2015年ポスターマン映画大賞


映画館で見た総数(のべ)

184本
 2005年に年間183本という記録を作ったが、10年ぶりに記録更新、というか、183本まで来たらあと1本見たくなるのが人情というもの。年末29日に『ストレイト・アウタ・コンプトン』(これは力作!)に滑り込んで2015年をシメた。

 今年もランキングを選ぶのに悩むほど豊作だったが、何と言っても日本映画を3本もランクインさせたことに驚き、喜んでいる。さほど期待しなかった夏の大作2トップが双方とも素晴らしかったことにも驚いたが、『ジュラシック・ワールド』の方は残念ながら圏外へ。新年を迎えてから見ることになった『ハッピーアワー』を2015年枠に入れることとしたためである。

 そして2016年、光栄にも雑誌「映画秘宝」3月号掲載のベスト10に参加させていただいた。そちらで選出したベスト10とここでのベスト10は順位・作品ともに異なっているが、ではどちらが本当のベスト10かと言うと、どちらも本当と言うしかない。

 ベスト10なんて、まあそんなものである。(笑)

 新作を除けば、2015年映画界最大の事件は、『バリー・リンドン』のリヴァイヴァル上映と、『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映(しかも2回目はスタンディング!)だった。
 映画はタイムマシンであり、瞬間移動装置だ、と感慨を新たにした2015年。

 それに何もしないユニヴァーサルの代わりに、『ジョーズ』の40周年記念上映を強行したことも記しておこう。

 初めて映画館という場所へ足を踏み入れて、ちょうど40年経った。


■ベスト10

1位 『海街diary』
 夏掛けの下から伸びた裸の脚。眠る男女。男の部屋で迎えた朝の倦怠。遠い潮騒。
 長澤まさみの性的魅力、という風を受けてすべりだす物語を、菅野よう子による麗しい調べがさらに後押しする。特殊な地形に守られ、そして海へと開かれた街、鎌倉。松竹映画の記憶が呼び覚まされては消えて行く。

 父に捨てられ、母も出て行き、3人姉妹で守って来た古くも清潔な家のたたずまいが、まず素晴らしい。今時こんなに立派な木造家屋が現役の民家として存在することに驚嘆するばかりか、そこに暮らすのが長女=綾瀬はるか、次女=長澤まさみ、三女=夏帆、という当代きっての女優たち、という眼福。女の園に漂う芳香は、木造のおかげで澱むことなく循環していて、爽やかだ。姉妹たちが家を磨き、家が姉妹たちを作る。年頃の娘たちにとって、窮屈であると同時に暖かいふところでもある、というアンビヴァレンス。甘美な牢獄。

 そこへ突然現れる腹違いの妹=広瀬すず。父の葬儀に出席するために姉妹が出向いた山形の田舎駅で、初めて会う姉たちをおずおずと迎える美しい妹。広瀬すずの初登場ショットに胸の高鳴りを押さえられず、日本映画史をこの瞬間以前・以後で分けられるのではないかという妄想にとりつかれたのは、役名と実名が同じ、という魔法のせいもあっただろう。そしてすずに恋したのは僕だけではない。別れ際になって初めて「お姉さんたち」と呼ばれることで本能に目覚め、反射的に「鎌倉へ来ない?」と誘ってしまう姉たちも、だったはずである。

 引き取った妹を暖かく迎える家、学校、街。転校生をいじめるような空気はこの映画には必要ない。今や4人となった姉妹が繰り返す、慌ただしい朝、不満をぶつけ合う夜、みんなで遊び、海岸をそぞろ歩く休日、という日々の営みを流麗に活写する手腕。ドキュメンタリー出身の是枝裕和が持ち味として来たリアリティ演出が、アドリブも交えて作り出された女優たちの会話をフィジカルに捉えていて、どのシーンも眩しい。4人の中で最も主張の弱い存在であり、幼少期の父親の記憶さえ曖昧な三女が、自分の好きな釣りが父親譲りだったと知るシーンで夏帆が見せる破顔は、大げさでないがゆえに胸を打つ。

