「少しずらした」現在の和子に安田成美をキャスティングしたことにある。1967年11月28日生まれの原田知世のちょうど1年前、1966年11月28日に生まれた安田成美。なんとも出来過ぎた数字だが、偶然とは片付けられないほど、安田はいいさじ加減の説得力をもってパラレルとしての芳山和子=原田知世をスクリーン上に復活させている。

 とは言え、主人公は和子の娘=あかりであり、この映画はあかりを演じるりいさたんのアイドル映画でなければいけない。高校を卒業し大学に入る前の春の1ヶ月間、という現実的・具体的なタームは、大林版で設定されていた1ヶ月(「時をかけるおれA」参照)とは大分異なり、「父親探し」というサブテーマを伴って、ティーネイジャーの自立・通過儀礼としての意味合いが濃い。そんなあかりをりいさたんが元気いっぱいに演じる。細田守監督のアニメ版『時をかける少女』(2006年)の主人公、和子の姪=紺野真琴で声優を務めて絶賛されたりいさたんだが、そこを拡大して今回の谷口正晃版『時かけ』を腐すのは盲目だ。細田版と谷口版は、層を異にするとは言え、どちらもパラレルとしての続編だ。キャラクター造形も年齢設定も違う別物なのである。
 演技もセクシー度も原田知世に勝るりいさたんだが、上手いがゆえの物足りなさは否めない。それは映画全体にも言えることだ。商品としての完成度は合格だが、「アイドル映画というフォーマット」にとって「映画の完成度」というものは邪魔である。アイドル映画は壊れていれば壊れているほど、観客(=ファン)にとって質の良いドラッグとなる。大林版は壊れていたがゆえに、あれほどの常習性を獲得したのだ。

 安田成美=和子に共鳴する喜びとともに、大林版に無かったため長らく忘れられていたものが今回登場し、オリジナル版(=NHK少年ドラマシリーズ「タイムトラベラー」)を知る我々世代の記憶を熱くする。それは深町一夫の未来人としての本名、「ケン・ソゴル」だ。おまけに、ケン・ソゴルを演じる石丸幹二なる俳優(劇団四季出身のミュージカルスターらしい)の、思慮深そうで無垢な表情とクールな佇まいは、パラレルとしてのその後の深町一夫として申し分なく、さらに安田との2ショットで醸し出す「中年世代の純愛」の哀切は、少年少女と老夫婦のみにスポットを当てていた大林版の欠損を埋める、非常に新鮮かつ重要な場面だった。
 ラスト近く、過去へとタイムリープした記憶を消去され現代に帰還したあかりは、ケン・ソゴルとすれ違っても気が付かない。大林版のラストを忠実になぞるこのシーンは、「可能性としての父娘」の図だ。27年の歳月を隔てた2つの『時かけ』を、ややベタではあるが、最も接近させた瞬間である。

 和子の娘あかりの恋(=性欲)を描けてないせいで、アイドル映画としては低温度だが、和子とケン・ソゴルの再会をこのようなランディングで見せてくれただけでも、この映画は充分だ。
 


2010.03.26

■時をかけるおれA

『時をかける少女』(1983年)


 1983年の大林宣彦版『時をかける少女』は、撮影当時まだ15歳だった原田知世が、少年のような体つきにショートカットという中性的な肉体と学芸会レベルの演技力という併せ技を武器にして、徹頭徹尾まぎれもない作り物(フェイク)でありながら、同時に自身のヴァージニティをドキュメンタリックにフィルムへと刻みつけることに成功したプライヴェート・フィルム、という意味でアイドル映画として最強であり、そしてまた性的アイコンに過剰なまでに彩られたロリータ映画としても、永遠に語り継がれるに違いない宝石である。44歳という年齢の今再見することで、やっと獲得した妄想を以下に記す。

 主人公の芳山和子は、放課後の理科実験室で、ラベンダーの香のする薬品によってタイムリープ機能を授かるわけだが、あの有名なシーンにおいて、口の長く伸びたフラスコから立ち昇る白い煙を前に眩暈を起こす和子、という構図は、「長い物」から流れ出た「白い物」の匂いを嗅ぐ、という画にダイレクトに置換することが可能であり、その後彼女を介抱する女性教員のセリフから、和子が生理中であることが判明する。生理と超常能力、と言えば即座に思い起こされるのはブライアン・デ・パルマの『キャリー』だが、筒井康隆の原作には無かったはずのこの設定は、大林宣彦の素敵な趣味趣向の賜物だと思いたい。

