1970. French. 116 x 154 cm. Folded.

イタリア版と同じPiero Ermanno Iaiaがフランス向けに描き下ろしたイラスト。トリミングされてドイツ版にも使用された。
一見イタリア盤サントラのジャケットと同じだが、別物。Iaiaはこのイラストを少なくとも3種類描いている。
拳銃を構えた横顔、というデザインはフィルム・ノワールやスパイ物の定番と言えるが、
この映画の主人公=マルチェッロにこのようなクールネスは無い。
むしろ護衛・監視役のマンガニェロに拳銃を預かってもらおうとする腰抜けである。

作者のIaiaは「プロダクションからポスター・イラストを依頼されたので、鼻の向こうに拳銃を垂直に構えた、
小さな同じ顔が幾何学的に敷き詰められているトランティニャンの横顔、という案を出しました。
それはとてもインパクトのあるものでした」と語っている。








2015. Restored re-release. French. 59.5 x 42 cm. Folded.

45周年のこの年、デジタル・レストアされフランスや日本で上映された。
初公開版に修正を加えただけであるが、光沢紙に印刷されたErmanno Iaiaのイラストは45年を経ても独創的で美しい。
左下には作者名がクレジットされている。

■ジャン=リュック・ゴダール暗殺

 1960年、高校卒業のご褒美として1ヵ月間パリに滞在したベルトルッチはある映画と出会い、衝撃を受け、7回も8回も映画館に通った。その映画はジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)である。

 時は流れ1964年、カンヌ映画祭の批評家週間、ベルトルッチは『革命前夜』の質疑応答で憧れのゴダールと同じステージに立つ。ゴダールは「美しいフィルムだ。みんな見るべきだ」と絶賛し、ベルトルッチの脚は震えっぱなしだったという。
 イタリア国内で不評だった『革命前夜』をカイエ・デュ・シネマは歓迎した。1967年、パリでの長期滞在中ベルトルッチはたびたびゴダールと逢瀬を重ねている。しかし、やがて決別が訪れることになる。
 当時ゴダールの妻だったアンヌ・ヴィアゼムスキーは自伝本に記している。1968年、ローマに来てベルトルッチと食事をしていたゴダールは、白熱した政治議論の末に怒り始め、出て行ってしまった。しばらくしてゴダールは戻って来たものの「君が探してくれると思っていた」と責める。実際にはベルトルッチはゴダールを探し回ったというのに。さらに、ベルトルッチが『PARTNER.』(日本公開名『ベルトルッチの分身』)をゴダールに見せたところ酷評されたのもちょうどその頃だった。
 同書にはベルトルッチがクアドリ教授夫人役をヴィアゼムスキーにオファーしていたことも書かれている。『暗殺の森』は自分とアンヌの人生を変える映画になるだろう、とベルトルッチは興奮気味に語り、ゴダールの位置に自分が居座ろうか、などとかなりの大口を叩く様子さえ描写されている。

 『気狂いピエロ』までの商業映画を全否定し、政治映画=映画政治の領域に身を投じたゴダールは、ベルトルッチを資本主義の犬のように見なし、断絶し、攻撃するようになる。
 作品への批判には更なる作品で応戦すべし。ベルトルッチは雑誌「カイエ・デュ・シネマ」の連中が展開して来た映画製作=評論戦略を、『暗殺の森』において、師であるゴダールを標的に実践して見せる。

 まずは、
『軽蔑』の原作者アルベルト・モラヴィアの小説「孤独な青年」を映画化しようというベルトルッチのモチベーションに痺れる。主演に起用したジャン=ルイ・トランティニャンはこの4年前にクロード・ルルーシュ監督作品『男と女』で世界的にスターになった俳優だった。ルルーシュのあの有名な作品は、公開後すぐにカイエ・デュ・シネマによって完膚無きまでにコキ下ろされている。ヌーヴェル・ヴァーグのけばけばしい塗りたくりだと。そんな映画に出たフランス人俳優を、ベルトルッチは「わざわざ」イタリア人主人公の役に使ったのだ。
 結婚前のジャン=ルイ・トランティニャンが恋人として交際、同棲までしていたのが、他ならぬ『軽蔑』の主演女優、ブリジット・バルドーだ。しかも、ベルトルッチがドミニク・サンダと出会う前、教授夫人アンナ役に想定していたのは、なんとバルドーだった。

