2010年ポスターマン映画大賞



映画館で見た総数

104本  昨年に続き、またしても日本映画がベストだ。

 三池崇史と北野武、このところハズレ続きの2人がついにやってくれた。『アウトレイジ』は評価の賛否分かれてるようだが、僕は大満足だった。

 もしジョニー・トーの『スリ』がDVDスルーではなく劇場公開されていたら、『スリ』を2位にした。ジョニー・トーのフィルモグラフィでもトップ5入りの傑作だった。ぜひとも映画館のスクリーンで見たかった。残念極まりない。
外国映画 79本
日本映画 25本



■ベスト10

2010年に公開された新作映画から10本を選びました。

1位 『十三人の刺客』
 三池崇史監督作品をベストに挙げるのは2001年の『殺し屋1』以来であるが、『十三人の刺客』はそれを凌ぐ、三池崇史のフィルモグラフィ中ベスト級の作品になったと思う。三池がまさかこれほど真正面から娯楽活劇大作を撮れるとは想像も出来なかった。

 1963年の東映時代劇『十三人の刺客』を単に現代人の丈に合わせてアレンジしただけではあのような作品にはならない。三池と脚本の天願大介が成し遂げたのは、オリジナル超えどころではない。『十三人の刺客』を依り代(よりしろ)にして『七人の侍』を復活させるという偉業だった。旧作の監督である工藤栄一よりも、むしろ黒澤明がこれを見たら何と言うだろう。

 そして頼もしいのは、壊し屋魂を忘れてないこと。やればこんなちゃんとした映画が出来るのに、「岸部一徳のカマを掘る伊勢谷友介」「フルCGの牛」という異物を投入して、三池はしっかりと自分印の刻印を忘れない。

 稲垣吾郎の存在感が際立っているのは勿論だが、山田孝之からやはり目が離せない。どんな映画にどんな役で出ても彼の存在感だけ突出してしまう。山田孝之と満島ひかりが日本映画のこれからにとって羅針盤になるだろう。

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2位 『月に囚われた男』
 70年代から特殊撮影の革命や進化を目の当たりにして来た世代にとって、この映画のルックにおける「先祖返り」は単に郷愁を呼び覚ますだけではなかった。昔ながらの「特撮」がいかにダイナミックだったかを忘れることなく、「SFとは絵でなければいけない」という、このジャンルにとっての最優先事項を深く理解する者が現れたことへの大きな喜び。そしてその人がデヴィッド・ボウイの息子であるという不思議な因縁に、感慨もひとしおだった(ちなみにプロデューサーはスティングの奥さんである)。

 SFもアクションもホラーもパニックもボーダーが曖昧になり、ジャンル映画の無力化が進んで久しいが、これほど「SF映画」という冠が堂々とはまる作品がこの10年間であっただろうか。SF映画の幼児化を憂うる者にとって、長き空白を埋めてあまりある幸福。デビュー作ゆえの粗さや説明不足に起因するミステリアスな側面が、結果的にキューブリックやリドリー・スコットがこのジャンルに遺した名作たちへのリスペクトとして機能しているように見えるのも、画作りの見事さがあるからこそだ。

 低予算の小さな映画ではある。しかしSF映画の未来を背負った揺るぎない一歩だと確信する。

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3位 『瞳の奥の秘密』
 年明けに見た作品だが、2010年のランキングに入れねばなるまい。
 70年代のアルゼンチンという、あまり馴染みの無い、特殊な政治状況と社会構造を背景にしたクライム・サスペンス、という設定において思い出すのは『殺人の追憶』だが、この映画の脚本の巧さはポン・ジュノやパク・チャヌクらの韓国映画に似た風合いがある。

 25年前に起きた強姦殺人事件。当時事件を担当した刑事裁判所書記官。彼が密かに想いを寄せていた女性上司。アル中ではあるが頼りになる同僚。新婚早々に美しい妻を奪われた銀行員。そして銀行員の人生を変えてしまった殺人犯。日本では無名の俳優たち(もちろん向こうではスターだが)の新鮮な顔ぶれと確かな演技が、25年間というパースペクティブに限りないリアリティを与えている。

