THE LAST EMPEROR
『ラストエンペラー』(1987年)


1987. British Quad. 30X40inch. Rolled.

■ベルトルッチの集大成

 「007シリーズ」で有名なモーリス・ビンダーによるシノワズリなタイトルバックが、これから始まる壮大なチャイニーズ・オペラの幕開けを美しく飾る。
 壮大?しかし清朝最後の皇帝の物語が華やかだったのは最初だけ。皇帝=溥儀の人生は、歴史の荒波に残酷なほど揉まれ、一般庶民の想像を絶する流転を展開することになる。愛新覚羅溥儀は3歳に満たぬうちに皇帝に即位し、第二次世界大戦、文化大革命を経て、最後は一介の庭師として人生を全うするのである。

 クールで凛々しいジョン・ローン、可憐でエロティックなジョアン・チェン、英国紳士の模範のようなピーター・オトゥール、演技はともかく存在感はある坂本龍一・・・・そして彼らに加え『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』でもJ・ローンと共演していたヴィクター・ウォンとデニス・ダンが脇を固め、日本からは他に高松英郎と立花ハジメが華(?)を添える。
 多彩な役者陣、紫禁城でのオールロケ、お馴染みヴィットリオ・ストラーロの流麗なカメラワーク、坂本龍一による壮麗な音楽。これらが渾然となって完成した「ベルトルッチ印100%」の大歴史メロドラマ。80年代後半の世界的バブル時代だったからこそ陽の目を見たとも言える、もう二度と作ることの出来ない、『ラストエンペラー』は映画史におけるモニュメントの1つである。

■“最後の”映画

 イタリア人を始め世界各国のキャスト&クルーが大々的な中国ロケに参加し(紫禁城内での映画撮影は前代未聞だった)、掛け値なしの本物の映像で作り上げた中国の20世紀絵巻。その製作自体が大変なトライアルでありイベントであったこと、そしてイタリア人から見た(良くも悪くも)偏見だらけのアジアという点からしても、コッポラの『地獄の黙示録』と双璧を成す作品ではあるまいか。
 ちなみにベルトルッチへのシンパシーの表れとして、コッポラは『暗殺の森』のガストーネ・モスキンを『ゴッドファーザー PartU』に抜擢したことがある。
 当時のインタビューでベルトルッチは「タイトルの“ラスト”には“最後の大作映画”という意味合いも込めた」と語っているが、90年代に入るやデジタルSFXの急激な発達によってこの手の「本物の映画」はベルトルッチの言うとおり滅びてしまった(ベルトルッチ自身、次々回作『リトルブッダ』でCGを使用し失望させた)。
 『ラストエンペラー』は、コンピューター技術に頼らない、デヴィッド・リーン的なスケールと風格を備えた最後の大作映画と言えよう。エンドロールで「THE END」の文字がせり上がって静止し、スクリーンが暗くなった後も坂本龍一によるテーマ曲は鳴りやまないのは、古き良き70mm映画時代の慣例のひとつだった「Exit Music」(観客をロビーへと送り出す音楽)への郷愁に違いない。

 ヘンタイ=ベルトルッチお得意の「父子&母子」、「屈折した人物像」、「分身」、「過剰なエロティシズム」、「同性愛」といったテーマが随所に見られ、おかげで古き良きハリウッド製スペクタクルとは全く違う匂いを放つ叙事詩に仕上がった。かと言って同時に、ベルトルッチが憧れていたであろう40〜50年代のハリウッドへのオマージュ(天津の租界でのシーンの艶やかな映像!)も散りばめられていたりもする。 
 そもそも『ラスト・タンゴ・イン・パリ』でのマーロン・ブランドの起用も、ベルトルッチ流のハリウッドへの目配せと映ったわけであるし(ブランドは『ゴッドファーザー』出演直後だった)、『ラストエンペラー』でのピーター・オトゥールのキャスティングはつまり、全くの異文化へ身を投じる英国人、という意味で、『アラビアのロレンス』へのオマージュどころか、あの超大作をベルトルッチ流に再現して見せた、と言えるものだった。
 ちなみに、ベルトルッチは今作にオトゥールを起用するだけでは飽き足らなかったのか、次回作『シェルタリング・スカイ』では、砂漠での大ロケーションを敢行することになる。

 このイギリス版ポスターは、映画序盤で見せてくれる大和殿での即位式のスペクタクルをモチーフにしたデザインだが、写真の枠取りと四つ角を「それっぽく」処理したのと、その他の部分を赤で染め上げたという点で、同じ写真を使用したUS版よりもチャイニーズ風味がぐんと増した。ここでもイギリス人デザイナーの功績を讃えねばなるまい。