 春夏秋冬の風景を、時に空気だけで(微細だが常に移動するカメラが見事だ)、時にスペクタキュラーな背景としながら、姉妹をめぐる肉親や恋人や街の住人たちの、再会や別れ、そして死の光景が切り取られて行く。ラストを葬儀場面で終えた小津作品『小早川家の秋』へのオマージュなどと言わずとも、『海街diary』が湛える静謐な死生観は、深く、力強い。4人揃っての時間などいつ途切れてしまうかわからないという不安や、逆に、この家から一生出られないかも、いや出ないかも知れないという疑念とセットであるからこそ、一瞬一瞬に多幸感が宿る。

 かつてジャン・コクトーは映画のことを「現在進行形の死」と言い表わした。綾瀬はるかの、長澤まさみの、夏帆の、広瀬すずの美貌と若さを封じ込めた「死の箱」に誘惑され、この先僕はそれを何度も開けに赴き、そこで永遠と刹那を確認することだろう。
 
2位 『フレンチアルプスで起きたこと』
 北欧からまた凄い才能がやって来た。こんな映画は見たことが無い。

 フレンチアルプスのスキーリゾートで、スウェーデン人一家4人が家族崩壊の危機に直面し、やがて再生へと歩み出すまでの5日間の記録。ある事件をきっかけにして表出した小さくも深いヒビが徐々に広がり、取り返しがつかなくなるほどの亀裂へと拡大する、というプロセスを、デジタル撮影ならではの高解像度映像が濃密に語り、画面の隅々まで充満する「負の粒子」を1粒たりとも逃さない。夫と妻、父と子供たち、それぞれの間に張り詰めるテンションと、その場から逃げだしたくなるほどに漂う気まずさ。彼らが生み出したささくれた磁場は、後に合流した友人カップルをも巻き込み、疑心暗鬼が飛び火する。
 そんな人間たちの愚行をまるごと懐に抱く雄大な雪山の白さは、まるで『2001年宇宙の旅』のモノリスの漆黒を思わせ、モノリスが信号音を発したように、ヴィヴァルディの組曲「四季」の一節、「夏」のパートが、その熱で雪崩を引き起こさんばかりに不穏に鳴り響く。

 観客を定点観測的な観察者として縛り付けるばかりか、時には「見て見ぬふりをする者」へと下落させる、というリューベン・オストルンド監督が実践して来たサディスティックな映画技法は、今作で一皮むけたと思しい。背景となる白銀のヴァカンスは、人工雪崩発生機やリフトやロープウェイのメカニズムといった細部の描写を積み重ねることで、第一級のスペクタクルをシネマスコープに展開し、我々を魅了する。ロマン・ポランスキーが『水の中のナイフ』でヨット遊びのスキルを克明に映し出した時のような高揚感にあふれているのだ。

 だからこそ、あれほどの映像美とそれをぶち壊す家族間の気まずさの対比に笑いが止まらない。レストランのバルコニーで迫り来る巨大な雪崩を眺めながら、「人工の雪崩だから大丈夫」と家族の不安を笑ってなだめていたものの、やがて恐怖に駆られ、携帯電話だけ掴んでひとり逃げ去る父親。慌てふためき無様にフレームアウトする父親に向かって発せられる子供たちの「パパ!」という絶叫。パニックが収束し、置き去りにした家族のもとへ何食わぬ顔で戻って来て食事を再開しようとする父親。このシークエンスを固定カメラでカットを割らずに一気に見せ切る妙味には、1コマ漫画を見るような大胆なコメディ・センスが息づいており、その独特の可笑しみは、以後続くことになる耐えがたい気まずさやしこりに、常に滑稽さとクスクス笑いをもたらす。ハリウッドのオフビートとは違う、スウェーデンならではとしか言いようのない笑いのリズムは、マゾヒスティックで心地良い。

 ラスト、息子と手をつなぐ父親が、それまで吸わなかった煙草を吸ってみせる。男として、父親としての復権を表現するのに喫煙を使うというオールド・ファッションな映画文法に、ここしばらく味わえなかったカタルシスを覚えた。
3位 『インヒアレント・ヴァイス』
 つかみどころのない巨匠ポール・トーマス・アンダーソンが、アルトマンの『ロング・グッドバイ』に向けてお香ならぬマリファナの煙を炊きしめて宛てたラヴレターである。

