MOON
『月に囚われた男』(2009年)

2009. British Quad. 30X40inch. Double-sided. Rolled.




■スペース・オディティ

 この映画は、世界のエネルギー産業の7割を独占する企業「ルナ・インダストリーズ」が3年間の契約で月面採掘基地に送りこんだ作業員サム・ベルが、任期終了間際の2週間で体験する、奇妙な冒険の物語である。愛する妻と娘を地球に残して月へやって来た一企業の奴隷が、ある事故をきっかけに自分が何者であるかを発見し、そこから運命を変えようと行動に出る、戦いと死と、そして再生の記録である。

 環境汚染や食糧危機といった未来図が提示される、『ソイレント・グリーン』(1973年)を彷彿とさせるオープニング。しかしそれに続くのは、月で採掘された岩石を元に精製したエネルギーがそんな悪夢から人類を救う、そしてそれを担っているのは我々である、という自信たっぷりのナレーションだ。
 企業広告やプロパガンダで幕を開けるSF映画が、これから始まる物語をあくまでもシニカルな視点で描くつもりであることは、ポール・ヴァーホーヴェン作品を見ている人間であればすぐにピンと来る。しかも、その企業がアメリカと韓国の合弁会社であるという設定は、『エイリアン』(1979年)で異星生命体を軍事利用しようと画策した日米合弁企業「ウェイランド湯谷」を即座に思い起こさせる。

 ランニングマシンでエクササイズ中の男。窓の外は月世界。その男サムと会話するコンピュータ「ガーティ」。宇宙服を着込み、ハッチを開け外に出てバギーに乗り込むサム。バギーの向かう先では、大型作業車が地表を掘削し岩石を跳ね上げながら移動している。そこは月ではなく、まるでトウモロコシ畑であるかのようだ。そしてサムはアストロノーツと言うよりは、さながら農夫か炭鉱夫である。

 基地と採掘作業車を往復し、精製したエネルギー「ヘリウム3」を詰めたカプセルを地球に向けて射出する日々。退屈な月面でのルーティンワークを映し出すこのメインタイトル・シークエンス(映画内空間に浮かんで見えるクレジットは『パニックルーム』と同じ)は、息を呑むほど美しく、CGIに辟易としていた目には新鮮で、SFXやVFXなどという言い回しよりは、敢えて「特撮」と言いたくなる手触りを持っている。
 往年の『サンダーバード』が得意としていた「ミニチュアを使ったハイスピード撮影」が独特の重量感を醸し出し、そこへコンピュータ加工を施すことでディテールアップとスケール感を獲得するという併せ技。英国人の伝統的職人魂が築き上げた月世界風景には、『アバター』の3D画面よりもはるかに奥行きがある。かつて宇宙軍大元帥=野田昌宏は「SFは絵だねえ」と言ったが、これほどSF感を味わえる絵に出会ったのはいつ以来だろう。

 主演のサム・ロックウェルは、『コンフェッション』でCIAの工作員とTVプロデューサーという2つのアイデンティティの間で引き裂かれそうになる男を、笑いと狂気のうちに演じていた記憶があるが、ここでのロックウェルも、特殊な環境に置かれた労働者が味わう悲哀や寂寞、己の正体を知った者が抱える苛立ちを、巧みに演じ分けている。彼の目覚まし時計から流れるのは、90年代英国のシンガー、チェズニー・ホークスのヒット曲(作曲はニック・カーショウ)「The One And Only」だ。なんというアイロニー。
 ちなみにケヴィン・スペイシーがコンピュータ「ガーティ」の声を演じているが、ウォームかつクールというアンビヴァレントな彼の声質は、『2001年宇宙の旅』で「HAL9000」の声を演じたダグラス・レインと同質のものである。

 デヴィッド・ボウイの息子が「ゾウイ」という名前であるのを知ったのは、今から30年以上前、雑誌「ロッキング・オン」でだったと思う。成長したゾウイ・ボウイ、もとい、ダンカン・ゾウイ・ジョーンズがまさか映画監督に、そしてまさかこれほどまでにSFマインドを湛えた映画を撮ることになろうとは、この不思議な感慨をどんな言葉で表現すればいいのだろう。
 90年代に映画評論家=滝本誠がデヴィッド・ボウイにインタビューした際、かのロックスターは「最近の若者はSFを読まなくなった」と嘆いていたと聞く。そんな父親の嘆きに、息子は、まるで短編SF小説を読んでいるような気分を味わわせてくれる映画で応えた、と言えよう。

 しかも、この作品を画的に豊かにしているのは、散りばめられた過去のSF作品へのオマージュだ。
 前述の『サンダーバード』を制作したジェリー・アンダーソン(英国ITC)による『スペース1999』を彷彿とさせる月面描写。『2001年』や『エイリアン』と直結したインテリア・デザイン。「HAL9000」や「マザー(おふくろさん)」といったコンピュータたちの正統派後継者とでも言うべきキャラクターに設定された「ガーティ」。救助班が到着するまでのサスペンスは『アウトランド』。植物に話しかけるサムの姿は『サイレント・ランニング』。さらには、監督の父親が主演した『地球に落ちて来た男』で効果的に使われていた「卓球」までもが登場する。それらオマージュの数々は、懐古趣味でもスノッブでもどちらでもない。観客にとっては小さいが、しかし主人公にとっては大きなこのドラマを支えるヴィジュアル・ファクターとして、存分に機能している。
 そして、この物語は、オフ・ワールドで奴隷的労働に従事していたレプリカントが反乱を起こし、地球に帰ろうとするまでを描いた、『ブレードランナー』のプリークエルでもあると言えよう。

 70年代に量産されたパニック映画が80年代以降になってアクション映画に取り込まれてしまったように(『ダイハード』や『スピード』は一体何映画だろう)、SF映画というジャンルもアクションやホラーという他ジャンルへと吸収され、純粋に「これはSFだ」と正々堂々言える映画はほぼ死に絶えてしまった。
 キューブリックやスコットの継承者が欲しいとまでは言わない。SF映画をもう1度子供の手から奪還する者はいないのか、とここ数年期待し続けて来ただけだ。そんな本物のSF映画の不在、ここ数年(10数年か?)の空白を、『月に囚われた男』は一気に埋めてくれた感がある。
 映画はいくつかの謎を残したまま終わってしまうが、それがデビュー作につきものの拙さ・粗さゆえなのか、それともキューブリック的確信犯なのかは判然としない。しかし、それでも『月に囚われた男』は紛れもない原石と言える。そんな原石が、「サンダーバード」と「ジギー・スターダスト」、そして「ドリーという名の羊」を生んだ国から出現したのだ。

 ベートーヴェン作曲「月光」を解体・再構築してロック・ビートに乗せたかのようなクリント・マンセルによるテーマ曲が、映画の鮮やかな幕切れに憂鬱かつロマンティックな余韻を与えて、震えが来るほど素晴らしかったことを付け加えておく。