 岸部一徳扮する男性教員のネクタイに和子が見惚れるショットはフロイト的であり、他にも「錠前に挿しこむ鍵」、「弓道の矢」、「時計の針」(先端の膨れた長針がアニメーションで表現され、丁寧にも和子を突き刺そうとする)など、男根を象徴するアイテムが散見する。舞台である尾道の風景を特徴付けている、狭く、アップ&ダウンのきつい坂道や石段でさえも、ここではリビドーを誘うセットとして機能し、そこをそぞろ歩く和子と深町(高柳良一)の姿は、初々しい高校生カップルと言うよりも、互いの性衝動を確かめ合っている男女と捉えた方が据わりがいい。

 「お爺さんもお婆さんも留守で退屈しているから」と、雨に濡れそぼった和子を自室(非常に狭い空間)に招き入れる深町の行動も淫靡だ。自然に誘発される幼少期の記憶。雛祭りの日、雛壇のある部屋で遊ぶ和子と深町は、弾みで倒し割ってしまった鏡の破片で流血する。深町が傷付けたのは「親指」、和子が切ったのは「人差し指と親指の叉(股)」。これは明らかにお医者さんごっこを暗示したエピソードである。
 その後、和子は幼馴染みの吾朗(尾美としのり)を瓦屋根の崩落から救うのだが、抱き付かれた形で軒下に避難した吾朗の手は親指をピンと立てており、和子はまるでペニスでも見るかのようにそれを凝視する。吾朗の親指にある古い切り傷を見て、「初恋の人=お医者さんごっこの相手」という、未来人=深町による記憶の改竄(乙女の願望)が発覚し、「お医者さんごっこの相手=無害な幼馴染み」という事実が浮上する。
 この瓦屋根崩落のシークェンスは、ある時は吾朗を相手に、ある時は深町を相手に何度か登場する。それぞれの和子の手の位置に注目したい。吾朗の時は両手ともに彼の上半身に押し付けられているが、一方深町の時、和子の右手は鞄を掴んでいるせいか、手が彼の股間あたりに当たって見えるのだ。単なる偶然と一笑に付すには惜しいショットである。

 「タイムリープなんかいらない。普通の女の子でいたい」という和子の願いは、燃え上がりそうな恋(=性欲)に戸惑い、おののく処女の心理とイコールだ。しかしその行動はアンビバレントであり、最早引き返せないほどの高み(ヒッチコックばりの断崖)へと登り詰めた和子は、ついに「ダイヴ」する。子供時代の記憶がいかにも走馬灯然としているのは、和子が少女の自分に別れを告げている証しだ。
 クライマックス、未来へ帰らねばならない深町を前に、「一緒に連れてけ」と懇願し、胸の苦しみに「これは愛なのか?」と問い詰める和子。それまであまりにも稚拙過ぎた原田知世の演技が、ここで反転する。いや、突然上手くなったわけではない。涙を浮かべ、自分にとっての初めての恋に必死でしがみつこうとする和子がついに女性として目覚める、あの性的興奮がマックスに達した瞬間が、原田知世の学芸会並みの演技を必要としたのである。ちなみに未来人=深町がこの時代に滞在した期間は1ヶ月。この映画は、生理中だった和子が再び生理に突入するスパンの中で語られる物語だったのだ。

 後日談として、処女のまま初恋の相手への愛を全うする和子の10年後と思しき姿が登場する。激しい恋の後の抜け殻のような、まるで修道院の尼僧のような和子が痛々しい。
 そして、深町=偽りの孫が去った後に残された老夫婦も、である。夫役に上原謙、妻役には入江たか子。尾道という土地(『東京物語』)は『時をかける少女』という作品を映画史へと組み込むためのメタ要素とも言えるが、天下の絶倫男=上原謙の登場は、映画史云々以上に、このあまりにも性的な映画における最淫のアイコンとして、ここに記した妄想を裏付けるものだ、と信じる。
 


2010.03.26

■時をかけるおれ@

『時をかける少女』(1983年) 〜2006年3月7日の日記より〜
 

 何はともあれ『時をかける少女』である。原田知世主演第1回作品&角川映画、である。

 20年以上前にビデオで鑑賞、後の作品『転校生』『さびしんぼう』を絶賛する声が多い中、「『時をかける少女』こそが大林宣彦の最高傑作である!」と豪語し続けたものであった。思春期の少女が抱く「少々タガがはずれた世界観」と「初恋の記憶」が「アイドル映画」という特殊なカテゴリーの中で見事に結晶化した作品であり、それを成し遂げたのは原田知世の「学芸会並の演技力」と尾道という「異界」であった、という理由だったはずだ。特にクライマックスで原田の口から搾り出される「胸が苦しい!これは何?これが愛なの?」は名セリフであった。
 以後、大林作品に無関心であった年月が過ぎ、久し振りに・・・・ほんとうに久し振りに『時をかける少女』を見ることになった。あの時の絶賛ぶりを確かめたくて・・・・・。

