Diary

■2010年5月

2010.05.02

■スペース・オディティ

『月に囚われた男』 (ネタバレを避けて書いたつもり)


 環境汚染や食糧危機といった未来図が提示される、『ソイレント・グリーン』(1973年)を彷彿とさせるオープニング。しかしそれに続くのは、月で採掘された岩石を元に精製したエネルギーがそんな悪夢から人類を救う、そしてそれを担っているのは我々である、という自信たっぷりのナレーションだ。
 企業広告やプロパガンダで幕を開けるSF映画が、これから始まる物語をシニカルな視点で描くつもりであることは、ポール・ヴァーホーヴェン作品を見ている人間であればすぐにピンと来る。しかも、その企業がアメリカと韓国の合弁会社であるという設定は、『エイリアン』(1979年)で異星生命体を軍事利用しようと画策する日米合弁企業「ウェイランド湯谷」を即座に思い起こさせる。

 ランニングマシンでエクササイズ中の男。窓の外は月世界。その男サムと会話するコンピュータ「ガーティ」。宇宙服を着込み、ハッチを開け外に出てバギーに乗り込むサム。バギーの向かう先では、大型作業車が地表を掘削し岩石を跳ね上げながら移動している。そこは月ではなく、まるでトウモロコシ畑であるかのようだ。そしてサムはアストロノーツと言うよりは、さながら農夫か炭鉱夫である。

 基地と採掘作業車を往復し、精製したエネルギー「ヘリウム3」を詰めたカプセルを地球に向けて射出する日々。退屈な月面でのルーティンワークを映し出すこのメインタイトル・シークエンス(映画内空間に浮かんで見えるクレジットは『パニックルーム』と同じ)は、息を呑むほど美しくスペクタキュラーであり、SFXと言うよりは敢えて「特撮」と言いたくなる手触りを持っている。往年の『サンダーバード』が得意としていた「ミニチュアを使ったハイスピード撮影」が独特の重量感を醸し出し、そこへコンピュータ加工を施すことでディテールアップとスケール感を獲得するという併せ技。英国人の伝統技術が生み出す月世界風景には、『アバター』の3D画面よりもはるかに奥行きがある。かつて宇宙軍大元帥=野田昌宏は「SFは絵だねえ」と言ったが、これほど「SF感」を味わえる絵に出会ったのはいつ以来だろう。

 この映画は、世界のエネルギー産業の7割を独占する企業「ルナ・インダストリーズ」が3年間の契約で月面採掘基地に送りこんだ作業員サム・ベルが、任期終了間際の2週間で体験する、奇妙な冒険の物語である。愛する妻と娘を地球に残して月へやって来た一企業の奴隷が、ある事故をきっかけに自分が何者であるかを発見し、そこから運命を変えようと行動に出る、戦いと死と、そして再生の物語である。
 主演のサム・ロックウェルは、『コンフェッション』でCIAの工作員とTVプロデューサーという2つのアイデンティティの間で引き裂かれそうになる男を笑いと狂気のうちに演じていた記憶があるが、ここでのロックウェルも、特殊な環境に置かれた労働者が味わう悲哀や寂寞、己の正体を知った者が抱える苛立ちを、巧みに演じ分けている。彼の目覚まし時計から流れるのは、90年代英国のシンガー、チェズニー・ホークスのヒット曲(作曲はニック・カーショウ)「The One And Only」だ。なんというアイロニー。
 ちなみにケヴィン・スペイシーがコンピュータ「ガーティ」の声を演じているが、ウォームかつクールというアンビヴァレントな彼の声質は、『2001年宇宙の旅』で「HAL9000」の声を演じたダグラス・レインと同質のものである。

 デイヴィッド・ボウイの息子が「ゾウイ」という名前であるのを知ったのは、今から30年ほど前、雑誌「ロッキング・オン」でだったと思う。成長したゾウイ・ボウイ、いやダンカン・ゾウイ・ジョーンズがまさか映画監督に、まさかこれほどまでにSFマインドを湛えた映画を撮ることになろうとは、この不思議な感慨をどんな言葉で表現すればいいのだろう。90年代に滝本誠師がデイヴィッド・ボウイにインタビューした際、かのロックスターは「最近の若者はSFを読まなくなった」と嘆いていたと聞く。そんな父親の嘆きに、息子は、まるで短編SF小説を読んでいるような気分を味わわせてくれる作品で応えた、と言えよう。

