2012年ポスターマン映画大賞


映画館で見た総数

142本  2011年に公開された作品を翌年になって見た、というケースも新作に含めたとしても、新文芸坐、「午前十時の映画祭」、フィルムセンターなどで再上映されたり、レストアされてミニシアターで上映されたりした古い映画を見た本数が、新作とたった4本差という異常事態だった2012年。
 映画を見て珍しく原作を読んだ『裏切りのサーカス』、サントラを馬鹿みたいに聴きまくった『ドライヴ』を除けば、この年最も僕の脳を蝕んだ映画は、ニコラス・ローグ『ジェラシー』、ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』、そしてブライアン・デ・パルマの『キャリー』だった。映画の未来か・・・・。
新作映画 73本
名画座、リヴァイヴァルでの旧作 69本


■ベスト10

1位 『裏切りのサーカス』
 ネットで初めて予告編を見た時の高揚感を裏切ることなく、2012年のゆるぎないベスト。

 MI6から追い出された老スパイがいまだそのトップに居座るソ連の二重スパイをあぶり出す、という、007シリーズに比べたらとことん地味だが、その分とことんハードコアな諜報戦を映像化したのが、英国人監督ではなく、『ぼくのエリ 200歳の少女』で独特の静謐なムードの中に灯るエモーションを可視化してみせたスウェーデン人監督トーマス・アルフレッドソン、という人選にまずは製作側の慧眼が窺える。

 原作を愛読し、1979年に放映されたアレック・ギネス主演のテレビドラマ版に夢中になった英国人にとって、この映画化のゴージャスな、しかもはるかに若やいだキャスティングはそれだけで驚異だったことだろう。そして蓋を開けてみれば、小説をドラマティックかつスペクタキュラーにアダプテートするべく盛り込まれた映画要素が、「ゴア」と「ゲイ」であることに、多くのファンが戸惑ったのではあるまいか。

 冒頭で描かれるブダペストのカフェでの作戦における、巻き添えになって射殺された母親の乳を吸い続ける赤ん坊、という画にまずはゾッとさせられる。イスタンブールのシークェンスでは、粛清されるロシア人エージェントたちの1人が喉を大きく切り裂かれ、もう1人は己れの内臓を浮かべて真っ赤になったバスタブで発見される。残った女エージェントも本国で処刑されるのだが、頭部を撃ち抜かれて飛び散った脳漿が背後の壁を伝い落ちる様まで見せる、という周到さで、演じる女優の美貌がその残酷さを嫌でも際立たせる。どれも短いカットであるがゆえに、強烈な印象を残すものばかりだ。
 『ぼくのエリ』でも作品のトーンに似つかわしくない唐突な人体破壊表現に思わずぎょっとさせられたものだが、アルフレッドソン監督はジョン・ル・カレ小説にもその持ち味を注入したことになる。原作のラストでは首を折られて死んでいるところを発見される二重スパイ=もぐらは、映画では「恋人」に白昼堂々狙撃ライフルで射殺される。眼の下に穿たれたドス黒い穴から流れる血は、まるで涙のようだ。

 諜報部<サーカス>の女性スタッフが英国女性ならではの地味な顔ぶれであるのと対照的に、男性陣は華やかだ。枯れた色気を纏ったゲイリー・オールドマンをはじめ、コリン・ファース(『アナザー・カントリー』!)、マーク・ストロング、トム・ハーディ、そして今をときめくベネディクト・カンバーバッチといった面々。諜報活動の最前線で生きる男たちが醸し出すホモ・ソーシャルな空気にむせる愉悦。カンバーバッチ演じるピーター・ギラムをゲイ設定にしたことは、旧来のファンを怒らせたか、それとも大いに喜ばせたのか。

 ゴアな描写、チームに漂うホモ・ソーシャル感ともに、その設定年代や作品に漂うムードのせいで、スピルバーグ作品『ミュンヘン』を彷彿とさせる。ギラムの愛車はシトロエンであるし、様々なガラスへの映り込みを多用してヨーロッパの迷宮を表現したスピルバーグに目配せするように、ギラムのフラットの窓ガラスには薄っすらとバタシー発電所が映り込む。『ミュンヘン』で素晴らしい存在感を見せたキアラン・ハインズが出演しているのも偶然ではなかろう。余談だが、マーク・ストロングの息子の名付け親は、あの映画の撮影中に新ボンドに選ばれたダニエル・クレイグである。