 歳をとると実に涙もろくなる。
 僕は20年以上の時を経て完全にこの作品に打ちのめされた。原田知世と高柳良一の2ショットとそのバックに流れる叙情的な音楽に、たったそれだけのシーンに何度も涙腺を緩められた。初恋の甘い記憶・・・・そんなものは小生には無い。中学時代に好きな女生徒はいたが熱烈な恋心が届くことは無かったし、高校時代はロックやアートへの関心が異性に対する興味を凌駕していた。だから、『時かけ』で描かれるような10代の思い出なんぞは一切存在しない。なのに何故泣けてしまうのだろう。同じ感覚は『小さな恋のメロディ』を再見した時にも全開であった。

 人生においてもう2度とやって来ない瞬間を見せつけ、記憶をほじくり返し、憧憬と羨望を引き出し、後悔を強い、「子供から大人に変わる」という、人生において最も甘美なエポックをはるか遠くへ置いて来てしまった自分を確認する作業。
 「何故おれはこんな風に甘い思い出を持てなかったのか?」「何故おれはこんなに薄汚れた大人になってしまったのか?」・・・・・記憶を抹消するためラベンダーの香りのする薬品を嗅がされて意識を失う瞬間、原田知世の放つ「あなたのこと忘れないわ」というセリフに小生の涙腺は最大級に開いた。

 失われた時をもとめて・・・・この映画からもう23年が過ぎてしまった。「完璧に作られたアイドル映画」という評価に変わりは無いが(エンドロール映像も含めて主題歌が素晴らしすぎ)、さらに付け加えるならば、上原謙と入江たか子が演じる老夫婦の佇まいを通して「年月を経た愛のパースペクティヴ」を見せ、「めぐりあいの神秘」と「人間はどこから来てどこへ行くのか」という哲学的命題をもきちんと射程に据えた作品であったと再評価する。あの無常感は凄い。
 
 『HOUSE』を『イレイザーヘッド』に喩えるなら、『時をかける少女』は『ブルー・ベルベット』である。
 


2010.03.26

■冷てぇ水をいっぺぇ持って来つくんない

『渇き』


 神父が吸血鬼になって人妻と関係を持つ、と聞いて、「神父」、「吸血鬼」、「人妻」という3つの言葉が脳内で上手く結び付かず、もし結び付けばこれはさぞやディープなラブストーリーになるだろうと期待したのだが、蓋を開ければ「神父」という要素はこの物語のスターターとして機能しただけですぐに消え去り、そのため人妻との肉体関係は背徳でもなんでもなく、吸血鬼に身をやつした男女が渇きを癒すために知人たちを殺害する、という、TVドラマよりもむしろニュースやワイドショーを賑わす不倫がらみの殺人事件とさしたる違いはない内容ではあるが、むしろ今回パク・チャヌクがやろうとしたのは、クローネンバーグの『ザ・フライ』でジェフ・ゴールドブラムだけではなく、もしジーナ・デイビスも一緒に蝿女になっていたら、とてつもない酒池肉林と神をも恐れぬ愛憎劇を繰り広げたのではないか、そして自分たちが生き残ろうとすればするほど周囲に死体が転がることになり、最終的には心中を選んでしまうのではなかろうか、という実験的パロディだったんじゃないか、としか思えないほど、全身のブツブツやら剥がれ落ちる爪やら超人的な怪力やら跳躍力やらといった「病んだスーパーマン」イメージが乱舞し、もう間違いなくこれはクローネンバーグ発のものだな、と確信する僕は、本当はそんなことどうでもよく、ひたすら人妻役のキム・オクビンの美しい裸体と、菊池桃子がやさぐれたような童顔に釘付けであり、ああ、代われるものならソン・ガンホと代わりたい、でもソン・ガンホも交えた3Pも楽しそうだ、などと夢想するうちに、海に面した断崖で、(やっぱりサスペンス物のクライマックスは断崖に限るな)、2人は朝日を浴びて炎上し、そして灰になる、というムーンライダーズの「アニマル・インデックス」にありそうなラストシーンは、たとえその直前に鯨が潮を噴き上げる珍奇な画がなぜか挿入されようとも、ひたすらロマンティックに映り、なんだかよくわからないがちょっとイイ話だな、と結局は思わせてしまうパク・チャヌクの勝ちかよ!と悔しくなったので、キム・オクビンは次回ポン・ジュノの映画に出演して、ペ・ドゥナとレズビアンでも演じて見せたら、チャヌクはヘソ噛んで憤死するんじゃないか、と想像するとたちまち溜飲が下がったのである。

 ああ、喉が渇いた。おーい、水ぅ!
 


