1900
(NOVECENTO)
『1900年』(1976年)


1976. French. 41X55cm. Folded.

このイラストを描いたのはJean Masciiというフランス人アーティスト。
デザインを担当したのは『ブレードランナー』ヨーロッパ版で知られるJouineau Bourdugeである。
デ・ニーロ、ドパルデュー他、登場人物を探すのが楽しい。


■ベルトルッチ36歳、デ・ニーロ32歳、ドパルデュー27歳

 舞台はイタリアのエミーリア地方(ベルトルッチの故郷パルマがある)。大地主の息子アルフレード・ベルリンギエリと小作人の子オルモ・ダルコ、1900年の同じ日に誕生した2人の男子の愛憎ドラマを軸としながら、時の権力と農民たちの階級闘争に揺れる1900年代前半世紀のイタリアを力強く描く大河ロマン。「第一部」「第二部」合わせて5時間以上という超絶作品。製作開始から3年、この映画の完成時、ベルトルッチはなんと36歳であった。

 アルフレードを演じるロバート・デ・ニーロは当時32歳。この映画の撮影中、直前に出演した『ゴッドファーザーPARTU』によりオスカーを受賞。撮影終了するやいなや帰国してすぐに『タクシードライバー』に出演。『1900年』が上映された(審査の対象外であったが)1976年のカンヌ映画祭は、大島渚の『愛のコリーダ』が話題となり、グランプリを『タクシードライバー』が獲得した年であった。70年代中盤は、その後のデ・ニーロのキャリアを決定付けた、あまりにも重要な時代だったのだ。

 対するオルモ役はジェラール・ドパルデュー。実際はデ・ニーロより5歳下であるが、幼馴染みとしての2人のバランスは良く、線の細いデ・ニーロが地主のお坊ちゃんを演じているのに比べ、がっしりした立派な体格で小作人のせがれオルモを堂々と演じている。ドパルデューとデ・ニーロ、その後2人が重ねることになるキャリアには似たものを感じるが、まだ若々しかった米仏のスターがこの映画で見せる2ショットは全裸シーン(残念ながら修正あり)も含めて相当に感慨深い。

 アルフレード、オルモそれぞれのパートナー役はドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリという『暗殺の森』コンビ。
 ドミニク・サンダは妊娠を理由に『ラストタンゴ・イン・パリ』を降板した経緯があり、もし出演していれば連続3作のベルトルッチ作品に関わることになるはずだった。『1900年』でも堂々たるヌードを披露しているが、出産を経たため、『暗殺の森』の時ほどの張りは無くなってしまったのが残念。
 サンドレッリは、『暗殺の森』での可愛くて馬鹿で平凡な役柄と打って変わって、今作ではオルモをインテリジェンス面で革命戦士へと導く才女を演じる。家族を第一次大戦で失った設定もあり、『暗殺の森』での天真爛漫さとは真逆の、憂いの中に芯の強さを秘めた顔が美しい。ドパルデューとのカラミはあるがヌードは無い。ちなみにサンドレッリは、アリダ・ヴァリとともにベルトルッチ作品最多出演女優である。

■ランカスター62歳、ヘイドン59歳、サザーランド40歳

 アルフレード、オルモそれぞれの祖父を演じるバート・ランカスターとスターリング・ヘイドンもまた幼馴染みという設定だ。
 ランカスターはヴィスコンティ作品『山猫』『家族の肖像』、ヘイドンは『ゴッドファーザー』と、2人ともイタリア人監督の作品に縁のあるスターだった。『カサンドラ・クロス』『合衆国最後の日』などに夢中だった小学生の頃、「好きな俳優は誰?」と訊く大人たちに、ブルース・リーでもスティーブ・マックィーンでもなく「バート・ランカスター」と答えて「渋いねえ」と唸らせていた思い出を持つ身としては、それらの作品と同時期にランカスターがこのような意欲作に取り組んでいたことを知り、不思議な感慨を覚えたものだ。
 ちなみにランカスター演じる大地主が見せる死に様は、衣装も含め、2年後に彼が出演する『ドクターモローの島』での最期とそっくりである。

 スターリング・ヘイドンはスタンリー・キューブリック作品『現金に体を張れ』で主人公を、『博士の異常な愛情』では狂気に陥ったリッパー将軍を演じたことで名高い。実は『1900年』に出演する前、ヘイドンは『ジョーズ』でロバート・ショウが演じたクイント役としてキャスティングされていた。
 しかしパリで生活していたヘイドンは、税金問題で政府ともめており入国出来なかったため(ということは脱税だろうな)候補から外された。当然今となっては、クイント役はロバート・ショウ以外考えられないのだが。

