2011年ポスターマン映画大賞


映画館で見た総数

135本  2011年は新作映画の中に強力な決定打となり得る作品が無かったように思っていた。それと言うのも、レストア版やニュープリントで鮮やかな復活を披露したクラシックや、DVDで繰り返し見ていたにも関わらずスクリーンで初めて見ることで感動を新たにした旧作に心を奪われることがあまりにも多かったからだ。

 しかしあらためて振り返ると、10本の選出に迷うほど傑作揃いだったことに気付く。絞り込むのに困った。困りに困った。

 というわけで、今回は変則技で発表する。
外国映画 102本
日本映画 33本


■ベスト5

1位 『宇宙人ポール』
 DVDリリースされて以来のフェイヴァリット映画だった『ショーン・オブ・ザ・デッド』を、今年初めてスクリーンで見ることが出来た狂喜から始まったサイモン・ペグ&ニック・フロスト祭り。久しく再見してなかった『ホット・ファズ』に初めて見るかのように興奮・爆笑し、『SPACED 俺たちルームシェアリング』に遡って天才コンビ(というかエドガー・ライトとの天才トリオ)の黎明期に目を細め、UK版ポスターやらプロモグッズ、果てはアクション・フィギュアにまで手を出す始末。こうなるともう、映画が面白いのか、それともペグ&フロストが好きなだけなのか、もうどっちなのかわかんな〜い。

 そんな風に血迷ってる僕への最高の贈り物が『宇宙人ポール』だった。ペグ&フロストがサンディエゴのコミコンでガキのようにはしゃいでいる・・・・これまで彼らが演じて来たキャラたちにとっての「夢の国」に、2人はやっと辿り着いたのだ。このファーストシーンで心を鷲掴みにされないファンはいない。しかも、楽しそうだがどこか窮屈そうだった過去作での2人への最大級の労い、といった趣向で始まるこのロードムービーには、更なる「くすぐり」の数々が待っている。一切媚びることなくマニアックなネタを矢継ぎ早にぶち込んで行く彼らのバディ感は、今作でマックスに達したと言えるだろう(ペグが見初めた女性にフロストが嫉妬するシーンまである!)。

 2人のアメリカ人青年が英国で遭遇する悪夢をコミカルに描いた『狼男アメリカン』への、そしてペグ&フロストに多大な影響を与えたはずの先達=ジョン・ランディスへの返礼が、『宇宙人ポール』の通底音であると確信する。『宇宙人ポール』を語る時にたびたび引き合いに出される『ギャラクシークエスト』(シガーニィ・ウィーバーが出てるからまあ当然だが)がそもそも下敷きにしていたのは、ランディス監督作『サボテン・ブラザーズ』だった。
 しかしその上に乗せられたネタの多くにはスピルバーグ作品への心よりの敬意が嬉しそうに弾けている。それらネタの1つ1つを絶妙のタイミングで繰り出し、物語の血肉となし、単なるパロディやオマージュに終始することなく1本の作品へとグレードアップさせる術を脚本家=ペグ&フロストは知っている。そしてそれを託したのが盟友エドガー・ライトではなく、グレッグ・モットーラだったことが重要だ(同時期にライトが手掛けた『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』を見ればわかることだ)。

 『スーパーバッド 童貞ウォーズ』でジョン・ランディス的悪ふざけを21世紀にサルベージして見せただけでなく、かつての良質な青春映画に漂っていたほろ苦さをラストでさりげなく加味することを忘れなかったモットーラ監督。あの作品の「ある場所へある物を届けることで大人になれる」という通過儀礼然とした骨子は、『宇宙人ポール』にもまんま当てはまる。そこへセス・ローゲン、ビル・ヘイダー、ジョー・ロ・トルグリオといったモットーラ&ジャド・アパトー組常連俳優たちが息の合ったアンサンブルを展開する。つまり『宇宙人ポール』という作品は、英国・アメリカにおける現在最高のコメディ映画クリエイターたちの夢のタッグだったのだ。

 「ロードムービー」というジャンルの核である「始まり、終わり、そして変化・変革」というドラマツルギーは、どれほど脱線しようがどのように形を変えようが永遠に古びることはない、という誇りと勇気を、この新しいクラシックは刻み直す。それは英国で最も市民権を得たオタク=ペグ&フロストが、ついにアメリカ大陸へと乗り込んで揚げた凱歌でもある。