2010.03.26

■ヘルツォーク+リンチの前哨戦

『バッド・ルーテナント』


 ニューヨークの奇人アベル・フェラーラによる異形のハードボイルド『バッド・ルーテナント』と同じタイトルを持ちながら、こちらはあの作品にあった背徳、閉塞感、焦燥感、闇などとは随分と離れたところにある印象だ。かつてジャングルを舞台にして、クラウス・キンスキーという怪物と苦楽を共に、いや、辛酸を舐めて来たヴェルナー・ヘルツォークが映し出すニューオリンズは、明るく、そしてドイツ人(撮影監督はチェコ人)が監督したとは思えぬほど軽やかだ。

 フェラーラ版に主演し路上オナニーまで披露したハーヴェイ・カイテルが、『タクシードライバー』以前のマーティン・スコセッシ作品と地続きにいるような内省的・破滅的キャラクターであったのに対し、ヘルツォーク版では、賭けで負け続け借金まみれになっているコカイン漬けの悪徳刑事、と単純に括れるほど明快なキャラクターを、ニコラス・ケイジが持ち前の幼稚さで演じている。このところの主演作がどれもこれもアレな感じだったせいで、彼を見るのは久し振りだ。

 ケイジの幼稚な芝居がニューオリンズで炸裂した記憶としては、当然ながらデイヴィッド・リンチ作品『ワイルド・アット・ハート』であるわけだが、ヘルツォークの次回作は、なんとそのデイヴィッド・リンチ製作による『My Son, My Son, What Have Ye Done』なる犯罪スリラーである。ヘルツォーク→リンチというベクトルにどんなモティベーションが隠されているのかを今現在知ることは出来ないが、キャスティングという外堀を攻めれば多少でも落ち着けるかも知れない。
 『インランド・エンパイア』にナスターシャ・キンスキー(父親はあいつ)が、『バッド・ルーテナント』にブラッド・ドゥリフ(『デューン 砂の惑星』『ブルーベルベット』)が、そしてヘルツォークの新作『My Son〜』には、ウィレム・デフォー(『ワイルド・アット・ハート』)とグレイス・ザブリスキー(『ワイルド・アット・ハート』『ツインピークス』)がキャスティングされていることを考えると、常人には窺い知れない怪しげなシナプスが透けて見える気がして来る。
 しかも、『バッド・ルーテナント』でニコラス・ケイジの同僚たちの中に見知った顔を見つけた。『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』ではキャシー・ベイツの頭のイカれた息子を演じてオスカーにノミネートされ、『その土曜日、7時58分』ではイーサン・ホークを脅迫するチンピラを印象深く演じていたマイケル・シャノンだ。あらかじめ犯罪の匂いを漂わせた顔面の持ち主シャノンは、ヘルツォークの次回作では主演を務めることになる。

 劇中、それまでのルックとは変えて2度ほどハンディカム撮影によってイグアナとワニをそれぞれ捉えたシークェンスが、いささか唐突に挿入されて印象深い。ハンディカムを握っていたのは他ならぬヘルツォーク自身であるが、挿入のタイミングと構図が醸し出す浮遊感は、どこかデイヴィッド・リンチを思わせる。クライマックスの銃撃戦で、まだ絶命していないギャングの魂がブレイクダンスを踊っている(それをその場にいる者たちが見ている)、という超現実感も同様だ。どこかがおかしい、この贖罪の物語は。

 そして主人公の贖罪は何の葛藤も苦しみも伴わず、突然奇跡が訪れる。まるで宝くじでも当たったように。ラスト、立て続けに起こった奇跡に呆けるニコラス・ケイジであるが、彼がいるのは水族館の巨大水槽の前だ。フェラーラ版とあまりにも異なる強烈なハッピーエンド。この映画は、「蛇」で始まり、「魚」で幕を閉じる。蛇と魚をそれぞれキリスト教のアイコンとして捉えることも可能だろうが(魚はキリストの象徴という意味があるらしい)、そんなものは邪推だ、と言わんばかりにニコラス・ケイジのバカ面は多幸感にまみれている。
 そしてそれは『ワイルド・アット・ハート』で演じたセイラーの20年後を妄想させるに充分過ぎるバカ面だった。

 この映画を見た2日後、師匠の滝本誠を誘って吉祥寺の洒落た店で呑んだのだが、ビルの2階にあるその店の入り口へと至る回廊が、まるでニューオリンズ名物のバルコニーさながらで、身を乗り出すと路地を行き交う人々を俯瞰出来る作りになっていた。
 そこを歩く滝本誠がすかさず
 「お、ノワールだな」
 と言い放ち、僕を含む3名は「出ました!」と師のクリシェに安易に苦爆笑してしまったのだが、今思えば、ヘルツォークからリンチへの連鎖を見通すことなんて、滝本誠にとっては実に簡単なことだったのかも知れない。
 


