VIOLENT COP
『その男、凶暴につき』(1989年)


1998. French. 46X62inch. Rolled.

この大きなポスターを部屋に飾ってる間、たけちゃんがお客さんに来たようで落ち着かなかった。

■ビートたけしは特別な人だった

 私的な事を言わせてもらえば、1965年生まれの小生にとり、超多感な年頃を迎えることとなった80年代初頭において、最も発言力を持ったのは「YMO」と「ビートたけし」であった。今現在、この世界を見ている眼は(大分濁り霞んでしまっているが)彼らに貰ったのだと言っても過言ではないと思う。
 それまで少年の眼に常識として映っていた様々な事象を疑い、再構成すること。要するに世界をナメること。他者との差異を自覚すること。それには<距離>が必要であること。そして「世界は病んでいる」と知ること。
 79年までは考えもしなかったようなことを80年の小生は実践するようになっていた。親は戸惑いながらも少年期特有の反抗と割り切って過ぎ去るのを待っていたようだったが、当然それは一過性のものなどではない。
 1980年に一旦入ってしまったスイッチは以後もう戻ることはなかった。

■『コミック雑誌なんかいらない!』

 何本かの企画モノ映画の後、大島渚作品『戦場のメリークリスマス』への抜擢で役者=ビートたけしの道は開かれた。そこではまだ素人や部外者だけが持てる存在感の異様さを、大島の狙い通りフィルムに刻んでいるだけではあるが、時折見せる残忍性にはプロの役者にはない緊張感が漂っていた。
 そしてその緊張感が凄みとなって見る者を圧倒するのが、86年の内田裕也主演作品『コミック雑誌なんかいらない!』のクライマックスでたけしが演じる殺人者である。
 実際の詐欺事件をモデルにした劇中最後のエピソードにおいて、ブラリと現れて報道陣の眼前で渦中の人物を刺殺する大胆な犯罪者を演じるたけしは、返り血を浴びた顔でTVカメラに向かいうれしそうに包丁を掲げて見せ、去って行く。
 かつて『戦メリ』で見せた笑顔とは正反対に位置する凶暴な笑みが不気味に貼り付いていた顔。「役者=ビートたけし」が心底かっこよく見えた瞬間だった。
 そして89年、バブル経済絶頂期の中とてつもない才能が花開くことになる。
 映画監督=北野武の誕生である。

 カンヌで『ソナチネ』が話題になり『HANA−BI』がベネチアで賞を獲った後ようやくパリで公開された『その男、凶暴につき』。ポスター・サイズが大きいせいか、飾っている間中「たけちゃんがお客に来た雰囲気」がずっと我が家に漂っていた。それにしても海外向けタイトルのヒネリの無さに脱力しそうだ。



1994. British. 20X30inch. Folded.

■ウィリアム・フリードキン

 幸せそうな顔でもごもごと食事をする初老のホームレスのアップ。何処も凝っていない何気ないショットではあるが、このオープニングに何故かはっとさせられ、一気に作品世界へと埋没して行った記憶がある。
 やがて現れた少年たちになぶり殺しにされるホームレス。何事も無かったかのように帰宅する少年たち。カメラは一軒の家に固定されている。まず、さきほどの少年グループの1人が帰宅。そして数秒後にフレームインしてくるたけし演じる刑事。母親に警察手帳を見せるや、ズカズカと上がり込み2階にある少年の部屋に押し入る(少年の部屋のドアの外側には悪魔のお面が掛けられている)。ナメた態度で白を切る少年。まず蹴りが、続いて平手打ちと頭突きが炸裂する。
 そう、この一連のシークエンスは『エクソシスト』である。さらにたけし演ずる我妻刑事の暴走ぶりと狂気は『フレンチコネクション』のポパイを彷彿とさせ、我妻の後輩刑事がラストでやくざに薬を横流しする為の「パイプ」に納まるオチは『L.A.大捜査線 狼たちの街』を思い起こさせる。つまり『その男、凶暴につき』にはウィリアム・フリードキンのフィルモグラフィが影のようにつきまとっているのだ。
 そもそも深作欣二がメガホンを執る予定で進められていた企画であり、唯一北野武のオリジナル脚本ではないこの作品。よって佐野史郎などという、その後の北野作品からすればかなり的外れなキャスティングが見られるのは御愛嬌だが、一方でロッカー=白竜演じる殺し屋のヒンヤリとした狂気などは、後の作品でのキャラクターたちに連なるものだ。常連俳優である寺島進の顔も見える。
 とにかく監督デビュー作にしてこれほどまでに高いクオリティを見せつけられたのは、物凄い威力の、しかも思いもよらぬ方向から喰らったパンチだったのだ。タレントの片手間仕事などでは決してなかった。

 ロンドンはICA(アート・スクール)にある映画館が北野作品の特集上映を組んだ際のポスター。この時、北野監督自身も渡英して講演を行っている。イギリスでの「キタノ熱」は相当なものだったらしい。



1998. US 1 Sheet. 27X40inch. Rolled.

■美しくリアルな銃声

 タイトルにもあるようにこの映画の要は「暴力表現」にある。60年代から量産され続けて来たテレビの刑事ドラマに慣れ親しみ、すっかり弛緩してしまった頭には、それらがついてきた「嘘」をひとつひとつ打ち消していくことで予定調和を回避して見せるこの映画のすべてが刺激的だ。とうの昔に『フレンチコネクション』や『セルピコ』で描かれていた、殺伐とした警察組織内部と一匹狼の刑事という図式が、改めて新鮮に映る。
 そして現場で有効に機能する暴力は「殴る」「蹴る」である。見ているだけで痛い顔面キックや、執拗に繰り返される平手打ち。拳銃の発砲も唐突で味方を撃ってしまったりもする。
 そんな場面の持つリアリティの一端を担うのは「音」である。乾いていてしかも音圧のある銃声。決して「バキューン」などという音はしないのだ。全ての北野作品で聴ける拳銃の発射音はとても美しい音がする。「死」に直結したサウンドなのだ。
 ところどころに不本意な演出(タイ・アップなど)や平凡なショットはあれども、なんと言っても初々しい処女作。その後開くことになる蕾の宝庫である。まだ久石譲と組む前のクールな音楽も良い。

 ヨーロッパにかなりの遅れをとってアメリカでも公開したようである。上記のヨーロッパ版や日本版に慣れている眼には珍しく映る派手なポスター。なかなか眩しい。