 1975年に『ジョーズ』で映画人生を開始した僕にとって、スピルバーグは特別な存在だ。『未知との遭遇』を見た晩は興奮で眠れなかったものだ(まるでロイ・ニアリーのように)。『宇宙人ポール』は、ペグ&フロスト自身も含めスピルバーグの魔術に魅せられた世代への強力な武器だ。「大丈夫、おれたちは間違ってない」と。そしてそれはバトンとなって次世代へと引き継がれる。

 偶然拾った宇宙人を、追手をかわしながらピックアップポイントへと送り届けるドタバタ劇のクライマックスに現れる「あの山」。必ず登場すると分かり切っていた画のはずなのに、僕はまんまと落涙した。
2位 『ソーシャル・ネットワーク』
 個人的な好みを除けば、これはデヴィッド・フィンチャーの最高傑作だ。メディア王のRise & Fallを描いてることから『市民ケーン』を召喚する向きが多いが、むしろ両作品とも最先端の特殊効果を駆使している、というルック面での共通をもっと取り沙汰されてもいいように思う。この作品のテクノロジーはC・ノーラン作品並みだろう。
 幕切れのやるせなさも含めて、僕はスコセッシの『グッドフェローズ』を重ね合わせたが、スコセッシの饒舌さに追随する語り口のテクニックと併せて、隙の無い画面構成とサウンドの扱いにおいてはキューブリックに迫らんとする勢いである。

 ずば抜けたIQを備えていようが、世界トップクラスの教育を受けていようが、資産に恵まれていようが、この映画に描かれたキャラクターは愚者であり盲者でありクズだ。ハーバード大学にはこんな若造しかいないのか、ひいてはアメリカの、いや世界を動かしているリーダーにはこんなバカどもがどれほどいるのか、という疑念と恐怖へと至らないでもないが、しかしこの作品は『時計じかけのオレンジ』と比肩し得るほどの青春ピカレスクロマンでもある(角川映画『白昼の死角』を思い出すのもいい)。おまけにあんなバカどもが作った組織が内部崩壊していく様は、フィンチャーの手にかかれば第一級のスペクタクルだ。

 空虚で愚かではあるが、どのキャラクターにも愛すべきわずかな希望が残されているところがイイ(スコセッシの描いたジェイク・ラ・モッタを心底嫌悪する者はいないだろう)。ジェシー・アイゼンバーグが、アンドリュー・ガーフィールドが、ジャスティン・ティンバーレイクが醸し出す抗い難いキュートさ。ここで彼らの実像を引っ張り出してディスるのは笑止千万。
 これは映画であり、21世紀最高のダークファンタジーの1つであり、トレント・レズナーの奏でるノイズに合わせた沈黙のミュージカルであり、「ニューシネマ」がいまだ有効であることを示す記念碑なのだから。
3位 『ミッション:8ミニッツ』
 デヴィッド・ボウイの嫡子であることを隠す必要などもうない。むしろ「地球に落ちて来た男」の遺伝子が「ハードSFヴィジュアリスト」を生み、育んだことを声高にアナウンスすべきだ。監督2作目にしてダンカン・ジョーンズはSF映画ジャンルの救世主として君臨することになった。
 前作『月に囚われた男』で、辺境で孤独な労働に従事するクローンが味わうアイデンティティ・クライシスと、自身の運命を変えようと奮闘する姿を、SFスピリットたっぷりに描き切ったジョーンズ。彼が今回作り出したヴィジョンは、とある戦場から帰還した主人公に課せられた、負傷兵に鞭打つような非人道的ミッション。そして主人公は、前作同様に未来を力強く切り開いて行く。
 非常に限定的なシチュエーションゆえ、物語の説得力を左右するのは俳優だ。ナイーヴさとタフネスを併せ持ったジェイク・ギレンホールがあまりにも素晴らしい。「自己の運命を幻視した」「帰還兵」、という設定から迷わず想起されるべきは、ギレンホールの代表作と言える『ドニー・ダーコ』と『ジャーヘッド』だ。特に前者の悲劇的なクライマックスにおける、主人公ドニーの幸福そうな寝顔は、今回ギレンホール演じるスティーブンス大尉の衝撃的な寝姿と直結し、思わず涙を誘う(彼のボディの形状はもちろん、物語展開・作品テーマにおいても、『ジョニーは戦場へ行った』と『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の<人形使い>を想起するのは間違いではない)。

 人生最後の8分間を何度も繰り返す、という異常な設定には、『恋はデジャ・ヴ』他いくつかの元ネタがあると思われるが、スティーブンス大尉がダイヴする対象が「教師」というのは、『デッド・ゾーン』の主人公ジョニーからだろう。あの作品も死の淵から蘇った男が未来のために身を投げ出す話だった。
 『ミッション:8ミニッツ』はあきらかに<ポスト『マトリックス』映画>のひとつではあるが、あくまでも「現実VS仮想世界(リアルとフェイク)」という旧態依然とした2元論でしか語ろうとしなかった『マトリックス』を超えて、「どれも全て現実である」という、言わばクローネンバーグ的視座に立つ作品だ。そこから見えるエンディングは崇高なほどハッピーなものだった。