2010.03.17

映画館であんなに泣いたのは初めてである

『ある日どこかで』(1980年) 〜六本木TOHOシネマズ「午前十時の映画祭」にて〜

 『燃える昆虫軍団』(1975年)、『ジョーズ2』(1978年)、『スーパーガール』(1984年)、『サンタクロース』(1985年)などという、まったくもって輝かしいキャリアの持ち主、Jeannot Szwarc(ジャノー・シュワーク、ヤノット・シュワルツ、まあどっちでもいいや)。そんな彼のフィルモグラフィ中、たった1本無条件に傑作であり、いまもなお愛され、語り継がれているカルト的名作が『ある日どこかで』(原題「Somewhere In Time」)である。なんと1995年には天海祐希主演で宝塚歌劇にもなっていると知って驚いた。

 1980年、ふとしたことで青年劇作家リチャード(クリストファー・リーヴ)は1枚の肖像写真と出会い、恋に落ちる。その写真は1912年に撮影されたもので、女性はその写真が飾られているホテルで舞台公演を行った女優エリーズ(ジェーン・シーモア)だった。
 スーパーマン=クリストファー・リーヴがあの端正な顔立ちで演じる狂熱の恋に、観る者はシンクロする。ジェーン・シーモア(元ボンドガール。当時28歳)のなんとも憂いを帯びた、しかし優しさに満ちた美貌を写した肖像に釘付けだからだ。彼女に恋をしない者はここでこの映画から振り落とされる。なぜならこの後、驚愕の展開が待っているのだ。

 なんとしてもエリーズに会いたい。1912年のあのホテルで彼女に会いたい。彼女のことを図書館で調べ尽くす中で、リチャードはなぜか大学時代の恩師の書いた時間旅行に関する本を見つけ、彼からその方法を授けられる。

 それは、完璧なコスプレをして、強く念じること

って、正気か!?
 しかし、アンティークショップでヴィンテージ物のスーツや古銭を揃え、何度目かのトライでリチャードは見事1912年へとタイムトリップすることに成功。麗しのエリーズに会い、愛を告白し、そして・・・・・。

 恋という、狂気にも通ずる感情が起こす奇跡の物語を書いたのは、「トワイライト・ゾーン」シリーズやスピルバーグの『激突!』、70年代ホラーの名作『ヘルハウス』の原作者リチャード・マシスン。ラヴ・ロマンスをファンタジックに描きながらも、時間旅行物が特権とする様々な伏線とその回収の仕方はあまりにも見事で、『ターミネーター』や『タイタニック』を見ると、ジェームズ・キャメロンがこの作品からも色々と頂戴していたことは明白である。

 まるでスーラの絵画のような風景の中、リチャードとエリーズが散歩を楽しむ場面はこの作品の白眉だ。撮影を担当したのはIsidore Mankofsky(この名前声に出したくね〜)なるカメラマンだが、『ある日どこかで』以外ほとんどの仕事はTV業界である。B級監督とB級カメラマンが、どこをどう間違ってこのような傑作を物にすることが出来たのか、映画の神が微笑んだ、としか言いようがない。
 そして、この映画を決定的に素晴らしいものにしているのは音楽である。天才ジョン・バリーによる、『美しき冒険旅行』の変奏曲とも思える、切なく美しいスコア(監督にジョン・バリーを推したのはジェーン・シーモアである)。そして彼らの仲を取り持つキーとして使われるラフマニノフ作曲「パガニーニ主題のラプソディ」が、前述の散歩のシークェンスをこれ以上ないくらいにロマンティックなものにしている。

 幸福の絶頂も束の間、たった1つのミスからタイムトラベルは突如終わりを迎える。観る者も一瞬にして現代へと引き戻され、その後のリチャードを涙なしに観ることは出来ない。ジョン・バリーによるテーマ曲が流れるエンドロールの間中、僕は涙を流し続けた。
 あまりにも恥ずかしいので、人前でこの作品を観ることはもうやめようと思う。
 


2010.03.17

■いい邦題だと思う

『狼の死刑宣告』

 昨年単館上映された際に見逃していたが、新文芸坐という最高の上映環境で見られることになって良かった。
 ちなみにこの日の2本立て、併映は『イングロリアス・バスターズ』だったが、時間が無くて見ず。