 そんなバルドーが『軽蔑』で披露した尻に対抗するかのごとき、『暗殺の森』のファースト・シークエンスの末尾を飾るステファニア・サンドレッリのうつ伏せヌード。



 複数のインタビューでベルトルッチは最初の教授夫人役にバルドーの名を挙げているが、これには疑問が残る。ベルトルッチの言では、バルドーに断られた後、パリで上映中の『やさしい女』を見てドミニク・サンダに即決したことになっているのだが、ではアンヌ・ヴィアゼムスキーへのオファーはどの時点で行われたのであろうか。実はモラヴィアの小説の内容を聞かされた時点で、マルチェッロを自分に、クアドリ教授をゴダールにして翻案出来ないものか、と閃いたのではなかっただろうか。そして脚本を書き上げ、教授夫人役にはまずヴィアゼムスキーを所望し、ゴダール殺しを完遂するつもりだったのではあるまいか。
『暗殺の森』への出演がどんな理由と経緯で立ち消えになったのかを、ヴィアゼムスキーは書いていない。もちろんアメリカ資本で製作されるそんな映画に妻が出演することをゴダールが許すはずもなかったわけだが。

 ベルトルッチが音楽に起用したのは『軽蔑』に名スコアを書き下ろしたジョルジュ・ドルリューである(『軽蔑』のあの美しいテーマ曲は後年マーティン・スコセッシが『カジノ』で引用することになる)。ドルリューはここでも彼の作曲家人生中屈指の華麗な楽曲群を提供して、ベルトルッチの策略に加担させられることになる。
 一方でドルリューは、『突然炎のごとく』をはじめ、フランソワ・トリュフォーとの親密なコラボレーションを展開した作曲家でもある。ダンス・ホール場面の最後に流れる「Tornerai」は、1938年にシャンソン歌手リナ・ケッティによって「J'attendrai」(「待ちましょう」)というタイトルでカヴァーされ、フランスでヒットしたが、『暗殺の森』から2年後、トリュフォーは『私のように美しい娘』のエンディングで、この曲を使用している。この作品の音楽を担当したのは、もちろんジョルジュ・ドルリューである。

 『暗殺の森』冒頭で、オルセー駅ホテルを出たマルチェッロ&マンガニェロの車の窓外を流れるパリの風景は、まるで『大人は判ってくれない』のオープニングの再現と見紛うばかりだ。ちなみにベルトルッチの次回作『ラストタンゴ・イン・パリ』でのジャン=ピエール・レオーは、カリカチュアライズされたトリュフォー然として登場する。意地の悪い冗談、と言うよりは、ゴダールへの憎しみが「飛び火」した、と表現する方がしっくり来る。

 パリへの新婚旅行の途上、暗殺計画変更の指令を受け取るため、マルチェッロはヴェンティミリア市の秘密警察支部に立ち寄る。売春宿を隠れ蓑にした支部の執務室には、マルチェッロの結婚を祝福するつもりなのか、部屋中いたるところに胡桃(知恵と多産の象徴)が並べられている。ここに登場する同志=「ラウル」(原作では「ガブリオ」)の名は、ゴダールの黄金時代のヴィジュアルを築いた撮影監督、
ラウル・クタールの召喚であろう。
 ベルトルッチは、かつて『革命前夜』の撮影にクタールを起用することを夢見ていたが叶わなかった。クタールは『ウィークエンド』を最後にゴダールとコンビを解消し、ベルトルッチが『暗殺の森』を準備している頃には、コスタ・ガブラス作品『Z』の撮影監督を務めていたが、この作品にはジャン=ルイ・トランティニャンが出演している。

 また、列車内でジュリアはマルチェッロ以前に交際相手がいたことを告白する。彼女の両親の友人であり、今回の結婚の立会人である弁護士ペルプツィオという老人から15歳の時に手籠めにされていたのだ、と。その交際期間は6年間に及んだ。マルチェッロとの会話の中でこの「6年間」という期間がしつこく繰り返されるのだが、ゴダールとアンナ・カリーナの結婚生活が6年間であった。

