1996. British Quad (Advance). 30X40inch. Rolled.

■「ノイズ」「バロック」「猟奇」

 『セブン』ではハワード・ショアが、クライマックスにおいてミニマルなフレーズを聴かせ、緊張感を煽りまくる。デヴィッド・クローネンバーグの盟友として素晴らしい仕事をして来たショアは、90年代には「サイコ・スリラー御三家」とでも言うべき『羊たちの沈黙』、『セブン』、『ザ・セル』(これは2000年の作品だが)全ての音楽を担当することにもなった。多くの映画音楽作曲家がバーナード・ハーマンへのリスペクトを隠さないが、ハワード・ショアが『セブン』で聴かせるスコアもまた、作品の性質上ハーマンの影響を避けて通れないものであったに違いない。しかし、『セブン』の印象を決定付けたのは、ショアによるオリジナル・スコアではなく、3つの既製の楽曲であった。

 まずタイトル・シークェンスで流れるのがナイン・インチ・ネイルズの「Closer」。
 歌モノであるアルバム・ヴァージョンではなく、シングルに収録されたノイジーなリミックスで、‘UKインダストリアル界のザ・ビートルズ’「スロッビング・グリッスル」の元メンバー、ピーター・クリストファーソンのユニット「COIL」によるもの。歌詞の載った部分は割愛され、2分ほどのインストゥルメンタルにエディットされて使用されたが、最後に1センテンスだけトレント・レズナーのシャウトが響く。
 「You get me closer to God」・・・・映画の内容に則して訳せば「お前たちが私を神に近づけるのだ」となり、犯人ジョン・ドウの日記制作のプロセスを見せながら、レズナーの声を聴かせて開巻早々に犯人像を明かしてしまうという(ゆえにこの映画は謎解きではない)フィンチャーの確信犯ぶりがニクい。

 2つめは、夜遅くサマセット刑事が図書館を訪れるシーンで夜警(『スピード』でバスの運転手を演じていた俳優だった)が彼の為に「ほら、文化の香りだぜ」と皮肉っぽく流すJ・S・バッハの「G線上のアリア」。
 ホラー映画に美しい楽曲を使うパターンは『エクソシスト』から始まったと思しいが、『セブン』で発揮されるデヴィッド・フィンチャーのDJ能力はホラー映画史に特筆されるべきだろう。「七つの大罪」に関する様々な書物が開かれ、テキスト中の残虐なセンテンスや、ギュスターヴ・ドレの銅版画による挿絵が画面いっぱいに映し出される背後で、なんとも格調高く鳴り響く「G線上のアリア」。
 図書館内を黙々と歩くサマセット、自宅で現場写真と向き合うミルズ刑事と、そんな夫を離れたところから見守るトレイシー(グウィネス・パルトロウ)のショットを合間に挿入しながら、これから3人に訪れる恐怖と絶望の予兆が渦巻く一連のシークェンスを、「アリア」の美しいメロディがミスマッチに彩ってしまうという、MTV監督出身であるフィンチャーの本領がいかんなく発揮されたパートだ。

 そして3つめは、エンド・クレジットでかかるデヴィッド・ボウイの「Hearts Filthy Lesson」である。
 ボウイが95年に発表したアルバム「アウトサイド」は、ブライアン・イーノやカルロス・アロマーといったかつての盟友の参加もあり、テイストとしては70年代黄金期のボウイを彷彿とさせるが、ボウイ自身によってインナーに書き下ろされた「ネイサン・アドラーの日記 あるいはベイビー・グレイス・ブルーの芸術儀式殺人」なるテキストのおかげでボウイ最大の問題作と化している。
 『セブン』撮影中、この猟奇的アート殺人をテーマにしたアルバムのことを聞きつけたフィンチャーは、曲の使用をめぐってボウイに連絡を取っている。2人のデヴィッドがやろうとしていたことは見事にシンクロしていたのだ。
 『セブン』ではジョエル・ピーター・ウィトキンの写真がヴィジュアル・イメージとして参考にされたが、「Hearts Filthy Lesson」のプロモ・ヴィデオでは、もろにウィトキンの作品が動き出したかのような世界でアクトするボウイを見ることが出来る。
 「ネイサン・アドラーの日記」は、殺人事件の容疑者が営む店に行ったきり行方不明になったある女性芸術家についての記述で終わっているのだが、彼女が妊娠していた、というオチはまるで示し合わせたかのように『セブン』とリンクしている。
 ちなみに「アウトサイド」から映画に使用された曲があと2つある。デイヴィッド・リンチ作品『ロスト・ハイウェイ』のオープニング&エンディングで使用された「I'm Deranged」と、ポール・ヴァーホーヴェン作品『スターシップ・トゥルーパーズ』のプロム場面で登場するバンドによって演奏された「I Have Not Been To Oxford Town」である。
 「アウトサイド」は小生にとって90年代の最重要ロック・アルバムとなってしまった。

