2014年ポスターマン映画大賞


映画館で見た総数

151本
 新作・旧作の内訳を出すことにあまり意味を感じなくなったので、今回から無しとする。

 と言うのも、2014年は数年に一度の大豊作だった。往年の傑作・名作を見ては、「もう新しい映画は作らなくていいんじゃないか。古い映画をレストアして公開するだけで十分豊かな映画環境が維持出来るはずだ」などとニヒリスティックになって来たここ数年だったが、映画のポテンシャルとは僕ごときに見切られるほど浅くはない、ということを思い知らされた喜ばしい1年だった。

 『オンリー・ゴッド(・フォーギヴズ)』は劇場へ6回も足を運んだほど心酔した作品だが、いっそのことベスト10の1位から6位までをすべてこの作品にしてしまおうか、と自棄になるくらいに傑作群から10本だけを選ぶのが忍びなく、異例ではあるが今回は「ベスト5+15本」という形で発表させてもらうこととした。6位から10位までに、15本の中からどれを選んでどの順位で入れてもいい、ということである。


■ベスト5

1位 『オンリー・ゴッド(・フォーギヴズ)』
 日本だけではなく世界的にこの映画に下された評価の低さは理解しているつもりだ。万人が共感し、楽しめる作品でないことは確かだし、時が経てばやがて名作になる、というわけでもあるまい。卓越した鑑賞眼を持つ者、映画史を知り尽くした者ならばこの作品に込められた意図や謎を紐解けるかと言えば、そんなことはなく、むしろそれらの映画スキルがこの作品を受け入れる目を曇らせてしまう可能性こそ大いにある。

 最初に見た直後、興奮の極みにいた僕は、ジョニー・トーやスタンリー・キューブリックやケネス・アンガーや三池崇史の名前を引き合いに出すことで、カテゴライズし体系に組み込んで、自分の脳をクールダウンしようと試みた。だがそんなことに意味は無い、とすぐにやめることにした。最後に謝辞を捧げられたアレハンドロ・ホドロフスキーの作品でさえ、この映画を読み解く鍵にはなるまい。

 前作『ドライヴ』を、逃がし屋稼業という裏の顔を持つスタント・ドライバーが街に巣食う悪に立ち向かう、という活劇として格好の題材を得ておきながら、主人公に内在する暴力性を不条理なまでに全面に押し出し、それを美しいエレクトロ・ビートで乱暴にコーティングすることで、異形のアクション映画に仕立ててしまったニコラス・ウィンディング・レフンであるが、今作は異形どころではなく、超現実的アジアン・アクションというジャンルを、ジョニー・トーとは異なるアプローチで切り開いた、と言っていい(『ザ・レイド GOKUDO』は明らかに今作を真似ていた)。
 そして、この映画を『ドライヴ』の続編と捉えた時の妄想に見悶えせずにおれない。名前も無い謎多きドライバーが生き延びて、タイへと逃亡するのだ。タイトルは『ドライヴ2 バンコク死闘篇』である。

 それにしてもライアン・ゴズリングが主演、という体裁が混乱をもたらす。この映画の主役は間違いなく警官たちの神=ヴィタヤ・パンスリンガムだ。バンコクの闇でのうのうと稼ぐ白いダニを、カラオケ好きのタイ人が成敗する警察映画、と捉えればなんら問題は無い。
 素晴らしく悩ましいのはその語り口だ。現実とも夢ともつかぬシンメトリカルな画面にゆっくりと吸い込まれて、ゴズリングの脳内を彷徨ったと思えば、突発的なヴァイオレンスや容赦無いゴア描写が揺さぶりをかけ、夜の街に明滅するネオンが、高級クラブの蠱惑的なインテリアが、禍々しささえ感じさせるほどの桃源郷へと引き摺り込み、そしてそこではまたしても暴力が開花する。

 色覚能力に異常を持つレフンならではの極彩色空間に、クリフ・マルティネスによるエレクトロ・ノイズとビートが響き渡るこの<アウトサイダー・アート>は、僕にとって『ブルー・ベルベット』以降で最も深く、しかもダイレクトに効いた<ドラッグ>だった。

 この映画については、ポスター・コレクションをUpする時に本格的に書こうと思っているので、ここではこれまで。
2位 『6才のボクが、大人になるまで。』
 映画がロング・スパンの物語を描く際に使わねばならない「特殊メイク」や「別の俳優が演じる」といった約束事をやめ、12年に渡る家族のドラマを実際に12年間費やして作り上げる・・・・・こう書くとあまりにも軽い。書いてみて嫌になったほど軽過ぎる。
 頭ではわかっていた。6才のボクと18歳のボクの写真を並べて、この子がこうなるまでの映画だ、と。だが映画館で2時間45分の間に体験したことは、見る前に働かせた軟(やわ)な想像力を完全に打ち砕いてしまった。