 ベルリンギエリ農園の管理人にしてファシスト党員を演じるドナルド・サザーランドの悪役ぶりも存在感たっぷりだ。子猫を縛り付けて頭突きで殺すわ、アルフレードの結婚式の騒ぎに隠れて少年を犯すわ、その後少年の目前でアルフレードの従兄妹レジーナと姦淫、さらに少年の脚を持ってグルグル振り回し頭を叩きつけて殺すわ、アルフレードに借金をしていた地主の奥方をその邸宅の門扉に串刺しにするわ、という残虐非道っぷり。
 イタリア解放の日、農婦たちに追いかけられ、ピッチフォークを腕と腿に突き立てられたまま暴れ吠えるサザーランドは、怪物として最後まで輝いていた。ラウラ・ベッティ演ずる最愛のレジーナとともに。



1976. French. 41X55cm. Folded.

93年に初めてこの映画を観た渋谷東急のロビーにはこれの大判が飾ってあったと記憶している。

■変奏曲

 父親(父性)の不在。決断力・行動力に欠け卑怯とも言える主人公。そんな彼を新しい世界へ導こうとする擬似的な父親。最後は主人公に愛想を着かしてしまう妻。歴史の大きな潮流。エロティシズム。男色。レズビアン。麻薬。などなど。
 同じ時代背景を持つベルトルッチの3作品、『暗殺の森』、『1900年』、そして『ラスト・エンペラー』は、どれも同様の構造・要素を持った「変奏曲」とでも言うべき作品だ。
 父親が精神病院に収容されているマルチェッロにとっては大学時代の恩師クアドリ教授が、父親を毛嫌いしているアルフレードにとっては伯父オッタヴィオが、幼くして親から引き離された皇帝=溥儀にとってはイギリス人教師ジョンストンが、それぞれ父親=教育者・精神的導師である。
 結局オッタヴィオは、ファシスト党員たちから袋叩きにあうオルモを助けないアルフレードに失望し、立ち去ってしまう。クアドリ教授も伯父オッタヴィオも教師ジョンストンも、時代が大きく変わる直前に主人公の前から姿を消してしまうのは同じだ。主人公の妻たちのその後は、『1900年』と『ラストエンペラー』では全く同じである。
 アルフレードの妻アーダは地主の妻として自由の無い生活を送り、子供が出来ず、酒に溺れ、侍女とただならぬ関係になり、そして家を飛び出して自由を手に入れる。溥儀の正室=婉容も孤独感に苛まれ、子供を欲しがりつつも阿片に溺れ、従姉に体を弄ばれ、運転手と肉体関係を持ち、出来た子供を取り上げられた挙句病院送りになってしまう。一方、側室=文繍の方は離婚を申し出て、アーダのように家を飛び出す。両作品の主人公は、導き手の次に最愛の人をも失ってしまうのだ。

■オッタヴィオ

 『暗殺の森』『1900年』『ラストエンペラー』に登場する3人の「父親」。いずれも知的でウィットに富んだキャラクターとして描かれているが、『1900年』の主人公の伯父オッタヴィオはその華麗なルックスもあって特に魅力的だ。
 大農園を営むベルリンギエリ家の長男でありながら家業を父と弟に任せて家を飛び出した男。ヨーロッパ中を旅する自由人であり、前衛絵画を理解する教養の持ち主であり、カメラを愛する趣味人でもある。
 街に家を持つ伯父を訪ねたアルフレードの前に、髪を乾かしながら現れたアーダ(ドミニク・サンダ)は、オッタヴィオに寄り添うとまるで歳の離れた愛人に見えるが(サンダは『暗殺の森』でクアドリ教授の若い妻を演じた)、実はオッタヴィオが男色家であると後になって匂わされる。旅先のナポリ、水遊びをしているアルフレードとアーダを見下ろす断崖の上で少年たちのヌード撮影に興じ、ホテルでは2人にコカインを薦めるオッタヴィオ。そして2人の結婚式には白馬を引いて駆けつけ、「名前はコカインだ」とその馬を新婦にプレゼントするシーンの華やかさには同性ながらうっとりさせられる。

■キューブリック

 オッタヴィオを演じたのはドイツ人俳優ヴェルナー・ブランズ。有名な出演作としては『オデッサ・ファイル』くらいしかないのだが、なんとこの人、スタンリー・キューブリック夫人=クリスティアーネの前夫である(クリスティアーネはドイツ人)。2人の間にはカタリーナという娘がおり、彼女は『時計じかけのオレンジ』のレコードショップのシーンにエキストラ出演もしている。うーん、またもやキューブリックか・・・・。
 ヴェルナー・ブランズは1977年に自殺している。『1900年』が最後の映画であった。
 ちなみにキューブリックは、『時計じかけのオレンジ』を撮る前に「ナポレオン」を企画し、主演をジャック・ニコルソンにオファーしているが、『1900年』の主人公アルフレード役には、実は当初ニコルソンが想定されていた。



1976. German. 23X33cm. Folded.

タイトル・ロゴも素晴らしければ、少々雑なコラージュも味わいがある。
右端、農民革命を声高に叫んでいるように見えるジェラール・ドパルデュー。
実は白馬にまたがったドミニク・サンダに頭髪をつかまれて悲鳴を上げているだけである。