 彼らに施された「老けメイク」「若メイク」も見事で、序盤、一気に25年前へと飛んだ瞬間に主人公の一目惚れ視点になる、という映画ならではのトリップ感は、俳優の演技力だけが可能にしたわけではない。演出・演技・技術が一体となって実現した跳躍だ。殺された若妻の惨たらしい死体が妥協なく作り込まれているのも衝撃的である。幸福と美の絶頂にある女性が地獄へ落とされる絶望感は、ギャスパー・ノエの『アレックス』を彷彿とさせる。

 アルゼンチン映画に技術的なものを期待する気はゼロだったのだが、撮影も編集も超一流だ。『ブレイキング・ニュース』『トゥモロー・ワールド』『狼の死刑宣告』と、CG時代ならではのワンカット撮影(映り込んだ余計なものをコンピュータで消す等)にその都度舌を巻いて来たものだが、この映画の中盤で披露される驚異的なショットは、その移動距離の長さと劇的な展開において、もはや魔法である。

 四半世紀という歳月を経て明らかになる事件の真相と驚くべきその顛末。そして過去と現在を行き来しながら語られる、「決して変わらぬもの」をめぐる2つのドラマ。
 時間軸をいたずらにいじって語るべきものを見失っている映画が多い中、この作品は、時間というものの残酷さを、それを乗り越えることの奇跡と神秘を、高度なテクニックに溺れることなく真摯に語る。

 タイプライターで壊れていた「A」のキー。25年間想い続けた女性の仕事部屋のドア。ラストでの伏線の回収があまりにもベタであるがゆえに、この映画にはすでに名作の風格が漂っている。
4位 『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』
 香港人としてのアイデンティティの強さと儚さをフィルムに刻印し続けて来たジョニー・トーの、これは集大成であり最終形態だ。

 『エグザイル/絆』や『スリ』といった近作のセルフ・パロディ的なシーンに幾度となく既視感を覚えたが、アンソニー・ウォン、ラム・カートン、ラム・シュ、チョン・シウファイらトー組役者が絡み合ういつもの濃厚なアンサンブルに、今回は異邦人ジョニー・アリディが乱入する。
 精悍なマスクに西洋人の割りには小さ過ぎる眼がオオカミを思わせるアリディ。この役を降りたアラン・ドロンの華やかさとは正反対の佇まいが、マカオ・香港を舞台にした21世紀のフィルム・ノワールにピタリとはまる(それにドロンはこの役をやるには歳を取り過ぎだ)。被弾し、アンソニー・ウォンに弾を抜いてもらう素人手術のシーンでウィスキーをラッパ飲みする時の、あのセクシーな唇はどうだ。アリディの顔の造作はフェティシズムの領域に入っている。

 まるで漫画のようなサイモン・ヤムの悪役ぶりも楽しいが、『スリ』に続いてラム・カートンのハンサムぶりが冴える。冒頭のミッションでのメガネ顔と、雑居ビルでのガン・アクションをお得意の縦軸で見せる際の身のこなしに、アンソニーよりもむしろカートンに目を奪われた。
 またしても見せ場は多い。中でも、前半に登場する月明かりに照らされた森の中での銃撃戦が、そこに至るまでの緊張感と相まって絶品だ。独特なライティングで夜を切り取って来たトーの美学に新しいメニューが加わった。後半での「ゴミキューブ」を転がしながらの銃撃スペクタクルとともに。

 復讐を終え、亡き友が残してくれた「家族」に囲まれて無邪気に笑うアリディ。そこにはジョニー・トーの香港愛が凝縮している。生まれ育った街への切実とも言える郷愁と、ささやかな希望が象徴された、美しいラスト・シーン。
5位 『インセプション』
 クリストファー・ノーランの映画にはエモーションが希薄だ。いや、無い、と言ってもいい。見る側のエモーションを喚起するプロットは持ち合わせているかも知れないが、それが映像そのものから伝わって来ることはない。『ダークナイト』が高く評価されているのは知っている。しかしあの映画の画面にエモーションは無かったと思う。ジョーカーが上半身を車から乗り出して風を受けるシーンを除いて。

