SEVEN
『セブン』(1995年)


1995. US Advance. 27X41inch. Double-sided. Rolled.

■デヴィッド・フィンチャーの逆襲

 『羊たちの沈黙』でスリラー&ホラーの新しい方向性を見つけたハリウッドは、いわゆるサイコ・スリラー作品を量産する。しかしそれらの多くは、謎の連続殺人犯を追うシリアル・キラー物というよりも、主人公が1人の狂人に付け狙われるストーカー物だった。どの作品も精彩を欠いた凡作ばかりで、ポスト『羊沈』と呼べるような作品は不在のまま。その間小生の目は、当時彗星のごとく現れたクェンティン・タランティーノや、ベルギー映画『ありふれた事件』などのインデペンデント系ヴァイオレンス作品へと向けられてしまったものだ。
 しかし『羊たちの沈黙』から4年以上が過ぎた90年代半ば、あれを超える作品などもう現れないかも知れないと、サイコ・スリラーというジャンルへの期待も希薄になっていた頃、1本の映画が意外な人物の名前とともに登場した。

 92年、デヴィッド・フィンチャーは『エイリアン3』でデビューしたものの、結果は内容的にも興行的にも惨敗であった。
 ジェームズ・キャメロンによる『エイリアン2』の後だけにプレッシャーも相当なものであったはずだし、SF作家ウィリアム・ギブスンが最初に書いた脚本は寄ってたかってリライトされ、面白味に欠けるストーリーに成り果てていた。小生はこの『3』を失敗作であるとは思ったものの、駄作と片付ける気にはならなかったが(現在でもそう思っている)、それでもこの監督はもう撮らせてもらえないかも知れないという諦めが強かったのを記憶している。だが忘れかけていた頃にフィンチャーはとんでもない作品を引っ提げて戻って来たのである。
 キリスト教の「七つの大罪」を7人の死で完成させようと連続<説教>殺人を敢行する犯人。彼との頭脳戦を強いられる博学な老刑事と血の気の多い若者刑事のコンビ。趣向を凝らした殺人現場は芸術作品のごとき美を湛え、意外な方法で「七つの大罪」が完遂される絶望的なラストは、カイル・クーパーによる画期的なタイトル・シークェンスとともにモダン・ホラーの伝説となった。
 『セブン』は、アート・フィルムと化すことで『羊たちの沈黙』とのバッティングを避けただけでなく、サイコ・スリラーの極北に行き着いた悪魔的作品である。

 この怖ろしい作品を書いたのは脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。売れる前にニューヨークのタワー・レコードで働いていたウォーカーは、都市に充満する腐敗や恐怖を怒りと憎悪でもって脚本にブチまけた。まるで『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルのように。
 たまたまTVで見た『刑事グラハム 凍りついた欲望』(1986年)が少なからずヒントになったようだが、このマイケル・マン監督作品は原題を「Manhunter」と言い、原作はトマス・ハリスの小説「レッド・ドラゴン」、つまり「レクター博士」シリーズの1作目である。
 ウォーカーは『セブン』の脚本を「ニューヨークへのラヴレターだ」と述懐し、完成した映画を絶賛している。ちなみにサマセットとミルズ両刑事が顔を会わせる冒頭の殺人現場で床に倒れている死体がウォーカー本人。さらにフィンチャーが後に撮ることになる『ファイトクラブ』には、この映画の脚本を無記名で手伝った彼に感謝を込めて、「アンドリュー」「ケヴィン」「ウォーカー」という3人の刑事が登場する。

 降りしきる雨、不健康な空気・・・・リドリー・スコットがありがたみの無い薄っぺらな作品を量産するようになり、アラン・パーカーも『ミシシッピ・バーニング』を最後に勢いを失った90年代、その欠落を埋めるのにフィンチャーのヴィジュアリストぶりは充分であった。1カット1カットがあれほど画になってる映画も久しぶりだった。
 撮影は『デリカテッセン』のジュネ&キャロ組のカメラマン、ダリウス・コンディ。フィンチャーは前作『エイリアン3』の撮影監督に『ブレードランナー』のジョーダン・クローネンウェスを起用したが、その遅々とした仕事ぶりから20世紀フォックスはクローネンウェスを降板させてしまう(その後念願かなって「コカコーラ」のCMでクローネンウェスと組むことに)。ヴィジュアリストとしての面目躍如とばかりに『セブン』で見せたコンディとのコラボレーションは、『ブレードランナー』のスコット&クローネンウェスのコンビに匹敵するクオリティである。しかも「銀残し(シルヴァー・リテンション)」と呼ばれる特殊な現像方法まで用いてダークな映像を作り上げるという完璧ぶりだ。「銀残し」とは、『おとうと』(1960年)をモノクロで撮りたかった市川 崑監督が、絶対にカラー作品でと望む大映側との折衷案として編み出した現像方法で、モノクロのように沈んだ色合いと強いコントラストを可能にする技術。『セブン』をきっかけにハリウッド映画(『プライベート・ライアン』など)で大流行した。