 原作には登場しない<サーカス>のクリスマス・パーティに既視感を覚えたが、プロデューサーの言によれば、あのシーンの参考となったのは、案の定ベルナルド・ベルトルッチ作品『暗殺の森』である。やがてフリオ・イグレシアスの歌とともに滑り出す、<サーカス>の古き良き時代の美しい記憶と、愛する者によるもぐらの粛清、そして大団円までを包括する3分半のラスト・シークェンスは、震えが来るほど感動的だ。劇中、怪しげな「池」で泳ぐしかなかった主人公の静かな戦いと勝利を、イグレシアスのライヴ・ヴァージョンによる「La Mer」(海)が最後に喝采をもって祝福するのだ(<池から海へ>は、未読だが、シリーズ完結編である「スマイリーと仲間たち」中の一節への目配せとなっているようだ)。

 1974年に書かれたジョン・ル・カレの小説を40年近くを経た今映像化することによって、政治的なアクチュアリティを喚起するようなメッセージを含ませることはなかった。インターネットも無く、世界がもっと広く、もっと謎めいていた頃、スパイたちの王国が女王陛下の足元に確かに存在していた、というだけの話だ。その黄金時代の記憶を、ダンディズムと、スタイルと、ロマンをもって抽出し、鈍い光を放つ「愛の物語」として結晶化したのがこの映画であり、それは結果として「スパイ映画」というジャンルの復元とアップデートを同時に行なう「修復作業」でもあった。
 そのアプローチと手腕に、とにかく酔い痴れたのだ。
2位 『ドライヴ』
 なんと不思議な作品だろう。
 ここには斬新なプロットも、舌を巻くストーリー・テリングも、強烈なメッセージも、分かり易いカタルシスも無い。アクション映画としても派手さに欠けるし、犯罪物に不可欠の緻密さとも無縁、車へのフェティシズムすら希薄だ。
 だが、この作品が放出する、抗い難い、強烈な磁力は何だろう。

 アヴァン・タイトルでウォルター・ヒル監督作『ザ・ドライバー』への完璧なオマージュを掲げて見せた後、L.A.の夜景の空撮にKavinskyのシンセサイザーがかぶさるメイン・タイトル。劇伴を担当したクリフ・マルティネスの音とは対照的に、ここではまるでタンジェリン・ドリーム(『ザ・クラッカー』)やジョルジオ・モロダー(『ミッドナイト・エクスプレス』)を彷彿とさせる80年代初頭風のアナログ・エレクトロが流れ、、ショッキング・ピンクに輝く筆記体フォントでクレジットが現れる。タランティーノの手垢が付いていないフィールドがまだあったことに気付かされるオープニングではある。

 しかし、これだけベタなサンプリングをかましておきながら、コペンハーゲンからやって来た監督は、タランティーノになる気はない。サンプリング&リミックスのマニアックぶりに淫した映画作法から離脱するのだ。ニコラス・ウィンディング・レフンという監督の「鵺(ぬえ)」性、もしくは「天邪鬼(あまのじゃく)」性は、シネフィル監督たちの映画文法に慣れ、弛緩し切った脳(つまり我々も彼らと同罪だった)には「エラー」としてまずは認識されることだろう。なんだこれは、と。

 「逃がし屋」という裏稼業を営むカー・スタントマン、という設定でフィルム・ノワール的展開を約束されながらも、物語は隣室に住む人妻との淡い恋模様へとシフト。彼女に危険が及ぶ辺りからサスペンスが加速するわけだが、そこで主人公のドライヴ・テクニックが存分に活かされるわけではない、というのも読めない展開だ。そこから、ひたすら彼のヴァイオレントな側面が暴走を始めるのだ。

 もはや場面場面に過去作をあてはめて云々する楽しみ方など意味が無い。アルバート・ブルックスの起用が『タクシードライバー』への目配せであるかどうかなどどうでもいいし、ライアン・ゴズリングが映画内映画で被るマスクにもシネフィルを喜ばせる元ネタなど無い。ゴズリングの着てるジャンパーの背にある「蠍」が、ケネス・アンガーへのオマージュであることにも、映画的シナプスは希薄だ。
 この映画中見る者を最も混乱させるシークェンスは、マスクを被ったゴズリングがロン・パールマン演じるギャングのダイナーを偵察に行く場面だ。冒頭の逃走シーンとこのシークェンスが同じ1本の映画の中にあるとは思えない、恐ろしくシュールなモーメント。リズ・オルトラーニが『ヤコペッティの残酷大陸』のために書いた格調高いオペラ風スコアを使用して、ひたすら無意味に、だが確実に高揚感を煽る魔術的なスロー・モーションは、引用という手法から解放されたカタルシスとセットになっているからこその幻惑である。

