1970. Italian 2 sheet. 99 x 140 cm. Folded.

クレジット以外はイラストもタイトル文字も異なる2シート。
ロンドンの「THE REEL POSTER GALLERY」がこのイラストの原画を所有していたことがある。
原画の実寸は51cm x 36cm。価格は不明。

■革命前夜

 ベルナルド・ベルトルッチがアルベルト・モラヴィアの小説「Il Conformista」=「孤独な青年」に出会ったのは、『暗殺のオペラ』を製作中のことだった。ベルトルッチの私的パートナーであり、『暗殺のオペラ』で美術と衣装を担当していたMaria Paola Mainoは、徹夜で読んだモラヴィアの小説のことを詳細にわたってベルトルッチに聞かせたという。
 ある時ローマにあるパラマウント傘下の製作会社「Mars Film」から映画の企画を打診されたベルトルッチは、読んでもいないモラヴィアの小説のことを担当者の前で語った。そして、『暗殺のオペラ』が撮影を終え、編集作業中のこと、Mars Filmからゴーサインが出る。ベルトルッチはここで初めて小説「Il Conformista」を手に取る。物語を追体験するような喜びもあって一気に読み終えた彼は、小説をタイプライターの脇に置いて1ヵ月で第1稿を書き上げた。脚本ではイタロ・モンタナーリなど新しい登場人物を創作し、結末は完全に変更された。

 ベルトルッチとモラヴィアは当時毎晩のように夕食を共にするほど近しい交友関係にあった。「映画化に際し小説に忠実であるためには小説を裏切らねばならない」というベルトルッチの言葉にモラヴィアはうなずく。映画になる小説の物語とは裏切りの物語である。モラヴィアは喜んで映画化を承諾した。そこから事は速やかに進んだ。
 ベルトルッチの従兄ジョヴァンニ・ベルトルッチが前2作に続いてプロデューサーを務め、初めての国際映画となる企画のためにスタッフとキャスト集めが始まった。初めて組む美術のフェルディナンド・スカルフィオッティとは、冒頭のローマのパートをムッソリーニが建設した「EUR」で撮影することで意気投合。悪魔的なファシズム建築を登場させることで、後半に登場する「フランス人民戦線」との対比を試みた。

 衣装のジット・マグリーニは製作チームの最初期段階で参加した。フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールの作品など国際的に知られていたマグリーニは、ミケランジェロ・アントニオーニ『夜』(1961年)でモニカ・ヴィッティの母親役を演じたこともある。ベルトルッチとは『ラストタンゴ・イン・パリ』、『1900年』でも組み衣装を担当することになるのだが、『ラストタンゴ・イン・パリ』ではマリア・シュナイダーの母親役として出演もしている。

 ベルトルッチより1歳上のヴィットリオ・ストラーロは1962年に『怒れ!バイキング』の撮影(共同)で長編デビュー。日本未公開の短編やコメディ映画などの仕事が続くが、1964年、『革命前夜』で撮影監督アルド・スカヴァルダのカメラ・オペレーターを務めたことでベルトルッチの現場に初参加する。お互いの仕事に敬意を抱きながらも2人が再会するのは1969年、『暗殺のオペラ』の製作時のことである。その共同作業はまだ試行錯誤段階であったと思しいが、脳内にある物語を形にする理想的な絵筆を獲得した、という感触にベルトルッチは興奮したはずだ。めくるめく夏のパルマで試みた映像表現の探求を、今度はパリで、ヌーヴェルヴァーグが花開いた街で実践したい。そう目論んだに違いない。

 ベルトルッチが愛をこめて「キム」と呼ぶフランコ・アルカッリは、プロデューサーのジョヴァンニが連れて来た編集マンだった。話し合いよりもまずは腕、というわけでアルカッリは『暗殺の森』の冒頭のシーンを試しにつないで見せる。自分が書いたシーンをストラーロと共に具現化し、それを思いもよらぬインサートやモンタージュで紡いで見せるアルカッリの手法にベルトルッチは心酔し、自分が築こうとした以上の映画が誕生するプロセスに驚嘆した。ちなみに1929年生まれのアルカッリは、ムッソリーニ政権下で15歳にしてレジスタンス活動のリーダーを務めた過去があり、『1900年』では編集だけでなく、脚本執筆にも参加している。ベルトルッチとの共闘は1978年に48歳の若さで亡くなるまで続いた。『ルナ』のストーリー原案が最後の仕事だった。

 撮影は1969年の晩秋からクリスマス前、そして1970年1月から2月にかけての数週間の2回に分けて敢行された。ジャン=ルイ・トランティニャンは妻ナディーヌとの間に出来た第2子を撮影中に亡くしており、ベルトルッチの配慮により中断したものと推測される。