FRENZY
『フレンジー』(1972年)

1972. British Quad. 30X40inch. Folded.


■お帰りなさい、ヘンタイ

 今となっては不思議だが、公開当時『引き裂かれたカーテン』(1966年)と『トパーズ』(1969年)は不評で、「ヒッチコックはもうダメではないか」などと言われたらしい。そんな彼が、生まれ故郷ロンドンを舞台に作り上げた『フレンジー』(frenzy=狂乱・逆上・錯乱)は、「復活作」と歓迎された。
 テムズ河上空の空撮映像に、ロン・グッドウィンによるオーケストレーションが、まるでエルガーの交響曲のように格調高く響くオープニング。これから始まる恐怖の物語とのミスマッチぶりがなんとも素晴らしいが、ヒッチコックの凱旋そのものを祝福している幕開けには、ヘンリー・マンシーニが当初作曲した不穏な旋律(マンシーニは途中で降板させられた)よりも、むしろグッドウィンのテーマ曲の方がぴったりだ。
 この作品には、かつてのヒッチコック映画のように美男も美女も登場しないし、スタジオ撮影がもたらす人工性も無いし、特撮を使ったスペクタキュラーな見せ場も無い。黄金時代のヒッチコック作品とはそのルックがかなり異なっていながらも、いやそれら美しさ・華やかさを捨て去ったからこそ、彼の神髄がかつて無いレベルで露呈することになった。それは「ヘンタイ」である。

■ヌードあります

 他のヒッチコック作品同様、この映画にも原作がある。アーサー・ラ・バーンの小説「Goodbye Piccadilly, Farewell Leicester Square」。新聞を騒がせる「ネクタイ絞殺魔」、彼に濡れ衣を着せられた男、そして真相を究明する刑事の三者を軸に物語は展開する。連続快楽殺人者を描くわけだから、誰が撮ろうが多かれ少なかれヘンタイにならざるを得ないが、『サイコ』でジャネット・リーの死に顔をじっくりと見せたヒッチコックは、『フレンジー』であれを超える死に顔へのフェティシズムを披露する。

 市中心部の「コヴェント・ガーデン」(この頃はまだ現役の青果市場だった)で果物商を営むラスク(バリー・フォスター)はいかにも街の名士といったナイスガイだが、ブレンダ(バーバラ・リー・ハント)の経営する結婚相談所へ来るなりその正体を現す。2人の会話からラスクが「特別な趣向を持つ女性」を所望していることがわかる。ネチネチと詰め寄った挙句にブレンダをレイプしてしまうラスク。美人ではあるが若くはないブレンダが服を脱がされるショット(ボディダブルだが)で露わになる豊満な肉体が醸し出すダイレクトなエロスは、それまでのヒッチコック作品には見ることの出来なかったものだ。グレース・ケリーの気品溢れるゴージャスとは打って変わった、庶民レベルでの、しかもイギリスという美人に乏しい国のそこそこの美人が、乱暴に下着を剥ぎ取られるシチュエーションのリアリティは、それだけでまず衝撃的である。

■Lovely! Lovely!

 「Lovely! Lovely!」と叫びながらブレンダの脚の間で腰を突き動かすラスクだが、ブレンダが一瞬見せるきょとんとした表情から、もしかしてラスクは性的不能なのではという勘繰りが可能だ(マザコンを窺わせるシーンもある)。
 ここで想起が可能なのは、デイヴィッド・リンチ作品『ブルー・ベルベット』でデニス・ホッパーが演じたヘンタイ野郎フランク・ブースである。ドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)を「Mammy!」と呼び、彼女に馬乗りになって腰を振るも肝心の行為には至らないフランク。ジョン・フィンチとデニス・ホッパーの「キレた演技」には同種の狂気が宿っている。
 そんなフランクは、クライマックスで拳銃を片手にクローゼット内のジェフリー(カイル・マクラクラン)を探しながら、「Pretty! Pretty!」と叫ぶのである。バーバラ・リー・ハントの熟れ切った肉体がイザベラ・ロッセリーニのそれを思い出させることも恥ずかしながら付け加えておく。
 ついでに言えば、『ブルー・ベルベット』に関しては『サイコ』との相似もいくつか。ジャネット・リーの着替えを壁穴から「覗く」シーンや、消えたリーを妹と一緒に探す彼氏の「探偵ごっこ」ぶりや、その彼が「金物屋」を営んでいること、など。偶然と言ってしまえばそれまでだが。

■死に顔

 ラスクはレイプだけで満足しない。タイピンをはずしゆっくりとネクタイを緩める。ここでブレンダはようやくラスクが「ネクタイ絞殺魔」であることを察知するがもう遅い。首を振って苦悶するブレンダと鬼のような形相で締め上げるラスクがクローズアップで捉えられ、合間にはギリギリとネクタイが首に食い込むディテールが執拗に繰り返される。
 そして、ついに事切れ静かになった後挿入されるカットはショッキング極まりない。ほんの短いカットでありながら、ブレンダの死に顔は強烈な印象を与える。大きく見開かれて虚空を凝視した目と、何よりも目を惹くのは、何か別の生き物のように口からダラリと吐き出された舌だ。怖ろしさを通り越してどこか滑稽さすら漂うその死に顔は、さらにはエロティックな妄想さえ呼び覚ます。
 ちなみに、アウトサイダー・アートの画家ヘンリー・ダーガーが描く首を絞められた少女たちが、どれもこのブレンダに酷似した表情を見せているのが興味深い。

 死体の表情に恐怖と滑稽さを同居させたように、『フレンジー』にはヒッチコックが得意として来たブラックな笑いがこれでもかと詰め込まれている。有名なクライマックス近くに用意された「ジャガイモのシークェンス」など、悪ノリここに極まれり、といった感がある。
 スター俳優をあえて起用しなかったことで、そして古巣ロンドンを舞台に選んだことで、ヒッチコックはアメリカ時代には無かった自由を手に入れたのではないか。そして、キム・ノヴァクへの、グレース・ケリーへの、ジャネット・リーへの、ティッピ・ヘドレンへの屈折した恋慕=劣情の発露が、この連続快楽殺人の映像化に結実したのではないだろうか。
 ラスクは首を絞める前にブレンダをこう罵る。
 「売女め!女なんてみんな同じだ!」

 ヒッチコック作品中屈指の高ヘンタイ度を誇る『フレンジー』は、小生のフェイヴァリット・ヒッチコックである。ポスターはもちろんイギリス版で決まり!


1972. French Lobby Cards.

絞殺シーンをこんなにたくさん見せてくれるカードを作ったフランスも偉い。