 ライアン・ゴズリングがたたずみ、笑みを浮かべ、ハンドルを握り、ハンマーを振り上げ、キャリー・マリガンにキスをし、相手の頭を蹴り潰し、血まみれになるのを、ただ茫然と、だがうっとりと眺めるしかない映画である。この映画の不思議さは、語り口の奇妙さに不釣り合いな映像美と編集のリズムだけではなく、どこからともなく湧いて来た名も無き男を、あの美しい頭蓋骨を持つゴズリングが演じることで醸し出される、言い知れぬエレンガンスがもたらしたものではあるまいか。ゴズリングのルック=映画のルック、と言い切っていいほど、『ドライヴ』を隅々まで支配しているのはゴズリングのたたずまいそのものだ。クリストファー・ウォーケンのフィルモグラフィにおける『デッド・ゾーン』の位置を、『ドライヴ』はライアン・ゴズリングの中に占めることになるだろう。

 ヨーロッパ人監督から見た「異界としてのアメリカ」に、またひとつカルト作が誕生した。 
3位 『アルゴ』
 一作毎に監督としてのスキルを上げて来たベン・アフレックの、あのアホ面の陰に隠れているインテリジェンス(そりゃそうだ、名門大学出なわけだし)が最大限に発揮された、ポリティカル・サスペンスの最新スタンダードである。

 革命に燃え上がるイランからアメリカ大使館員を救出するミッションのヒントとなったのが、『最後の猿の惑星』であることからも、『アルゴ』を貫いているのは、映画への賛歌だ。映画が人命を救う。しかも荒唐無稽なSF映画が。にわかには信じ難い、アメリカ現代史の闇に眠らされていたこの驚くべき事件をサルベージして、アフレックが高らかに謳ったのは、映画の持つパワーと可能性を今一度問い直すことだったに違いない。

 1972年生まれのベン・アフレックにとって、この映画の背景となっている『スター・ウォーズ』に始まったハリウッドの活況は、映画少年に成長する以前の原風景だったろう。映画ジャーナリスト=中子真治氏がSFやホラー映画の取材に奔走していた頃のハリウッド、と考えあわせれば我々世代にとって一層特別な意味を持つ時代だ。郷愁と憧憬の感情を除外して思い出してみても、当時の特殊効果撮影における技術革新はルネサンス的様相を呈していたと思う。『アルゴ』の救出作戦に特殊メイキャップ・アーティストのジョン・チェンバースが関わっていたとは言っても、なにも大使館員たちに特殊メイクを施して脱出させるわけではない。架空のSF映画「ARGO」のロケハン隊になりすませて帰国させるだけだ。
 原作には無いイスタンブールでのシークェンスをわざわざ挿入したのは、この事件の前年に公開されたアラン・パーカー作品『ミッドナイト・エクスプレス』への敬意だろう。イスラム圏からの脱出を試みるアメリカ人青年の地獄の日々を描いたあの映画もまた実話を基にしたものだった。
 作戦の発案者を自ら演じるベン・アフレックの冴えない風体はなんともリアルで、抑制の利いた演技ともども、彼が「ランボー」ではなく一介のCIA職員に過ぎない、というキャラクター造形に徹している。そして救出される側の面々も、である。まるで79年当時から抜け出て来たような、完璧に地味なルックの俳優たち。どこかで見たことあるような顔ばかりだが、判別出来たのはクレア・デュヴァルだけだった。
 ハリウッド側の協力者にアラン・アーキンとジョン・グッドマンを起用したのもうまい。映画人特有の胡散臭さと誠実さのバランスが良いし、何と言ってもグッドマンはジョー・ダンテ監督1993年の佳作『マチネー』を思い出させてくれる。

 実在する主人公が書いた原作=事実との大小様々な違いをあげつらって、この映画が所詮「おはなし」であるなどとくさすことは愚かである。それは歴史上の事件や人物を描いて来た全ての映画に言えることだ。『アルゴ』の、クライマックスに向けてたたみかけるスリルの応酬のほとんどが、映画=見世物にアダプテートする際の創作であったことなど、原作を読まずともうかがい知れることだ。