 採掘労働者と兵士の物語を描いたジョーンズが次回手がけるべきプロレタリアSFは、レプリカントの側から語る『ブレードランナー』ではあるまいか。
4位 『一命』
 思えば、小林正樹監督作『切腹』のリメイクに比べれば『十三人の刺客』など、さぞ容易かったに違いない。『十三人の刺客』リメイクなんて、この『一命』に挑戦するためのエチュードに過ぎなかったのでは、と言ってしまってもいい。隙間だらけの東映版『十三人の刺客』に対して、あの世界的名作『切腹』はあまりにも難攻不落だったはずだ。

 それを、よくぞあのようなリビルドを完遂したと思う。屋内の美術セットは『十三人の刺客』を凌駕するゴシック風味を作品に盛り込み、ハードコアな極貧描写はオリジナルを超える痛ましさだ。
 岩下志麻に代わって千々岩求女の妻=美穂に扮するのはなんと満島ひかり。感情を露わにするエクストリームなキャラで売って来た満島を、こともあろうか三池はしとやかな大和撫子として起用する。彼女持ち前の芯の強さは、暗いあばら家の中で揺らめく炎と化し、その炎を包み込むようにぼうっと浮かび上がる細い体には痛々しくも凄味がある。赤子を抱いてうつむく佇まいには妖気が漂い、まるで江戸期の幽霊画を思わせる。
 『十三人の刺客』で暗殺チームのリーダーを務め、武家社会の矛盾に刃を向けた役所広司が、今度は刃を向けられる側に扮するのも面白い趣向だ。オリジナルでの三國連太郎に比し、内面の複雑さがグッと増した。足を引き摺っているというマイナス設定も、サザエの壺焼きに舌鼓を打つシーンの異様さもいい彩りだ。

 主人公=津雲半四郎の復讐譚のラストが普通のチャンバラでよかったのか、という旧作への疑問(もちろんこの疑問は旧作で鬼気迫る熱演をフィルムに刻んだ仲代達矢へのそれではない)。リメイク版『十三人の刺客』でオリジナルへのリスペクトと大胆な改変を両立させつつ、オリジナルに決定的に欠落していた要素を過剰に盛り込む(あの四肢を切り落とされた娘の姿を思い出せ)ことで、暗殺計画の導火線への着火儀式とした三池崇史は、同じアプローチを『一命』の、今度はクライマックスで試す。市川海老蔵扮する半四郎がゆっくりと鞘から抜く刀を、竹光に換えたのだ。つまり、この物語の中で、半四郎には一人も斬らせないのである。
 竹光が真剣に見えるほどの、狂気を帯びた海老蔵の殺陣。降り注ぐ雪を溶かすほどにらんらんと燃える目。海老蔵の体全体から立ち昇る殺気は、オリジナルから大胆に改変された雪景色の中で、なんとも美しく結晶化する。

 『十三人の刺客』で武家社会の苦いエンディングを描いた三池崇史は、『一命』で侍残酷物語のビギニングを語った。
 封建社会に牙をむく三池が次に選ぶ題材は、「乳母車を押す浪人」か「居合い抜きの按摩」か。
5位 『ゴーストライター』
 変態のスリラー作家、という位置付け(もクソも無いが)での師匠を、「実際に手を染めてしまった」ことで超えてしまったヒッチコキアン=ロマン・ポランスキーが、『フランティック』(そういやこのネーミングは『フレンジー』のパロディか)以来久し振りに手がけた「巻き込まれ型ポリティカル・スリラー」。青森のイタコにバーナード・ハーマンを憑依させて作曲させたかのごとき不穏なスコアが流れ出すオープニングからして既にポランスキーのなりふり構わぬヒッチコキアンぶりが窺えて、こちらも思わず身構えた。

 そこから滑り出すサスペンスのあまりの完全無欠さに舌を巻き、その舌はラストに至るまで巻き戻ることはなかった。もう1人のヒッチコキアン=スティーブン・スピルバーグの『ミュンヘン』だってもっと破綻してたぞ。いや、ヒッチコックでさえもっと綻びを露呈してたかも知れぬ(まあその場合故意であろうが)。ちなみに『ゴーストライター』の舞台になったマサチューセッツ州マーサズ・ヴィンヤード島は、『ジョーズ』の舞台、アミティ島のロケ地となった場所である。