 俯瞰視点で描けばいくらでも大作になりえた『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と『ザ・マスター』を、あくまでも主人公1人の目で捉えた世界観に限定して物語ることで、異形のロマンへと振り切って描いて来たP・T・Aが今作で語り部としたのが、トマス・ピンチョンが創出したジャンキーの私立探偵ドック・スポーテッロとは、もうこれだけで普通のドラマになるわけがない。

 ある夜ふらりと姿を見せた元恋人シャスタの依頼で事件に巻き込まれるドック。ロサンゼルスの不動産王を中心に怪しげな男女が入り乱れて渦巻く陰謀劇は、果たしてどれほどの規模なのか危険度なのか。その全体像をつかむことが出来ない観客は、ホアキン・フェニックスのだらしなく弛緩した顔と、彼の敵でもあり味方でもある警部を演じるジョシュ・ブローリンのゴリラのような風体に、ただもうひたすらニヤニヤするしかない。探偵の調査、というよりは葉っぱをキメて徘徊しているだけのように見えるドックが彷徨うロスの街も広いのか狭いのか。彼の酩酊感は徐々にこちらをも酔わせ、1970年の潮風が鼻をくすぐる。

 ピンチョンの原作には及ばぬ人数だが、一体この街にはまともな人間はいないのか、と言いたくなるほど、謎めいた連中、魑魅魍魎たちが入れ替わり立ち替わりドックを誘惑し、翻弄し、煙に巻き、痛い目に遭わせて去って行く。群像劇に長けているP・T・Aならではのアンサンブルが乱反射する。ある一時代=フラワームーヴメントの残り香をマリファナと酒で薄めて生き延びているような男と、彼を取り巻く狂言回したちの宴が、天国のアルトマンに届けとばかりに繰り広げられる。

 結局ドックは事件を解決出来たのか、終いにはそんなことなどどうでもよくなってしまう。唯一の成果は、ある男を家族のもとへ帰してあげたことと、元恋人が再び自分のもとへと戻って来てくれたことくらいかも知れない。だが、彼女は本当に戻ったのだろうか。行方不明になっていたシャスタは、いや、とっくに陰謀の渦中で殺されてしまったシャスタは、幽霊となってドックの前にヌルリと現れたのではなかろうか。そんな解釈が可能なほど彼女のルックは儚げで現実味が無い。

 全てが終わり、ドックがシャスタを抱き寄せて運転する車には光が差し込んでいる。その光線は助手席でまどろむシャスタではなくドックの顔を照らすヘッドライトだ。だがそれは前方から照射されるのではない。後方から彼らの車を追い立てるように照射されるのだ。

 これが何を象徴するのか。過ぎ去った輝かしい時代?いや、ただのUFOだろうよ。
4位 『フォックスキャッチャー』
 『マジック・マイク』がチャニング・テイタムの自伝的ドラマだったように、彼の一見能天気なキャラクターにはルサンチマン的な闇が隠れているのでは、という疑いに答えを出したのが『フォックスキャッチャー』だった。

 デュポン財閥の御曹司が引き起こした殺人事件、という実話をベースにして語られる、持つ者と持たざる者の神話。兄=マーク・ラファロ、弟=チャニングという2人の画的均衡にまずは息を呑む。そして互いの間合いを計り瞬間的に距離を詰めて挑みかかる組み手練習の、格闘技と言うよりは儀式と呼びたくなるような神秘的かつエロティックな肉体の対話。兄弟間のわだかまりが徐々に可視化し、弟が抱いていた兄への畏敬と反発のツイストが炸裂するプロセスが見事だ。

 特殊メイクで完全に別人と化したスティーヴ・カレルが、コメディアンとしての才能を静かなる狂気の体現へと注ぐ、という離れ技を披露し、歪んだ精神の持ち主にどこか滑稽な味わいと憐れな雰囲気を持たせている。ジョン・デュポンという、やがて殺人者となる男の内部にポッカリと開いた暗い深淵は、時に不条理な笑いを誘い、かと思えば次の瞬間観る者を凍りつかせる。

