■ゴシックよ、永遠に
ヴェルナー・ヘルツォーク監督がかつての盟友(と言っていいのかどうか・・・)クラウス・キンスキーについて述懐し、彼がいかにクレイジーな俳優だったかを記録した『キンスキー 我が最愛の敵』(1999年)というドキュメンタリー映画がある。キンスキーによるエキセントリックな言動の数々が語られる中で、爆笑モノだったのは、『フィツカラルド』(1982年)撮影中のエピソードである。
南米山奥での撮影現場で、持ち前の凶暴さと傍若無人ぶりでいばり散らすキンスキーに、地元インディオが「あいつ殺してやろうか?」と監督に申し出ると、「彼は映画に必要だから」と断ったというのだ。この申し出は本気だったようで、主人公フィツカラルドの後ろでインディオの族長らしい男が怒りをあらわに彼を指差しながら怒鳴るという実際に映画本編にある場面は、言わば「本物」、ということである。
そんな暴れん坊将軍クラウス・キンスキーをドラキュラに据えた『ノスフェラトゥ』は、日本の古典芸能「歌舞伎」のような所作と顔で表現するという(メイクを担当したのは日本人女性)、キンスキーにとってはストイック過ぎると言えるアプローチで彼の「内なる怪物」を引き出すことに成功している。
暗闇にボウッと浮かぶキンスキーのスキンヘッドには、どうしても『地獄の黙示録』のマーロン・ブランドが重なる。と言うかもうそっくりである。『ノスフェラトゥ』は79年の2月のベルリン映画祭、『地獄の黙示録』は同年5月のカンヌ映画祭でお披露目されているので、製作期間が全く重なっていたこの2作品の間に関連は無いと考えるのが普通だが・・・・。ちなみに、コッポラは『地獄の黙示録』製作の際に、ヘルツォークの作品『アギーレ 神の怒り』(1972年)を参考にしたと言われている。
加えて、この映画のオリジナル『吸血鬼ノスフェラテュ』や『カリガリ博士』といったドイツ表現主義映画へのオマージュであろう、いわゆる「ゴスメイク」でキメたイザベル・アジャーニのこの世のものとは思われぬ美貌がスゴい。いかにも吸血鬼映画のヒロインといった風情の彼女(オリジナル版にそっくりな場面も)と、『アデルの恋の物語』の流れを汲む「どこか思いつめたような表情」の彼女、2通りの顔でキャラクターに奥行きを持たせている。
彼女の夫には当時ニュー・ジャーマンシネマで人気俳優だったブルーノ・ガンツ。役名「ジョナサン」は彼がこの2年前に出演したヴィム・ヴェンダース作品『アメリカの友人』で演じたキャラクターと同じもの。オリジナル版とは異なるエンディングで見せる顔がなんとも素敵だ。
彼をドラキュラの下へと差し向けるブキミな不動産屋に扮するのはロラン・トポール。『ファンタスティック・プラネット』で有名な画家だが、ロマン・ポランスキーのスリラー『テナント』(主演はポランスキーとイザベル・アジャーニ)の原作者でもある。
オープニングで延々と映し出されるミイラたち、70年代のヨーロッパの空気感(撮影はオランダ)、高速撮影されたコウモリの羽ばたき、幽玄な山岳地帯でのロケ撮影、そしてポポル・ヴーによる美しい音楽。他のヘルツォーク作品同様この『ノスフェラトゥ』も、コンピューター時代の現在にあっては望めない、「本物」だけが持つ豊穣さ、映画のみが持ち得るダイナミズムとロマンティシズムに溢れている。見直すたびにその贅沢さに酔い、ため息の出る作品である。
この素晴らしいポスター・アートを描いたのはタロットカードのデザイナーでもあるDavid
Palladini。確かにタロット風の意匠・構図であり、細部の描き込みにストーリー性を持たせているところなどは宗教画をも思わせる。リプリントも作られるほどのカルト・ポスターである。
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