 シリーズ化され、引っ張れば引っ張るほど、迷走し間抜けに成り下がったと思しき「SAW」シリーズだが、その第1作は、「生き残りたければ自分の足をノコギリで切れ」(タイトルがズバリそれ)、という『マッドマックス』の復讐シーンのパクリから逆算して作ったかのような、つまり豪州製グラインドハウス映画へのオマージュがモティベーションとなっているような作品だった。だからホラー監督だとばかり認識されていたジェームズ・ワン監督が、グラインドハウス映画の定番=復讐物を手掛けるのはごく自然なことだ。

 四半世紀前、『フットルース』で一世を風靡した青春スターが、投資会社の部長クラスの中年を老眼鏡までかけて演じていることに、なんとも深い感慨を覚える。ケヴィン・ベーコン、もう50歳である。妻と2人の息子を愛してやまない、優しく勤勉な父親が、ストリートギャングの1人に長男を殺され、復讐のため彼を殺したことが火種になって、全面戦争へと転がって行く。最初こそオドオドと警察に頼るものの、妻も殺され、次男まで重体にされるに至り、ついに野獣と化してギャングどもに立ち向かう覚悟を決めるのだが、このあたりからベーコンの精悍なマスクが俄然輝き出す。

 復讐物の名作、チャールズ・ブロンソンの「DEATH WISH」シリーズをなぞりながらも(それもそのはず同じ原作者だ)、拳銃を購入するシーン、頭髪を切り落とすシーンはもちろん、ラストにおける首を抑えて血まみれでソファーに座る構図など、『タクシードライバー』への多大なる憧憬をジェームズ・ワンは隠さない。観ているこちらは、恥ずかしくもあり微笑ましくもあり、といったところか。
 だがオマージュだけで綴ったようなこの映画の中で、一際素晴らしいシークェンスがある。それは前半で、ギャングどもに追われるベーコンが立体駐車場ビルに逃げ込んだところを、異なるフロアにいるベーコンとギャングをビルの外を伝って交互に捉えながら、1ショット長回しで見せるチェイス・シーンである。『トゥモロー・ワールド』も真っ青のミラクルなカメラワークだった。

 ギャングの頭の父親で、尚且つケヴィン・ベーコンに拳銃を売るディーラー役をジョン・グッドマンが凄みをもって演じている。被害者と加害者、2人の父親が対峙する場面の緊張感と、グッドマンが吐いてみせる粋なセリフに痺れる。
 ラスト、多量の血を流しながらもベーコンの絶命までは映さないところを見ると、あわよくばシリーズ化するチャッカリさは相変わらずなのだろう。ま、それもまたグラインドハウス精神、てことだが。
 


2010.03.17

■リンチ・トゥ・リンチ

『サベイランス』

 片田舎で連続する残忍な殺人事件。3人の目撃者が保護され、そこへ到着するFBIエージェントの男女2人組。別々の部屋に目撃者たちを置き監視カメラを通しての事情聴取。犯人は覆面を着けていたらしい。彼らは一体何者か?
 『パーフェクト・ゲッタウェイ』の記憶もまだ新しいのに、こんな映画も無いもんである。FBIの2人組ビル・プルマンとジュリア・オーモンドが登場するやいなや、この映画は犯人探しを放り投げてしまう。おまけに、種明かしの方法まで『パーフェクト・ゲッタウェイ』に似ている、と言えなくもない(製作年は『サベイランス』の方が先である。念のため)。謎解きを楽しむ作品でないことは、この映画の監督がジェニファー・リンチであることからすれば、まあ当然だ。

 『ロスト・ハイウェイ』から11年、すっかりメタボ体型になったビル・プルマンが、不穏な色香を振り撒いていてなかなかよろしい。かつては『インデペンデンス・デイ』で合衆国大統領を演じたプルマンだが、大統領からサイコキラーまで演じた俳優、というのも珍しいのではないか。ちなみにあの映画でファーストレディを演じた女優メアリー・マクダネルは現在TVシリーズ『ギャラクティカ』で大統領役だ(ヒラリーかよ)。
 お行儀の良い英国人女優ジュリア・オーモンドにそもそも驚いたのは『インランド・エンパイア』への出演だったが、『サベイランス』でのブチ切れ変態演技を前に、ビル・プルマンのサイコぶりは霞んだ。英国人女性らしい冴えないビミョーな美貌が、あれほど輝くとはね。
 警察署長役でマイケル・アイアンサイドが顔を見せるのもうれしい。クローネンバーグ作品で見出され、ヴァーホーヴェン作品での怪演を経て、最近はフツーのおじさんを演じられるほど老け込んだ印象があったが、これを機にリンチ組の一員となることを切に望む。
 ちなみにジェニファー・リンチはデビュー作『ボクシング・ヘレナ』で、『ロボコップ』の悪役カートウッド・スミスをキャスティングした過去があるが、デイヴィッド・リンチの遺伝子とポール・ヴァーホーヴェンとはいかなる邂逅か、それとも運命か。