 この映画を豊かにしているのは、散りばめられた過去のSF作品へのオマージュだ。前述の『サンダーバード』を制作したジェリー・アンダーソン(英国ITC)による『スペース1999』を彷彿とさせる月面描写。『2001年』や『エイリアン』と直結したインテリア・デザイン。「HAL9000」や「マザー(おふくろさん)」に対抗するようなキャラクターに設定された「ガーティ」。救助班が到着するまでのサスペンスは『アウトランド』。植物に話しかけるサムの姿は『サイレント・ランニング』。さらには、父親が主演した『地球に落ちて来た男』で効果的に使われていた「卓球」までもが登場する。それらオマージュの数々は、懐古趣味でもスノッブでもどちらでもない。観客にとっては小さいが、しかし主人公にとっては大きなこの物語を支えるヴィジュアルとして、堂々と機能している。

 70年代に量産されたパニック映画が80年代以降になってアクション映画に取り込まれてしまったように(『ダイハード』や『スピード』)、SF映画というジャンルもアクションやホラーという他ジャンルへと吸収され、純粋に「これはSFだ」と言える映画はほぼ死に絶えてしまった。キューブリックやスコットの継承者が欲しいとまでは言わない。SF映画をもう1度子供の手から奪還する者はいないのか、とここ数年思い続けて来た。本物のSF映画の不在、ここ数年(10数年か?)の空白を『月に囚われた男』は一気に埋めてくれた感がある。
 映画はいくつかの謎を残したまま終わってしまうが、それがデビュー作につきものの拙さ・粗さゆえなのか、それともキューブリック的確信犯なのかは判然としない(僕なりの解釈はあるがここには書かない)。しかし、それでも『月に囚われた男』は紛れもない原石だ。そんな原石が、『サンダーバード』と「ジギー・スターダスト」、そして「ドリー」という名の羊を生んだ国から出現したのだ。

 ベートーヴェン作曲「月光」を解体・再構築してロック・ビートに乗せたかのようなクリント・マンセルによるテーマ曲が、映画の鮮やかな幕切れに憂鬱かつロマンティックな余韻を与えて、震えが来るほど素晴らしかったことを付け加えておく。


2010.05.02

■『アバター』に凹んでる場合ではないぞ、押井に樋口

『第9地区』


T: 
 この映画は大まかに分けて4つのルックで構成されている。

@映画そのものの視点(監督・撮影監督・観客が見ている通常の視点)

A主人公ヴィカスを追う密着取材映像(右下に会社のロゴ「MNU」が出てるやつ)

B事件を報道するTVのニュース番組映像

Cこの映画で描かれる事件を後に述懐・検証する関係者や研究家のコメント

 Cの挿入は、これから起こることを観客に推測・期待させる、物語にとって効果的な牽引力となっている。

 難点は@の映像に落ち着きが無いこと。展開上Aがかなりの頻度で挿入される前半では、@とAのメリハリが無く、そこへBもCもたびたび挿入されるので、見ていて混乱し(まあそれが作り手の意図かも知れないが)、この映画の世界へと侵入することが難しかった。単に「揺れ動くカメラが嫌い」という僕の趣味趣向の問題だと思うが、『ハート・ロッカー』に乗れなかった悪夢再び、である。

 だから、Aが姿を消す中盤からは「映画の視点」にシフトし、主人公ヴィカスと宇宙人クリストファーがタッグを組むという燃える展開のおかげもあって、やっと作品に入り込めるようになったが、それでもカメラの動かし方は気になった。昨今の流行なのだろうが。動くべきなのは人物(宇宙人)の方であるはずなのに。

U:
 地表を破って現れる司令船が、『エヴァ』に登場するUNのヘリに(サイズは小さいが)外見が酷似している。ここからこの映画の快進撃が始まる。

V:
 クライマックスのパワー・アーマー(コンバット・アーマード・スーツ、エクソスーツなど呼び方は色々)と最新型の銃器で武装した傭兵部隊とのバトルがとにかく素晴らしい。人間たちを粉砕するゴアな描写には手加減が無いし、被弾してよろけ、くずおれ、それでも這い上がり、力尽きるまで戦うことをやめないマシン(=主人公)の姿には拍手だ。おまけにミサイル発射シーンでは「板野サーカス」まで披露する。これほどまでにロボットに興奮させられたのは『ターミネーター』以来か。『トランスフォーマー』なんぞよりも、よっぽど重量感も魂もある。