 コンピューター技術を使って難なく作り上げた空港でのチェイス・シーンは、ハリウッド映画定番の予定調和なサービスでしかない。その後で供されるデザートこそが、この映画のメインディッシュである。それは実在の大使館員たちの写真と、彼らを演じた俳優たちのスティルを並べて見せるエンド・タイトルだ。並べられた2人の相貌の驚くべき酷似に、思わず言葉を失った。ここに、『アルゴ』最大のメッセージがあると言える。この30年余りで映画におけるテクノロジーは大きく進歩し、映画製作の存在基盤を変えてしまったが、その中で変わらないものがある。それは俳優の力だ。CGを駆使してリアルに作り込んだテヘランの街も空港も、そっくりの俳優が演じて息を吹き込んだキャラクターには敵わない。映画は最後で、高らかにそう宣言している。
 さらにアフレックは、演技論さえもメタ的にしのばせている。CIAから救出にやって来た証明書類偽造のプロが6人の大使館員に施すのは、「パーソナリティの偽造」であり、その命がけの役作りはメソッド演技法を彷彿とさせる。そして「生徒」のうちの最も優秀な一人は、アドリブの演技を繰り出して土壇場の危機から全員を救うのだ。
 『ゴーン・ベイビー・ゴーン』、『ザ・タウン』、そして『アルゴ』を貫くベン・アフレックの映画哲学と監督術の芯にあるのは、俳優という存在への限りない敬意だ。2足のわらじは伊達に履いてなかった。
 さらには、ラストシーンで特殊効果の革命期への遥かな思いが我々世代の心をガッチリと掴む。その思いを託されたのは『スター・ウォーズ』のフィギュアたちである。物言わぬ人形たちのなんという雄弁。

 イーストウッドの後継者?いや、ベン・アフレックにはイーストウッドに無い軽やかさとしなやかさがある。
4位 『SHAME』
 今年はマイケル・ファスベンダーの年だった。
 作品の出来はともかく、『プロメテウス』で彼が演じたアンドロイドは素晴らしく、宇宙船内で学習のために『アラビアのロレンス』を見て真似るシーンで、ピーター・オトゥールの再来を予見させられたし、クローネンバーグ作品『危険なメソッド』では、『裸のランチ』でのピーター・ウェラーとの共犯関係を彷彿とさせる濃密なコラボレーションにゾクッとした。

 「セックス中毒」の男が奥底に隠し持つ秘密のキズが、ファスベンダーの憂いと翳りに満ち満ちた相貌に透けて見える。『SHAME』という映画は彼無くして成立しなかった。心に開いた穴を少しでも埋めようと、誰彼構わずにセックスを求め、体内に次々と湧いて来る悪魔を排出しようとオナニーをやめられない主人公。ファスベンダーの表情に快楽は窺えず、むしろ己を罰して現世での痛みから解放されようとする苦行僧であるかのようだ。

 そんな兄の元へ、藤田敏八作品『妹』の秋吉久美子よろしく転がり込むキャリー・マリガンも凄まじい。体型をだらしなく崩したオールヌードでの登場シーンは、それがマリガンだとは判らなかったほどの役への一体化を見せる。その後彼女の仕事場であるクラブでのシークェンスに、この映画の白眉とも言える圧巻のシーンが登場する。
 マリガンが「ニューヨーク、ニューヨーク」を気だるく歌う5分間に及ぶそのシーンは、途中涙を浮かべて聴き入るファスベンダーを捉えるカットを挿入することで、この風変わりな兄妹の知られざる過去と愛憎入り混じった絆を幻視させる。むくんだ顔で、独り言を吐き出すかのように、それともテーブルにいる兄に何かを告白するかのように歌う妹の姿が、痛ましく、切ない。

 射精中毒の兄と並行して妹の自傷癖・自殺願望を映し出しはすれど、2人の過去にどんな不幸、もしくは過ちがあったのかは、最後まで語られない。語られないがゆえに、物語の進行とともに、この兄と妹が決して一緒に生きることは出来ない、ということだけは理解できる。冬のニューヨークの冷気が彼らを引き寄せ、愛が彼らを引き裂く。