 『暗殺の森』の華麗な衣装の数々は女性デザイナー、
ジット・マグリーニによるものである。その後『ラストタンゴ・イン・パリ』、『1900年』でもベルトルッチと組み、『ラストタンゴ・イン・パリ』ではマリア・シュナイダー演じるジャンヌの母親役まで演じている。マグリーニは、『気狂いピエロ』『彼女について私が知っている二、三の事柄』の他、ルイ・マルの『鬼火』や、トリュフォーの『野性の少年』、『恋のエチュード』といったヌーヴェル・ヴァーグ陣営との共同作業で知られたデザイナーだった。

 暗殺のターゲットである大学時代の恩師=クアドリ教授の家の電話番号は、ゴダールのアパルトマンの電話番号と同じものである。マルチェッロがその電話を呼び出している最中に、傍らではジュリアが無邪気に歩幅で部屋の広さを測っている。ここでのジュリアのキュートな仕草は、『女と男のいる舗道』で主人公ナナ=アンナ・カリーナが広げた親指と人差し指で自分の身長を測るシーンを即座に思い出させる。



 マルチェッロが学生時代に教授の授業で感銘を受け、記憶していたという、「思索の時代は終わった。行動の時代が始まる」なるセンテンスは、ゴダール作品『小さな兵隊』の冒頭モノローグを入れ替えたものだ。だがそもそもそれは、モラヴィアの原作「孤独な青年」に登場するセリフをゴダールがひっくり返して引用したものであり、それを『暗殺の森』でベルトルッチが元へ戻した、という因縁と言える。そして、『小さな兵隊』という映画もまた、極右組織の一員が暗殺者となる物語である。暗殺者が恋するヒロインは、皮肉にも敵対する組織のスパイで、彼女を演じたのは当時ゴダールの妻であったアンナ・カリーナである。

 実の父親が精神病院に幽閉されているマルチェッロにとって、クアドリ教授は娑婆での父親と言える存在だ。ベルトルッチにとってゴダールは、パゾリーニと並んで、「映画における父」だった。
 原作では「エドモンド」だった教授のファースト・ネームを、ベルトルッチはわざわざ「ルカ」に変えている。ルカとは、ゴダールが「カイエ・デュ・シネマ」への寄稿の際に用いたペン・ネーム=「ハンス・ルカ」に由来するものだ。そして原作では「リーナ」だった教授の妻の名は、映画ではなんと「アンナ」へと変更されている。

 アンナ・カリーナと寝て、あるいはアンヌ・ヴィアゼムスキーと寝て、ゴダールを殺す。
 AnnaとAnneは一文字違いだ。

 教授の書斎には「由自我恵」なるプレートが掲げられており、それと呼応するかのように、暗殺前夜の会食シーンの舞台に選ばれるのはチャイニーズ・レストランだ。殺す者と殺される者、「息子」と「父親」の腹の探り合いの舞台にベルトルッチが選んだのが中国料理店とは。毛沢東主義に傾倒するあまり『中国女』を撮り、アンヌ・ヴィアゼムスキーを伴って中華料理に舌鼓を打っていた「革命戦士=ゴダール」。そんな師を自身のフィルムに招聘するかつての弟子=同志。そして揺らぐ暗殺の決意。

 その後でダンス・ホールへと移動する4人。マルチェッロと教授が着いたテーブルをストラーロのカメラが外から窓越しにとらえ、近づくと、マルチェッロの背後のガラス窓には1枚の写真が貼られている。それはアメリカの喜劇コンビ「ローレル&ハーディ」のものだ。ゴダールにもトリュフォーにも愛されたこのコンビは、幾度となく彼らの作品の引用元となった。『気狂いピエロ』のガソリン・スタンドでの乱闘場面では、アンナ・カリーナの「ローレル&ハーディ式にやる」というセリフを聞ける。
 当時のインタビューでは「張りつめて深刻になり過ぎないよう、力を抜くために引用した」と答えていたが、この直後に登場するマルチェッロの監視役兼相棒=マンガニェロとのコンビネーションのルックに、「彼らはローレル&ハーディ風だろ?」とうそぶくベルトルッチの茶目っ気を想像するのも悪くない。