 『ボクシング・ヘレナ』では父親に似ず、意外にもカッチリとして判りやすい、増村保造ばりに屈折したラブストーリーを撮った印象・記憶のあるジェニファーだが、今回は随分と父親へのリスペクトを隠さぬ作風になった。やりたい放題のビル・プルマン&ジュリア・オーモンドのカップルは、『ワイルド・アット・ハート』のセイラー&ルーラのダークサイドを肥大させた怪物とも見えるし、ラストでただ1人生き残る少女の、ある意味最も不気味な存在感は、『デューン 砂の惑星』の少女アリアを思い起こさせるものだ。

 途中、少女がビル・プルマンに耳打ちするシーンがあるが、そのセリフはラストまで明らかにはされない。そのセリフが判明した瞬間、それまで単純に見えたサイコスリラーの真ん中に穿たれ、そして広がった闇に、僕は既視感を覚えた。
 


2010.03.17

■マザー・メイド・ノワール

『フロ−ズン・リバー』

 国境とはなぜこうもノワールなんだろう。
 密入国者、密輸業者、越境を試みる犯罪者、ブローカー、彼らの懐をあてに商売する者、そして警察と国境警備隊。アメリカの場合、これらにもう1つ「熱気」が加われば、それはメキシコとの国境地帯を舞台にしたフィルム・ノワールと決まっているが、代わりに「冷気」で満たしたのがこの映画である。カナダとの国境に接する北米の辺境。メキシコ人ではなく、ネイティヴ・アメリカン=モホーク族が、これと言って特徴の無い田舎町を異空間へと捻じ曲げていて、ノワールの舞台としては申し分ない。

 食いつめた者たちのネガティヴなメンタリティを、雪と氷が犯罪へと駆り立てる。国境に横たわる、車で渡れるほど厚く凍った川。トランクに不法移民を積んでひた走るのは、『恐怖の報酬』のようなタフガイではない。白人とモホーク族、2人の母親だ。かたや子供たちと暮らす家のため、かたや義母に奪われた幼な子を取り戻すために、白人が運転する車は調べられない、というメリットだけでコンビを組み、稼ぐ彼女たち。
 主人公の白人女性を演じるメリッサ・レオは、『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』でダイナーのリアルにくたびれたウェイトレスを演じ、強烈な印象を残したが、あの映画もまた国境地帯を背景に白人とメキシコ人という肌の色の違う者たちの友情を描いた作品だった。
 対するモホークの女性を演じるのはミスティ・アップハムという女優で、鳥ガラのようなメリッサと好対比を成すふくよかなルックスが、このバディ・ムービーを「痩せとデブ」という絵で支えていて、寒々しい空気の中安定感を醸し出している様が真に素敵だ。

 中盤、パキスタン人夫婦を密入国させる際に預かったバッグを、どうせ爆弾だろうと途中で捨ててしまうのだが、実は中に入ってたのは赤ん坊だった、というエピソードが、それまでギスギスしがちだった2人の関係を一気に修正するあたりの展開がにくい。
 この映画、主人公が女性なら、プロデューサーも監督(&脚本)も女性である。女性ならでは、というフレーズが差別的な表現かどうかはともかく、このサスペンスの着地点を過度にハートウォームとしなかったのは、監督が男ではなかったからである、と直感した。

 クライマックス、主人公たちの前に立ちはだかる民族問題と、母親としての尊厳を天秤にかける選択のドラマが観る者を震わせ、ラストシーンの温かな光景にアメリカという国の未来を重ねたくなる。
 母親たちが作ったフィルム・ノワールには、凍てついた中にも最後、一筋の光が射す。
 


2010.03.11

■祝 アカデミー賞受賞

『ハート・ロッカー』

 僕が『ハートブルー』という作品をこよなく愛していることは「Poster Collection」のページ内で既に書いた(こちら)。
 アクションに妥協の無い女。男以上に男をわかってる女。心にキンタマをぶら下げている女。しかもそのルックスたるやファッションモデルのように美しい女。その女はキャスリン・ビグロー。

 そんなビグロー叔父貴(おじき)がイラクを舞台に爆弾処理班の活躍を描く・・・・期待するなと言う方がどだいムリである。
 主人公はスリル・ジャンキーに決まってる。防爆服なんぞ邪魔。脱いじまえ!眼を輝かせ、嬉々として爆弾の解体作業をこなす男。切るのは赤いコードか青いコードか。全身から噴き出す汗。死と隣り合わせであることが無上の喜びであり、危機的状況が一触即発であればあるほどアドレナリンの量も増える。そして興奮が絶頂に達したところで勘に任せて赤いコードを切断し、自分がまたもや生き延びたことを知る。次の瞬間仰向けに倒れ、笑いが止まらない男。そして言い放つ。「セックスよりイイぜ!」と。
 『ハートブルー』と同じじゃねぇか!と言われようとも、僕はビグロー叔父貴にそんな作品を期待していた。