 そしてジョンの母親を演じるヴァネッサ・レッドグレイヴもまた恐ろしい存在だ。なぜ息子があんな人間に育ったのか、という疑問に即座に答えを出せるほどの母親像を、彼女は黙ってそこにいるだけで表現する。厳格な母親、同性愛の息子、そして「鳥」(ジョンは鳥類学者でもあった)。ベイツ母子の悪夢はここでもリピートされる。

 世界最高のレスリング・チームを作ろうとするジョン・デュポンの究極の夢は、力も愛もある完璧な家族を手に入れることだったのではないか。パワー(デュポン社は軍事産業の大手でもある)は金を出せば手に入る。だが愛や信頼は金で買えない。それを理解出来ないジョンには、手に入らないものは壊してしまうという選択しかない。アメリカン・マチズモは血まみれの歴史である。

 寒々と押し黙ったアメリカン・スケープに最終的な答えを込めた感のある『カポーティ』同様、『フォックスキャッチャー』もまた悲劇の落としどころを明示しない。兄の殺害事件の後、ストイックなオリンピック選手から何でもありのプロの格闘家へと転向した弟の姿は、あくまでもニューシネマ的な幕切れに過ぎない。

 アスリート物語とサイコ・ドラマをミックスしてアメリカン・ドリームのいびつな立像を提示した比類なき作品。
5位 『ブラックハット』
 高画質デジタル・カメラを駆使し、『コラテラル』でロサンゼルスの夜をリアルに切り取り、『マイアミ・バイス』では中南米の熱い空気を封じ込めることに成功したマイケル・マン。クラシカルなネタをデジタルで撮った『パブリック・エネミーズ』が失敗に終わったせいか、はたまた前々作で映画のバランスを壊してでも起用したチャイニーズ・ビューティが忘れられなかったのか、今回彼は、「サイバー犯罪」を「アジア」で撮る、という冒険に挑んだ。

 天才プログラマーに扮するクリス・ヘムズワースのミスキャストぶりは、肉体派俳優にインテリを演じさせるという羞恥プレイの様相さえ見せ、もはや萌えの域に達していて最高である。猟犬のようにクールな相貌には、金槌やハンドルや銃器だけでなく、PCのキーボードも似合う、ということがうれしくも判明した。
 ヘムズワースのMIT時代のルームメイトで、現在は中国軍情報部に在籍する男にワン・リーホン、彼の妹でプログラマーにタン・ウェイという、『ラスト、コーション』で恋人同士を演じた二人が兄妹役で参戦しているのも魅力。特にタン・ウェイの蠱惑的な美貌とヘムズワースのカップリングは絶妙だ。しかも、ジョニー・トー組の俳優チョン・シウファイが、小さいながらもおいしい役で顔を見せるというサービスまである。

 開巻早々、香港の原発をハッキングし事故を誘発するパニックや、ハッキングをミクロ映像で描写するアシッドな疾走感と、これまでマイケル・マン作品には見られなかった類の見せ場が続き、若干戸惑うものの、そこから先は過去作で試行錯誤して来たデジタル撮影のメソッドを、異界としてのアジアを舞台に実践してみせる。浮遊感あふれる夜景の空撮を含め、香港でのシークエンスはマンならではの美学と臨場感と官能にあふれ、ここで展開するお得意の銃撃戦は中盤最大のヤマ場になっている。
 そしてマレーシア、クライマックスの舞台となるジャカルタへと移動するカメラ。ハッカー一味の襲撃で次々と仲間を失い、祖国からの協力も得られず二人だけで敵を追い詰めるヘムズワースとタン・ウェイ(とっくに恋仲)の孤軍奮闘を追いかけるフットワークもデジタルならでは。ジャカルタの夜祭りの只中で銃撃戦が突発する群衆スペクタクルは小細工なしだ。

 もはやマイケル・マンの最高傑作を『ヒート』とは言えなくなった。デジタル撮影に移行してからがマイケル・マンである、と断言する。
6位 『M:I ローグ・ネイション』
 トム・クルーズはついにここまで来た。これは「ミッション・インポシブル」シリーズのまぎれもない最高傑作である。