※2012年にBFI Film Classicsから刊行されたChristopher Wagstaff著の研究本には、ロバート・アルドリッチ監督の『甘い抱擁』(1968年)から、主人公のレズビアン・カップルがローレル&ハーディの扮装をしてレズビアン・バーへ行くシーンの場面写真が掲載されている。モラヴィアの原作ではダンス・ホールではなく、ずばりレズビアン・クラブが登場するのだが、そのシークェンスを映像化するベルトルッチがアルドリッチに抱いていた連帯感をあの写真で表明した、という分析である。



 オルセー宮ホテルの門前で花売りの女と子供たちが歌う「インターナショナル」(社会主義者の革命賛歌)に追い立てられ、中国料理店では教授から「こちら側」への転向を誘われ、ダンスホールではパリ市民たちの舞踏が形作る奔流(=ヌーヴェル・ヴァーグ)に呑まれて溺れそうになるマルチェッロ。加えてアンナへの恋心が災いし、教授=ゴダール暗殺の決意はますます揺らぐことになる。
 ちなみに、<「インターナショナル」+不倫カップル>という構図で想起させられるのは、成瀬巳喜男監督作品『浮雲』(1955年)の一場面である。千駄ヶ谷駅を出たところで、高峰秀子と森雅之の逢引きの脇を労働者たちのデモ行進が同曲を歌いながら通り過ぎる、という場面には、森雅之とトランティニャンの辛気臭い顔という共通点が強力なフックとなり、映画史的シナプスが通電する。成瀬の作品は海外でもさかんに上映されたが、カイエ・デュ・シネマの監督たちがリスペクトしたのは、溝口健二や小津安二郎のほうだった。

 モラヴィアの原作では「せむしで近視で頬にひげを生やし」(原文)た醜い小男として登場するクアドリ教授だが、映画で教授を演じるのは、スラリと背筋の伸びた、まるでパリジャンのようにスマートでダンディなエンツォ・タラシオである。実際のゴダールがタラシオほど落ち着いたエレガンスを纏ってないにしても、教授とマルチェッロの映画的均衡を「自分たち」に引き寄せたとは言えまいか。
 年齢のことにも触れねばならない。タラシオは、恐らく、原作のクアドリ教授よりも若い。そして対するトランティニャンは、原作のマルチェッロより10歳も上の40歳である。演じる2人の俳優は、実際には11歳しか離れていない。そしてゴダールとベルトルッチの年齢差は10歳なのだ。

 暗殺に向う車中、マルチェッロは前夜見た夢をマンガニエッロに嬉しそうに話す。盲目の自分はスイスへ行き、そこでクアドリ教授の手術を受け、目が見えるようになる、というものだ。
スイスへの賛歌を仲良くわめき立てるマルチェッロとマンガニエッロ。ゴダールの父親はスイス人医師であった。
 教授(=ゴダール)暗殺直前にもかかわらず、なぜかかつての師を高らかに讃えるマルチェッロ(=ベルトルッチ)の不条理。映画を、そして世界を見るための眼をゴダールからもらったのだ、というベルトルッチの賛美が、暗殺者=トランティニャンのはにかんだ笑顔の向うで最後の灯となって揺れる。

 そして、ついに訪れる暗殺決行の瞬間、臆病者のマルチェッロは結局手を下せない。まるで『小さな兵隊』の主人公のように。しかしその後、マルチェッロの代わりに、彼の無意識下にあったものが形を与えられたかのごとく、霧に煙る木立の間から別働隊の暗殺チームが湧いて出て来る。 トレンチコートを羽織った彼らの姿は、ゴダールが敬愛してやまなかったジャン=ピエール・メルヴィルのフィルム・ノワールから抜け出て来たかのようであり、そして
『アルファヴィル』のエディ・コンスタンティーヌの扮装そのままだ。