 だがふたを開けてみると、『ハート・ロッカー』はそんな映画じゃなかった。

 ザラついた画面。絶えず揺れ動くカメラ。ズームの乱用。これらはもちろんドキュメンタリー風味を出すのに有効なテクニックだが、それは戦場の緊迫感をリアルに再現してはいるものの、爆弾処理自体にはスリルも興奮も与えない。あのようなルックは爆弾処理というモチーフと相性が悪い、としか言いようがない。フラフラ、ヨロヨロとしたカメラの前では、爆弾と1対1で向き合う男の表情を味わうことも、感情も読み取ることも出来ない。しかも爆弾の解体作業のディテールを見せることもない。つまりこの映画は、爆弾処理という仕事を魅力的に(つまり映画的に)描くことをことごとく避けているとしか思えないのだ。だから、自分を殺そうとしたメカニズムの一部を切り取って戦利品にしている、という設定にもフェティシズムは無く、面白味もない。

 この作品で最もスリリングだったのは、中盤、砂漠の真ん中で展開する遠距離射撃戦である。比較的カメラの揺れないこのシークェンスは、爆弾とは関係ないくせに意外にもジリジリと長く、しかしその緊張感の持続は見事で、主人公たち処理班が絆を深めることになる前半と後半の結節点としては、ビグロー叔父貴の漢(おとこ)っぷりが最大限に発揮された重要な場面と言える。『ジャーヘッド』など、ビグロー叔父貴が撮っていればとてつもない傑作になったんじゃないか、と今更ながらに思う。
 このシークェンスの最初には、ビグローとは『ストレンジ・デイズ』で組んだレイフ・ファインズがアラブゲリラのようないでたちで登場するが、あんな役に英国人俳優を持って来るところなんぞは『アラビアのロレンス』のパロディ然としていて楽しい。

 パロディと言えば、デヴィッド・モースが1シーンだけゲスト出演しているのだが、そのキャラクターがどう見ても『地獄の黙示録』のキルゴア中佐だった。もう1人のゲスト、ガイ・ピアースも冒頭でいい仕事をしている。爆弾が破裂した瞬間、カメラはフィックスになり、地面の小石が跳ね上がり、爆煙が吹き上がる手前を防爆服のピアースが走って来る、という一連のスローモーションは非常に美しかった。しかしその後、映画は爆弾の破裂をスペクタクルとして見せることをやめてしまう。スピルバーグが『ミュンヘン』で見せた音響との合わせ技がいかに素晴らしかったかが思い出される。

 主演のジェレミー・レナーの、まるで漫画家のちばてつやが描いたようなしょぼくれた顔に見覚えがあったのだが、そういや『ジェシー・ジェイムズの暗殺』と『28週後・・・』に出てた俳優だった。彼の存在感は決して悪くなかった。

 ちょうど30年前、1980年の3月、僕は『地獄の黙示録』に出会った。観る者をヴェトナム戦争の混沌へとトリップさせる、それまで体験したこともないような映画に、当時中学生だった僕は戸惑いつつもウットリした。これは戦争映画なんだぞ・・・う・・・でもなんてキレイなんだ、と。
 『ハート・ロッカー』は、映画の最初で「戦争はドラッグである」と、そのテーマをまず唱えてしまう。ラストではきっちりと、主人公にとって戦争は確かにドラッグである、と描かれてもいる。そんなことは理解出来る。頭では。

 しかし、戦争はドラッグかも知れないが、この映画はドラッグではない。

 イラク戦争の最前線での爆弾処理を、不謹慎なまでにスリリングなイベントとして描くことで、観る者にアドレナリンを噴出させ、処理に従事する者が毎度毎度享受している‘死に至る快楽’を追体験させてこそ、「な?戦争って麻薬みたいだろう?」と語りかけることが出来るのではないか。そしてそんな危険な‘遊び’が出来るのは、キャスリン・ビグローしかいないのではないか。『ハートブルー』という映画は、出来の善し悪しはともかく、繰り返し見たくなる麻薬のような映画だったんだよ。

 残念だ。『ハート・ロッカー』が‘21世紀の『地獄の黙示録』’にも、‘イラク戦争版『ハートブルー』’にもなることはなかった。いや、もちろんそんな映画にするつもりなどハナからなかったのだろうが。
 でもアカデミー監督賞受賞おめでとう、叔父貴。次回はいっそのことギャング映画でも撮ってくれよ。