 これから青春を迎える子供たちと、青春を終え消耗品のような生き方を受け入れねばならない大人たち、という人生における「ライズ&フォール」を軸としながらも、この映画は登場人物たちをそんな図式に押し込めることなく、暖かな観察者としての眼差しを注ぎ続ける。怒り、激情、死といった、通常ドラマに必要とされるわかり易い作劇要素がこの物語を牽引するのではない。シークェンスやパートごとに、緩やかに、時に飛躍的に変化する子供たちの「本物の」ルックが、このアメリカのどこにでもあるような一家庭がたどる12年間の物語にもたらすささやかなスペクタクル。それがこの映画の原動力だ。

 主人公を演じるエラー・コルトレーンの決して多くを語らないキャラクターが、少年時代(この映画の原題だ)の心のうつろいや精神形成をブラックボックスのように神秘化し、はにかんだ笑顔や物憂い表情が、彼を取り巻く人々にとってプリズムとなる。あの逸材無くしてこの映画は成立しなかったと断言する。
 そんな「よくわからない」弟と好対照の姉を演じるのはリチャード・リンクレイター監督の実子だ。彼女が歌と踊りで弟を叩き起こす冒頭のシーンで、僕は完全にツカまれた。『大人は判ってくれない』もそうだったが、子供の主人公にバディがいるとそれだけで活気が生まれるし、しかも思春期の姉との距離感でもってそのバディ感が変質して行く様は、彼らのルックのリアルな変化もあって、何とも言えぬせつなさをおぼえた。
 離婚し女手ひとつで子供たちを育てる母親=パトリシア・アークェットが、この映画のもうひとりの主人公として、「おとな側の時計」を画面に刻印する。若い身空で子供を産んだものの自分の可能性を諦められないアクティヴな女性を、「等身大」的な体型の変化をもって、可愛らしく、堂々と演じていてなんとも素晴らしい。
 そして、時折姿を見せる別れた夫=イーサン・ホークがまたいい。ミュージシャンになる夢を捨て切れずに根無し草のように暮らす男は滑稽だが、そんな父親は子供たちにとって愛すべき友達でもある。アクチュアルでリアルな「アメリカの父」が抱く理想から諦観へのシフトを、イーサン・ホークのナチュラル・ボーン・負け顔が完璧に具現化して見せる。
 また、彼のミュージシャン仲間を80年代のロック・アイドル=チャーリー・セクストンがさりげなく演じていて、この映画が持つ時間的パースペクティヴを補強していたことも記しておきたい。

 12年間という俳優たちの実時間を切り取って2時間45分という映画内時間へとペーストする、という映画表現への挑戦と実験の成果は、「映画とは何か?」という原初的な疑問符への、かつて見たことないほどの力強い回答である。
3位 『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』
 ニコラス・ローグ作品『地球に落ちて来た男』は英国人=デヴィッド・ボウイにアメリカを漂泊させることで描かれた異星人の物語だったが、『アンダー・ザ・スキン』は、あれとは逆にアメリカ人=スカーレット・ヨハンソンをスコットランドに解き放ってみせた「地球に落ちて来た女」の物語である。

 荒涼とした大地、深い森、吹きすさぶ風、逆巻く海、といった自然描写に、人口は多いもののどこか殺伐としたグラスゴーのストリート、おまけに道行く人々の話すゲール語の耳馴染みの無さが加わって、ヨハンソン演じる異星人でなくとも、スコットランドが見せる異界ぶりにまずは唖然とする。美しく切り取られたランドスケープはどれもまるで科学ドキュメンタリーのようで、その中を猛スピードで疾走する謎のバイクを捉えたショットのクールネスが、それだけでもうただごとではない。

 主人公の女がどこから、何のためにやって来たのかが説明されることは無く、そもそも開巻早々からして謎めいている。「闇」「光」「真っ黒い物体」「真っ白い物体」が織り成すあまりにもアブストラクトなマクロ的映像。ミカ・レヴィによるノイズが轟音で響く中をヨハンソンの吃音ヴォイスが漂う、地球人としての彼女が完成するシーンと推測されるアヴァン・タイトルは、『2001年宇宙の旅』の「スター・ゲート」も真っ青の抽象芸術だ。
 ミカ・レヴィによるスコアが放つ不穏なアトモスフィアが映画全体に充満し、ヨハンソンがターゲットの男を隠れ家へと招き入れるシーンでは、能楽をデジタルで構築したかのようなフレーズをミニマルに繰り返し、不気味さをこれでもかと煽る。