■これは映画である

 5時間以上という長尺の中で語られる物語は、一定のトーンを全く保っておらず、展開のテンポも良いとは言えず、時に混沌としたムードすら醸し出す。それは相対する2つの階層、ブルジョワ側と農民側をまったく別の演出・撮影・趣向で描き出しているからであり、主人公たちを取り巻く人間たちがあまりにも多いからであり、そして何と言っても上映時間の長尺によるものでもある。『暗殺の森』や『ラストタンゴ・イン・パリ』には見ることの出来なかった制御不能感。
 イタリアの現代史を真摯に捉え、農民たちが送る奴隷のような生き方を彼らの目線で描く一方で、資本家たちの享楽的・退廃的な生活をも魅力的に映し出す、というアンビバレンツ。ベルトルッチは共産党員であるが、その政治的信条とは逆にブルジョワやナショナリストを魅力たっぷりに描く、という点で、『華麗なる一族』や『皇帝のいない八月』の山本薩夫監督を思い出さないでもない。
 しかも、これはベルトルッチ作品全般に言えることだが、登場人物たちはみな一筋縄では行かないようなキャラクター造形をされている。『暗殺のオペラ』のジュリオ・ブロージも、『暗殺の森』のジャン・ルイ・トランティニャンも、『ラストタンゴ・イン・パリ』のマーロン・ブランドも、『1900年』のロバート・デ・ニーロも、『ラストエンペラー』のジョン・ローンも、みな主人公を美しく魅力的な人物として演じながらも、常にどこか諦念や空虚を感じさせ、時にエキセントリックな言動によって、観る側の理解や共感からスルリと抜けてしまう。そんな主人公と一緒になってドラマを紡がねばならない相手役・敵役・脇役もまた、みな同じ世界の住人だ。
 パラノイアックな人間たちの甘美で官能的な饗宴に酔うこと。これこそベルトルッチ作品の醍醐味ではないだろうか。

 そして、『暗殺の森』にジョルジュ・ドルリューを、『ラストタンゴ・イン・パリ』でガトー・バルビエリを起用したベルトルッチの音楽への慧眼は、今作でも冒頭から冴えを見せる。
 イタリアの印象派画家ジュゼッペ・ペッリツァ・ダ・ヴォルペードが、ちょうどアルフレードとオルモが誕生した頃に描いた作品「Ii Quatro Stato」(第4階層)のクローズアップからゆっくりとカメラが引くと、農民たちが行進する図が徐々に現れる。牧歌的だが、同時に格調と勇壮を併せ持つこの曲のタイトルは「Romanzo」(小説・物語)。イタリア映画が生んだ大作曲家エンニオ・モリコーネが、ヴォルペードの絵画のために腕を奮ったかのようなこのスコアが、多様にアレンジされて映画を彩る。
 農民たちの意志とエモーションをサウンド化する一方で、モリコーネはドミニク・サンダ演じるアーダのために「Tema di Arda」(アーダのテーマ)を用意する。クロード・ドビュッシーやエンリケ・グラナドスを思わせる耽美的なピアノが、新しいミレニアムの美とカオスと憂鬱を体現するアーダにぴたりと寄り添う奇跡。ベルトルッチとストラーロとモリコーネが、持てる才能をフル稼働して、ドミニク・サンダをこの映画に似つかわしくないほどの女神に仕立てる。
 ベルトルッチ作品をコントロールしているのは、やはりここでも音楽なのだ。

 5時間を経て辿り着いたラストシーン、ヨボヨボに年老いたアルフレードとオルモの現在が描かれるが、そこにリアリズムは無い。ベルトルッチ作品には珍しくない終わり方だ。闘争の半世紀を重厚な群像劇として描いておきながら、最後の最後はボケてしまった2人の、まるで子供のような小突き合いにしてしまい、少年時代のある1シーンへとジャンプバックして、映画は不条理に幕を閉じてしまう。このファンタジックなオチは『ラストエンペラー』でも有効に機能した。
 リアリティ?歴史を忠実に描く?
 『ラストエンペラー』が公開された時、記者からの「中国が舞台なのになぜセリフが英語なのですか」という質問にベルトルッチはこう答えた。
 「これは映画なんですよ」、と。
 『1900年』もまた、英語で描かれたイタリアの物語である。
 しかも主要な登場人物たちを演じるのはみな外国人たちだ。
 確信犯的に。

 この作品はイタリアの現代史を俯瞰して見せるような超大作ではない。世界を巻き込んだ2つの大戦や、ローマやミラノに吹き荒れたファシズムの嵐をハリウッド的物量作戦で描くスケールも無い。
 『1900年』という作品は、農村という小さな宇宙で、一人は地主、もう一人は小作人として生まれ落ちた「双生児」の兄弟喧嘩の歴史であり、滑稽だが美しい人生への賛歌だ。