ZATOICHI
『座頭市』(2003年)

2004. British Quad. 30X40inch. Rolled.

■良い映画は見終わった後マネしたくなる

 どう評してよいものか判らなかった『Dolls』を経て、北野武は大変な企画を任された。
 時代劇史上に燦然と輝く名キャラクター「座頭市」である。
 日本映画界の怪物=勝新太郎のライフワークであり、「勝新と言えば座頭市」「座頭市と言えば勝新」と言われるほど勝新自身が惚れ込み、ファンから愛され続ける座頭市。それほど強固な砦に果たしてたけしが入る隙などあるのだろうか。言わば最初から負け戦と判り切っている勝負を何故するのか。「タップダンスやギャグなども取り入れて新しい座頭市を目指す」という北野武の発言に、7−3で不安のほうが勝つという複雑な心境のまま映画館を訪れた。
 しかし、見終わって映画館を出た途端、小生は子供のように、目をつぶって仕込み杖を抜くマネをしてしまったのだ。「良い映画は見終わった後思わずマネしたくなる」という自論がある。負けた。疑ってすまなかった、たけちゃん。

■殺気と色気

 もちろん全てを良しとするわけではない。演出の過剰や意味不明なくらい冗長なカットが相変わらず目に付く。本人曰く「テンポにこだわった」らしいがそれほどストーリーがテンポよく進むわけではない。CGを多用して迫力ある血生臭い殺陣を目指したものの、CGの出来はたいして良くない。話題になったラストのタップダンスも本編からはやはり浮いているし、この場面で使われるモーフィングには趣味の悪さしか感じられない。
 だが、それらマイナス要素を忘れさせるほどたけしの演じる座頭市がかっこいいのだ。勝新=座頭市がヒューマンで泥臭いキャラクターであったのに対し、たけしは座頭市をまるで「死神」のような存在に仕立てた。
 感情の起伏を見せず、一旦仕込み杖を抜けばかかって来る奴らを全て斬る殺人マシーン。可愛い右半分を失った能面のような顔を歪め、動くそばから相手を斬っていく殺陣が素晴らしく、殺気に満ちた佇まいと目の覚めるようなアクションは、時代劇に必須の色気をも獲得し、ここに「たけし流座頭市」を見事に打ち出すことに成功した。
 バイク事故後、たけしの顔を初めて美しいと思うことが出来た瞬間であった。
 コメディ面をガダルカナル・タカに任せたのも正解。『3−4X10月』『みんな〜やってるか!』以来久々に彼独特のギャグ味を堪能出来る喜びはもちろん、彼のおかげでたけしは「得体の知れない強い按摩さん」に徹することが出来たのだ。
 そして今回、音楽に久石を使わず、日本最古のロックバンド「ムーンライダーズ」の鈴木慶一を起用したことが事件だ。ピアニストからギタリストへと変わったことで座頭市とギターのマッチングに多大な期待を寄せたのだが、監督同様、音楽も一筋縄ではいかなかった。久石なんぞには望めなかったであろう、軽やかな時代劇風味のメロディとパーカッシヴなスコアが北野作品に新風をもたらしたのは喜ばしい限り。

■時代劇の復権

 「やくざものに支配された宿場」「ワケありの浪人」「鉄火場」「父母の仇討ちを悲願とする姉弟」「お調子者の三下」「派手な殺陣」「大団円としての祭り(踊り)」・・・・実は北野版『座頭市』は変化球ながらも時代劇の王道を一応なぞっている。
 90年代終わり頃から最新の技術や新しい解釈による新感覚時代劇のようなものがやたらと作られたが、往年のプログラム・ピクチャーとしての時代劇をこれほどリスペクトした作品は、この『座頭市』だけではなかったろうか。
 「金髪」?「タップダンス」?そんなもの目じゃない。
 たけし版座頭市はなんと最後に眼を開くのである。
 しかも青い眼を。
 時代劇の王道へと立ち返りつつも、最後の最後に切り出すこの勝新=座頭市への大胆不敵な挑戦に、デビュー作『その男、凶暴につき』で見せた「アンチ刑事ドラマ」の意気込みを想起し、嬉しくなったものだ。
 噴き出す血、宙に舞う手首、果ては火花を散らして切断される石灯篭まで、北野流時代劇は過剰なヴァイオレンスや意外性に彩られてはいるものの、なかなかに温故知新なエンターテインメントであった。

 イギリス版ポスターは何とイラストである。写真を元にコンピューターで彩色を施したのだろう。各国版中最もアート志向の強いポスター。北野武をいち早く評価した国イギリスならでは。お、18禁かい?