 どうやら地球人を食糧とするために仲間たちと来訪した異星人が、人間性を学習し、愛に目覚め、仲間を裏切って地球人らしくなろうとするものの、結局は悲劇的な結末を迎える、という手垢にまみれた昔話のようなストーリーだ(に違いない)。しかしナレーションも説明的なセリフもすべて排し、スカーレット・ヨハンソンの肉体を「目」「耳」として極寒のスコットランドをクルーズする、宇宙人によるこの「世界ふれあい街歩き」は、 『オンリー・ゴッド』と同様に、見る者の感受性と想像力に挑みかける。

 最後、「皮膚の下」から姿を現す真の彼女は、モノリスのように真っ黒だ。そして不条理に訪れる死。物言わぬまま焼き殺された彼女の上に降り注ぐ雪。空を振り仰いだ雪空のショットは、まるで星の世界へと帰還する彼女の魂を視点にしているかのようだ。
 だが、そんな感傷はお前ら地球人の勝手だ、と言わんばかりに、ミカ・レヴィの音楽がニウロティックに鳴り響き、見る者を冷たく突き放してこのトラヴェローグは幕を下ろす。
 徹頭徹尾異星人サイドから描かれた異色の侵略SFとして、そしてスカーレット・ヨハンソンのフィルモグラフィにおける最重要作として、今後語り継がれるであろうニュー・カルトの誕生。
4位 『ゴーン・ガール』
 デヴィッド・フィンチャーがまた自身の最高傑作を更新してみせた。

 この映画は、男という生き物が持つ愚かさへの同情や、女のしたたかさや明晰さへの畏怖や賛辞、ましてや結婚というシステムへの懐疑の念を煽るような啓蒙的な作品などではない。『ゴーン・ガール』は、人生という牢獄をめぐるダーク・ファンタジーであり、社会病理の最前線を戯画化した痛烈なアメリカ論である。

 アメリカのどこにでもいる平均的な男=夫を演じるベン・アフレックのどっしりと安定感のあるバカっぷりが、まるでこの役を演じるために生まれて来たとしか思えないほど自然だが、それでもやはり、この映画はロザムンド・パイクのものだ。少々特殊な美貌で数々の作品を後方支援して来た彼女が、ここでは堂々と真ん中に躍り出て、映画の強靭な牽引力となる。この作品におけるあまりにもラヴリーで、キュートで、セクシーなロザムンドのルックは、彼女を単なる精神病質者と捉えることを許そうとしない。悪女たちの映画史におけるニュー・ヒロインの誕生が、まさかロザムンドによってもたらされるとは考えもしなかった。

 ヒッチコック作品との類似や目配せを指摘されるのは理解出来るが、むしろ想起されるべきはフィンチャーの“復活作”、『セブン』ではないだろうか。これまでフィンチャーは、コントロールする者とされる者との戦いを幾度となくモチーフとして来た。中でも『セブン』が軸としていた、犯人=ジョン・ドウの綿密な計画に翻弄され、真綿で首を絞められるように追いつめられる刑事たち、という構図は、『ゴーン・ガール』の妻と夫の姿へと、まんま変奏されていると言っていいだろう。
 『セブン』ではメイン・タイトルのみで映画のベクトルを決定づけたナイン・インチ・ネイルズのノイズだが、今回はトレント・レズナー名義で全編にわたって音響工作を施し、フィンチャーのフィルモグラフィ中2作目となるコメディ(1作目はもちろん『セブン』だ。監督はそう自虐的に述懐している)を真っ黒に塗り潰していて、笑うに笑えないムードで染め上げている。サントラ盤を聴くとよくわかるが、今回レズナーが制作したスコアを『セブン』に付けても一向に問題なく機能する。ほとんどホラー映画の劇伴なのだ。

 『セブン』のラストでモーガン・フリーマン演じるサマセット刑事がつぶやいた苦いモノローグは、彼ら夫婦に、特に夫ニックへのエールにもなり得るかも知れない。

 「かつてアーネスト・ヘミングウェイはこう言った。“人生は素晴らしい場所だ。戦う価値がある”と。後半には賛成だ」

5位 『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』
 エドガー・ライト+サイモン・ペグ+ニック・フロストによる「コルネット三部作」の最終章である。
 TVシリーズ『SPACED』、『ショーン・オブ・ザ・デッド』、『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』、そしてスピン・オフ企画と言える『宇宙人ポール』と、地球上で最高のバディであるペグ&フロストを目を長年細めて見守って来たものだが、この作品ほど泣かされたことはない。