 「ノイズ」「バロック」「猟奇」・・・・そしてボウイの曲のラストで聴けるつぶやき「What a fantastic death abyss(なんて素敵な死の深み)」・・・・『セブン』はつまりそういう映画なのである。

 上記US版アドヴァンスと同じ写真を用いたイギリス版アドヴァンス・ポスター。コピーもクレジットも無い正真正銘の「煽り」ポスター。ブラッド・ピットとモーガン・フリーマンの名前が赤いところがナイス。




1996. UK Soundtrack AD. 20X28 inch. Rolled.

■カイル・クーパー

 「アートとしての猟奇殺人」というか、「猟奇殺人という名のアート」を扱った『セブン』という作品を、極上のオープニング・タイトルとエンド・ロールでサンドウィッチし、作品自体をアートとしてパッケージングして見せたのは、当時まだ知られていなかったカイル・クーパー。この天才タイトル・デザイナーがいなかったら、『セブン』はこれほどまでの傑作にはなりえなかったと言えよう。

 カミソリで指紋を削ぐ指先、死体写真のコラージュ、小さな字でびっしりと埋め尽くされたノート・・・・「アウトサイダー・アート」の制作プロセスをさらに別の「アウトサイダー」がフィルムに定着させたような二重構造とも言えるオープニング。
 組合や協会から訴えられなかったのが不思議なほど各クレジットは、手書き文字で、小刻みに明滅し、不鮮明どころか時には反転さえし、一時も静止せず、一瞬で消えるものまである。『悪魔のいけにえ』(1974年)と同種の「不穏さ」と「壊れちゃった感」と「狂気」に満ち満ちたこのタイトル・バックを目にした瞬間、始まったばかりのこの映画が『羊たちの沈黙』とは全く違う立地点とベクトルを持った作品だと理解したものだ。

 そして、幕切れと絶妙なタイミングで流れ出す「Hearts Filthy Lesson」のノイジーなイントロ、同時に現れるケヴィン・スペイシーのクレジット(犯人のインパクトを保持するため、ポスターやオープニング・クレジットからスペイシーの名前は外された)。上から下へと降りて行くエンド・ロールは、物語のラストで味わわされた衝撃と絶望に追い討ちをかける。オープニングとは違って文字自体は読み易いものの、至るところが切り貼りされていたり斜めになっていたりして、しかも余白には引掻きキズや得体の知れないものが貼り付けられている。
 エンド・クレジットすらアウトサイダー・アート状のルックにしてしまうことで、2時間に渡って展開した物語を、覚めることのない悪夢として記憶に定着させることに成功したのだ。信じ難いあのアンハッピー・エンドとともに。

 「大食」「強欲」「怠惰」「色欲」「傲慢」で死の説教を完成させたジョン・ドウは、最後に自らを「嫉妬」の罪に問い、ミルズ刑事には「憤怒」の罪を突き付ける。そして自分はミルズによる射殺という罰を受け、「憤怒=復讐」の罪を背負ったミルズに、ジョンは「死」ではなく、「生」という罰を与えることになる。壊れてしまうミルズ。
 救いの無いエンディングに反対したプロデューサーのアーノルド・コペルソンを、デヴィッド・フィンチャーは「この映画はきっと伝説になる」と説得した。「俳優や監督は忘れ去られても、“あの箱入りの首の映画”として必ずや伝説になる」と。
 結局ラスト(時間設定は7時)で射殺されるジョン・ドウを除いて、この映画は画面上で起こるリアル・タイムの死を見せずに事後の現場のみで「7つの死」を描いてしまう。観客は、美しいモデルが鼻を削がれる場面も、売春婦が「特注のペニス」で犯される場面も、箱の中の生首も見てはいない。見る者の好奇心と想像力に挑み、神経を逆撫でするやり方。
 中でも出色である「色欲」の罪のシークェンスは、『ゴッドファーザーPartU』にあった同様のシーンのせいで強烈な既視感を呼び覚ます。股間を真っ赤に染めて絶命している商売女の横で泣きわめく男、というおぞましい図のせいである。さらに言えば、1作目の『ゴッドファーザー』にあった映画史に残る絶叫シーンである例の「馬の首」が、『セブン』のクライマックスへと応用されている、とも言える。自らを法の番人としてアメリカという国を粛清し、形作って来たマフィアの論理と、『セブン』の犯人=ジョン・ドウによる<説教>が内包する崇高なる狂気は、どこか似ている。
 『セブン』と『羊たちの沈黙』はこれほどまでに違う。ジョナサン・デミに無くてデヴィッド・フィンチャーにあるもの。それは「悪意」だ。「ダーク・ソウル」だ。それが『セブン』をこんな作品にしたのだ。
 90年代、小生を最も蝕んだ映画が、『セブン』である。

 US1シートのタイトル文字ははっきり言ってつまらない。このサントラ盤の宣伝ポスターにある「SE7EN」という表記は本編で使用されたものと同じ。当然カイル・クーパーがデザインしたものであろう。このタイトル文字が採用されているというだけで、このポスターの存在価値は高い。やはり『セブン』はこうでなきゃ。