 かつては観客への嫌がらせのように残虐なショットを挿入して『チャイナタウン』にビザールなルックを与えたポランスキーだが、彼ももう大人だ。ここには目を覆うようなショットは無く、英国首相の別荘にいる中国人庭師が『チャイナタウン』のファンへの唯一のウィンクだ。
 
 ついでにIMDb的しりとりを披露。首相秘書を演じたキム・キャトラルはジョン・カーペンター作品『ゴーストハンターズ』(原題「Big Trouble In Little China」)でヒロインを演じており、同作で悪玉中国人に扮したのはかつて『チャイナタウン』でフェイ・ダナウェイの執事=カーンを演じたジェームズ・ホンであり、ホンが人工目玉製造技術者を演じた『ブレードランナー』の主演俳優は『フランティック』にも主演しており、『フランティック』でファム・ファタルを演じたエマニュエル・セニエ(ポランスキー夫人)がその後出演する『赤い航路』の音楽を担当したのはヴァンゲリスである。

 『ゴーストライター』は2011年に見た映画中、最も完璧な作品だった。


■6位以下(順位はナシ。鑑賞した順番で表示)

『スプライス』 初期クローネンバーグにこれでもかと背徳感をトッピングしたこの年一番の変態映画。離れ目美人の怪物=ドレンちゃんに超萌え。
『冷たい熱帯魚』 「ボデーを透明にする」「おいしいコーヒー」「しあわせになりたーい」「吉田!元気でなーっ」・・・でんでんは元気をくれた。
『ザ・タウン』 ベン・アフレックはボストンを舞台にまたしても傑作をものした。『ミスティック・リバー』も『ディパーテッド』も蹴散らすほどの。ざまみろ。
『イップ・マン』&『イップ・マン 序章』 苦手だったドニー・イェンの顔を一気に好きになった。『エレクション』、『インファナル・アフェア』三部作と並ぶ香港オデッセイ。
『アンチクライスト』 デジタル技術を駆使した圧倒的な映像美で醜悪なものを見せられるプレイとして映画の進化を享受する喜びはいかがなものか。
『ブラック・スワン』 ステージに生きステージに死んで行く者のドラマが、男の場合はロマンで(『レスラー』)、女の場合ホラーになるのは何故なのか。
『マイ・バック・ページ』 『殺人の追憶』への日本からのアンサー。登場人物の顔で綴る、特別だった時代への鎮魂歌。山下敦弘の才能に邦画の未来を感じる。
『エッセンシャル・キリング』 軍用ヘリがホバリングし、ヴィンセント・ギャロが実際に雪原を逃げ回る。映画として当たり前のことをやってることに感動。
『ピラニア 3D』 3D映画の原初に立ち返ったえげつない演出の数々に、映画とは何かをしばし考えさせられた教科書的作品。
『スーパー!』 『キック・アス』の廉価版と見せかけて始まり、クライマックスの地獄絵を突き抜けた先にあるのは『タクシードライバー』魂だった。
『アクシデント』 正統派犯罪映画の復活と見せかけてクライマックスでのアクロバット。これはジョニー・トーの実質的新作と言っていい。
『悪魔を見た』 愛する者を惨殺された男を救済する復讐の実験場。これは『セブン』の続編だ。女優陣の美貌でサスペンスを増幅するとは憎い。
『わたしを離さないで』 臓器提供者としての運命の受容と抵抗のせめぎ合いを、セリフではなく憂いを湛えた相貌で体現する主演3人と、あの静謐なムード。
『SOMEWHERE』 この偉大なる空虚のなんとポジティブで濃厚で力強く、満ち足りたことか。何度でもここへ戻って来よう。あの親子に会いに。


■裏ベスト10(リバイバルや特集上映で見た旧作より)