 決して出来の良い作品ではない。むしろ三部作の中では最低の出来だろう。初めて見た時はせいぜい65点としか思わなかった。だが、劇場での再観賞、その後ビールを呑みながらでの再々観賞を経て、ペグ&フロストの変わらぬ仲睦まじさにすっかり心を奪われ、悲哀さえ漂う彼らの姿に幾度となく落涙するようになってしまった。

 アーサー王伝説に『ステップフォードの妻たち』、『ボディ・スナッチャー』、『遊星からの物体X』などを絡めた侵略SFという体(てい)だが、物語の核にあるのは、やり残した青春時代の補完であり、失われてしまった良き英国へのレクイエムだ。大人になり切れない男たちが、それでも最後はソフト・ランディングを見せ、ほんのちょっぴりの成長を遂げるのが、これまでのコルネット・シリーズだったわけだが、今回は違う。「大人になるくらいなら世界の終わりを選ぶね」と声高に叫び、体制に組み込まれることを全身全霊で拒否して自由を勝ち取ろうとする彼らの、どこかミジメだがそれでも誇りを忘れない姿は、『ホット・ファズ』で見事に引用してみせた『ハート・ブルー』のパトリック・スウェイジの最期を思い出させる。

 『SPACED』から15年を経てすっかりビッグスターになってしまったペグ&フロストは、監督との蜜月にこの辺で一旦打ピリオドを打たねばならぬ、というアクチュアルな成長問題に直面したはずだろう。もちろん、エドガー・ライトだってそう考えたに違いない。そして、その反動が、まるで子供が描くマンガの自暴自棄な結末のように、「ラスト・オブ・イングランド」を映画のクライマックスで選択してしまう。世界の終わりと引き換えに、せめて映画の中だけでもおれたち自身でいさせてくれ、と。その病と絶望の深さが胸を打つ。あのハッピーエンドは切実だ。

 アル中治療のため病院にいるサイモン・ペグがニヤリと笑い、そこへ絶妙のタイミングでプライマル・スクリームの名曲「Loaded」が流れ出すメイン・タイトル。ここだけでこの映画は5億点なのである。


■6位以下(順不同)