 スパイ映画の王者「007」シリーズと新機軸「ボーン」シリーズの狭間で、自身のライフワークとでも言うべきシリーズの居場所を模索し続ける中、恐らくトム・クルーズは『007 スカイフォール』を見てヒントを掴んだのではないか。「あれを超える作品を作るには、『スカイフォール』と来たるべきその続編の美味しいとこ取りをやればいい」んじゃないかと。

 そうして出来上がった『ローグ・ネイション』は、まさにそんな作品になった。シリーズを立て直すための荒療治とも言えた『スカイフォール』のドラスティックな美学と、体勢を立て直して往年のエンターテインメント主義へと回帰した『スペクター』、双方の利点を融合することに、結果的に成功してしまったのだ。

 傑作『アウトロー』で組んだ逸材クリストファー・マッカリーを召喚し、さらにはスウェーデンの新進女優レベッカ・ファーガソンを抜擢するという慧眼。ウィーンのオペラハウスでの息詰まるミッションは、レベッカの肉体性によって前半の大きな見せ場となっただけでなく、ドラマ部分、アクション・シーンともに、彼女が牽引する場面が多い。間違いなくシリーズ中最高のヒロインである。

 トム・クルーズとサイモン・ペグ、ヴィング・レイムズとジェレミー・レナーという二組のバディでチームを分け、そこにレベッカ・ファーガソンやアレック・ボールドウィンを絡ませる、というアンサンブル・プレーも完璧。そしてショーン・ハリス演じる悪役の際立つキャラ。『アウトロー』で、ロザムンド・パイクをヒロインに起用し、ヴェルナー・ヘルツォークを殺し屋に仕立てたマッカリー監督の才能が本物であると証明された。

 トム・クルーズによる「スパイ大作戦」サルベージ計画は、20年目にして安定軌道に入った。
7位 『野火』
 「戦争終結60年」というキー・ワードや一気にきな臭い事態に突入してしまった世情とは別に、<塚本映画>だけがもたらすことの出来るオリジナルな高揚と興奮に震え、狂喜した。大岡昇平の原作をフォーマットに使いながら、ある巨大な環境・苦境でもがく肉体・魂がやがて覚醒し、変容し、別の生命体として産声を上げる、という塚本イズムはここでもまったく揺るがない。

 初期作のモチーフだった「都市VS肉体」を今回「密林VS肉体」へと置換した過酷なバトルは、困難を極めた製作プロセスの道程で監督が味わった苦汁をすべて吸い上げ、血肉として、最大級に暗く輝く。目を覆いたくなるシーン、可笑しくもゾッとさせるショット、どれもが原作のイメージを超えるほどの力強さに溢れており、「緑色の地獄」を美しく描写してみせたあの原作の流麗な筆致を映像化することも塚本は忘れてはいない。

 塚本映画の集大成と言ってしまうことは可能だ。しかし作家としての円熟を見せるには、塚本晋也はまだ早い。いや、それどころか、『野火』がスタート地点になるかも知れないのだ。
8位 『007 スペクター』
 シリーズを修復するため、ボンド映画には必要のなかった「家族の物語」をカンフル剤として投与した結果、シリーズに無縁だった深い奥行きと、不釣り合いなほどのアーティスティックな感触をもたせることに成功し、MI6の新体制を整えて鮮やかに幕を下ろした超絶的傑作『スカイフォール』。あれほどのハードルをどう超えるのかという一大課題に、サム・メンデスが出した答えは「むしろ超えずに本来の姿へ戻す」だった。

 クレイグ版ボンドの悪役全員の糸を裏で引いていたのが犯罪組織「スペクター」であり首領「ブロフェルド」であった、というオールドファン向けの種明かしは強引だし、再び家族をめぐる過去の怨恨話か、と苦笑いしたくもなるが、それでもメンデスは前作でやり過ぎてしまった後片付けに尽力し、シリーズに奉仕している。雄大なロケーションを背景に繰り広げられる荒唐無稽な見せ場、ボンドガールたちとのベッドシーン、敵の秘密基地、そして何よりもボンドのユーモア。クレイグがボンドに就任してから希薄だった要素を、映画のトーンやリズムを犠牲にしてまで盛り込むサービスぶりに、「これぞボンド映画」と拍手を贈るしかなかった。