W:
 説明不足や伏線の未回収がこの映画の欠点だと言われているようだが、この映画にとってそんなものは問題ではない。全ては宇宙人の仕業である。研究家も「わからない」と最後にちゃんとコメントしている。

X:
 無自覚に暮らしていた者が、ある日突然非現実的な事件の当事者に祭り上げられ、戸惑いながらも戦いを通してやがて覚悟を決めて行く、という意味では、『第9地区』に近いのは『アバター』ではなく『ターミネーター』である。

最後に:
 『アバター』を見た押井守が「10年かけても追いつけない」というマゾヒスティックなエールを送ったと聞くが、彼や樋口真嗣を筆頭とするアニメ関係者が『第9地区』を見た後で、「またやられちゃったね」などと卑屈な笑いに顔を引き攣らせながらも、それでもまだ賛辞を贈ることをやめないとしたら、彼らはもうおしまいである。世が世なら切腹もの、北朝鮮だったら言わずもがな。
 ジェームズ・キャメロンなどではない、南アという映画マーケットの辺境から出て来た新人監督が、無名の俳優たちを使って、SF映画としては決して多くない3千万ドルという予算で作り上げたこの映画は、『アバター』によって付けられた日本のアニメ関係者の傷口に強烈な塩を擦り込んだはずである。
 


2010.05.02

■大分時間経っちゃったので2本まとめて

『ブルーノ』

 ご存知サシャ・バロン・コーエンのリアリティ・お騒がせ・コメディ。今回はオーストリアからやって来たゲイの自称ファッション・レポーター。
 視聴者代表の前で番組プレゼンしたり(一物をブルンブルン振り回し、その一物が最後に喋るという場面は塗り潰されてた)、霊媒師の前で「エア・フェラ」をやったり、スワッピングパーティで本気で鞭打たれたり、黒人ばかりの公開番組に「iPodと交換した」と黒人の子供を連れて出演したりと、どのシーンも気まずさに苦笑するばかりだが、数あるいたずらの中でも、パレスチナの過激派の前で「アンタたちの親分(オサマ・ビン・ラディン)はホームレスのサンタだわ」と言い、洒落にならない空気になるところがやり過ぎ感のマックスか。
 スティービー・ワンダーのことをドイツ訛りで「スティービー・ウンダバー」ってのも笑った。
 というわけで、『ボラット』の時と同じパターンで付き人との珍道中が繰り広げられ、なんとか無理やりハッピーエンドに落ち付いちゃうのだが、ラストでとんでもないサプライズ・ゲストが複数登場する。誰が登場するかここでは言わずにおくが、僕のあんぐり開いた口がエンドクレジットの間中塞がることはなかった。とにかく衝撃。

『シャーロック・ホームズ』

 ロバート・ダウニーJr.は僕と同い年である。自身のズッコケ人生とリンクしたような役柄が彼のフィルモグラフィを飾って来たが、『アイアンマン』〜『シャーロック・ホームズ』〜『アイアンマン2』と、40歳過ぎてヒーロー役にハマるなんて素敵過ぎるな。キアヌ?ブラピ?ジョニデ?いやいや、この世代の俳優たちの中で最も輝いてるのはダウ兄(にい)だよ。しかも相棒ワトソン博士にジュード・ロウとは。これほど美しいコンビによるバディ映画が今まであっただろうか。
 コナン・ドイルの原作シリーズをいくつか読んだのは小中学生の頃。今回のホームズ&ワトソン像に違和感が無かったわけではないが、これはこれでいい。ガイ・リッチー、初めて良い仕事をしたじゃん。彼お得意のハッタリ演出とケレンは、英国のタランティーノを気取った似非クライムフィルムなんぞよりも、ビッグバジェットの娯楽作品でこそ活かされるべきだと判明。
 
ラストで盗まれた発明をめぐる宿敵モリアーティ教授との対決を描くであろう続編に期待だ。ロンドン万博でのクリスタルパレスを使用してのスペクタクル、は時代的にちょっと遅いか。じゃあパリ万博で、エジソンも交えてよろしく。