『ドラッグ・ウォー 毒戦』
 香港の行く末を見つめ続けるジョニー・トー、渾身のリアル・ポリス・ストーリーは、『エレクション』のパラレルな続編とも言える「本土篇」。『フレンチ・コネクション』のドイル刑事さながらに麻薬シンジケートに食らいつく中国警察の活躍を主眼に、宿敵である香港の顔役たち、そして2つの勢力に挟まれて獣のように生存本能を研ぎ澄ませる男を加えた、あまりにも苛烈な三つ巴の死闘。
 あくまでも大陸側をメインに描きながらも、香港側のキャストにトー組の常連俳優をずらりと揃えたなんとも心憎いキャスティングに、ジョニー・トーの香港人としての確固たるアイデンティティを見たと同時に、主人公ルイス・クーの逞しいしたたかさに香港という「国」の未来を幻視する。
『MUD』
 水辺に面した田舎町で展開するフィルム・ノワールの佳作。ワケあり男を演じるマシュー・マコノヒーのワイルドな魅力はもちろんだが、彼の逃亡に協力する男子2人のバディ感が瑞々しい。マコノヒー演じるタイトル・ロールは、まさに少年たちが足を踏み入れる危険な世界=MUD(ぬかるみ)を象徴し、彼らは事件を通してひとつのタームに終わりを告げる。
 少年期の終焉を描くというありふれたテーマながら、そこに絡む一筋縄では行かない大人たちのキャスティングで俄然見せる。特に監督ジェフ・ニコルスのお気に入り、マイケル・シャノンがいつもと違う好人物として強い印象を残す。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』
 『グッドフェローズ』を最後に決定打と呼べる作品をものに出来ず、20年以上も模索を続けていたマーティン・スコセッシが、やっと帰って来た。
 どんな役を演じても重厚感に欠けるレオナルド・ディカプリオ一世一代のハマリ役が、当代きっての「詐欺師」とは残酷だが、大ボラを吹きまくり、札束を鷲づかみ、四六時中ドラッグを摂取し、女とヤリまくり、ランボルギーニをボコボコにする人でなしを、呆れるほど生き生きと演じている彼に、見ている方ももはや幸せになるしかなかった。ジョナ・ヒル、カイル・チャンドラー、そして我らがマシュー・マコノヒーという、脇役との勝負もすべてが見せ場。
 オスカーを与えたのがなぜ『ディパーテッド』なんぞだったのか、という疑問を再び抱かざるを得ない、21世紀におけるスコセッシのまごうことなき最高傑作。
『ローン・サバイバー』
 「マーク・ウォルバーグ主演映画は、作品の出来はともかくウォルバーグだけは最高」という持論を気持ち良いほど鮮やかに覆してくれた。アフガニスタンでとある作戦を展開した米特殊部隊の生存者はウォルバーグだけだった、という出だしから、彼の部隊がいつどこで誰から死んで行くのか、に胸が張り裂けそうだった。ケレンとリアルのバランスが絶妙な戦闘シーン。そしてウォルバーグを支えるテイラー・キッチュ、ベン・フォスター、エミール・ハーシュがとにかく素晴らしく、特にキッチュの存在感にウォルバーグは気圧されてた感すらある。
 昨年の『アルゴ』に続く、実録脱出モノの良作。
『アデル、ブルーは熱い色』
 レア・セドゥが大胆な濡れ場に挑むレズビアン青春映画だと聞きつけ、ワクワクして映画館に駆けつけた。
 セドゥが素敵なのはもちろんだが、主人公を演じたアデル・エグザルコプロスに圧倒された。アンヌ・ヴィアゼムスキーを彷彿とさせる、幼児のように始終だらしなく開いたアデルの唇は、セドゥの唇も乳首も陰核も、男たちのペニスも、そしてスパゲティ・ボロネーゼも、彼女が愛するものすべてを平等に迎え入れる。
 スクリーン狭しと10分以上にわたって繰り広げられるふたつの若い肉のぶつかり合いは、単なる官能を超えて、私たちはなぜこの世に生れて来たのか、を確認し合う儀式であり、だからこそ別れの場面は身を切られるように辛く、アデルが流した涙も鼻水も、やはりすべて彼女自身の唇へと吸い込まれる。
『アクト・オブ・キリング』