 『インセプション』は夢を扱った映画だ。だがデイヴィッド・リンチが描くような超現実主義的なものではない。あくまでも「アナザー・フィールド」「パラレル世界」としての夢だ。夢の中に舞台=都市を設計する、というアイデアは面白いが、それはもはや夢とは呼べない。夢とはコントロール不能であり、だからこそエモーショナルなものだ。そのあたりに違和感を感じつつも、結局僕はこの映画に圧倒された。

 映画版「ミッション・インポッシブル」シリーズがオリジナルTVシリーズから乖離しまくった、という穴を埋めて余りある、本家本元の「スパイ大作戦」リスペクトぶりがまず素晴らしい。ターゲットをハメるために集められるプロたち。撫で付け頭にスーツ姿のジョセフ・ゴードン=レヴィットが美しく、クセのあるパーソナリティを封印したエレン・ペイジはひたすら人形のように可憐だ。
 ゴア描写の一切無いノーランのヴァイオレンス主義も、夢の中だと思えば腹も立たない。いちばんの見せ場はボンド映画ばりの雪原バトルではなく、その上の階層で展開するレヴィットの孤軍奮闘ぶり。目新しさは無いものの、マット・スクリーンの前ではなく大がかりなセットを回転させる中、レヴィットのしなやかな肢体が舞い踊るシークェンスは、演じているのがレヴィットゆえに目をくぎ付けにする。

 『ダークナイト』の時もそうだったが、ノーランの新作はその時点での世界最先端の映像を提供してると言えるだろう。『インセプション』のヴィジュアルは終始圧倒的だった。だが、物語の核に夫婦のメロドラマを持って来たのは苦しい。ノーランにはエモーションの他にも描けないものがある。それはエロティシズムだ。だからレオナルド・ディカプリオ演じる主人公の苦悩には、共感が生まれない。

 でもそれでいい。なぜなら全ては夢の中だからだ。今回ノーランは自らの弱点を、題材によってカヴァーしたのだ。 
6位 『アウトレイジ』
 「あんたがやれって言ったんだろっ!」
 「なんだとぅ、てめえこの野郎っ!」
 「大きなお世話だよ、バカ野郎!」

 北野映画のモノマネをこんなにやったのは『座頭市』以来だ。映画作家としての「自覚」が「勘違い」の様相を色濃くして久しいこの数作、じっと我慢して来た。いつかまたヤクザ映画を撮ってくれるはずだと。その我慢が報われた。

 初期作品のようなエッジやヒネリはもう無い。首を傾げてしまう展開や細部も多々ある。しかし『アウトレイジ』には今までの北野映画には無い大きなものがある。それは「作家主義の不在」だ。ここにはトリッキーが空回りした撮影も、絵描きたけしのなんちゃって美学も無い。『HANA-BI』以来邪魔で邪魔で仕方なかった要素がきれいに封印されている。北野イズムを抜いてストレートなヤクザ映画に向き合うことで、皮肉なことにむしろ作家としての成熟が浮かび上がった。
 封印されたのは北野組常連俳優もだ。ヤクザ映画には珍しい顔ぶれが揃い、北野映画初体験である彼らのテンションが画面からも感じ取れる。特に椎名桔平、杉本哲太がイイ。椎名の殺され方は見た後で数日間実に嫌な気分が持続した。