 そんな暗殺者たちが教授殺しに使用するのは、メルヴィルお得意の拳銃ではない。ナイフである。教授は寄ってたかってナイフでメッタ刺しにされるのだ。ゴダールへの憎しみはそれほどまでに深かったのか、と慄然とするほど凄惨な殺害シーン。自身の手を汚さないマルチェッロは、マンガニエッロに「卑怯者」と吐き捨てられる。原作では「オルランド」だった名前を、ベルトルッチは「Manganello(棍棒)」という言葉によく似た「Manganiello(マンガニェロ)」に変更した。教授暗殺計画の監視役兼運転手であり、暗殺者となることに動揺、躊躇するマルチェッロを打ち据える棍棒=マンガニエッロもまた、監督自身のもうひとつの分身と言える。マゾヒスティックなほどの精神分析と、屈折した自己批判を込め、映画の中で自身を裁きにかけるベルトルッチ。

 教授をナイフで殺しておきながら、暗殺者たちは教授夫人アンナの殺害には拳銃を使う。『女と男のいる舗道』でも『気狂いピエロ』でも、ゴダールはアンナ・カリーナを拳銃で射殺した。木々の間を縫って走るドミニク・サンダ。彼女の背中を手持ちで追うストラーロのカメラ。森にこだまする銃声。撮影前、ベルトルッチはサンダにこう指示したに違いない。
「走って、好きなところで倒れればいい」。ゴダールが『勝手にしやがれ』のラストシーンを演出する際、ジャン=ポール・ベルモンドにかけた言葉である。
 血まみれのドミニク・サンダの顔。その赤は血の色と言うにはグラフィカル過ぎる。『軽蔑』で、『気狂いピエロ』で、『ウィークエンド』で、『中国女』で、かつて60年代のゴダールが好んで使った原色の赤をここから読み取ってはやり過ぎだろうか。

 『暗殺の森』は、明らかにゴダールへの私怨を晴らすために作られた映画だ。ゴダールとカリーナの愛と絶望が焼き付けられたフィルムたちをメタ的に引用し、それらを散りばめるためのフォーマットに、ベルトルッチはモラヴィアの小説を選んだ。そもそも原題である「順応主義者」という言葉自体が、革命戦士気取りだったゴダールへの皮肉とも思える。

 ゴダール=ヌーヴェルヴァーグとの決別が『暗殺の森』に隠された一大テーマではあるが、ベルトルッチは果たして決別することが出来たのだろうか。
 エンドロールで流れる歌に耳を傾けよう。

 あなたの声が遠ざかる
 私ではダメなのね
 愛をさがしに行くのね

 ゴダールと過ごした青年時代への未練。ヌーヴェル・ヴァーグとの決別は完遂しない。ファシズムに身を投じた主人公マルチェッロは、自己欺瞞への断罪と甘美な不毛感の狭間に取り残される。ベルトルッチはゴダールを暗殺する目的で『暗殺の森』を撮っておきながら、結局殺せなかったのだ。それがイタリア人の血ゆえの優しさに堕したからなのか、愛という名の甘い怠惰から逃れられなかったせいなのかはわからない。
 ラスト・ショットで暗殺に失敗した負け犬が鉄格子の向こうから投げかける視線の先にいるのは、我々観客であり、そしてベルトルッチ自身でもある。

 『暗殺の森』がパリで初日を迎えた日、上映に招待したゴダールからサン・ジェルマンのドラッグストアに呼び出され、咥え煙草の彼から無言で1枚の紙切れを渡される。毛沢東の肖像が印刷されたその紙には、利己主義と帝国主義への戦いを呼び掛ける文句が書かれていたのだという。ベルトルッチはそれをずたずたに引き裂いた。ヌーヴェル・ヴァーグを外から眺めるしかなかった者に燻り続けたルサンチマンの火種は、この夜、再び燃え上がったに違いない。そして次回作でベルトルッチは再びパリへと舞い戻る。



MEDIANE Libri刊のヴィジュアル・ブック「CINE CULT Bernardo Bertolucci」より。
1969年の2人。この写真、彼らの視線の先にはパゾリーニがいる。


 1983年のヴェネチア映画祭にゴダールの姿があった。コンペティション部門に出品された彼の新作『カルメンという名の女』は金獅子賞を獲得する。この時の審査員長はベルトルッチであった。
 ベルトルッチはどんな言葉とともにトロフィーを渡し、ゴダールはどんな顔でそれを受け取ったか。