 そして、ここ数年崇め続けているレア・セドゥの艶姿をIMAXの巨大スクリーンで堪能出来ただけでもう文句はない。
9位 『ハッピーアワー』
 どこにでもいるような30代女性4人の、素なのか演技をしているのか判然としない、友人同士というにはややぎこちないガールズトークで幕が開いた途端、ああ、やはりこういう作品か、と納得と落胆と安心がないまぜになった。濱口竜介というメジャーにはない作家展開で内外の注目を集めている監督。主人公の4人にプロの女優ではなく素人の女性を起用したこと。そして、三部構成で合計5時間17分という圧倒的な映画時間。これらの事前情報が強いた覚悟と先入観は、やがて驚きと喜びへと変わる。この映画は敷居の高いアート系フィルムなどではなく、21世紀の今新たに語り直された「ふぞろいの林檎たち」だったのだ。

 仲良し4人組のハッピーアワーに終焉をもたらすある出来事。そこから懸命に前へ進もうとする女性たちに対して、無表情で無神経で無力な男たち。山田太一の脚本を小津安二郎が演出した、とでも言いたくなるような不自然極まりない会話と対照的に、それを発する役者たちの存在感はあまりにも自然だ。演技と非演技、計算とハプニング、相反する表現のボーダーを揺さぶり、4人の女性が女優という輝かしい生き物へと変容するスリル、そしてエロティシズム。観察者である我々は、5時間17分の間、幾度となく映画が誕生する瞬間を目撃することになる。

 この映画は短過ぎる。彼女たちの人生に比べれば。
10位 『プリデスティネーション』
 タイム・トラベルSFの新たな傑作、と言うよりも、今まで見たことのないような倒錯SFの誕生を喜びたい。

 9.11テロの悔恨をにじませる、連続爆弾魔による1975年のニューヨーク大規模破壊。その爆弾魔を追いつめ、惨事を未然に防ぐべく、未来から1970年のニューヨークに派遣された「時空警察」のエージェント。ここまでは何の変哲もない時間SFだ。しかしここで出会う美青年の「自分は元々女性だった」「ある男と出会って妊娠したが彼は失踪」「産んだ赤ん坊は誘拐された」という異常とも言える告白から、時空警察エージェントの活躍劇であるべきドラマは、時間の牢獄から誕生した新しい人類がたどる宿命の旅行譚へと変貌する。

 主要な登場人物はエージェント、美青年=美少女、時空警察の上司の3人だけ、というミニマルな設定と、レトロ・フューチャーなプロダクション・デザイン、しかも主演がイーサン・ホークと来れば、当然あの傑作『ガタカ』を想起するが、特殊メイクで見事男性に変身して、「性転換したジョディ・フォスター」というパラレルなヴィジョンをもたらしたサラ・スヌークの瑞々しい存在感が、この映画を特別なものにしている。

 ラスト・シークエンスで明らかになる真実、というかサゲに、子供の頃に古典落語「頭山」を初めて聞いた時の心地良い思考停止を思い出し、M・C・エッシャーの騙し絵に引きずり込まれたような眩暈をおぼえた。


■ベスト・アクター&ベスト・アクトレス

クリス・ヘムズワース
『ブラックハット』
マイティ・ソーがあれほどセクシーだったとは、今頃になって気付いた。
レベッカ・ファーガソン
『M:I ローグ・ネイション』
彼女主演で「テレサ・ラッセル物語」をいつかニコラス・ローグに撮ってもらいたい。


■ワースト

 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』全編ワン・カットというスタイルと、それをやってのけている監督のドヤ顔がノイズになってまったく楽しめず。『ジョン・ウィック』新しくもなんともない。キアヌにも魅力なし。とにかく退屈なシロモノだった。『ヴィジット』シャマラン完全復活?これで?大ワザを繰り出してた頃が懐かしい。『キングスマン』『キック・アス』から進歩してない。『進撃の巨人 前編』いけね、後編見るの忘れた。


この次はモアベターよ。
(by 小森和子)