 Vシネマに毛が生えたような出来の作品だと思う。娯楽映画に徹しようとしてヘンな方向にズレてしまった感もある。でも、ヨーロッパで賞や勲章をもらうよりもよっぽどマシだ。鈴木慶一によるクールなサウンドと、下卑た怒声のマリアージュ。この際細かい理屈はどうでもいい。この映画の醒めたムードがとにかく好きなのだ。
 この調子でヤクザ映画を作り続けてくれ、たけちゃん。
7位 『マイレージ、マイライフ』
 『サンキュー・スモーキング』『JUNO』と見て来たが、ジェイソン・ライトマンのストーリー・テラーとしての才能は本物だと思う。時代を超えた普遍的な名作を作ろうというわけではない。アメリカという生き物の皮膚の上でノミやダニのように暮らす人々の営みをアクチュアルに追っているに過ぎない、という謙虚さがライトマン作品の根底にある気がする。
 今回は空撮も多用して、「今そこにあるアメリカ」が気持ちいいほどサクサクと切り取られていく。映像と音の絶妙なグルーヴに身を任せる快楽。この作品に原作があることなどどうでもよくなってしまう。実際原作をパラパラと立ち読みしてみたが、幕切れの素晴らしさは映画の方が断然上である。

 天上の天使が恋に落ち、人間になって地上で暮らそうと、束の間の夢を見る。まるで『ベルリン/天使の詩』だ。共演のヴェラ・ファーミガの色香にすっかり当てられてしまったものだが、そうなった者はすべからく劇終盤の展開では情事狂う兄(ジョージ・クルーニー)にシンクロすることになる。クルーニーの妹役で『乙女の祈り』のケイト・ウィンスレットじゃない方の乙女こと、メラニー・リンスキーが顔を見せるのもうれしい。随分と美しくなったもんだ。

 ネット上ではラストでクルーニーがまた飛行機に乗ったか乗らなかったのか、と話題になってたようだが、笑止である。
 クルーニーの「昼間隠れていた星々が上り、その中にひと際明るく光る星がある。それが僕の乗った翼だ」という最後のモノローグに酷似したセリフを我々日本人は知っている。それは悲痛な別離のセリフだ。

 「西の空に、明けの明星が輝く頃、一つの光が宇宙へ飛んでいく。それが僕なんだよ。さよなら、アンヌ」(「ウルトラセブン」最終回より)

 ジョージ・クルーニーは今も空を飛んでいる。
8位 『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』
80年代、KGBの大佐が重要機密情報を西側に流し、これがきっかけの一端となってソビエトが崩壊したと言われている「フェアウェル事件」。正直こんな事件知らなかったのだが、エミール・クストリッツァがあの鬼瓦のような顔でスパイを演じている、というそれだけの理由で見に行った。いやはや、クストリッツァが予想以上に素晴らしかった。彼の顔を追いかけているうちに映画が終わったくらいだ。

 大佐とは言え、妻と一人息子を愛する(職場には愛人もいる)平凡で真面目一辺倒の男だ。役作りをしてるのかしてないのか(実際の人物とはルックスは全く似てない)、のっそりとした大きな体躯に表情の乏しいあの顔でクストリッツァは信念を秘めた強い男に成り切って見せる。序盤、モスクワ市内(80年代の再現が見事)で車を駆るクストリッツァが上空に凧(自由主義の象徴)を見つけ、窓から首を突き出してウットリと見つめるシーンが、まるで『ダークナイト』のジョーカーを思わせて出色。妻や愛人とのちょっとイイ場面も、あのいかつい顔でやられると微笑ましく、萌えポイントアップだ。

 レーガン大統領役で元気そうなフレッド・ウォードに久々に出会えたのはうれしかったし(民主派のウォードは最初嫌がったらしい)、補佐官役がデヴィッド・ソウル(「刑事スタスキー&ハッチ」のハッチ)だったのをパンフで知り、その変わり様に愕然。ウィレム・デフォーがCIAのお偉方を演じていたり、大佐が流した東側のスパイ名簿によって粛清される工作員の中に、チョイ役ながらダイアン・クルーガーが顔を見せたりして、地味な作品ながらもマニアックなキャスティングが喜ばせてくれた。

 80年代ならではのBGMにもヒネリが効いてた。Queenの「We Will Rock You」はベタだが、Joe Jacksonの「Steppin' Out」やSimple Mindsの「Scar」を登場人物の行動にさりげなく滑り込ませているのはなかなかうまい。