 自分が手を染めた虐殺の履歴をにこやかに披露して来た老人が、すべてを終えた後で痩身から絞り出した世にもおぞましいあの「咆哮」。おのれの体内に巣食っていた悪魔を吐き出そうと何度も胃袋を蠕動(ぜんどう)させるものの、彼の口からは何も出て来はしない。老人は知る。この苦しみが死ぬまで続くことを。そして、生きながらにして地獄に落ちてしまったことを。
『ホドロフスキーのDUNE』
 想像力こそ至高のドラッグ=「メランジ」であり、それを駆使すれば宇宙航行はもちろん、時間をさかのぼり実現しなかった映画の完成さえ可能にする、ということを、完成しなかったがゆえに証明することが出来るのだ、ということを証明してみせたこのドキュメンタリーこそが、まさに「DUNE」である。
『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』
 これは人と猫のふれあいを描いた映画ではない。猫そのものを主人公にした映画だ。
 家を持たず、歌いたい詩を歌い、女を孕ませ、友人宅でメシとベッドにありつき、周りの者に毒づき、ふらりと旅に出てしまう男、ルーウィン・デイヴィスは猫である。彼を旅に連れ出す猫とルーウィンの心の交流なんぞは無い。「猫たち」を見つめるコーエン兄弟の視点も猫の目である。やさしいが冷めていて、人懐こいが気まぐれだ。
 ベタベタと猫を可愛がったり、主人公の心象を猫に投影したりしないからこそ、この映画に登場する猫はなんとも愛らしい。初めて乗ったと思しき地下鉄の窓外を通り過ぎる駅のホームを、首を振り振り目で追う場面は、猫好きの僕には堪らなかった。
 コーエン作品らしく、一癖ある脇役がみないい。とりわけ、出れば必ず場面をかっさらう男、ジャスティン・ティンバーレイクは自慢ののどを使ってここでもスター感絶大。『オン・ザ・ロード』でも光っていたギャレット・ヘドランドが、あの映画の引用であるかのようにビートニク青年を演じ、『ドライヴ』でオスカー・アイザックと夫婦を演じたキャリー・マリガンがルーウィンの元カノに扮していて、軽い眩暈を誘った。
 ジョン・グッドマン、ギャレット・ヘドランドとのストレンジな旅を終えてニューヨークへ戻って来たルーウィン・デイヴィスが通りかかった映画館で上映されていたのは、ディズニー作品『三匹荒野を行く』である。三匹と3人を重ねる詩情に思わず涙腺が緩む。ルーウィンはやはり猫だったのだ。
 好き嫌いの差が大きいコーエン兄弟のフィルモグラフィにあって、この作品はベスト5に入るフェイヴァリットだ。
『her 世界でひとつの彼女』
 人間と非人間の愛を綴った、『ブレードランナー』が蒔いた種子の萌芽の最新型である。
 一切エフェクトをかけずスカーレット・ヨハンソンに普通に喋らせて、「ね?このOS、人間みたいでしょ?」という人工知能の描き方は、ハリソン・フォードよりも人間らしく振る舞うショーン・ヤングを見せておいて「でもこの女、人間じゃないんだ」と種明かしするのと同じアプローチだ。
 背景となるロサンゼルスのシティスケープがうっとりとさせる。一見現代の風景に見えるが、ちょっとだけ違う、パラレル・ワールドのような未来。実在の中国の都市をモデルにしたらしい景色に覚えてしまうデジャヴと、それを形にしたどこからどこまでがVFXなのか判然としないほど精緻な映像テクノロジーが醸し出す「境界の曖昧さ」は、『ブレードランナー』のロサンゼルスよりもフィリップ・K・ディック的と言えまいか。
 そんな世界を舞台にして描かれる人間と人工知能との恋愛物語は、主人公=ホアキン・フェニックスが実体を持たない存在に理想の女性像を見い出してしまったがゆえに切なさをつのらせ、その存在が人間を超える高次元の知性であるがゆえに悲しい結末を必然とする。
 スパイク・ジョーンズがその天才的なヴィジュアリストぶりをまたしてもアップデートしてみせた、この年最高のSF映画。 
『めぐり逢わせのお弁当』
