■越境者
結局トラヴィス・ビックルがどこまで精神を病んでいたのかは判然としない。シュレーダーは「空想を行動に移す男の物語だ」と、トラヴィスの空想癖のことを明言してはいるが、映像化したスコセッシ本人は何も言っていない。トラヴィスの髪型の変化だけを頼りに、現実の出来事と彼の脳内での事象とに分割してしまうのは短絡的かも知れないし、説得力に欠けるのかも知れない。
スコセッシは後にデヴィッド・クローネンバーグの熱心な信奉者となる。クローネンバーグは2つの世界を行ったり来たりする者たちの姿を冷徹な目で見つめて来た作家だ。彼ら主人公たちにとって、一方が現実で片方は仮想である、などというわけではない。2つの世界は同じ強度を維持しながら両方とも現実として主人公の目の前に、そして我々観る側の目の前に展開する。
クローネンバーグが繰り返し描いた「越境者」と、スコセッシが具現したトラヴィスという男は似ている。トラヴィスにとっては全てが現実なのだ。だから、前ページで示したような区分けなど、実は無意味と言っていい。
エンド・クレジットでハード・ボイルド・タッチのあのテーマ曲を再び聴かせながら、バーナード・ハーマンは最後に不穏なコーダを用意する。あの無気味なコーダは、ハーマンが『サイコ』に書いたものと全く同じものである。あの作品の主人公にして殺人者=ノーマン・ベイツもまた2つの現実を行き来する越境者ではなかったか。
『タクシードライバー』をサイコ・スリラーというジャンルに押し込めるつもりは毛頭ない。ただ、トラヴィスのあの髪型の変化をどう捉えるか、という議論がなされていないことが疑問である。同じようにカルト映画である『ブレードランナー』では、リック・デッカードが人間かレプリカントかで議論を呼び、監督本人が答えを出してると言うのに、だ。
トラヴィス・ビックルは気狂いか?
答えは恐らくイエスだろう。
だがはっきりとそう言えないからこそ、『タクシードライバー』という映画は時代も国境も超えた永遠の甘美な爆弾であり続けるだろう。越境者への憧憬が不滅である限り。
だからこう言い換えよう。
“世界中のどの街のどのストリートにも、偉いやつになる夢を見てるつまらない奴がいる”
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