 この手の歴史謀略物は好みだが、これはむしろクストリッツァのアイドル映画だろう。雪原の中彼が振り向き、「合図する」あのラストシーンに、本気で胸を締め付けられた。
9位 『キック・アス』
 『グラインドハウス』のフェイク予告編への出演前後あたりから、どうもニコラス・ケイジのフィルモグラフィがおかしなことになってるような印象がある。もともとおかしな人だからそれでもいいのだが、クロエ・モレッツちゃん一世一代の(あの年齢にして早くも)凄まじい当たり役=ヒット・ガールのダディという役は、そんなニコラス・ケイジだからこそ務まったと言えるだろう。防弾チョッキを着てるとは言え娘に銃弾を撃ち込む登場シーンからして素晴らしく、ケイジとモレッツちゃんは本物の父娘に見えた。2人の交流場面はどれも心温まるものだった。「マシュマロ入りホットショコラ」は泣けるシーンだ。榛野なな恵の漫画「Papa Told Me」をあの2人で見たい気すらした。

 ヒット・ガールだけではなく、主人公=キック・アスも、宿敵=レッド・ミストも、この映画の子供たちは全員母親がいない、父親に育てられた子供たちだ。バランスを欠いた世界を生きて来た異形の孤児たちは、戦うことを通して父親との絆を深めていく。
 エクストリームな父子2組(レッド・ミストの父親はマフィアのボス)の常軌を逸した存在感に挟まれて、キック・アス父子には「持たざる者たち」の悲哀が滲んでいる。ヒーローになりたいオタクと、妻に先立たれクソ面白くない人生を送る父親が向き合うシーンは、控え目であるがゆえに感動的だ。

 ヒーローとしての素質を何一つ持たなかった者が、最後には空を飛ぶという夢まで叶える。ヒーロー映画のお約束を力技で完成するその大胆さと確信犯ぶりと、そしてヒーロー愛に喝采を贈るしかなかったラスト。
10位 『かいじゅうたちのいるところ』
 「マペットショー」と「JACKASS」の融合という技によってモーリス・センダックの物語世界を映画に置き換えたスパイク・ジョーンズのアダプテーション能力に敬服した。これ以上の『かいじゅうたちのいるところ』は無い。

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■ベスト・アクター

2010年最も輝いていた男優。今年はベスト女優はナシの代わりに男優を2人。

ジョセフ・ゴードン=レヴィット  『(500)日のサマー』のダメ男と『インセプション』クール・ガイの落差萌え。
稲垣吾郎  『十三人の刺客』への起用、そして予想外の怪演は事件だった



■ワースト

2010年、ガッカリしたり怒りが爆発したりした作品たち。

1. 『REDLINE』

2. 『SPACE BATTLESHIP ヤマト』

3. 『ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲』

4. 『黒く濁る村』

5. 『ハート・ロッカー』
 1も2もキムタク映画。共通してるのは、画作りだけしかやってない、ということ。

1. 石井克人が絡んでるだけでもうダメ。あまりにもアニメを馬鹿にしてる。いくら動画が優秀でも、あまりにも中身がくだらな過ぎる。アメリカ市場でもソッポを向かれるだろう。意識的に途中で寝た。

2. 1本の映画作品としてあまりにも成立してない。アニメとのズレを楽しんで笑うつもりで見に行ったが、体温が下がるばかり。とにかく恥ずかしい。

3. 一昨年東映東京撮影所でのライヴシーン撮影のエキストラに参加した作品。三池監督の演出をナマで拝めたのは素晴らしい体験だったが・・・。

4. 題材は面白いが脚本に疑問点。はっとさせる画作りが1つも無いのもマイナス。全体的に安っぽい感じなのはTVドラマ風なせいか。

5. 期待してたものとあまりにも違った。2010年最もガッカリした作品。



この次はモアベターよ。
(by 小森和子)