 インドには家庭で作った弁当を仕事場にいる夫の元へ届ける「弁当配達人」という職業があり、彼らによって1日に運ばれる弁当の数は20万個にもなるが、誤配達が発生する確率はたった600万分の1だという。そのシステム自体に好奇心をかきたてられ、しかもこの映画は、そんな超低確率でしか発生しない誤配達が引き起こすある男女の物語だというからさあ大変。もう見るしかないだろう。予告編で見た弁当が美味そうだったし。
 主人公の男やもめ(独身者は町の食堂に弁当を頼んでるのだが)と、彼のところに誤って配送されてしまう手の込んだ美味い弁当を作った若く美しい人妻。弁当箱に手紙を入れたことで始まるふたりの交流が、ボリウッドお約束の歌や踊りの喧騒なしに、じっくりと丁寧に語られる。
 『ライフ・オブ・パイ』で回想する主人公を演じていた中年男優の暑苦しいが内省的なたたずまいと、相手役の女優さんの芯が強そうだがしっとりとした美貌が、弁当箱に入れた手紙のみで決して顔を会わせることのないふたりの間に強烈な磁場を形成し、それが恋の感情へと変質するプロセスがたまらなくスリリングかつ官能的だ。
 他人との交流を閉ざし、自身を律するような生活を送るスクエアな男の心が徐々に氷解し、一方、人妻は夫の浮気と父親の死を契機にひとりの女性として生きることに覚醒する。クライマックス、果たしてふたりは出会うことが出来るのか。弁当配達人たちがそれまで「労働歌」として移動中の列車内で歌っていた歌が、ラストに至って、まったく違った響きへと変化する。その鮮やかな幕切れのインテリジェンスに、インド映画の将来を見い出したくなった。
『そこのみにて光輝く』
 この年に見た日本映画で最も印象に残ったのはこれ。
 40年前のATG映画を彷彿とさせるような、閉塞的な田舎町の、しかもその底辺で生きる若者たちのドラマを妥協なくハードに描いた、日本ならではのフィルム・ノワール。クソ映画で埋め尽くされている日本映画界に差し込んだ一条の光。
 妖気すら漂う綾野剛とだらしなく体を崩した池脇千鶴のカップルが、もうその相貌だけでざわつかせる。池脇の弟役の菅田将暉が愛すべきキャラクターで映画に弾みをつけるが、迎え撃つ高橋和也(男闘呼組!)のリアルな小悪党ぶりもまた凄い。若き頃、屈折した色気が魅力だった火野正平と伊佐山ひろ子が脇を固めているのは、この新しいノワールに確かな奥行きを与えている。
 濡れ場でちゃんと脱げる女優がいる。日本映画はまだ捨てたもんじゃない、と希望を持ちたくなった。
『誰よりも狙われた男』
 時代設定も舞台も異なるわけだから単純に比較は出来ないが、この映画を見た後では『裏切りのサーカス』が少女漫画に見えてしまう、というほどにジョン・ル・カレ原作映画の最新作は、死人が出たり派手な見せ場が無い分、諜報戦の最前線をよりリアルでタフに描いたハードコア・スパイ映画だった。
 ハンブルクに密入国したイスラム過激派の青年。彼の目的とは関係なく、青年を利用してテロ組織への資金の流れをつかもうとするドイツ諜報部。彼らの動きに目を光らせ暗躍するCIA。青年を守ろうとする活動家の女弁護士。青年の父が残した巨額の遺産を管理する銀行家。青年を中心に据えて回転するソリッドな人間ドラマはひたすら粛々と進行し、「誰よりも狙われた男」の争奪戦はあっけないほど一瞬でそのクライマックスを終えてしまう。ハンブルクの街角に響くフィリップ・シーモア・ホフマンの絶叫と喘鳴。ホフマンの怒りの矛先はアメリカではなく、自分自身ではあるまいか。誰よりも狙われていたのはおれだったんだ、と。前半のクラブ場面で流れていた80年代のテクノ・ユニット「D.A.F.」の正式バンド名「Deutsch Amerikanische Freundschaft(独米親善)」の持つ意味があまりにも皮肉に効いてくる。
 前作『ラスト・ターゲット』でもスナイパーの生態を静謐なタッチで淡々と記録したアントン・コービンだが、今作でのその禁欲的であるがゆえにむしろ雄弁とも言える語り口は、彼の本業である写真家時代の白黒スティル作品に通ずる美意識を感じさせる。いっそのことモノクロで撮影しても効果的だったかも知れない。