 『ラストタンゴ・イン・パリ』の空虚よりも、『隣の女』の激情よりも、『セックスと嘘とビデオテープ』の病理よりも、『SHAME』の恥辱は痛烈だった。 
5位 『007 スカイフォール』
 東西冷戦を背景に始まったシリーズは「世界地図」の変遷と折り合いをつけながらボンドの活躍の場を模索するうちに、「ミッション・インポシブル」(リメイクだが)や「ジェイソン・ボーン」といった新規参入のヒーローたちにお株を奪われてしまった感が否めなかった。ボンド映画は既に時代遅れだったのだ。
 そう言えば今まで「007シリーズを誰が監督しているか」なんてことに興味を持ったことが無かった。せいぜい誰がジェームズ・ボンドを演じていて、悪役はどんな奴で、ボンド・ガールはどんな女優が出ているか、くらいだった。あそこで描かれるアクションにもメカにも食指が動くことは無かった。そして、劇場へ足を運んでまでボンド映画を見に行くことはいつだって無い。
 つまり、ボンド映画の新作に心底ワクワクしたり、その年のベスト10に入れることなんて生涯無い、と思っていたのだ。

 ダニエル・クレイグをジェームズ・ボンドに迎えて巻き返しを図った007新シリーズの第3作目をサム・メンデスが監督したことを知り、生まれて初めてこれほどまでにボンド映画を待ち焦がれる自分を発見して、前述のようなことに初めて気付いた次第である。そしてIMAXの巨大スクリーンに展開されたその「非ボンド映画」ぶり、シリーズ最高レベルにインテリジェントな作品に圧倒された。そう言えば、クレイグの顔を初めて憶えたのは、メンデス作品『ロード・トゥ・パーディション』だった。

 冒頭のイスタンブール(この街が登場する映画がベスト10中3本あることになる)でのチェイス・シーンでは「ジェイソン・ボーン」シリーズやクリストファー・ノーラン的なアクションのパロディを見せ、上海の高層ビルでのエレガントな格闘は『トロン:レガシー』のごとくエレクトロニックでドラッギィな空間を背に展開する。1人の女をめぐる2人の男を物語る舞台に軍艦島を選んだのは、『冒険者たち』への目配せか。いずれにせよお遊びはここまでだ。タランティーノが『デス・プルーフ』の後半で「グラインドハウス」というフォーマットから降りたように、サム・メンデスも派手なアクションを強迫観念的に詰め込んだブロックバスター的娯楽映画の作劇から降りてしまう。

 かつてその分野のパイオニアだったボンド・シリーズのここ10数年の体たらくを、劇中で断罪して見せる暗喩が素晴らしい。MI6本部を爆破され国会での聴聞会に召喚された「M」と、彼女をやり玉に挙げる女性大臣のバトルがそれである。Mに迫る危機を突き止めたボンドが国会議事堂へ向かって全力疾走する姿を横スクロールで捉えたショットにグッと来る。今作ほどジェームズ・ボンドが「ホーム」で活躍したことは無い。ボンドは基本「アウェイ」の人だ。そしてロンドンどころか、ボンドはさらなるホーム=故郷であるスコットランドへと出自を辿る。ボンドの魂=『ゴールドフィンガー』のアストンマーチンを駆って。シリーズ中最高のボンドガールを同伴して。

 悪役を演じたハヴィエル・バルデムの人物造形、かつては老人ばかりが演じて来た「Q」にベン・ウィショーを起用したこと、それまでバディだった人物や得体の知れない上司だった人物が新体制の一員であると判明するラストなど、ダニエル・クレイグ版ボンドは『スカイフォール』に来てやっと最高の本気度を示し得た。
 次回作へのハードルの高さは、もはや『ダークナイト』の比ではない。
6位 『ダークナイト ライジング』
 『ダークナイト』の映画史的高評価などどこ吹く風、僕はあの作品を傑作だとも何とも思わなかった。そして、『ダークナイト』が生んだ崇拝者が『ライジング』にソッポを向いたのに反し、僕はこの映画を素直に楽しんだ。もちろんIMAX上映のせいで迫力倍増だったせいもあるが。

 特に冒頭で見せた科学者誘拐作戦のなんともシュールな映像に痺れた。あの大胆さと滑稽にすら映るスペクタクルは、007シリーズ直伝だ。前作『インセプション』でも炸裂していたように、ああいう非現実的な画作りがクリストファー・ノーランは上手いと思う。
 バットマンの存在感は『ダークナイト』よりも一段と薄く、軽い。そういう物語だからだ。バットマンの代わりを務める者たちの活躍、特にアン・ハサウェイ演じるキャットウーマンが圧倒的に素晴らしい。『インセプション』のエレン・ペイジに引き続き、情けない主人公は才女によって救われる。見ていて胸がすくね。