1.『ショーン・オブ・ザ・デッド』 やっとスクリーンで見ることが出来た喜び。DVDで何度も見ていたが、泣いたのは初めて。ペグ&フロストはパイソンズを瞬間的に超えた。
2.『アメリカの夜』 ジョルジュ・ドルリューの名曲「Grand Choral」が鳴り響いただけで号泣だった。神様、お願いです。この映画の中へ連れて行ってください。
3.『ブラック・サンデー』 上映そのものが事件だった。1977年の夏を34年後にしてやっと取り戻すことが出来た。スクリーンに浮かぶ飛行船の大きさに鳥肌。
4.『フォロー・ミー』 『小さな恋のメロディ』と双璧をなすほどの70年代英国純愛物語に遅ればせながら出会えた。ミア・ファーローを初めて可愛いと思えた。
5.『PTU』 ずっとスクリーンで見たかった。真夜中の香港の官能的な息遣い。ブルージーなギターに導かれて滑り出すクライマックスに思わず感涙。
6.『ライトスタッフ』 一昨年の「第1回午前十時の映画祭」に続いてまたもや映画館へ足を運んでしまった。もうこの映画を好きとしか言いようがない。
7.『赤い靴』 半世紀以上を超えて蘇った魔術的映像美。映画界はもう新作など作らず古典をレストアする作業に全面シフトすべき、と本気で思った。
8.『死刑台のエレベーター』 拳銃、女、夜、ジャズ、舗道。ヌーヴェルヴァーグに必要な記号とアイテムが完璧に揃った世界。なんと恥ずかしながら初見であった。
9.『天国の日々』 なんという豊穣。なんというダイナミズム。ワイエス的画空間を驚くべき精度でフィルムへとトレースして見せたアメリカ映画史の至宝。
10.『アメリカの友人』 デニス・ホッパーは80年代になって復活したわけではない。ジャンキーだろうがアル中だろうが、彼は常に最高の俳優だった。


■ベスト・アクター(ズ)

サイモン・ペグ & ニック・フロスト でんでんも市川海老蔵もよく真似した。『ソーシャル・ネットワーク』のウィンクルボス兄弟も良かった。でもペグ&フロストの可愛さの前では霞む。まあ仕方ないよね。てへ。


■ベスト・アクトレス

エル・ファニング グウェン・ステファニーの「Cool」に乗せて、へたうまフィギュアスケートを披露するシーンは『SOMEWHERE』における白眉であり、新しいロリータの誕生を眼前にして恍惚としっぱなしだった。彼女を見ているだけであの映画の間中よこしまな幸福感に包まれることが出来た。父娘のハートウォームな物語だというのに。
 付け加えれば、『スーパー8』をなんとか見られる程度の映画にしたのは、エル・ファニング唯一人の功績である。


■特別賞

クリスチャン・マークレー 『The Clock』  これは映画ではないのだが、横浜トリエンナーレで鑑賞したクリスチャン・マークレーによるビデオ作品「The Clock」に大変な衝撃を受けたことを記しておく。

 古今東西膨大な本数の映画から腕時計、置時計、柱時計、時計台など時計を捉えたショット、もしくは画面のどこかに時計が映り込んでいるショットを抜き出し、その時計が指し示している時刻を時制に沿って編集し、24時間分を作り上げ、それを実時間にシンクロさせて上映するという、ビデオによる時計である。

 製作年や製作国の垣根を飛び越え、映画内の時代や設定を縦横無尽に行き来しながら時を刻んで行く「映画時計」。時計という道具が生まれてからの人類の営みの歴史を、映画でもって俯瞰する。そこから生まれる、人類の歴史は全て映画の中にある、と極論し得るのではないかという大スケールの錯覚。時間そのもの、もしくは時計を見るという行為が作り出す運動と緊迫は、映画という物語装置についてあらためて考えさせる。

 午後3時から4時までの1時間しか見ることが出来なかったのだが(もちろん『3時10分、決断の時』のフッテージが使用されていた)、24時間の中で恐らく最もサスペンスが加速する時刻である「午前0時」に使われた映画は何だったのかを調べたところ、『V・フォー・ヴェンデッタ』の英国国会議事堂爆破シーンのビッグ・ベンであった。

 この気の遠くなるような作品を完成させたマークレーとそのスタッフ(当然映画オタクである)に心より敬意を。


■ワースト

『スーパー8』 偽オマージュ。下手くそな脚本。親近感皆無のキャラクター。
『ツリー・オブ・ライフ』 退屈。偉そう。辛気臭い。
『イリュージョニスト』 こんなのジャック・タチじゃない。
『トゥルー・グリット』 主演をエル・ファニングにすればよかったのに。
『エンジェル・ウォーズ』 なんで最後説教モードになるんだよ。ガッカリだよ。
『女と銃と荒野の麺屋』 『ブラッド・シンプル』のリメイクとしては悪くないが、面白くはない。
『惑星戦記 ナイデニオン』 新機軸ゼロ。メジャーの技術を自主映画で出来ると証明しただけ。
『地下鉄のザジ』 ザジ大っ嫌い。他の登場人物もみーんな嫌い。
『グリーン・ホーネット』 セス・ローゲンの魅力がゼロってどういうこと?
『アジョシ』 ウォンビンはカッコ良かったけどね。みんな褒め過ぎじゃない?


この次はモアベターよ。
(by 小森和子)