 1960年代から『イージーライダー』『カッコーの巣の上で』など、数多くの名作でスティル写真のカメラマンを務めてきたピーター・ソレルによる写真7枚を、数字の「7」の形に配置したアドヴァンス版ポスター。宗教画にあるような文字を使った上部のコピーは「Let he who is without sin try to survive」(罪なき者だけが助かる努力をせよ)。福音書にある、姦通罪により石打ちの刑を言い渡された女性をめぐってイエス・キリストが投げかけた言葉「罪なき者だけが石を投げよ」が元ネタである。かなり猟奇的な匂いのするデザインだが、これでも大人しい方だ。クライテリオン版LD−BOXには、もっと気味の悪い初期ポスター案が収録されている。ボツになったのが惜しまれる素晴らしいデザインが多数。



1995. US 1 sheet. 27X41inch. Double-sided. Rolled.

■『エクソシスト』と『野良犬』

 当たり前だが、当初スタジオ側はあの陰惨な脚本を書き直したがった。勝手に単純な刑事アクションへとリライトし、ブラッド・ピットが演じたデヴィッド・ミルズ刑事役にはデンゼル・ワシントンが興味を示していたという。フィンチャーの大反対で脚本は第1稿へと戻され、ダメ元でオファーしたモーガン・フリーマンが最初に決定、続いてブラッド・ピットが意欲を示し、犯人のジョン・ドウ役にケヴィン・スペイシーを強力にプッシュしたのはブラッド・ピットだった(もちろんグウィネス・パルトロウの起用も)。

 特殊造型にロブ・ボーティン(『遊星からの物体X』)が参加したことにより、『セブン』はホラー色が濃厚になった。「七つの大罪」の1つ「Sloth(怠惰)」の犠牲者をベッドに発見するフリーマンとピットの姿という図式に重なって来るのは、何と言っても『エクソシスト』である。M・フリーマン=「メリン神父」(マックス・フォン・シドウ)、B・ピット=「カラス神父」(ジェイソン・ミラー)と見立てることが可能だ。
 ベッドに縛り付けられ、怪物のような姿に成り果てた「怠惰」の犠牲者ヴィクター。彼の前科は「少女への性的虐待」だが、『エクソシスト』という作品に流れる不道徳なムードはまさにそれである。そして、神の遣いを自称する本当の悪魔ジョン・ドゥと人間たちの戦いの物語として、さらに「信仰なき時代」の絶望のドラマとして、『セブン』は「90年代の『エクソシスト』」と呼んでもいいのではあるまいか。

 2人の刑事を演じるモーガン・フリーマンとブラッド・ピットは画的にも良いコンビだ。老人と若者。黒人と白人。賢者と愚者。諦念と希望。独身者と妻帯者・・・・しかし『セブン』が平凡なバディ・ムービーにならなかったのは、あくまでもM・フリーマン扮するサマセット刑事の物語だからだ。
 本編クレジットでの順番はブラッド・ピットが先、ポスターでも左側に彼が配置されているから当然『セブン』はブラッド・ピットの主演映画なのだが、監督のD・フィンチャーも脚本のA・K・ウォーカーも口を揃えて「この映画はサマセットの物語だ」と言っている。当初のオープニングは、サマセットが退職後を郊外で静かに過ごすため1件の売り家を下見に訪れるというものだった。公開版の冒頭、出勤前の身支度のシークェンスで、ベッドの上に整然と並べられた携行品のショットにあるハンカチの上に乗った謎の「花の絵」は、そのボツになったシーンでサマセットが売り家からナイフで切り取って来た壁紙である。
 さらに、エンディング案の1つとして、「憤怒」の罪を負わされたミルズ刑事(B・ピット)がジョン・ドウを射殺すれば「七つの大罪」が完成してしまうことから、サマセット刑事が代わりにジョン・ドウを撃つという別ヴァージョンも用意されていた。
 最初の試写で上映されたのは、ミルズがジョン・ドウを撃つ場面で唐突に暗転して終わるというヴァージョンだったが案の定不評で、最終的にサマセットのモノローグ(ウィリアム・サマセット<・モーム>がヘミングウェイを引用するという遊び)で終わるという完成版になった。結局フィンチャーたちの思惑が最も色濃く出たのは完成版だったということになる。この映画はサマセットで始まりサマセットで終わるのだ。

 さらに『セブン』を見て思い出さずにはいられない映画がもう一本ある。黒澤明の『野良犬』だ。
 盗まれた拳銃を追い求めて復興期の東京を彷徨う、落ち着いたベテラン刑事=志村喬、苛つく新米刑事=三船敏郎。2人のたたずまいがフリーマン&ピットに驚くほどよく似ている。三船が盗まれたコルトで次々に犠牲者が出るのだが、弾倉に残されていた弾丸は「7発」。そしてクライマックスでの犯人との一騎打ちの場面では、それまで降っていたどしゃ降りの雨がピタリと止む、というオマケまで付いている。
 欲望渦巻くバビロンとしての戦後の東京は、『セブン』の舞台(特定の都市ではないが、脚本ではニューヨーク、撮影はロサンゼルス)と地続きとは言えないだろうか