 ゴッサム壊滅を目論む女と彼女に協力する男、フットボール・スタジアム、爆弾を吊るして海へと運び去るラスト、と来ればこれはもう『ブラック・サンデー』のノーラン流再現である。『ダークナイト』が『ダーティ・ハリー』のサルベージであり、『インセプション』が本家リメイクシリーズ以上に「スパイ大作戦」に肉薄していたように、ノーランは犯罪映画のクラシックをまたしても自作の骨格に巧妙に組み込む。世界最先端の映像テクノロジーの鎧に包んで。
 シリーズ中最も粗だらけにも関わらず、いや、粗だらけだからこそ、アイデア(オンリー)マン=ノーランの計算外のところで意外な輝きを見せることになった。それがゆえに、『ライジング』はシリーズ中最も映画らしい。
7位 『ペントハウス』
 サブプライム・クライシス、リーマン・ショック以後のアメリカから生まれるべくして生まれたCaper映画(大雑把に言うと「チーム犯罪物」)の新しい傑作。超高級タワー・マンションの最上階に住む者が、「そこで働く従業員たちの年金の運用」という名目で実は騙し取っていた、という悪役ぶりがこの時代をリアルに象徴しているものの、ベン・スティラー、エディ・マーフィらが演じる「持たざる者」が「持てる者」に挑む頭脳戦はなんとも愉快痛快だ。

 スヌーピーの巨大バルーンが可笑しくも禍々しい、感謝祭名物であるメイシーズ百貨店の悪夢のようなパレードを背景に計画を開始するチーム。目もくらむスカイスクレイパーで繰り広げられる大胆不敵極まりない強奪作戦は、スラップスティックかつサスペンスフルに転がる。出来損ないのメンツ(案の定ケイシー・アフレックが出色である)が奏でるゆるいアンサンブルが素晴らしく心地良い。

 誰も責任を取ろうとしない時代にあって、この映画の主人公は誰よりもヒーロー然としている。責任を果たした男の堂々とした顔に惚れ惚れするラストショット。この輝かしい英雄譚は、現代アメリカにとって切実なファンタジーなのかも知れない。
8位 『メランコリア』
 ベスト10中、北欧の監督の作品はこれで3本目である。

 今までのどんな災厄映画にも、結局は救いがあった。未曾有の天変地異に見舞われようとも、主人公もしくは誰かがちゃっかり生き残って、ラストでは未来へのスタートに立って見せてくれた。ラース・フォン・トリアーが描く滅亡のヴィジョンがこの上なく力強く、美しく、真に恐ろしいのは、そういうだらしのない映画的約束事を根元から蹴散らしているからだ。

 冒頭、ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」の調べにのせてシネマスコープ画面に広がる、まるで絵画のように深い奥行きを持つショットの数々。ブリューゲルやJ・E・ミレイを引用しつつ、これから起ころうとしている完璧なる終末を、超絶的なスロー・モーションで描くシークェンスに息を呑む。神々しく、あまりにも美し過ぎる「地球の黄昏」。ひとりの映画作家の鬱病克服のプロセスは、地球が粉々になるという単なる人類の死滅を超えた絶対的な滅びと向き合うことで、ようやく治癒へと向かう。

 キルスティン・ダンストの憂いを湛えた眼差しは、死にゆく運命にある惑星への慈悲と鎮魂のために存在して来たかのような説得力を持つ。地球最後の瞬間を彼女と手を取り合いながら迎える時、恐怖はカタルシスへと変容するはずだ。
 そんな夢を見たのはトリアーだけではない。僕もなのだ。
9位 『ミッドナイト・イン・パリ』
 1920年代のパリへの憧憬が微笑ましく炸裂するウディ・アレンの快作。アレン自身を反映しているはずの主人公を演じるオーウェン・ウィルソンが軽妙かつ嫌味が無くていい。フィッツジェラルド夫妻やヘミングウェイらが登場して真夜中のパリを謳歌する中、最もツボだったセレブリティは、サルヴァドール・ダリとマン・レイとルイス・ブニュエルの3ショットである。まさかエイドリアン・ブロディがダリに見えるとは思いもしなかった。マン・レイに扮した俳優もよく似ていて楽しい。予告編を見ずにいたのが幸いしたサプライズ。

