1970. West German. 58 x 84 cm. Rolled.

 フランス版と同じPierro Ermanno Iaiaの筆によるイラストを採用した西ドイツ版。
ドイツ語タイトルの「DER GROSSE IRRTUM」は「大いなる失敗」とでも訳せばいいのだろうか。
 「順応主義者」、「孤独な青年」(原作邦訳タイトル)、そして「大いなる失敗」。
なんと「ファシスト」というタイトルで公開した国もある。
いくつものタイトルを持つこの作品だが、『暗殺の森』というオリジナリティあふれる題名は突出して素晴らしい。

■「孤独な青年」

 アルベルト・モラヴィアの小説「孤独な青年」では自発的にファシストになるマルチェッロだが、映画では友人であるイタロ・モンタナーリによってファシスト党へと導かれる。つまり、マルチェッロの順応主義者としての自発性の脆弱さが既にここから窺える。順応主義者になりきれない主人公を、ベルトルッチは躁鬱の激しい複雑な人物として描く。

 一方、マルチェッロの妻=ジュリアと教授の妻=アンナには原作以上の豊かな関係が与えられている。
 ベルトルッチの真骨頂と誰もが思ったであろうジュリアとアンナのダンス・シーンは、なんと彼によるオリジナルではなく、モラヴィアの原作にも登場するものだ。ただし普通のダンス・ホールではなく、露骨にもレズビアン・クラブで、である。2人が踊る曲がタンゴである、という描写はさすがに原作には無い。ジュリアは教授夫人リーナを相手に仕方なしに踊るが、店が店であるだけに、周囲は女性同士で踊るカップルばかりだ。映画ではマルチェロが2人のタンゴ・ダンスを目にして「やめさせましょう」と言うと、クアドリ教授は「なぜだね?美しいじゃないか」と返すのだが、原作での教授は、逆にレズビアン・クラブそのものを嫌悪する。女性2人の感情も原作では全く異なった様相を見せる。教授夫人リーナはジュリアに同性愛を求めるが、結局は激しく拒絶されてしまう。そしてジュリアへの愛を繋ぎとめるために、さらには夫をファシストの魔手から守るために、嫌々ながらマルチェッロに気がある素振りを示すリーナ。マルチェッロの恋慕などリーナは受け入れるはずもなく、ジュリアもまたレズビアンのリーナを徹底して嫌う。なんというギスギスした関係。原作の4人には、映画に描かれたような温かな官能も、新時代の美を享受する包容力も無い。4人の最後の晩、殺す側と殺される側の間に漂う束の間の幸福が美しければ美しいほど、暗殺に赴くマルチェッロの心理は激しく揺れ動くことになるというのに。

 原作のマルチェッロはそもそも暗殺には携わらず、実行するのはオルランド(=マンガニェロ)とその部下である。教授夫妻が暗殺されたことを、マルチェッロは新聞記事とオルランドの報告で知ることになる。しかもその暗殺計画自体に、実は中止命令が出ていたのを知らずに遂行してしまうのだ。この皮肉な顛末は、映画の方ではマンガニェロがアフリカ時代に体験したエピソードを語るシーンとして活かされている。

 ファシスト政権崩壊の日、原作のマルチェッロもまたリーノと再会する。少年時代に強姦されそうになり殺してしまったと思い込んでいたリーノ。自分を順応主義へと駆り立てたおぞましい過去から解放された原作のマルチェッロは、ベルトルッチの手で驚くべき卑怯者に祭り上げられる、いや貶められる。
 自身のアイデンティティを支えて来た過去に裏切られ、恐らく自分が何者かも判別出来なくなったマルチェッロは、狂ったようにリーノをクアドリ教授夫妻殺害犯として告発する。傍らにいたイタロ同志をも「こいつはファシストだ」と声高になじる。順応主義者となることに失敗した主人公は、来るべき新体制においても同じことを繰り返すだろう。しかし石段に腰かけたマルチェッロの側には、逃げ去ったリーノがさきほどまで誘惑していた青年が裸で横たわっているのだ。
 長髪の美しき男色家だったリーノを、ここではほぼ薄毛のかつらだけで弱々しく演じるピエール・クレマンティ。凝った老けメイクを施されていないクレマンティの容貌は、少年時代のあの事件から30年近くが経過したとはとても思わせない。おまけに原作とは違い、映画のリーノはあの事件のこともマルチェッロのことも全く憶えてはいない。時間軸が歪み、この映画が歴史ドラマとしてのリアリティを放棄してしまう瞬間である。『暗殺のオペラ』『1900年』『ラストエンペラー』でもお馴染み、最後の最後で見る者を煙に巻くベルトルッチお得意のマジックが、『暗殺の森』の結末でも投下されたと言える。

 原作のラストは、ジュリアと娘を連れて田舎へと逃走するマルチェッロの車が、連合軍機の機銃掃射を受け、妻子は絶命、マルチェッロ自身も被弾し、やがては死ぬことになるところで終わる。卑怯な順応主義者に下された神罰とも言えるが、主人公の死はむしろ幸福な最後と捉えるべきだろう。ベルトルッチの方はと言えば、マルチェッロに死を与えず、30年間否定し続けて来た男色の記憶を容赦なくアップデートすべく、裸の美青年の横に置き去りにするのだから。
 その青年が蓄音機でかけるレコードは、オランダのコーラス・グループ「トリオ・レスカーノ」の歌う「Come l'ombra」である。「陰のように」と訳せるタイトルを持つその曲は、マルチェッロの未来を暗示するかのように、もの悲しく響く。鉄格子からこちらを見つめる彼の表情は暗くてよく見えない。

 ほぼプロットを借りただけ、とも言い切れるアダプテーションだが、映画への改変中で最も大きな要素は「季節」だ。原作が夏の間の出来事を描いていたのに対し、ベルトルッチは晩秋〜真冬という季節に変えたのである。舞い散る落ち葉。雪の中をひた走る車。コート。毛皮。青いフィルターで冷たく染まった屋外と、温かく輝く室内には、それぞれタナトスとエロスが象徴されているかのようだ。そして、暗殺に赴く者の心理を体現するかのようにコートの襟を立てるマルチェッロ。
 この物語に相応しいのはやはり冬だ。冬でなければならないのだ。

 映画を見たモラヴィアは、ジャン=ルイ・トランティニャンとの食事の席で「僕の本よりもいいね」と発言したという。



1975. West German Re-release. 42 x 60 cm. Folded.

75年にはタイトルを独語直訳である「Der Konformist」に変えて再公開された。
Iaiaによるイタリア版イラストからサンダとサンドレッリを抜き出し、反転させて掲載している。
モノクロ印刷だったり、レイアウトやタイトル・ロゴが素っ気なかったりと、あまりやる気は感じられない。