 フィリップ・シーモア・ホフマン主演の次回作は何だ。それは一体いつだ。誰が監督するんだ・・・・・・・・・・。
 

 Fuuuuuuuuuuck!!!!!!

『ニンフォマニアック Vol.1+Vol.2』
 色情狂のシャルロット・ゲンズブールが男たち女たち見境なくヤリまくる映画だと思ってた。そしていつものラース・フォン・トリアーのように嫌〜な気分と奇妙かつ微妙なカタルシスを同時に味わわせるのだろうと決めてかかっていた。
 しかしどうなんだ、このすがすがしい気分は。内側から湧き上がって来るものは勇気か?これほどまでに笑って、見終わった後で元気になったトリアー作品があっただろうか。
 行き倒れていた謎の女ジョーと彼女を保護した還暦過ぎの童貞男(トリアー組、ステラン・スカルスガルド)との一夜の物語。彼女の告白によって明らかになる、一人のニンフォマニアが辿ることになった驚嘆すべき半生。『キル・ビル』なんぞとは違い、この映画は2本で1本の作品としか言いようがない。『フルメタル・ジャケット』を、前半と後半のどっちが良かった?と訊かれても困ってしまうだろう。
 少女時代の父との思い出を起点に、その後の人生を決する処女喪失、友人との男昇天させ合戦、父の死、初めての男との再会などなど、時に爆笑を誘うエピソード満載の回想録が活写される。とりわけ、高級レストラン(給仕はウド・キアーだ!)でスプーンを何本も「隠す」場面と、ユマ・サーマン扮する愛人の妻が子供とともに乗り込んで来てまき散らす狂ったセリフの数々は出色。ジョーが処女を捧げる相手を演じたシャイア・ラブーフも想定外にイイ。
 不感症に陥ったジョーがサディストの男(なんと“リトル・ダンサー”ジェイミー・ベル)によるセラピーを経て、特異体質を活かした裏稼業へとシフトして行く、実践編とでも言うべき「Vol.2」のノワールなドライヴ感が心地良い。ジョーが車を炎上させるシーンのバックに流れるトーキング・ヘッズの「Burning Down The House」は、過去にデヴィッド・ボウイを使いこなしたトリアーならではの最高のDJプレイだ。
 ジョーの過去に理解を示し、最良の聴き手でありジョーから一夜にして友人として信頼されるまでになったスカルスガルドが、結局は「ああなってしまう」顛末とそこから一歩を踏み出すジョーを、スクリーンをブラックアウトし音響のみで見せる天才的手腕。続くエンドロールで流れ出すのは、Beckがアレンジしシャルロットがアンニュイに歌うジミ・ヘンドリックスの名曲「Hey Joe」だ。
 この映画はシャルロット・ゲンズブールのアイドル映画だったのだ。
『イコライザー』
 かつて演技派として名を馳せた俳優が、何を血迷ったかアクション映画(しかもB級テイスト)に進出し、映画ファンを困惑させたり、ムダに喜ばせたり、失笑させたり、という○ーアム・ニー○ンの轍をデンゼル・ワシントンも踏むのか、という危惧を吹き飛ばした、この年一番の快作。
 元CIAの凄腕工作員という過去を持つ男が平凡な一市民として隠遁している先がDIY店、というシチュエーションが意外性があっていい。エドワード・ホッパーを思わせるなじみのダイナーで顔を合わせるキュートな売春婦(クロエ・グレース・モレッツ)への同情をモチベーションとした、元締めの事務所への壮絶な殴り込み、という 『タクシー・ドライバー』的展開(デンゼルも不眠症だ!)を前半で早々に済ませ、やがて黒幕であるロシアン・マフィア(「法の泥棒」!)の来訪によって戦争が勃発するというベクトルはお約束であるとは言え、その後の展開から一瞬たりとも目が離せない。
 ニヒルな言動で敵をあざ笑うデンゼル(実にニヒル!)と、対する元KGB工作員(『ロード・オブ・ザ・リング』でガラドリエルの影の薄い夫を演じていたでくのぼう!)のこれまたニヒルな悪役ぶりによる、ニヒル合戦。米ソ元工作員同志の熾烈な対決は、双方の殺人スキルはもとより、クライマックスの舞台を当然ながらデンゼルの仕事場に選ぶことで、DIY店の見慣れた店内を戦場へと変える(ハンマー!有刺鉄線!高枝切り鋏!)。
 はるばるモスクワまで乗り込んでトドメを刺して帰って来たデンゼルがクロエに微笑むラスト。もしかしてあの死闘は来たるべき大嵐の前兆に過ぎないかも知れず、果たしてその時にはもっと大きな店が必要となるだろう。
 デンゼル!Do It Yourself!
『マップ・トゥ・ザ・スターズ』
 ここ数作で巨匠としての円熟味を深化させて来たクローネンバーグが、前作『コズモポリス』に続いて青春映画を撮る、というまさかの創作衝動に、思わずベルナルド・ベルトルッチを重ねたくなったのはまんざら間違いでもあるまい。『マップ・トゥ・ザ・スターズ』と『孤独な天使たち』は、両作品とも離れ離れになっていた姉と弟の再会のドラマだ。
 火傷を負った姉=ミア・ワシコウスカと信じられないほど「なで肩」の弟は、関係・ルックともにフリーキーだが、地獄のハリウッドへのガイドを務める怪物として登場するジュリアン・ムーアが、彼女の女優としての、いや女性としてのアイデンティティを揺るがすほどの怪演を刻みつけていて、クローネンバーグ作品に革新的なヒロイン像をもたらすことになった。
 本物のキャリー・フィシャーが登場するサプライズや、たびたび現れる幽霊(もうひとつの現実)に対する「『シックス・センス』かよ」というツッコミが、姉弟の母親役にオリヴィア・ウィリアムズを起用するという楽屋オチに実を結ぶなど、ハリウッドというメタ・フィクショナルな宇宙を依童(よりわら)としたボーダーレス哲学は、まさにクローネンバーグ印なのである。


■ベスト・アクター&ベスト・アクトレス

ヴィタヤ・パンスリンガム
『オンリー・ゴッド』
彼の無表情、立ち居振る舞い、歌声、すべてが神がかっていた。
クリスティン・スコット・トーマス
『オンリー・ゴッド』
お行儀の良かった女優の熟年になってからの豹変ぶりに脱帽。


■ワースト

 『LIFE!』安いドラマにあんな風にデヴィッド・ボウイの名曲を使った罪は重い。『グランド・ブダペスト・ホテル』前年の『ムーンライズ・キングダム』に続いてまた・・・『天才マックス』『ロイヤル・テネンバウムス』まで嫌いにならないうちにウェス・アンダーソンからは手を引くことにする。『プリズナーズ』みんな褒め過ぎ。単純に面白くないし長過ぎる。ラストでカー・アクションなんて要るか?『渇き。』見ている間仕事に戻りたくて戻りたくて・・・という意味では近年稀にみる劇薬エンターテインメントだったな。『ザ・レイド GOKUDO』物語がダメだとアクションもつまらなく見える。北野、レフンなどの映像のあからさまな猿真似にもうんざり。それにしても日本人キャストのあの扱いは無さ過ぎだろ。『サード・パーソン』うーん・・・・・・これ、どこが面白いのでしょうか???


この次はモアベターよ。
(by 小森和子)