 厭世感を引きずる主人公をどうやら明るい未来へと導きそうなパリ娘を、レア・セドゥが魅力的に演じている。スカーレット・ヨハンソンからセドゥへ、といううら若きビッチへのウディ・アレンの偏愛にシンパシーを感じる。セドゥをヒロインにパリでもう1本お願いしたい。もちろんヌードも希望。
10位 『ジョン・カーター』
 ハインラインの小説「宇宙の戦士」にスタジオぬえのイラストが刻印されてしまったように、バロウズの「火星シリーズ」と武部本一郎画伯の描くプリンセスは日本人にとってセットである。そんな高いハードルもなんのその、今作で初めてお目にかかった女優演じるヒロインに惚れたおかげで、全く抵抗なくこの映画を受け入れることが出来た。異形の原住民やメカを含む異世界の映像表現も素晴らしく、『アバター』なんぞよりもこちらの方が断然好みだった。
 主演のテイラー・キッチュはフランク・フラゼッタのイラストから抜け出て来たかのような、という意味では悪くない。キアラン・ハインズとマーク・ストロングは『裏切りのサーカス』に続くうれしい共演。南軍の大佐を演じたブライアン・クランストンは、『ドライヴ』、『アルゴ』、『トータル・リコール』にも出演した、今年最も多く活躍を見た俳優だ。あまりクセの無いああいう俳優は貴重。

 ラストへとなだれ込む怒涛の展開の中、時間旅行SFの名作『ある日どこかで』のような悲恋はもうご免だ、と胸を掻き毟られる。だからあの映画に涙した者にとって、『ジョン・カーター』のエンディングは特別なニュアンスを持つのだ。そして、またしても泣かされた。


■ベスト・アクター

マイケル・ファスベンダー  『イングロリアス・バスターズ』でその名前と顔を記憶して以来、ずっと気になっていた。何と言っても『SHAME』。彼のフィルモグラフィ中最も重要な作品になるのではないか。


■ベスト・アクトレス

ベネディクト・カンバーバッチ  『戦火の馬』、『裏切りのサーカス』、そしてTVドラマ『SHERLOCK』で僕的に完全ブレイク。彼を見るだけでもう目がハートになる、という意味で女優賞をベネ様に。


■ワースト

『CUT』
 「シネコンで上映してるのはクソクズ映画」という、短絡的を超えて幼稚とすら言える主人公=監督のスローガンにまずは呆れ果て、早々に見る気を失した。映画史に刻まれた名作のタイトルを言いながら殴られ続ける主人公。映画の痛み?なんじゃそりゃ。シネマテークを礼賛する選民思想的物言いには胸がムカムカする。黒澤だって小津だって最初からシネマテーク向けに映画を撮ってたわけじゃないだろ。在日本のイラン人監督らしいが、将来シネコンでかかるような予算の映画をオファーされた時に、その企画を断る勇気と気骨はお持ちなのだろうか。2012年で最低の映画、最も怒りがこみ上げた映画がこれだった。
その他雑感
 『へんげ』どこも新しくないし、面白くもない。なぜあれほどの賞賛を得たのか理解不能。『苦役列車』いやー、あの主人公、見ていて本当に不愉快だった!『ニーチェの馬』見ている最中に晩御飯のことなどあれやこれやと考え事が出来た。『ダーク・シャドウ』ドノヴァンの「Season Of The Witch」を流してクロエ・グレース・モレッツに躍らせておきながら途中でやめてしまう愚か者だ、ティム・バートンは。『桐島、部活やめるってよ』これはワーストというわけじゃなく、むしろ素晴らしい作品だったんだが、この映画を自分の高校時代と並べて語りたがる野郎どもがあまりにも多いので、ほとほとウンザリ。『歴史は女で作られる』1955年の名作とされてるが、退屈きわまりなかった。ヒロインに驚くほど魅力がゼロ。『プロメテウス』トンデモ映画として楽しむ余裕など無かった。ふざけるのもいい加減にしろ。ダン・オバノンに謝れ。リドリー・スコットはもう『ブレードランナー』には絶対タッチして欲しくないね。『マリー・アントワネットに別れをつげて』あんなに面白そうな題材にも関わらず恐ろしい凡作に。『黄金を抱いて翔べ』緻密とは程遠い強奪計画にあれだけ妨害が入ったら普通中止だろ。


この次はモアベターよ。
(by 小森和子)